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転校生

 二〇三五年春。


 東京都内に存在する街、夕立町。名前とは反対に彼方の空まで続く透き通った青色の下で、背の低いビルがいくつも連なり、その隙間を都心にしてはそこまで騒がしくない人々の営みの音が通り抜けていた。本日四月一日月曜日の朝は今日から学校や会社に初めて向かうという者も多く、制服やスーツを着慣れていなさそうな初々しい男女が緊張と期待の面持ちで駅に向かっていた。



***



 新入生や新社会人が各々の居場所に到着し、尚且つこれからの日常で世話になる先輩や同僚、あるいは未来の友人に自己紹介を済ませた頃。

 ある少年は町の端に位置するにビルの地下にいた。


「今更だけれど」


 少年の眼前でキャンパスに筆を滑らせていた初老の男性が、不意にそう切り出す。

 それに相槌を打つことなく、橙色の照明に照らされている少年はただ一つだけ瞬きをして話の続きを促した。良い態度とは言えなかったが、そもそも最初に少年に対して動くなと言ってきたのは男性の方だ。こちらから話しかけると睨むクセ、そっちから話しかけたときは答えろなんて調子が良すぎるではないか――少年のそんな思いを知ってか否か、男性はちらりと目を合わせると緩く口角を上げてから言葉を続ける。


「どうしてギンシマ君はこのバイトを受けてくれたんだい? 拘束時間も長いし、君ってあまりじっとしていられる方じゃないだろう」


「私は、助かるけれど」と付け足して、男性は筆を近くの机に置くと木製の椅子から立ち上がり、その場から少し下がる。狭いアトリエの中、飛び散った絵の具が付着したイーゼルや机や椅子、資料、それからモデルに使っていた果物が散乱している。その内の一つである林檎が男性の踵に当たって、静かに転げていった。

 彼が現在モデルとして活用している少年――銀島ギンシマは、そんな狭い部屋の中央、強引に床に引き倒されたように片足を立てた姿で仰向けに寝っ転がっていた。染髪したようにも地毛のようにも見える赤毛が床に散らばり、スポーツでもしているのかある程度しっかりとした肉体には趣味が良いとは言えない薄汚れた灰色のベールが一枚、かけられている。――そう、一枚。たったの一枚のベールと照明が作り出す影の他に、その未成年と思われるモデルはなにも身に纏っていなかった。


 銀島は、静かにまばたきをすると、このアルバイトを始めた時に男性に言いつけられたように表情を全く変えず、口だけを器用に動かして答えた。小さく息を吸い込む音が室内に落ちる。


「――俺が嫌いなのは動けないことじゃない。退屈なことさ。あんたのこのバイトは、案外面白いよ」


 やや掠れた声でそう言って、無意識だろうか、蘇芳色の前髪の向こうで目を細めた。笑ったり顔をしかめたりするなと指示を出した筈の画家。しかし彼は、その大人と子供の丁度真ん中にいる者特有の仄暗い色がある笑みを咎めることなく、再び指先に意識を集中させた。




「うん、もういいよ」


――なげぇよ。


 男性の合図で、銀島はそう心の中で呟きながら体を起こした。

 窓も時計もないこの部屋は、極めて閉鎖的で無機質な空間だ。当初銀島が来たときはバイト内容のこともあり十分が一時間に感じたものだが、今では体内時計がある程度は時の流れを掴んでくれる。約三時間。予定の二時間よりも大分押しているが、その分給料は貰えるだろう。壁際の椅子に引っ掛けていた下着やらシャツを手に取りながら、凝り固まった首を回した。

「今日は学校かな?」男性が筆を置き、小さなキッチンに移動しながら問う。


「始業式だったよ。あんたのせいで遅刻だけどな」

「それは申し訳ない。でも君、まともに行った日なんて片手で数えるくらいしかないだろう」

「退屈なんだもんよ」

「いけないよ、高校くらいちゃんと行かないと」


 へーへー、と適当な返事をしながら学校指定のシャツの上にスマイリーフェイスがプリントされたパーカーを羽織りつつ、銀島はイーゼルを覗き込む。

描かれていたものは床に寝そべった自分――に、なにやら動物の死体が添えられた絵で、彼には悪趣味な落書きという印象しかなかったが、これもまた芸術の一種なのだろう。絵の中の自分と目が合ったような気がしたとき、男性がコンロと室外機のスイッチを入れた。


「ところでコーヒー飲んでくかい?」

「あんたさ、さっきから言ってることもやってることも支離滅裂だぜ」

「お礼だよ。いつもは飲んでいくじゃあないか」

「今日はお給料で十分。国語の先生が煩せぇんだ」

「そうか……」


 心なしかしょんぼりしたような顔をする男性に、銀島はまるで弟にするかのように「また来るからよ」と笑いかけ、スクールバックを肩にかけた。その様子から本当に銀島がここを出ようとしたことを理解したらしい男性は、キッチンの上に出ていた茶封筒を手に取り彼に手渡した。


「不足分は次のときでも大丈夫?」

「おう。じゃあな士野しのせんせ」


 士野に軽く手を振り、銀島は階段を上がっていった。



 古びたビルの外に出ると、スーツを着用したサラリーマンが電話を耳に押し当てながら目の前を走り抜けていった。遅刻仲間かななんていう冗談を思い浮かべながら顔を上げると、陽の光が長時間淡い照明しか受け取っていなかった銀島の網膜に刺激を与える。朝と言うには高い位置の太陽だ。端末で時間を確認すると午前九時三十分。高校で初めて出来る後輩たちの始業式はもうとっくに始まっている。大遅刻だが、珍しい事ではなかった。


――めんどくせーなぁ……。


 そうは思うものの、いい加減出席を数えられなければ色々なところに響きヒステリー持ちの母親に喚かれると考え、銀島はコンバースのスニーカーで地面を緩く蹴った。桜の花弁を孕んだ春風が首筋に流れるのを感じながら、歩いて三十分程の学校へ向かった。



 やたらと大きい背の高い門前に着くと、守衛室から青っぽい制服を着た若い男が顔を出した。ここの校門の守衛である。


「あ、銀島君。また遅刻か」

「こんちゃっす」

「駄目だよ始業式くらいちゃんと来なきゃ」


 口ではそう言いつつも強く怒らない守衛。銀島が遅刻の常習犯であり言っても聞かないこと、銀島を窘めることが彼の仕事ではないこと、それからこの学校の仕組みが変わっていることが理由だろう。銀島もそれに適当に返事をして教室に向かった。




「……まだ終わってないか」


 桜を眺める目的もあり外を遠回りし、中に入っても自販機や販売店など可能な限り寄り道をしたが、彼が今年から在籍する二年一組にはまだ生徒の姿は無かった。黒板に張られた座席表を確認し、販売店で買った紙パックのジュースにストローを挿しながら窓際の自席にどっかり座ると、パーカーのポケットから携帯端末を取り出し適当なニュース記事を読みだした。安っぽい苺の味が舌に染み込む。普通にコーラにすればよかったな、と少し後悔。


 《【都心で怪事件発生。『スコール』によるものか?】三月二十九日未明、夕立町公民館前に立っていた桜の花びらが全て散るという事件が発生した。当初はいたずらかと思われたが一夜にして誰にも気付かれることなく花びらを落とすことは不可能に近く、警視庁はこれを野良の『スコール』によるものとして捜査することを発表した。また桜の木は五本あり、そのどれもが枝から腐り始めて》


「あっ銀島! お前来てたのかよ!」

「ん」


 記事を滑っていた視線は、教室のドアの方から飛んできた声に吸い寄せられた。そこに、廊下を騒がしくさせながら教室にゾロゾロと入ってくるクラスメイトたちの姿がある。始業式が終了したのだろう。その中でも先頭で教室に入ってきた男子生徒が銀島を非難がましい目で見てきた。


「ずりィ~俺ちゃんと出たのに。お前いい加減指導入るんじゃね?」

「ねえよ、この学校は。成績もちゃんとキープしてるし委員会も真面目にやってんもん」


 眉を皮肉っぽく上げて笑いながら返すと、ぬぐう、と唸りながら男子生徒は銀島の前の席に腰を下ろした。続々と入ってくる生徒たちは男子生徒に続くように「銀島おはよー、休みかと思ったわ」「あれ、春休み明けの日間違えなかったんだ?」と親し気な声がかけられる。この学校は一年生から三年生にかけてクラス替えがないため、春になっても見合わせる顔は馴染みのあるものばかりだ。程無くしてやはり一年時と同じ担任が顔を覗かせ、銀島を見ると――なにを咎めることも無く、教卓に立った。


 私立櫛城くししろ学園高等学校。それが銀島の通うこの学校の名前だ。

 閑静な住宅街やビル群から離れ駅の付近に建てられたそれは、敷地の関係から横には広くないが六階建てと縦に長い。インターネット上の口コミには『比較的校舎が綺麗』だとか『偏差値がまあまあ高い』だとかどこにでも言えるようなことが多く書かれているが、その他の特徴として、整備された屋上が常時開放されていることと、自由度が高いことが言われている。というのも、この高校が掲げる建学の精神が『自由と共に成長を促し、個性を確立する』という―――要するに,勉強や部活の成績が高ければ高いほど制服の改造やアクセサリーの装着、また授業を出席するか否か自分で決めることが許され、逆に下位であると眼鏡の柄にも口を出されるという少々変わった考え方をする学校なのだ。例えばテストにおいて毎回一桁の順位を取っている銀島は遅刻も私服も口を出されないが、前の席に座る男子生徒は中のやや下といった成績なため同じことをすると指導が入り反省文をやたらと書かされる、といった具合に。


少なくはない批判を生むやり方ではあったが、実際それで高い偏差値と多くの生徒獲得数を保っており、銀島がここに入学したのもその単純でわかりやすい仕組みを面白いと感じたからだった。



――この学校のそこだけは気に入ってんだけどなぁ。


 ふあ、と欠伸を溢す銀島。くたびれた雰囲気の中年教師がまだ教室のざわめきが収まらない内にうにゃうにゃと喋り出している。甘ったるい苺味が不快だが、それよりも新しい季節が始まっても何の代わり映えのしない風景に銀島は嘆息した。


――つまんねーなぁー……。


 銀島という人間は、所謂なんでも出来る男だった。器用で容量が良く愛想も良ければ頭も良いしついでに家柄も良い。学校の中で一人はいる、恵まれている人間だった。

 だからこそだろうか。どこにいってもなにをやっても順調で、いつも退屈を抱えていた。極めたいと思うほど夢中なことも見つからず感情を揺さぶられる程魅力的な人間に出会えたことも無い。だからいつも探している。そんな酷い飢餓感に似たものを満たすものは、今現在、たった一つしか見付かっていない。


「……ん?」


 ふと、いつも同じようなことしか言わない教師の言葉に妙なものが混ざったのを感じて顔を上げると、教師の隣に見覚えのない生徒が立っていた。


 真っ先に浮かんだ印象は『中性的』。色白で、男子にしては首や指先の線が細く、しかし女子というには背が高い。前髪が長いため顔はよく伺えないが、スラックスを履いているのを見るに男子だろう。次に目立つのはサイズが大きすぎる感じのある白いカーディガンと左頬を覆う大きなガーゼで、まるで病院の入院患者のような風貌だった。


どう考えても見たことない男子生徒に数秒前の記憶を掘り返すと、教師が「転校生だ」と紹介していたことを思い出した。


「へぇ。テンコーセー。小学校以来だわ」


 教師が黒板に名前を書くのを見ながら興味が無さそうにそう呟くと、前席の男子生徒がくるりと振り返り、内緒話をするように手の平で口元を覆いながら話しかけてきた。


「な、聞いた話なんだけどさ」

「うん?」


「あいつ、『スコール』なんだって」


 悪戯少年のような顔で言われ、銀島は一先ずリアクションを返さずに転校生の足首を見た。スラックスに包まれてなおスラリと長細く見えるそこに、膨らみはない。


「……『足輪』ないけど。その話出所は?」

「それがさあ――」


 男子生徒が話を続けようとしたとき、教師がわざとらしく咳払いした。「やべっ」と男子生徒が慌てて前を向く。

 それに吊られるように銀島も黒板を向いたとき――目が合った。黒い前髪の奥、不健康そうな肌色に乗っかった二つの眼。銀島が知らない視線だ。いったいどういう感情でこちらを見たというのだろう――背を縦に刃先で一線撫でられたような感触が伝わる。


ほし氷色ひいろです」


 目が逸れないまま、転校生――氷色は自己紹介を始めた。声はしっかり男らしかったが、これが年相応に騒いだり笑ったりする様を全く想像できなかった。最近のAIロボットの方がまだ人間らしく話すだろう。しかし、それよりも銀島が気になったのは先程男子生徒が言っていたことだ。『スコール』。それはそう、銀島が今現在、唯一楽しみに思っている事柄――。


――いやでも、『足輪』が……。


 ただの噂だろうと否定しかけた銀島の目の前で、再び転校生は口を開く。


「オレは『スコール』です」


 ――ざわっ。


 まさにそう表現することが正しい。氷色の声が小さいため静まってきていた教室が、息を吹き返すように本来の騒々しさを取り戻した。


「『スコール』だって!」

「えーうちの学校これで何人目?」

「三!」

「あれ、でも『足輪』してなくない?」

「つーかあれって私立とか通えんの?」

「金有れば……」


 縦横の友人と疑問や驚愕を撒き散らすクラスメイト。教師が煩わしそうに口を曲げ何かを言おうと息を吸い込んだとき、銀島は授業に質問するように手を挙げた。「銀島?」男子生徒が面食らったように声を上げる。

氷色の視線はずっと逸れないままだった。もしかしたら彼の体の向き的に銀島が勝手にそう感じていただけかもしれない。しかしその目が、挙手した銀島に許可を出す様に一つ瞬きをした。


「なんで『足輪』付けてねぇの?」


 再び静まった教室内。皆同じ疑問を持っていたのだろう。その中で、窓から入り込んだ気味が悪いほど爽やかな春風が氷色の髪を持ち上げる。――陰鬱そうだが整った顔に張られた大きなガーゼとその端に滲む乾いた血。かさついた唇の上下がぱりぱりと音がしそうな風に剥がれていく。


「『野良』だからです。政府の管理下にはありません。それから、『スコール』としては痛みを感じることがありません。なので迷惑をかけると思いますが、よろしくお願いします」


 絶対よろしくする気の無さそうな、中学生が英作文を訳したようにどこまでも平坦で覇気の無い声色だった。恐らく、クラスメイトの中で彼に好印象を抱いた者は少ないだろう。事実自己紹介が終わったというのに誰も歓迎の拍手をせず、そしてよろしくとも言わなかった。


 そんな中で――銀島は真っ先に手を打った。


 それに触発され、他の生徒も思い出したようにぎこちなく拍手し始めた。新学期からの新しい同級生を迎えた教室として正常な風景を取り戻した彼らだったが、妙な不安感や疑心感、そして捻じれた好奇心が渦巻いている。


「なあ、銀島……『野良』ってさぁ、ショッピングモール爆発させた奴らと同じってこと、だ、よ……な、」


 男子生徒がぺちぺちと手を打ちつつまた銀島に話しかけて――その表情に、言葉尻を詰まらせた。


「……お前なに笑ってんの?」


 その位置で縫い止められたように吊りあがった口角も、破れんばかりに見開いた瞳も隠すことなく転校生を歓迎する銀島に、男子生徒が口を引き攣らせて問う。それに返事を寄越すことすらしない銀島のその表情は、ただ単に転校生を珍しがっているそれではなく――動物園で世界的に貴重な珍獣を観察する小学生のような、そんな笑顔をしていた。



***



 『スコール』。突発的、烈風、激しい、危険――最初の『能力者』が天候を操る能力だったことと、全体の印象からそんな通称を持っている彼らの正式な和名は『特定領域干渉能力保持者』などというどこにレ点を打つのだろうという名前をしている。学者や研究者の間ではそれなりに解明され理論が成り立っているらしいが、一般的には『世界の首都圏で稀に生まれる超能力者たち』という程度の認識だ。


 それは例えば昭和のスプーン曲げ少年とか、動物と話せる女性拝寺ハイジとか、ゴッドハンドと呼ばれた医者とか、近年になって彼らも『スコール』であったことが判明した。自分の不可思議な能力に名前があったことに本人たちは驚き、そして世間は超能力の存在が現実になったことにいたく興奮した。人類の進歩だなんだとお祭り騒ぎだった平成の終わりに、しかしそれを盛大に破壊した事件が発生。『西尾ショッピングモール爆破事件』という、『スコール』によって引き起こされたテロ事件だった。

 それまで『スコール』の超常的な能力に危険性を訴える団体は少なからずあったが、事件以降は手のひらを反すようにその声が顕著になり、日本においては政府によって『スコール』の保護と監視を行う組織が警視庁に設置された。それに伴い開発されたのがGPS搭載スコール観測装置――『足輪』であり、その監視を受けずに野放しになっている状態の『スコール』のことを、害獣の意を込めて『野良』と通称した。



***



「だってさー、監視受けてねえって、要は超能力使っても通報されねえってことだろ? それ不味いンじゃねえの」


 昼休み、教室で昼食の菓子パンを齧る男子生徒は不機嫌そうに言う。それに銀島は端末の画面から目を離さずに「んー」と適当な相槌を打った。


「去年もあったじゃん教室半壊させたとかいう小学生のあれ。あれも野良だったじゃん」

「んー……」

「なぁ訊いてんのかよ」


 お喋りなクラスメイトが興味の無さそうな返答に痺れを切らして、ようやく銀島は顔を上げた。


「……『足輪』はさあ、位置情報を把握したり外そうとしたらアラーム鳴って通知がいったりはすっけど、能力を抑える機能はねーんだとよ」

「え?」

「そりゃ着けてりゃ必要最低限の生活は保障されるって話だけど、それが必要ねぇ奴にはなんの得もないし。なのにプライベートは丸見えで人が多いとこに出かけた途端電話かかってきて『そのショッピングモールに行く目的はなんですか?』とか訊かれちゃあたまんねーだろ」

「……そー、かも知れねぇけど」


 納得いかないという顔をする男子生徒。きっと自分と同じ意見を言って共感して欲しかったのだろう。しかし銀島はそれに構わず、また端末に目を向けた。


「俺は平気だけどなー! 別にやましいことしねえし!」

「そ。じゃあ『スコール』向いてんね」


 得意顔で――あるいはどこか吐き捨てるように――ふんぞり返る男子生徒にそう言い残し、銀島は席を立った。「どこ行くんだよ?」という質問に「学食」と答える。


 三つ隣の列の最後尾。氷色の席はそこだった。転校生のベタな扱いと言えば休み時間になった途端教室中のクラスメイトが集まってきて質問攻めに遭うことだが、自己紹介の件もあり皆遠巻きには見るが話そうとする者は少なかった。ぽつんと一人、誰からか昼食に誘われることもなく座る少年の姿。机の上になにも出ていないことを確認して、銀島は氷色の机の横に立つ。


「これから昼メシ?」


 まるで親しい幼馴染にするような言い方だった。氷色が驚いたように顔を上げ、周囲が密やかにざわめく。


「まだなら学食いこうぜ。俺、先生に学校の案内頼まれてんの」


 前者の誘いは本心であるが、後者は口実を欲しての嘘である。

 すると、しばらくは銀島をじっと見て言いた氷色から「……が?」と小さく返事が来た。


「ん? なんて?」


 あまりに小さすぎてなんと言ったのか聞き取れなかった。直ぐ傍にいる銀島にすら届いていないのだから相当なことだ。あの挨拶のときのハキハキさはどこへ――と考えて、銀島はいやかろうじて届くくらいの声量だったなそういえば、と思い返した。

 訊き返してもなにも帰って来なかったが、氷色が静かに立ち上がったため一緒に行くのだと受け取り、笑って「じゃあ行こうぜ」と教室の後ろ扉に向かう。振り返るとゆっくりだが氷色はついて来ていた。その姿の向こう、窓際の席であの男子生徒が気に入らないというような顔でこちらを見ていた。



 銀島と氷色が去った後の教室で、男子生徒は視線を扉に向けたまま食べかけの菓子パンを口に運ぼうとして失敗。盛大に口の端にぶつかって、こしあんがぶにゅっと唇に押し付けられた。


八木ヤギ君」

「るぇっ!?」


 舌打ちしようと思った途端呼びかけられ、彼――八木はハッと黒板方向に顔を上げた。前方の席から呼びかけたのは野暮ったい黒縁眼鏡をかけた真面目そうな顔立ちの少女だった。八木は慌てて口元を拭うと、「な、なに委員長」と少女のあだ名を呼んで返す。


「銀島君もう行っちゃった?」

「あ、あー、あの転校生と」

「じゃあしばらく帰って来ないかな……わかった、ありがとう」

「呼び戻すか? そんな遠くまで行ってないと思うけど……」

「ううん、数学で訊きたいことがあっただけだからまた今度に。多分案内でもするんだろうしね」 


 女子生徒――神楽坂カグラザカ琴乃コトノは、「本当にこういうときだけ行動力あるよね」と呆れたように言うと、その容姿に違わぬ落ち着いた態度で机上に出ていた教科書を机の中に仕舞う。


「あいつほら、新しいものとか好きだから。しかも『スコール』だし」

「ああ、そっか。まあ私は銀島君が学校に来てくれればなんでもいいけど……」


 琴乃はそう言いながら鞄から弁当とカフェオレを取り出し、席を立った。そうして「じゃあね」、と膝丈のスカートを翻し教室を出て行く。その姿を見送ってから、八木はむっすりとした表情で机に肘を付きその手のひらに顎を乗せた。


「……なんでぇ。『スコール』に突っ込みは無しかよ」


 小さな独り言は昼休みの音楽放送と生徒の話声の混ざった騒音に掻き消される。再びパンを口に運ぶ。空気に触れてちょっと乾燥したこしあんが不味い。


「あれ八木ぃ、一人?」

「銀島は?」


 今度はクラスの友人二人が珍しそうな声色を出しながら近付いてきた。舌にねっとり纏わりつくこしあんを完全に飲み下さないままに答える。


「テンコーセーの案内」

「マ? ぼっちじゃん。一緒に食おうぜ」

「そのアンパン美味い?」

「不味い」


 笑い声をあげ、二人は八木の周囲の席に座る。居心地の良い空気に包まれ、もやついていた八木の胸は少しすいた。


 だからもう少しこの胸中の霧を払おうとして、


「なあ、転校生どう思う?」


 と、ただ共感が欲しいだけの意味のない問いかけをした。



***



 校舎内二階の学生食堂。


 二階の三分の二の面積を使い、一番混雑しているこの時間でも余裕で席を取ることが出来る広さのあるここは生徒の憩いの場の一つである。南側の壁はほぼ一面天井まで続く大きな窓で構成され、やや不規則な感覚で設置された丸いテーブルと椅子、壁に貼り付けられた部活勧誘の紙に、生徒が群がる一個だけ設置されたテレビ。大胆かつ開放的な空間で仕上げられたそこの番人――学食のおばちゃん。彼女としてはラーメンを推しているらしいが実はカツカレーの方が人気が高く、訪れている生徒が両手を合わせる先にあるのはほとんどがスパイス香るインド発祥の料理だ。


 ――と。銀島が学校の宣伝部かのように丁寧に説明したにも関わらす、氷色が目の前で食べているのはカツカレーではなく――だからと言ってラーメンですらなく――入口に設置されている自販機で買ったコンビニにあるようなコッペパンであった。窓際のテーブル席、銀島の胸をちょっと切なさが過った。因みに彼は健康な十七歳男子であるためラーメンもカツカレーも両方頼んでいる。


――いやぁ……にしてもこいつ、ぜんっぜん喋んないな。


 ズルズルっとラーメンを滝の落水を逆再生したように飲み込んでいく銀島の前でモソモソ……とコッペパンを食す氷色は教室を出て以来ほとんど話していない。せいぜい、通りがかった場所の説明の後に相槌のように吐息が漏れる程度だった。


――まあ別にいいんだけど。

――つーか昼食まじコッペパンオンリー? 死なない?


 主食に合わせて足りなかったらパンを食べるのかと思ってなにも口出ししなかった銀島であったが、ここまで来て他になにも注文しないのならそういうことなのだろう。ダイエット中のOLでもそこにヨーグルトか卵サラダを足すだろうに。

 と、滞りなくラーメンを啜りつつも氷色の手元を見ていたせいか、前髪の奥の瞳が銀島を捉えた。なんとなく覗き見に気付かれたような気分になり、苦笑いがこぼれる。


「あーいや……それだけで足りんのかなーって」


 半分ほど減ったコッペパンをそう指差すと、小さく頷かれた。


「……何味?」


 「プレーン」と一言。内気なのか根暗なのか知らないがリアクションの薄い少年であった。


――うーん手強い。コミュの神さんと呼ばれた俺のプライドが揺らぎおる。


 開けた質問にも閉じた質問にも似たような感じでしか返さない氷色に銀島はしばし悩んだ。一応コミュニケーション能力は平均よりも高めで、学校生活においてクラスの人間と話すことを一切苦に感じたことのない人生であったが、こんなところで壁に当たるとは思っていなかった。一見原因は氷色にありそうなものだが、銀島はここまで来ると自分にも原因があるのではないかと考える。距離感が微妙だったか。高圧的だったか。説明不足ではなかったか。


 いくつか記憶を辿って――銀島は自分があることをうっかり忘れていたことに気が付いた。


「――ああっ!? 名前!」


 突然叫んだ銀島に、氷色がびくりと肩を震わせた。前髪の隙間から丸くなった瞳が覗き、無機質だった表情が一気に人間味を帯びる。その目の前で銀島は頭を抱えると苦悶の声を漏らした。

 そう、銀島は自己紹介時に氷色の名前を知ったが、銀島は氷色に名乗っていない。歩いていれば誰しもが銀島のことを知っていて、名を呼んで声をかけてくる。その大前提のようなものが落とし穴になってしまっていたのだ。


「うわっ自分でびっくり……! 『名前』という概念を操るヒトとしてちょっと失格……! いや俺いつも別に名前とかなんかどうでもいいしどうでもいい奴の名前もどうでもいいからなんか名前に重要性感じてなくてさぁ、世良セラ銀島ですどうも」


 流れるような早口で言訳をしてついでのように名乗ると、氷色の意識がすっかりこっちに向いていた。


「世良……、銀島」

「あー、名字みたいな名前だろ? キラキラネームみたいなもんだと思って」


 笑いながら「センスねえよな」と続ける銀島。


「……オレも、」

「ん?」

「自分の名前、好きじゃない」


 理由までは言わなかった。もしかしたら少し女っぽいのが嫌なのかもしれないし、冷たい印象で余計に人が寄り付かなくなるのを苦く思っているのかもしれない。けれど、確かに氷色の口角は少し和らいでいて、明らかに肩の力が抜けていた。

 それから十分程、適当な話をした。パソコン室の幽霊の話とか、前の学校はどこだったのかとか、家はどの辺とか、バイトをしているのかとか、夕立町のビルで撮影されているらしいドラマの原作のこととか、どうでもいい話をして。


 二人とも昼食を完食した頃、銀島は本題を切り出した。


「なあ、痛みがねえってどういうこと?」


 結局のところ――銀島が興味あるのはそこなのだ。

 星氷色の性格は二番手。銀島の中での最優先事項は『スコール』である彼の、『スコール』であるからこその話だった。

 氷色は、銀島がその話を引き出すために様々な雑談をしていたことをわかっていたのだろうか。きっと、わかっていたのだろう。それを理解せずただ好感を持った相手に対してする目ではなかった。しかし銀島もまた、そのことに気付かれても構わなかったし、むしろ気付いた上で話す人間である方が解りやすくて好都合だった。


「その、怪我と――」


 頬に張られたガーゼを指差して問う。


「関係あんの?」


 どう出るだろうか。最悪黙って席を立たれ二度と口をきかれないかもしれない。けれど銀島は『スコール』ではないから、彼らのデリケートな心情は想像出来ても理解は出来なかった。だからと言って、半端に気を使っても鼻につくだろう――とかそういうねじ曲がった気遣いをしたわけでもない。ただ、わからないなら正直な言葉にしようと思っただけだった。


 氷色は一つ瞬きをして、はあと溜め息を吐く。


「――あんた、ひょっとして性格悪いのか?」


 睨むように見上げる視線に「よく言われる」と返すと、もう一度呆れたように溜め息が空気を揺らした。


「……昔、痛みの領域が広がって、元に戻らなくなった。だから今はもう痛覚がほとんど無い」

「痛みの領域……って、痛覚の閾値がすっげー高くなった、みたいな?」

「多分。だから、どっか切ったりしても気付かないから悪化する。それだけ。スプーン曲げも出来なければ動物と話も出来ない、陳腐な特技だよ」


 ふぅん、と、銀島は思案気な顔で返事をした。


――なるほど、怪我しても気付かない。そっか。そりゃ、痛みがあんのは異常事態を気付かせるためなんだから、それが機能しなくなるってことだもんな。


 銀島は氷色が身に纏う白いカーディガンに目を移した。今の話からすると、転校初日から学校指定外の色を着ている理由もそこに由来するのだろう。黒や紺では服に血液が滲み出ても気付くことが出来ない。だから汚れが目立つ白なのだ。


「んー……」


 ぎしり。銀島の椅子が、前のめりになったことで軋んだ。考えるような仕草を取って口元を手で覆った銀島は、その下にある笑みを、必死に抑えようとした。――腹の底から、躍動のようなものが這い上がってきている。好奇心と名付けられているそれは、本来溢れ出さんばかりに生まれても、決して外に出してはいけないはずのものだ。しかし銀島は、ことそれに耐え封じ込めることにおいては誰よりも苦手であった。


 その証拠に、口元を抑えていない方の手が、自分のポケットに伸びていっている。


「……?」


 曖昧な返事をしてそれきり黙った銀島を不思議に思ったのか、氷色が訝し気な顔をして前を向く。再び視線が重なった。陰鬱な雰囲気はあるものの美形と呼んでいい顔だ。銀島は、それに笑い返しながら、眼を合わせたまま――ポケットから抜き取ったシャープペンシルを、氷色の手の甲に振り下ろした。



***



 十数分後の二年一組で、八木の仲間たちは氷色に対する不信感の話題から、自分が『スコール』だったらどんな能力がいいかという方向に話がシフトしていた。


「俺だったら透視がいいなー! カンニングし放題じゃん!」

「ばっか最強は時間停止だろ」

「でたー! やっぱディオだよなぁ」


 ぎゃははと盛り上がる彼らの一方で、二つ隣に座る女子生徒は呆れたような顔で彼らを見ていた。


「本人がいないからって、よくあんな話題で盛り上がれるよね」


 棘の混ざった心情を吐き出しつつ弁当の卵焼きに箸を刺す。と、正面に座る彼女の友人が「まあまあ」と宥めた。しかし一度横に振れた感情は中々治まるものではなく、今度は滲み出てきた苛立ちを露わに彼女は眉をしかめる。


「だいたい、銀島も銀島だよ。転校生来た途端夢中になっちゃってさ、玩具買って貰ったちっちゃい子みたい」

「銀島君子供っぽいからねぇ」

「子供ってか、凄い自分勝手で、あと我儘? あ、こういうの子供っていうのか。なんか一年のときからずっとそうじゃん。サボりの理由が退屈とか面白くなさそうとか……なのにテストの点はいいじゃん? ふざけんなっての」


 ぶす、今度はウインナーに箸が突き刺さる。その様子を見て「刺し箸はお行儀悪いよ?」とのんびりした様子の友人は言う。


「うーん、でも、銀島君って昔からそうだし……」


ぷりぷり怒る女子生徒を宥めるためか友人はそう苦笑いした。と、女子生徒がきょとんとした顔で「昔?」と首を傾げた。


「わたし、小学校一緒だったから」

「あっそっか地元って言ってたっけ。えー、あんな性格のガキいたらやだなー」


 嫌味なほどに頭の良い子供姿の銀島を思い浮かべたのか、女子生徒は苦々しく顔をしかめた。


「じゃあ産まれながらの変人か……やっぱ天才ってそんな感じなのかな……」

「あ、ううん。なんか、ユーカイされたからなんだって」


「……ん?」訊きなれない言葉に女子生徒は思わず訊き返す。


「ユーカイ」


 再び同じ言葉を聞いてもしばし得心はいかなかった。しゃくしゃくと目の前で友達がコンビニの野菜スティックを齧る音を聞きつつ、ゆーかい、ゆーかい、と頭の中で復唱する。


「……融けるやつ?」

「それは『融解』」

「超笑ってるやつ?」

「それは『愉快』」

「足がないやつ?」

「それは『幽霊』だねえ。どんどん離れてるよ」


 のんびり笑いながらキュウリを食べる友人。その顔にからかおうといった意図は感じられない。


「え、じゃあほんとに『誘拐』?」

「そうだよー。誘い拐かすの誘拐。んーと、小三くらい? だっけ」


 女子生徒の何故、と出そうになった質問は、銀島の家が金持ちだという記憶で塞がれた。現在元気にこの学校に通っているということは結果的に無事だったことを意味するのだろうが、「え、いや、」と混乱しかけの言葉が出る。


「それ私に話して平気なの……?」

「んー本人気にしてないらしいし、いいんじゃない? なんかぁ――」


 しゃぐ。キュウリが途中で折れた。微かに散ったドレッシングが、友人の指の第一関節に付着する。


「ユーカイされたときにすっごくドキドキして楽しかったのが忘れられなくて、ずうっと同じくらい面白いこと探してるんだってぇ」



***



 ――ガァンッッ!!


 花咲いたような賑わいを呈していた食堂に鋭い轟音が撃ち込まれ、そこにいた生徒や教師は皆音のした方に視線を転じた。反射的に強張った筋肉と、思い出したように拍動をする心臓。食堂内は、数秒間音が伝わらなくなってしまったかのように静かだったが、誰かが半笑えで「っくりしたぁ~……」と溢してから、音の理由も出所もそこそこ確かめて徐々に自分たちの世界に帰っていった。


 彼らが確かめた内容は、窓際の席に座る赤毛の少年が、机からやや立ち上がって机上に手を置いている――という様子だった。その向かい側に座る線の細い男子生徒の目の前に手はあったが、彼に変わった様子は無い。窓際の席は日当たりが良く外の眺めも全力で視界に入ってくるため開放感が最高だと人気であるが、代わりに若干虫が寄ってくることも多い。加え今の季節は春だ。おそらくサイズが大きい虫でも出て潰したんだろう。昼食を食べに来ているためそこまで頭を働かせる気が無かったことと、席に近付いてまで確認しようとまでは思わなかった生徒たちが付けた検討は、そんなところだった。



 銀島が振り下ろしたシャープペンシルは――氷色の人差し指と中指の間をすり抜けていた。

 手の甲に突き立てようとしたのが目測を誤って外したのではなく、銀島が、自分の意思でそこを目がけた。しかしあと数ミリずれていれば間違いなくペン先はその色の薄い皮膚を絶っていただろう。机とぶつかった衝撃でひしゃげた先端は、握り心地の良さそうなそのシャープペンシルがもう使えないだろうことを思わせた。

 危うく自分の指が役に立たなくなるところだったというのに、しかし氷色の表情は変わらない。反射的に手を引っ込めることも無く、痛みを予感して瞼をきつく閉じることも無く、机に突き立ったペンを見て震えもしない。

 その事実がどれだけ――人間として欠けていることか。


――ああ――本当なのか。


 握り締めた手の中に、グリップ部分がずれている感触がある。銀島はクイズ番組の正解を知り納得したような感覚を胸中に抱きながら、シャープペンシルを退ける。

 銀島という人間に、現在氷色に対して行ったことが悪いことだという自覚はない――なんてことはない。彼は、一般的にやってはいけないことを知っていて、それを行ったときの罪悪感もきちんとあるし、もし自分がやってしまった場合責任を取ることもする。罪と罰の繋がりを人並みに――否、それ以上に理解しているのだ。しかし、だからといってそれを自制するということが出来ないししようとしない。自分の願望だけが第一優先で、一つのことに夢中になるとカメラの焦点を絞る様にそれ以外がぼやけて、見えなくなる。――今のように。


「銀島……?」


 背後の席に座っていたらしいクラスメイトの一人が、不審気にそう尋ねたのが肩越しに聞こえる。しかし銀島の焦点は未だ絞られたまま氷色を見ている。それは、互いに天敵と目が合ってしまい逸らすことの出来ない獣同士のそれに近かった。

 返事のしない銀島にクラスメイトがもう一度声をかける直前――


「――わりィ、虫が出た!」


 くるりと振り向いて、銀島はそう気恥ずかしそうに後頭部を撫でた。張りつめていた糸が一気に弛み「なんだよおっ前ビビらせんなよ~」とホッとして笑うクラスメイトに、彼は「まじそこそこでかい蜘蛛だったんだよ!」と息をするように嘘を吐く。



「……」

そのときの銀島の笑顔は、十六歳の高校二年生がするには、少し幼いものだった。まるで水を垂らした二枚のリトマス紙が別々の色に変わったのを見て、好奇心剥き出しに机に手を付いて跳ねる子供のような――そういった類のものだということを、氷色だけがわかっていた。



 食事を終え食器を片付け、銀島は氷色の案内を再開した。一階に降りて職員室前を通り、玄関付近に向かう。


――怒るか警戒するかって思ったけど、全然そんな感じねえな。

――……やっぱ普通に刺した方が良かったかな~。


 不意打ち出来る一度しかない機会を無駄にしてしまった、とずれた後悔をしながら、彼は「右手に見えますは下駄箱、前にありますのが体育館に続く道でございます」と背後に着いてきている氷色に説明する。


「渡り廊下は体育館まで普通に一本道だけど……一応行く?」

「……いや、いい」


 短い返事に「オッケー」と軽く返し、振り返る。


「んじゃまあこんなもんかな。図書館も行ったし、視聴覚室も行ったし……、うん! えー、これにて銀島の学校案内を終了しまぁす」


 両手を広げる大袈裟な動作でそう言うと、氷色が小さく頷いた。相変わらず薄いリアクションである。


 このまま教室に戻っても良かったが、銀島はどうしても訊きたくなって、ようやく普通に近付いてきていた空気をまた仄暗くさせるような問いを口にする。


「……なあ、お前さ。怒んねーの?」


 自分を責められないことが苦しかったとか、通常の反応ではないことをされて気味が悪かったとか、そういうわけではない。単純に気になっただけなのだ。怒らないのだとしたら、そこにどういう心理が働いているのか気になった。

 銀島のその疑問に、氷色は少し顔を上げる。――その向こうにあった視線に、銀島はぱちりと瞬いた。

 ぎちりと寄せられた眉の間に深い溝。ひくついている上目蓋に半分隠された黒目に、歯を食いしばって歪んだ口元。


 ――普通に怒ってるやん。そう銀島が知覚すると同時に、氷色がズンと一歩近付いてきた。


「――とっくにキレてんだよこのキっ、……! ……、!! ……ッ毒電波!!」


 物静かな外見に似合わない怒声が一階の廊下に響く。今までの小声はなんだったのかという声量は、やや掠れてはいるものの、銀島に産まれて初めて呼ばれる酷いあだ名をしっかり届けた。


「ど、毒電波」

「こっちが我慢してんのに『怒んねーの?』っじゃねえ! 怒んない奴いるかよ!」

「アッはい」

「いないだろ!」

「左様で」

「転校初日からあんな目立って……! ただでさえ『スコール』は肩身が狭いってのに……!」


 あぁペンブッ刺そうとした方じゃなくてそっちなんだ――とは口に出さず言われること全てに頷く。こいつ意外と口悪いな、とか、っていうか最初『毒電波』じゃなくて『キチガイ』って言おうとしたろ、とか、どうでもいいことが脳裏に浮かんで消える。その内段々と怒りの声は収まり、氷色は最後に肩で息をしながら「わかったか……」と言ってきた。数秒怒るだけでこの消耗、かなり体力が無いことが見て取れた。


「そうかあ。ごめん」


 睨む氷色に、銀島はそう頭を下げた。適当に言ったつもりは無く、説教内容を鑑みても、その一言が妥当と感じたのだ。その態度に氷色とはそこまですんなり謝られると思っていなかったらしく、少し面食らったように仰け反り、力の入っていた肩をゆっくり落とした。表情は、まだ物足りないといったところだ。


「……本気で謝ってんのか」


 氷色のその問いに「一応自分としては……」苦笑いで答える。


「……なら、一個オレの言うことをきけ。そうしたら許すよ」


 寛大な言葉に銀島はうんうんと頷いた。調子の良い男である。どうせ、氷色の怒りが喉元を過ぎたら、また同じようなことをやるつもりなのだ。

 さて、痛覚はなくても感情までないわけでは無かった『スコール』の望みとはなんなのか――銀島がそう考えていると、


「――屋上連れていけ。オレ、この学校で楽しみなのそれだったんだから」


 と、氷色は答えた。



***



 都心の学校というのは、屋上にプールやテニスコートを設置する学校が少なからずある。土地が横に狭いため、運動場を置くスペースが少ないのだ。

 しかし櫛城高校の場合、プールは体育館地下にあるし、運動場もなんとか外に収まっている。では屋上にはなにがあるのかと言えば、そこは自由を謳う私立高校らしく、生徒が快適に過ごせるために整理整頓された庭園であった。



氷色の要望に了承し階段を上がっていく銀島。背後に不機嫌そうな顔で着いてきている氷色に、「忘れてたわけじゃないんだけどさあ」と溜め息交じりに言った。


「じゃあなんだ? ……嫌がらせか」


 過去に何度か経験があるような口振りの擦れた返しに首を横に振る。


「俺、この学校の屋上嫌いなんだよ」


 少し振り返って言うと、氷色は意味を噛み砕き切れないというように眉を寄せた。


「……ネットにもパンフにも悪いことは書いてなかったけど……高所恐怖症?」

「まさか! 高い所は大好きさ! でも、ここは、んー……まあその、綺麗なとこだとは思うから、気に入るんじゃねえの」


 あからさまに説明が面倒になった態度を出す銀島。というのも彼自身でも、その『屋上』に対する思いを言葉にするのは難しかったのだ。



 階段を上り切り、ようやく屋上に出る扉の前まで来た。長い階段のせいで氷色はかなり息が上がっていて、銀島が「平気かよ」と訊くと気にするなというように手がひらりと上がった。それに応えるように、銀島は特にもったいつけることもなく、ドアノブを回す――。


「……、確かに、綺麗ではあるな」

「だろ」


 そうは言うものの、銀島は眼前に広がる光景をつまらないものを見る思いで見渡した。

 転落防止に高く設置されたフェンス。中央に飾られた花壇たちとそれを囲むように置かれたベンチ。雨に打たれ風に吹かれ汚れても、翌朝には清掃員によって綺麗にされる足元。そこを数人の生徒が笑顔で駆け回り、恋人関係らしき男女はベンチの上で仲睦まじくしている。華やかでいて綺麗に整っているその場は、自由を掲げるこの学校の名物の一つでもあった。


 入学前、これから通う学校の屋上が開放されていると知って銀島は大きく期待した。映画や漫画の世界で主人公たちの憩いの場として多く登場するその場所に、銀島はたいそう憧れていたのだ。しかしいざ入学して勢いよく開けたドアの先で見た風景は――酷く期待外れだった。


何故かと訊かれると、聡明な彼にしては言葉を濁してしまう。なんとなく、生理的にとか、本能的にとか、理屈よりもそっちに近い落胆の感覚だ。

 この屋上を気に入っている生徒は多いし、そうでなくとも嫌いだという意見は聞かなかった。しかし、銀島だけはどうしても好きになれず、だったら町の廃ビルの屋上の方がよっぽど愛しかった。

 だからきっと隣に立つ転校生も気に入ると考えたのだ。『スコール』と言えど思ったよりも人間らしい反応を見せた彼に、銀島は感受性は一般的と判断していたから。


 ――しかし。


「お綺麗だけど、思ったよりつまんない場所だな」


 氷色はそう言ってすぐに踵を返した。


「…………」

「……、おい?」


 ぽけっとした抜けた表情で固まった銀島に、氷色は階段の中ほどで振り返って首を傾げた。もうすぐ昼休み終了のチャイムが鳴る。急がなければ五時間目が始まるとわかっていて、銀島は動けなかった。

 ただの一個人の感想。氷色が何故そう思ったかはわからないし、おそらく訊いても答えない予感があった。そして、きっとどこにでもいる生徒が氷色と同じことを言ったところで、銀島は「だよなあ」としか返さなかった。――よりにもよって、銀島に共感した人間が『スコール』という特別な存在だったから。だから、こんなにも銀島は高揚したのだ。


「……星!」


 上擦った声で名前を呼ばれ、氷色はびくっと肩を揺らした。挙動の可笑しい人間を見るような目――実際そうであるが――が向けられるのに構わず、銀島は近付く。


「俺、お前と友達んなりたい!」


 屈託のない、新しいクラスメイトに向ける照れと勇気の混ざった笑みだった。それもそうだ、実際銀島はそういう心積もりで氷色にそう言っているのだから。

 それに対し、氷色はしばし沈黙し、


「いやお断りだよ、毒電波」


 と口を引き攣らせて答えた。


 それは、普通の高校生たちの新学期一日目に違いなかった。両者少し変わったところはあるものの、傍から見れば氷色が『スコール』であることなんて誰も気付かないだろう。そう――彼らは皆、足輪や能力を隠せば一見ただの人間のようであり、生活面での障害などないように思えた。


 そして銀島もまた、そのように受け取っていた。


 星氷色が『特別』であることを、知っていたはずなのに。



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