異質
その日、ロングホームルーム後。
バイトが入っていると忙しなく帰っていった銀島を見送り、氷色はげんなりしたように溜め息をついた。
「……つかれた」
銀島という人間は妙な男で、人の心情をないがしろにして迫ってくる熱血系のようでいてその中心に冷たい芯が通っているように冷静だった。
氷色が本気で触れて欲しくない部分や超えて欲しくない一線には絶対に近付かず、またパーソナルスペースが視認出来ているかのような距離で横に立って来る。さらに、悔しいことにやたらと話し上手で、あのシャープペンシルの一件が無ければ、氷色は銀島のことを接しやすくて気楽なクラスメイトと感じていただろう。
しかし油でも塗り込んでいるのかというくらい舌の回る男にあれやこれやと話しかけられ続けたら誰でも消耗する。ましてや氷色の場合親も含め銀島程自分に近寄ってくる人間には会ったことがなかった。転校という意味でも一週間という意味でも初日から凄い脱力感に見舞われながらスクールバックを肩にかけたところで、背後から「星君」と声がかかった。
「……ええと」
「神楽坂です。このクラスの委員長なんだけど、星君ってもうなんの委員会に入るとか考えてる? よかったら、美化委員になってくれたら助かるんだけど……」
突然の問いだったが、氷色は考える素振りをすると首を横に振った。元から積極的な性格ではないし、周囲の摩擦で失敗した経験が多くなるべく他人と関わらずにいたいからだった。
対して、委員長を名乗った少女――琴乃はそこまで残念がる様子も無く「そっかー」と苦笑いした。
「わかった、ありがとう。本当はもうちょっと説明したいとこだけど……今日は疲れたでしょ? 主に銀島君のせいで」
今度は氷色が苦い顔を晒した。ぐっと寄せられた氷色の眉間に、琴乃は小さく吹き出す。
「なんなんだ、あいつは……」
「あはは、大丈夫。飽きたら……って言い方は悪いね。とにかくその内もうちょっと落ち着くと思うから。本当に嫌なことされたら殴って大丈夫だし」
「殴られたことあるのか?」
「そりゃもう! 男女にそれぞれ五回くらいは。告白してきた女の子を鼻で笑ってから真顔で『興味ない』ってフッて流血沙汰になりかけたこともあったし」
うわあ……と氷色が引きながら聞いていると教室の前の席で談笑していた女子から「ちょっと委員長! あーしの話やめてー!」と恥じらう声が飛んできた。当人がクラスメイトであったことも驚きだが、その過去を彼女がもう気にしていなさそうな様子なのもちょっと変である。
「……星君って、話してみると結構普通な感じだね」
琴乃が独り言のように言った。
「ふつう?」
「その、『スコール』って聞いたから。ちょっと構えちゃって。あんまり喋るイメージなかったし……」
氷色は、これまでの学校生活で自分の外見や態度が他者に与えるイメージを学んできている。それがあまり良くない方向のものだということも知っている。しかしだからといってそれをどうにかしようという気はなかったが、琴乃のように言葉にする人間は少なかった。いたとしても「死ね根暗!」とかそういう感じである。
――そうか、そんな風に見られていたのか。
急に暴れたりはしないから安心してほしい旨を話そうとして――氷色の口をくしゃみが塞いだ。
「……?」
ずず、と鼻を啜る。ぎりぎりのタイミングで顔を背けることが出来たが、危うく琴乃と顔を合わせたまましてしまうところだった。
「花粉?」
「いや……」
確かに季節は春だが自身がスギなどのアレルギーだった記憶はない。ならばと考えて、氷色は思い当たる節を口にする。
「猫とか、飼ってる?」
「へ? あっうん! 飼ってた! あっごめんアレルギー?」
また鼻がむずむずして、氷色は思わず一歩下がる。くしゃみと鼻水が少し出る程度の症状だが、顔を背ける前に出てしまったら大惨事になると思っての事だった。と、琴乃の言葉に引っ掛かりを覚える。
「……飼って『た』?」
復唱するように問うと、琴乃は一瞬言葉を詰まらせ、眉を下げ笑みを浮かべた。
「あー、うん。死んじゃったの。三日前に。もうおばあちゃんだったから、寿命でね」
「……そうか」
「いやー毛玉だけが残っちゃって、まだ床に寝転んだりすると制服にくっついちゃうんだよね」
苦々しく笑い続ける琴乃。
彼女のその態度は、愛猫を亡くした悲しみを隠すために取り繕ったものだった。当然なにも本心から笑っているわけでは無く、その下には傷を隠しているのだ。そして人間というものはそういった面に対し敏感で、本当の笑顔ではないということがわかっているから、「大丈夫?」「無理しないでね」と返す。――返すことが、出来る。
相手の痛みを自分の中でシュミレートする能力があるヒトだからこそ出来ることだが、そういった複雑な心理理解はきっと動物としては奇跡と言っていいことなのだ。しかし、その奇跡を当然のように成し、そしてやはり当然のように相手にもその理解を求めて来る彼らにとって――
「そうか。でも、死んだのなら、もう制服に毛がつかなくて済むな」
などという氷色の言葉は――異質以外のなんでもなかった。