8.悪意のアラヤ
突然の学校案内から約一時間後――
俺は学校を立ち、人気のない夜道を歩いていた。街灯の本数こそまばらだが、ほぼ満月の月光が垂れこめる霧と道とを煌々と照らし出す。
「ずいぶんと静かだな、ハルト」
隣を歩くユリが前を見据えたまま口を開く。月光を浴びて流れるような金髪がきらきらと光を放った。
「昼間はそうでもないんだけどな」
夕方くらいまでは割と人通りも多い道なのだが、夜も遅い時間になるとすっかり寂れた雰囲気になってしまう。
なぜ、こんな時間にユリと歩いているかというと。
下校時刻が遅くなったのは俺が学校案内を敢行したせいであるのと、迎えに来るはずの執事のピエールさんがいつまで経っても学校に来ないからである。
引っ越してきたばかりで土地勘もないだろうし、何かあってからでは遅いので、家まで俺が送っていくことにしたのだ。ちなみに、もう一人の居残り生徒となった董子の下校には山北が付き添ってくれている。
緩い下り坂が終わり平坦な道になると、通りの右側に公園が広がっている。校庭に匹敵するほどの広さのある砂地の公園で、遊具は少ないが走り回るにはぴったりなためウチの生徒もよく遊んでいるらしい。
――と、不意に右手を掴まれると、凄まじい強さで公園の方に引っ張られた。たまらずバランスを崩し、公園の木立に不格好に倒れ込む。
何だ!? と叫ぼうとしたが、口を塞がれる。
困惑する俺の上に覆いかぶさり、口を手で塞いだのはユリだった。
「……シッ、静かに」
俺のアクションに先立ってユリが耳打ちし周囲を睨みつける。その尋常ではない様子に辺りに注意を向けると、微かな違和感に鳥肌が立つ。これは――
「……分かる?」
口を上から塞がれているため、首を上下に僅かに動かすのが精いっぱいだ。それを見たユリが口から手を放してくれる。
「こ、この気配は……」
「道路の方を見て」
言われるまま、視線を公園の外側に向ける。道の向こうには、ぼんやりとした白い帯が上下に伸び、夜空を左右に切り分けていた。
「〈世界樹〉の幻影!?」
「……えぇ。近くに〈アラヤ〉を展開させた〈アスラ〉がいる」
「参ったな……」
俺は一人ごちた。まさか生徒の送迎中に〈アラヤ〉に飲み込まれるとは。
〈アラヤ〉とは、〈アスラ〉が生み出す願望具現領域のことだ。満月近くになると〈アスラ〉は自身の〈世界樹〉の幻影が現実世界に投影されるようになり、それを起点に〈アラヤ〉の領域が生成される。〈アラヤ〉領域内においては世の中の道理が弱まり、〈アスラ〉が自身の能力を具現化できるようになるのだ。
なるべく静かに立ち上がり、〈世界樹〉の幻影から離れるように公園の中に向かって歩き出す。反対側にも出入口があるので、警戒しつつあちらから外に出るのが得策だろう。
だが、歩を進めるたびに霧の重圧が増していく。公園の中央付近まで着いた頃には、霧が遠巻きに渦を巻いていた。それはまるで公園を囲むフェンスのよう。
「誘い込まれたわね……」
「そうみたいだな……。逃げるぞ」
不愉快そうな顔をしたユリと共に公園の出口に向けて走り出す。何者かの〈アラヤ〉に包み込まれた際の最善の対処方法は領域の外に出ることだ。
――しかし。
「そうはいかねぇ」
出口から突然大男が公園に侵入してきた。黒の革パンにライダースジャケットを羽織り、黒いサングラスで隠された人相や表情は伺えない。
「用事があるのはそこのお嬢さんだけだ。一人で逃げるなら見逃してやるぜ、若けぇの」
野太い声で笑いながら大男が近づいてくる。
「そうはいかない。この子は俺の生徒――」
ためらうそぶりも見せずに大男が右足を振り上げた。反射的に左腕で体をガードしたが、腕の上から重い蹴りを食らった。痛烈な一撃で言葉が途切れて続かない。視界が揺れてぐらりと斜めに傾いていく。
「じゃあ、その辺に転がってな」
大男の声が頭上から響く。左腕と脇腹がひしゃげるような激痛が遅れてやってきた。
酸素を求めて喘ぐが、肺が固まったように動かない。考えがまとまらず、頭の中が白くなっていく。
それでも……、倒れるわけにはいかない。ガクガクする膝で上半身をなんとか支える。
「しつけぇな」
大男が肩から体当たりしてきた。反射的に腕を前に出したが、男が腰を落として突き出された肘が腹にめり込む。
衝撃で後ろによろめいた次の刹那、空っぽの胃がひっくり返りそうになる不快感が全身を駆け巡り、たまらず地面に倒れ込んだ。
……何もできない。
逃げなきゃ殺される。
何で、見ず知らずの男に痛めつけられなきゃいけないのか。
何で?
何でだ……?
地べたを這いつくばって大男から逃げるように後ずさろうとすると、右目の視界が白くぼやけてきた。
いつからか分からないが、強いストレスを感じると右目の調子が悪くなるのだ。残された左目をフル稼働させる。
と、流れるような金色の輝きが視界に映る。
「ユ、ユリ……!」
……あぁ、そうだ。彼女の姿で俺は自分自身を取り戻した。
俺は教師で、大事な生徒を家まで送っていく途中だった。痛みへの恐怖でそんな大事なことも考えられなくなっていたのか。
しかし、俺が無力なのは変わらない。
――またか。また俺は何もできないのか。
「抵抗しない方が身のためだぜ、お嬢ちゃん」
ニヤニヤしながら大男が腕を伸ばす。が、ユリはそれを片手で払いのけた。
「素直に捕まってはくれねぇか」
大男が腰を落として蹴りの構えを見せた。さっき俺を痛めつけた時とは明らかに違う、気合の入った構えだ。
ユリの脇腹を狙って繰り出された蹴りを、彼女は手にした革のハンドバッグで受け止めた。だが、ハンドバッグ程度であの蹴りを防げるとは思えない。
しかし、弾かれたのは蹴りの方だった。鈍い金属音を立てて大男の足が押し返される。
「鉄板入りのバッグの蹴り心地はどうかしら?」
髪をかき上げてユリが勝ち誇る。すると、
「……ハッ、ハッハッハ! 本気出すしかねぇか!」
大男は突然嬉しそうに笑い声を上げると、両手を左右に伸ばした。
一瞬の静寂の後、びくりと痙攣した男の両腕がうねりながら伸びていく。それはまるで高速再生された植物の成長動画のようだった。
数秒後、男の両腕は蛸の触手を思わせる異様な形状になっていた。三メートルほどに伸びた両腕がうねうねと不規則に波打っている。
「タダの板切れでフセげるかナ?」
妙なアクセントの喋りで大男が変形した腕を振り上げる。
「ハルト! 逃げて!」
ユリがハンドバッグを頭上に構えて叫んだ。真に迫った一言で俺は自分の置かれた状況を再認識する。何もできない、無力ではあるが、生徒を置いて逃げるわけにもいかない。しかし――
鞭のようにしなる大男の腕が風を切って振り下ろされた。
ずしゃん、と地面を揺らすほどの重々しい音を立てて、ハンドバッグが後ろに吹き飛ぶ。転がったバッグは中央から乱暴に引き裂かれ、中から覗く鉛色の鉄板は丸めた紙切れのようにひしゃげていた。
一方、大男の両腕は嘲笑うかのように軽快にうごめいている。
「大人しく捕まっときな。でないと……ぺしゃんこになっちまうぜ?」
大男は楽しそうに宣言すると、不気味にしなる腕を再び振りかぶった。あれを喰らったら骨が折れる程度では済まないだろう。
何か打つ手はないか?
何か……
と、次の瞬間、横から飛び込んできた黒い影がユリを抱きかかえ後ろに大きく跳躍した。
「……遅れて申し訳ございませン、お嬢様」
黒い影がユリを大男から離れた場所で地面に降ろす。
「遅いわよ、ピエール!」
それは、執事のピエールさんだった。胸に手を当ててユリに頭を下げ、こちらにも会釈をしてくれる。
「〈アスラ〉よ。気を付けて」
「そのようですナ。まぁ、ただの肉体強化系であれば問題ないでしょウ」
ピエールさんはジレベストの胸元から懐中時計を取り出し、低い雄たけびと共に頭上に掲げた。
ぶるり、と彼の体が震える。大男のような見た目の変化はないが、周囲に漂う霧が紫を帯び、生き物のようにうごめき始めた。
「ピエールさん、〈アスラ〉なんだね」
ユリが黙って頷いた。
複数の〈アラヤ〉が同じ場所で展開されるとこのように霧が異常な動きを示す。大男のとピエールさんの〈アラヤ〉が混じっているのだ。きっと〈世界樹〉の幻影も形が変わっているだろう。
「さ、今のうちにここを出るわよ」
「ピエールさんは?」
「ピエールなら大丈夫。あんな品のない木偶の坊なんかには負けないわ」
ユリに手を引かれ、公園の出口に向かって歩いていく。
〈アスラ〉同士の争いに俺が首を突っ込んでも邪魔になるだけだろう。力のない者は早々に退場すべきだ。……しかし、それでも。
たどり着いた公園の出口手前で振り向く。
すると、紫の霧が大男を包み込むように広がっていた。大男が鞭のような両腕を何度も振り回し、ピエールさんが踊るようなステップでその周囲を囲むように移動し続けている。
「ピエールの〈アスラ〉の能力はね、霧による幻惑操作なの。あの脳筋男には実体そっくりのピエールが五人ほど同時に襲い掛かってきてるように見えてるはずだわ」
少し自慢げにユリが説明してくれる。
「幻を見せてるってことか。でもそういうのって、見破られると意味なくなるんじゃ?」
「実体そっくりって言ったでしょ? ちゃんと触ることができるし、殴られたら痛いんだから。おまけに、倒されても霧に戻るだけで、また幻影を生み出せるのよ」