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摩天楼

 右手でビニール傘を差し、左手でホームセンターのレジ袋を持ち、銀島は夕立町の高級住宅街に向かって歩いていた。



――まだヒリヒリしやがる。


 時折風が吹くと項周辺の火傷が疼くように痛んで、傘の中棒を首と肩に挟んで手を離し、皮膚をさすった。やっぱり冷やしておくべきだったなぁ、と後悔する。生温い雨で濡れた手はひんやりとして気持ちが良いが、根本的な解決にはなっていない。

 やがて道を歩く人の数は疎らになり、元から少なかった銀島に目を留める人間は誰もいなくなる。普段日当たりのいい子供向けに設置された公園にも誰の姿もない。この街に等しく降り注ぐ雨が、日常の風景を変えていた。


「……あ、そうだ」


 銀島はふと、思い出したように足を止め、レジ袋から買ったものを取り出した。刃渡り210mmの、鉄製の刺身包丁。プラスチック製の外装から出し、スクールバックの中に手早く仕舞いこんだ。頭上に防犯カメラがあることは知っていたが、銀島は今すぐ警官が飛んできさえしなければいいと思っていた。あと、ほんの三十分くらい時間があればそれでいいのだ。

 傘を持ち直し再び歩き出す。透明なビニール傘の内側から空を見上げると、鉛色の空が視界一杯に広がっていた。



 ほどなくして彼は自宅前に到着した。


「……はー……」


 疲れたような溜め息を吐き、傘を畳んだ。途端頭に雨粒が降り注ぎ頭皮を伝って額に流れて来る。髪の間を他人の指が這うような不快感に耐えながら、銀島は我が家のインターホンを押した。ピンポーン、という間抜けな音が鳴る。


《……はい》

「……母さん、俺」


 銀島は言いながら、鞄から包丁を取り出し、それを背に隠すようにして持った。


《ぎんちゃん……》

「うん。……ごめんなさい。昨日のこと、謝りたくて、俺……でも、家の鍵なくしちゃって、」


 痛ましい様子で謝罪を口にしているが、赤毛が張り付いたその眼球はなんの感情も灯していない。彼がなにかを耐えるように手持ち部分を握り締めると、指の間を水が伝った。


「……あけてほしい」


 雨音が煩い。このインターホンの向こうでは、銀島の母が、ずぶ濡れの銀島の姿をみているだろう。少し間があってから、「ちょっと待ってね」と声が聞こえた。


「……」


 これで終わる、と。そんな言葉が銀島の頭蓋の裏に浮かんだ。


――『終わり』ってなんだろ。


 おわる。人生の。関係の。自由の。――友人の。


――そうだ、氷色。

――なんか一言くらいあった方が良かったんかな。


 そろそろ母親が玄関のドアを開けるだろう。雨が染みこんで重くなったスニーカーを、じゃりっと一歩前に出した――そのとき。


 包丁を持った方の手を、背後から誰かに強く引かれた。


「――ッ!!」


 警察――その二文字がまず思い浮かんだ。言い逃れはどう頑張っても出来ないだろう状況の中、雨に滲む視界を背後に転じさせると――


「な……」


 そこに立っていたのは青い制服を着た警察ではなく――白いカーディガンを羽織った、友人だった。


「ヒイロ……!?」


 驚嘆に名を呼びながらその姿をはっきりと認識すると、銀島は、引かれたのは包丁を持った手ではなく包丁そのものだったことに気付いた。氷色の左手は携帯端末を耳元に当てていたが、右手の決して頑丈そうではない細い指は包丁の刃を容赦なく握り込み、裂けた皮膚から鮮血が雨に混じって地面に落下していく。地を覆う水によりそれはすぐ色を無くすが、彼はさらに握力を強めたらしく、その手のひらを伝う赤色の量が増した。

 銀島ははっとして氷色の指が落ちる前に包丁を手放さなければという思いに駆られたが、包丁が無ければ自分の目的を達成することは出来なくなる。しかし、だからといって強引に振り払おうとすれば、それこそ氷色は一生利き手を使うことが出来なくなるかもしれない。結果膠着状態になった二人の間で、沈黙が流れた。


「なにを、しようとしていた」


 氷色が口を開いた。普段と違い前髪を上げているせいか、苛烈な怒りの溶け込んだ瞳が良く見える。それに銀島がなにか答えようとしたとき――二人の背後で、カチャリと鍵が開く音がした。



 数秒前――銀島の母は一つ呼吸を整えると、玄関でサンダルに足を通した。外は大雨だ。さすがにこんな日に息子を追い返したことが夫にばれたら怒られてしまう――床を濡らさないようにバスタオルを抱え、外に立っているであろう息子に呼びかけるため、鍵を回し、玄関のドアを、ゆっくりと開いていく。


「ぎんちゃ――」

 

 と、名前を言おうとして、その口の動きが止まった。


――誰もいない……。


 ばらばらと降る雨の中、玄関前はおろか、インターホンのある門扉にも誰もいない。勿論彼女の息子も。

 きっと普通の母親ならば、傘を差し、外に出て、家の周囲に視線を巡らせるくらいはしただろう。それは義務ではなく、自身の息子を想う心があっての行動だ。

 しかし残念ながら――彼女は銀島を愛していない。


――あの子が勝手に消えたのなら、追い返したことにはならないわよね。


 彼女は一人そう納得すると、リビングで放置されているコーヒーが冷める前に飲もうと踵を返した。



***



 二時間前――警視庁本部庁の地下六階に設置された公安第五課のオフィス。


 能力の不正使用をして捕縛され、初犯ということもあり微罪処分とされた『スコール』が解放後の経過観察中に問題行動を起こしたということで、職員は頭の痛い思いで会議を開いていた。

 進行係として事の次第を説明する実働部隊副隊長の由貴と、微罪処分の判断を下した朗の二人は、「隊長は、ちょっと甘いですね。人に。『スコール』とか関係なく」「しかし彼の場合娘が二人いるということもあり……」などと話し、その横で他の職員が「また刑事部の人に怒られますかね」「車へこませちゃったし……」「機捜の車と隊長が正面衝突したんだっけ? すげえな」「隊長はなんでそれでピンピンしてんだろ」などと半ば雑談している。


 こんなグダグダとした空気が流れているのも無理もない。実は、世界的ミュージシャンが都内に来ているとかで『スコール』対策に関する仕事が増えたことと、一週間前に渋谷で大規模な『スコール』抗議運動が起きたことで、彼らは今日で平均九連勤を遂げ、オフィスに泊まっている者も少なくはないのだ。段々頭に靄がかかったように考えがまとまらなくなり、緊張状態が続いた感情は小さなものでもいいからと娯楽を求めていた。

 墓から這い出てきたゾンビのような顔色の彼らの内一人がぽつりと「おんせんいきたいな……」と呟き、いよいよ思考が現実逃避の準備をし始めた頃、泥のような雰囲気を裂く着信音が響いた。

全員が一斉に自分の携帯端末を確認すると、朗が「私だ」と言って端末を操作した。仕事用ではなく私用のものだったため、職員は仕事関係ではないな、と思いながらしばし会話を中断させた。


「氷色君か?」


 ひいろくん……ああ、『星氷色』か――朗に近しい隊員の何人かが、その名前に聞き覚えがあるような顔で朗の様子を伺う。と、会議中であるためかけ直す旨を伝えようとした朗の火傷痕のある顔が曇った。そうしてしばし電話相手の言葉を聞いていたらしい彼は、「少し席を外す」と短く言い、オフィスから出て行った。



 オフィスから廊下に出た朗は、電池の切れかかっている蛍光灯の元で再び端末を耳に当て、少し迷うも、氷色の聞いたことも無いような鬼気迫る声色に銀島の母親のことについて話した。

 朗は世界中に存在する『スコール』の中でもかなり強力な能力を持つが、彼の両親は彼のことを真に愛しみ、正しく育てた。そんな彼からすれば、銀島の母の「どうでもいい」という発言は到底許せるようなものではなかった。寝不足なこともあり制御しきれない感情が声帯を揺るがすのを堪えていると、端末の向こう、雨音と一緒に氷色の声が届く。


《……朗さん、頼みがあります》

「……?」

《貴方の能力で、世良銀島を探してもらえませんか。昨日、母の日のプレゼント渡したあとから、あいつ様子が可笑しかったんです。それで今日は学校に来てないし、誰も居場所を知らない。もしかしたら――》


 ――自殺。


 朗の胸中で、そう言葉が続く。母親との軋轢。それを解消しようとして贈り物をしたのに、それを拒絶されたとしたら。十六歳の少年にとって親の存在がまだまだ大きいものだと知っている朗の考えはどんどん悪い方へいく。ぶわりと嫌な鳥肌が立つ感触がしたが、朗はぐっと息を詰め、眼を伏せる。


「それは、難しい。私は国を守るために生きる『スコール』だ。個人のために能力を使うことは出来ない」

《……すみません、気にしないでください。……ただの、オレの我儘です。すみません、どうしたらいいかわかんなくなって、……》


 縋るような声だ。氷色という少年は、朗と出会った当初は、それこそ機械のように無感動だったはずだ。きっと兄弟に会って変わったのだろう――そう思うと、柔らかな朗の心の中で天秤が公務と憐憫を乗せてぐらぐらと揺れた。朗は伏せた瞳を一度瞑ると、ふうと息を吐き「善処する」とだけ返した。

 通話を切る。

 協力したい。大人として。同胞として。友人として。――しかし、『スコール』が、そして公のために能力を使うと誓った自分が、感情のままに能力を使うことは許されない。朗は『憐憫』に傾きかけていた天秤に、必死な思いで『公務』の方に重さを加える。


「隊長?」


 不意にオフィスの入口の方から声がかけられた。振り向くと、由貴がそこに立っている。しばらくしても戻ってこない朗の様子を見に来たのだろう。


「……すまない。今戻る」

「氷色君、どうかしたんですか?」

「……いや、……何事もないよ」


 朗はそう言ってオフィスに足を向ける。それに由貴が、「そうですか」と相槌を打った。



 一時間半程して、件の『スコール』の処分をどうするかも大よそ決まり、朗は氷色のことが気がかりになりながらもいつも通り業務をこなしていた。一ヶ月前、酔っぱらった勢いで能力を暴走させ桜の木を複数腐らせた『スコール』についての能力の詳細を書いていると、背後から由貴に「隊長、今お時間よろしいですか」と声をかけられた。


「どうかしたか」

「捜査三課から協力依頼です。防犯カメラの映像からこの窃盗犯を探して欲しいと」


 差し出された用紙には『十一時過ぎ頃、千代田区水道橋駅構内で六十代女性を暴行後鞄を奪い逃走』と書かれ、駅に設置された防犯カメラに映ったのであろう顔写真が添付されていた。


「わかった。担当場所は?」

「夕立町です」

「……夕立町?」


 朗は思わず訊き返し、首を捻る。

 水道橋駅は千代田区と文京区を跨ぐように所在している駅だ。夕立町は確かに文京区に存在する街であり、犯人が走って逃げたと考えて行けない距離ではない。しかし、三十分程度の間に行ける距離だろうか――。少々違和感はあったものの、捜査三課の方でも捜査はしているだろうし、きっと念のため自分に依頼が来たのだろうということで、朗は席を立った。


――しかし、夕立町か。

――随分とタイムリーな話題だ。


 現在氷色が銀島を探して駆け回っている街も同じ文京区の夕立町である。件の『頼み事』を思い出して眉間に寄るシワを指で揉み解しながら、朗はオフィスを出てモニタールームに移動した。

 この部屋は、朗が上からの許可が出た際にのみ使用できる場所だ。部屋中に設置された数十台のモニターとインターネットに繋がれたコンピュータネットワーク。それらを頭一つで操り、情報を収集・解析し、結論を出すことが朗の『スコール』としての仕事だ。本来彼が干渉出来る領域は街一つ分程度の広さだが、ネットを介することでそれはネットの繋がるところまで広がる。

 朗はさっそく取りかかろうと、電源をオンにし、静かに目を閉じて夕立町にある全ての防犯カメラを脳内で検索する。夕立町は警視庁で実行している街頭防犯カメラシステムという防犯対策で繁華街を中心にカメラを設置され、ネットワーク回線を通じて警視庁に提供されている。その映像も含め、他にも駅前やショッピングモールに設置されたカメラなど、無線有線関係なくネットの繋がる限りの映像をモニターに映していく。


「……こんなものだろうか」


 後ろに控えていた由貴が「ええ」と答える。壁中のモニターのほぼ全てが埋まりどう考えても一人では全部見切れないだろうことを予感させるような数だが、朗の場合、『スコール』関係なく素の能力で目を通すことが出来る。後で目薬だけ持ってきてもらおう――と、首をコキコキと回しながら由貴に戻っていいという旨を伝えようとすると、


「もしも――」


 と、彼女が強い口調で言う。


「もしも、捜査の途中で、知人から行方不明だと言われていた少年が、偶然にも捜査をしていた街に住んでいて、偶然にも防犯カメラに映っていて、偶然にも発見したら、……もしかしたら『朗さん』は、うっかり居場所を告げるかもしれませんね」


 ぱち、と。朗の片方しか動かない目がまたたく。

 しばし沈黙。


「……あの、……隊長。意味は伝わりましたでしょうか」由貴がなにやら少し恥ずかしそうに頬を赤くしている。

「ええと……篝、どうして君が氷色君の件を知っているのか訊いてもいいだろうか」

「我々公僕の『スコール』は警視庁内に電話内容を公開される身なので、盗み聞……んんっ、こっそり聞くことは可能です。いや、そうではなくて、私が言いたいことは理解していただけましたか?」


「…………」朗、再び沈黙。顎に手をやり真剣な表情だ。由貴はそれを根気強く待つ。根っからの気真面目な彼は、こういった悪いことに対してのみ想像力が幼稚園児並みになる。たっぷり1分ほどしてから、

「……! ……なるほど……承知した、篝」


 どうやらピンときたようだった。由貴は手がかかる、と言うように眉を下げて「それでは」とモニタールームを出て行った。



――とは言え。


 由貴が出て行った後、モニターの映像ばかりが眩しい部屋で朗は思案する。


――まず第一優先は犯人だ。『世良銀島』はその後。


 じい、と目を凝らし、全ての映像に映る全ての人間の全ての顔を一つずつ脳に焼き付けた顔と当てはめていく。平凡な顔だったため、服装も重点的に見た。似たような背格好を見つけたら映像を切り取り、ネットワークを通じて捜査三課宛に送る。そんなことをいくつか繰り返している内、あるホームセンターの防犯カメラが、どうにも目立つ赤毛の少年の姿を捉えた。

 世良銀島だ。


――おや、普通に街にいるじゃないか。


 本来学校の時間だ。友人を心配させてまでなにをやっていたんだ、と少年の様子を観察していると、彼が確かめるようにレジ袋からある商品を取り出した。


「――!」


その商品――鉄製の包丁を見て、朗は私用の端末ですぐさま氷色に連絡を取った。



 数分後。

 朗に銀島の所在と持っていたものを聞いた氷色は、銀島が向かったという高級住宅街に駆け付けた。



***



 ――流血することは大体物凄く『痛い』ことだし、治りが遅いから大変。

 痛覚がない代わりにそうやって覚えた『痛み』に関することは、現在の氷色の行動を全く制御してはくれなかった。


「はい、大丈夫です。まだなんもしてません。少し話そうと思います。ありがとうございます、朗さん」


 そう締めくくって、氷色は左手で持っていた端末の通話を切る。右手で握り締めた包丁が指の関節に益々埋まっていく感触を感じながらも、それを引っ張り、そして未だそれの持ち手から手を離せずにいる人間も同時に移動させた。あのまま家の前にいるのはまずい。ともかく目立たないところに、そう思って辿り着いたのは、マンションを建設する途中の工事現場だった。仕切りの隙間から中に入り込み、グレーのネットに覆われたそこで、包丁から手を離して血塗れの指でぐいと銀島の腕を掴んで引く。雨の音が遠のいた。


「……なにをしていた」


 この問いは、もう何回したのだろう。

 当初氷色は、本当に銀島の考えていることがわからなかった。

しかし今は違う。彼は、銀島と言う人間は自分の興味関心のために本能と反射で動く、理性による我慢が出来ない男ということを理解していた。きっと本人もそれを自覚していたのだろう。だから『友達』に特別な意味をつけて線引きをした。

 だからこそ、今の行動原理がわからない。

 銀島は氷色の鋭い視線に煌々とした目の光をぶつけると、へら、と笑った。


「――母親を、刺殺しようと」


 まるで、天気が良いから散歩をしようとしたと言うような口調だった。嘘も誤魔化しも言い訳もなく、そして言い分も口にしない。その一言以外に、理由も理屈も伝えようとせず、ありのまま、ただ「殺そうとした」それだけが事実だと言いたげに。――氷色は知っていた。銀島は、賢い人間だ。悪事を働けば裁かれるというこの世の通りを知っていて、でも、その上で我慢が出来ない。自由を渇望してしまう。だから、彼は言い訳をしない。

 窃盗には罰金を。

 傷害には暴行を。

 殺人には死刑を。

 もし銀島が罪を犯したら、それに対する罰は降ってかかる。それを、わかっているはずだ。


「……なんで」


 氷色には納得できない。殺人をしようとした理由にではない。無期懲役や死刑になれば、それこそ自分の足でどこにでも行く自由も、自分の意志で死に場所を決める自由も奪われる。だから今まで、人を殺して来なかったのだろう。それが何故、今になってそんな風に決断してしまったのか。


「……」


 それ以上言葉を紡げなくなった氷色に、銀島はどこか困ったように眉を寄せた。その表情に、既視感を覚える。昨日――五月十三日の母の日に、あの軒下で呼びかけて顔を上げたときに見せた、道に迷っている内に日が暮れてしまった子供に似た顔だ。


「……お前は、……昨日、母親になにを試したんだ」

「試す?」銀島が訝し気に繰り返した。


 氷色には、銀島に聞いた話の中でずっと気になっていることがあった。

 週に二千五百円渡される金と、放置され自分で自炊するしかないような環境と、家に帰りたくないという意思と、そんな風にした母親に対する罵詈雑言。どう考えてもそれは、氷色と同じように愛情を与えられなかった子供の言葉だ。それなのに――銀島は、「愛してくれていた」と言った。

 普通、そんな育てられ方をしたら、愛されているなどと思わない。

 では――何故銀島は、愛されていると感じたのか?


「いつかお前は、『愛も恋も金で買える』って言ったな」


 愛と金はイコールで繋げられる。それはなにも、銀島にとって、冗談とか、捻くれた言葉ではなく。

 本当に、氷色にそう話したあの日――否、昨日までは、そう思っていたのではないか。


「お前、『愛してる』って言われながら、金を渡されたんじゃないのか」



 氷色の言葉に、銀島は自身の口角がゆるく上がるのを感じた。


 ――「ぎんちゃん」女の声が脳内に響く。

 ――「私、忙しいから。貴方に構ってる時間はないの。ご飯とかは、これでどうにかして」


 女はそう言って銀島に金を握らせ、男と共に玄関から出て行った。そうして必ず、最後に言うのだ。


 ――「愛してるわよ、ぎんちゃん。そのお金は私の愛の証だからね」


 愛とは、様々な形があるものである。それは例えば額への接吻であり、強い抱擁であり、心からの笑顔である。人の数だけ形を変えるそれが、幼い頃の銀島にとっては『週に二千五百円の金』だった。何故なら、与えた者自身がそう言ったのだから。

 でも、それで良かった。紙切れ二枚と小銭でも、もらえれば貰える分だけ愛情を受けているのだと信じていた。

 しかし銀島の母親は、誘拐事件を機に、夫に放置の事実がばれるのを防ぐため一般的な愛を与えるようになった。接吻や、抱擁や、笑顔を。二千五百円が真に愛情と同等であるのならそれを変える必要はないのに、変えてしまった。それでは矛盾してしまう。辻褄が合わなくなってしまう。


 だから――試した。


 接吻に接吻を返すように、背に回された腕に応え抱きしめ返すように、屈託ない笑顔に同じように笑いかけるように、貰った分だけのあいに、同額を渡した。

その結果が、あの反応だ。


世良銀島の母は世良銀島を愛していなかった。



「……同情でもするか?」


 銀島は、首を傾げて氷色にそう訊いた。氷色はそれに、首を横に振る。


「――違う。共感するべき感情は悲しみじゃない。抱くべき感情は哀れみじゃない。だってお前は、悲しんでなんかいないから」


 氷色のはっきりとした言葉に、黒いパーカーを纏う肩がひくりと揺れた。


「今更、愛が欲しかったわけじゃないだろ。優しくされたかったわけでも、親としてのなにかを期待したわけでもなかった」


 氷色の場合は、最初から愛していないと言われた上で、だからこその金だった。お前の世話なんておぞましい。愛してない。金をやるからどうにかしろ。そういうものだった。ケーキの甘さを知らなければ食べたいと思わないように、そうやって最初から与えられなければ、なんの感情も湧かない。しかし銀島の場合は違う。これは愛だよ――そう囁かれながら与えられたものが実はおが屑だったとき、腹の底から這い上がるものはなにか。


「ただ、『憎かった』」


 「そうだろ」と続ける氷色の視界が――不意に、靄がかかる。

「憎くて、憎くて、それを止められないことが、苦しかった。だからお前は、その原因を、その縛るものを、その、不自由を……」


 靄は濃度を増し、眼前に立つ銀島の輪郭をあやふやにさせた。きっと濡れた髪から垂れた水滴が目に入ったのだろう――そう思って、氷色はそれをどうにかしようと目を乱暴に拭った。どうしたことか、喉と眼球の裏側が燃えるように熱く、不快だった。おかげで声も呼吸も覚束ないから、「ぐ」と変な音ばかりが喉から出て、言葉を続けることが叶わない。


「……なんだよ」


 銀島が肺から絞り出すように呟いた。未だ氷色の視界は正常な機能を果たしてくれず、銀島の姿は水中にあるように定かではなかったが、それでも、薄ら笑っていた筈の彼が、酷く傷付けられたような顔をしていることはなんとなくわかった。


「泣くなよ……、お前、は……お前は、さ、『痛く』ないんだろ? だから俺、お前には話したんだぜ? なのに……」


 べったりと血のついた手で目元を拭ったから、異物が入ったことで余計に眼路が塞がれる。

 灰色のベールに包まれた、未完成な建築物の中。二人の間に、遠くで雨粒が落ちる音と、近くで血液が滴る音が響く。そのどちらもが徐々に消えていって、視界が混濁したことで鋭くなった氷色の聴覚が、目の前の友人の呼吸音を拾う。


「……『痛い』のか」


 がらん、と。包丁を指から滑り落としながら、銀島が訊いた。

 無痛の『スコール』に、彼がとっくに知っているはずのものを、確かめるように。


「……いたいよ」


 氷色はそう答え、役立たずな目を閉じた。




この世界は不愛想で、都合の良いことは存在しない。


 屋上から落ちたと思ったら空を飛んでいたり、無聊な日々に突然テロリストが攻めて来たり、隕石が学校に落下したり、自分だけ透明人間になれるようになったり、バトルロワイヤルが勃発したり、何者かに追われていたら黒塗りの車に乗った美女が助けてくれたり、連れていかれた地下室でコストの面から開発計画が中止になった巨大ヒト型ロボットを見せられてパイロットになれと頼まれたり、辛いときトラックに轢かれて異世界に行けたり――憎い母親が悲惨な目に遭って死んでくれたり。そんなことは存在しないのだ。


 目の前にあるのは現実と、それをどうにかするための自由なる選択。


ある少年の場合は、平穏を維持する代わりに憎しみをそのまま放置するか、人生を投げ打ってでも憎しみを屠るかだった。

後者を選ぼうとした彼は、自分の半身のように感じる友人が自分のために苦痛を受ける姿を見て――その友人との平穏な日々を選択した。



背の低い摩天楼が並ぶ夕立町。

空を目指しても届かない、不自由な、ちっぽけな、陳腐なその街に降る雨は、徐々に姿を消していった。





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