エピローグ
同時刻。櫛城高校校舎内の二階、学生食堂。
テレビに一番近い席に座る氷色は、ジャムパン片手に目の前でカレーを突く友人を盗み見た。
友人――銀島の様子はいつもと変わらない。
学校では、二日前の出来事がなかったかのように笑っていて、そして、学校の人間もまた、五月の十四日になにかあったとは全く思っていない様子で笑いかけていた。段々と氷色の方があの大雨の日になにもなかったのではないかと疑うほどだったが、銀島は、氷色と二人きりになるとほんの少しだけ覇気が無くなったように口数が減った。
しかし、だからと言ってなにか話しかけようにも、氷色は口下手な人間だった。さり気ない話題を脳内で検索して既に十五分以上経過している。正直辛い。今まで銀島はよくもまあ訊いてもいないことを次から次へと喋れたものだと、氷色は密かに感心する。
真綿で首を絞めるような沈黙の中、それを打ち破ったのは氷色ではなかった。だからといって銀島でもない。銀島の後方からずんずんといった風な足取りで近付き「お二人さん!」と呼びかけながら凝り固まった空気を壊したのは、二年一組クラス委員長――琴乃だった。
「い、委員長?」
「どうした?」
なにやら眉を吊り上げて仁王立ちする彼女に、氷色と銀島はそれぞれ困惑と疑問を口にする。そんな二人に、琴乃はバッと二枚の用紙を突き付けた。
途端、二人の顔に「あっ……」という文字が浮かび上がる。
「進路調査票! 二人共出してないでしょ!」
「俺は出したよ!」
「再提出!」
「げぇっ!?」
銀島が苦い顔で舌を出しながら琴乃の手から用紙を受け取った。氷色も同じように渡される。
――そういえば、夏には転校するからってなあなあにしてたな……。
第一志望に『進学』とだけ書いたものは、赤ペンで『具体的に書いてください』と注意されて返ってきてしまった。なんて面倒な――思わず一つ溜め息を吐いた。
「あのね、銀島君はね、ちょっとそれ適当過ぎだよ」
「委員長勝手に見たのかよ!?」
「目に入ったの! どうしてそこだけ真面目に書くの! 今の時期なんて嘘でもいいから良い感じに書いておけばいいのに!」
「わーわーわー聞こえない~、俺トイレ!」
「銀島君! こら!」
スプーンと用紙を投げ出し、銀島はどこかへ逃げていった。
「まったく……」
琴乃はそれで諦める気はないらしく、銀島の隣の席に腰を下ろし、腕を組んで待つ姿勢になった。彼女にここまでの行動を取らせるとは、いったい何を書いたのだろう。気になった氷色は銀島の進路希望調査票を覗き込んだ。
「第一が……バックパッカー? 次がキャンピングカーで世界旅行、最後がカメラマン…………」
――再提出なわけだ。
氷色が素直に呆れやや胃の痛くなる思いをしていると、琴乃が「頭の良い人ってたまにちょっと馬鹿だよね」と大袈裟な溜め息をついた。
「……手、どうしたの?」
少し間があってから、琴乃がそう訊いた。包丁を握ったあの手だ。適切な施設で適切な処置をしたが、やはり傷が深かったらしく、痛みは変わらず無いが動きが悪い。どう答えようか思案していると、「言いたくないなら大丈夫だよ」と付け加えられた。
「けど、悩んでることあるなら話してほしいな」
頬杖を付いて、先生か姉が諭すような雰囲気で微笑む琴乃。その目はなんでもお見通しですよと主張するように窓からの光を反射していて、氷色はしばらく悩んだが、やがて「その」とごにょごにょした声で話し出した。
「うん」
「例えば……、凄く、憎い人がいて、許せないときって、……どうすればいいんだろう」
「ん……『悲しい』とかじゃなくて『憎い』?」
「うん」
ふむ、と。琴乃はしばし悩むような仕草をした。
「ご、ごめん。変な質問だった」
「いや、大丈夫。ちょっと待ってね」
ほんの数秒、琴乃は眼鏡の奥で目を伏せて、それから「うん」と視線を氷色に合わせた。
「悲しみはさ、嘆いたり泣いたりすることで、解消出来るじゃない。まあ、私は少なくとも、悲しいことがあっても一晩有れば泣いてスッキリ出来るんだけど……。でも憎いなっていうのは、違う。泣いても嘆いても、解消できないから。だからね、原因を――氷色君の言う許せない人に、ワーッ怒ったり酷い目に遭わせたり気が済むまで復讐しないと、溜飲は下らないよね」
やっぱりそうか――氷色の胸中にそんな思いが落ちる。
一度は止められても、氷色が見ていないところで、銀島は再び母親を殺そうとするだろうか。氷色は、それを懸念していた。氷色の中では銀島は大きな存在でも、銀島の中で第一優先なのは『自由』だと思うからだ。そんな彼が、たった一度止められたからって、再び行動しないとは限らない。
「でもそういうのって、大体自分の手で過激な方法でやらなきゃいけないから、暴力とか殺人に繋がりやすいんだよね」
「……それを止めることは出来ないだろうか」
「出来るよ?」
「え?」
思いがけない返しに氷色は思わず間抜けな声を出した。
「ど――どうやって」
「天秤だよ。『復讐』に傾いたのを水平に戻すものを、もう片方に置くの。どんなに憎くても、復讐したことで無くしてしまうにはどうしても惜しいって思わせるほどに大切なものを背負わせる。とっても簡単で、すっごく残忍な方法だけれど」
眼鏡の奥で、琴乃が目元を緩める。いつもの、クラス委員長の顔だった。
――大切なもの。
銀島にとってそれほどまでに大切なものを氷色は考えてみるが、どうにも思い当たらない。うんうん唸っていると、琴乃がくす、と笑った。
「銀島君なら大丈夫だよ。そこそこ重そうなのを大事そ~に背負っちゃってるしみたいだし」
「……え?」
朗らかに笑う琴乃からはあまり感情が読み取れない。どういうことか訊こうとしたら、「つまりね」と琴乃自身に遮られた。
「もうずーっと言ってるけど、氷色君は考え過ぎて黙るのがいけない! もうなんでもいいの! 思いついたら全部口に出して! 『じゃむぱんおいしい』とかでもいいから!」
「え、ええ……」
「リピートアフタミー! 『じゃむぱんおいしい』」
「じゃ、じゃむぱんおいしい」
「じゃむぱんおいしい!」
「じゃむぱんおいしい……」
奇妙な事態になってきていると、琴乃の背後から銀島が近付いてきた。観念して戻ってきたのだろう。斜めに座っている彼女からでも銀島の姿は見えているはずだが、彼女はじゃむぱんおいしいと言うのを止めないし、氷色も止め時がわからずただ繰り返すのみ。
「じゃむぱんおいしい!」
「じゃむぱんおいしい」
「じゃむぱんおいしい!」
「じゃむぱんおいしい」
「『お前この進路票なんだよ』」
「おまえこのしんろひょうなんだよ、……ん?」
丁度銀島が目の前に来た辺りで、呪文の内容が変更された。
――え? 進路票?
――ジャムパンがなんで進路票?
プチパニックを起こす氷色は頭上にクエスチョンマークを浮かべ、突然進路票のことを問われた銀島もまた同じようにクエスチョンマークを顔に貼り付ける。
「進路票? ……ああ、いやだって、俺本当に世界旅行が良いし……」
「……え、大学とかは?」
「このままなら指定校取れるって言われたけどつまんなそうだったから……どうでもいい……」
「お前……本当に後ろから刺されるぞ。特進クラスの生徒とかに」
「いやぁへっへへ」
「なんで照れる」
緩やかに銀島が話し出したから、氷色もついいつも通りな返事をすると、それにもいつも通りの軽口が返ってくる。拍子抜けな程に平時と変わらない会話が出来てしまって、氷色は自らの肩の力がゆっくり抜けるのを感じた。それに気付いたのか、銀島は笑顔に困ったような色を混ぜ、
「……大人んなったらやりたいことはあるよ。だから、今それを台無しにする気はねえ」
と、似合わない少し弱々しい声で言った。
心配するな。ごめんな。もう二日前みたいなことはしない――そんな色々なメッセージがその言葉の裏から聞こえた気がして、氷色はうん、と頷いた。
「……なんかいい感じで終わろうとしてるけど、書くまで私ここにいるからね」
ええー。銀島が非難の声を上げた。上手く逃げようとしていたときに出すものだ。
「先生に言われてるの、委員長だから」
「ことのちゃ~ん」
「こんなときだけ名前で呼んでもダメ。舐めないで。全く『よし、見逃そう』って気分にはなれない」
「二千円」
「ダメ。あと銀島君なにも頼まなくても千円の借金有るからね」
「ん!? なんで!?」
他愛のない日常に笑みを溢しながら、氷色にようやく回りに視線を巡らすくらいの余裕が出来る。近くにあるテレビをなんとなく視界に入れた。と、映し出されたニュースが『突如都心の大雨が消えた理由』とテロップを出しているのを見て、ぱちりとまばたきする。
――そう言えば……しばらく降るって言ってたのに、随分早く止んだな。
五月十三日から向こう一週間は降る予報だったのに、実際は五月十四日までだから二日程しか降っていない。台風でも近付いてたのだろうか――と根拠は特にない予想を立てていると、氷色の様子に気付いた銀島が「なになに? 『スコール』絡みの事件?」と身を乗り出し、琴乃も興味深そうに聞き耳を立てた。そんな三人の前で、ニュースキャスターが喋り出す。
《世界的有名なミュージシャンであり最初の『スコール』であるルーカス・アロースミスさんが、能力で東京近辺の天気を操作していたことが判明しました》
ぶひゅ。
氷色と銀島の口からパンクズと米粒が飛び出した。
《本人は「せっかく日本に来たのにずっと雨なのを残念に思い、つい天気を晴れにしてしまった。反省している」と供述しており――》
「――なんだそりゃ! く、くだんねぇ~!」
銀島がそう叫んで笑い転げ、氷色は腹を抱えたまま動かなくなり、琴乃は唖然として口を半開きに固まる。
どちらかと言えば呆れるか鼻で笑う程度の話題が、今の彼らにとっては、どうにも腹が捩れてしまうほどに面白かった。
ところで――今現在腹直筋の痙攣によって忘れているが、氷色には目的があった。
それはなにも、自分の特別な能力で敵を倒すとか、街を平和にするとか、もっとスケールを大きくして世界平和とか、そういったものではない。彼はただ、特別だけを与えられた、普通の少年だから。
彼の目的は、友人に自分が兄であると告げ、それから自分との出会いを仕組んだことを謝ることだった。故に物語はそれまで終わらない。
しかし性格柄口下手なことと「今更言ってもどうだろうか」という迷いから、結局言えるのはなんと七年も先になる。
旅行を楽しんだ友人がイタリアから返ってきて空港で待ち合わせたとき、ポロッと口から出てしまうという、少し間抜けなシチュエーションで。
完




