6.存在感
今日は岩瀬由梨の登校初日だ。いきなり教室に来てもらうわけにもいかないので、教師である俺が引率することになっている。
自身が学校の生徒で、見知らぬ転校生がやってくるというのはよくある場面だが、先生になって生徒を教室まで引率するというのは、めったにできない経験だろう。
昨日約束した通り、応接室で彼女は待っていた。薄紫のシャツにチェックのスカートという出で立ちのせいだろうか、昨日見た時よりも随分学生らしさを感じる。
ちなみに俺のクラスは夜間という事もあり、制服着用の義務はない。生徒もほとんどが私服である。
「じゃあ、行こうか」
無言で頷く岩瀬由梨を連れて、教室に向かう。
「岩瀬さん。教室に入ったら自己紹介してもらっていいかな?」
しかし、返事がない。聞こえてないんだろうか……?
いや、もしかしたら自己紹介の意味が分からなかったのかもしれない。
「自己紹介。英語で言うとセルフイントロダクション、だっけ? それを――」
「意味は知ってるわ。母さんとはいつも日本語で話してるし」
食い気味で返事が返って来た。不機嫌そうな声だ。
「そ、そうか。それなら安心だ」
その後、岩瀬由梨は再び黙り込んでしまった。残ったのは気まずい空気だけ。咳ばらいを一つ入れたが、何も解決しないまま教室に着いてしまった。
小さなため息をついてから教室のドアを開け、中に入る。ざわついていた教室内が不自然なほどに静まり返った。生徒たちの注目は俺のすぐ後ろにいる岩瀬由梨に向けられている。転入生が来る話はすでにしてあるため驚きこそないが、溢れんばかりの興味と奇異がハッキリわかる。
それも仕方ないだろう。岩瀬由梨には人目を惹く魅力があった。一言でいえば美人。アジアとヨーロッパの混血だからか、絶妙なバランスの上に成立している美貌だ。
このクラスの生徒は全員十六歳以上で、日本以外のアジア出身の生徒も少なくない。多様性を受け入れる土壌は十分にあるはずだが、それでもこの反応だ。
「えーと、まずは昨日話した転入生を紹介します」
緊張が高まる。ここで挨拶をしてくれないと次に進まないのだが、さっきの反応だと自己紹介を嫌がっている可能性が高い。おまけに教室のこの雰囲気。教師である俺の方がプレッシャーを感じるほどだ。
「岩瀬さん、どうぞ」
「……岩瀬由梨です。よろしく」
しんと静まり返った教室に、ぶっきらぼうだがよく通る声が響く。
――よかった、最大の懸念だった挨拶はしてくれた。
「えー、岩瀬さんはドイツからやってきました。お母さんは日本人で、日本とドイツのハーフですが、日本語に不自由はないそうです。新しいクラスメートを、みなさん、よろしくお願いします」
さっきまで職員室で繰り返し練習していた岩瀬由梨の紹介を読み上げる。つっかからずに何とか言い切ることができた。
自分の自己紹介ももちろんだが、他人を紹介するのも中々緊張するものだ。学生時代はそんな機会なんか滅多にないわけで、学校に来てはいるが自分は学生ではないことを改めて自覚する。
「じゃあ岩瀬さんの席は……と。窓際の一番後ろの席で」
「ユリって呼んでください。岩瀬って言われても、あたし、ピンと来ないんで」
最初の挨拶より大きな声に、生徒たちが驚いたように目を見開く。
「そ、そうか? じゃあ、そう呼ぶことにしようか」
俺の返事は無視して、岩瀬……ユリは指定した席に向かってスタスタと歩き出す。
ここまでのやり取りで、教室の空気が変わっていた。イロモノを見るような好奇は消え失せ、純粋な興味に満ちている。
ユリが席に座った後も、高揚感の余韻のようなものが残っていた。続けて講義をしないといけない俺が口を開きにくい程度には。
――しかし。
「なーんか、気に入らないんだよねぇ」
くちゃくちゃとガムを噛む音と共に発せられた呟きが教室の空気を変える。
呟いたのは橋田絵美だ。茶色のショートヘアで、だいたいいつもパーカーを着ている。気性が荒く自己主張が強いものの基本的には明るい性格で、クラスのムードメーカー的な存在だ。
廊下側の席に座る彼女は窓側に体を向け、明らかにユリを睨んでいた。
「どうした、橋田さん?」
「え~? ユリ、サン? だっけ? すっごい偉そうで気品があるな~って。私たちみたいなフツーの日本の一般市民とは住む世界が違う、みたいな?」
存在感のある橋田一言で教室にざわめきが広がっていく。一方、当のユリは素知らぬ顔でマニュアルをパラパラとめくっている。
「ユリはまだ日本に来たばかりで不慣れな部分もあると思います。言動に違和感があるかもしれませんが、あまり気にしないように」
「新宮先生、随分ユリさんの肩持つんですね? もしかしてタイプだったり? やだぁ~」
「……あんまり大人をからかうんじゃない」
へらへらと笑う橋田だが、目が全然笑っていない。こういう時は下手に広げずに話を切り変えた方がいい。講義の時間がなくなってしまうし。
「誰かを不当に特別扱いはしない。それは今までの講義でも言ってきました。生まれや育ちがどこだろうと、〈アスラ〉であろうがなかろうが同じ人間です。差別はいけません」
「……ふ~ん。ま、いいですけど?」
橋田は前を向いて座り直す。それを合図に教室のざわめきも潮が引くように静かになっていった。
講義を終え、職員室に戻る。すると、中川さんと山北が俺のデスクで待っていた。
「転入生、どうだったー?」
山北が待ちきれない、といった風に聞いてくる。
俺が転入生をクラスに受け入れるのが初めてだったので様子を聞きに来たらしい。
「それなりに馴染んでくれそうだよ。ただ、こういうことがあって……」
橋田がユリに因縁をつけてきたことをかいつまんで説明する。さっきは取り合えず収まったが、再燃しない保証は全くない。
「ふむ、ちょっと心配ですね」
中川さんが顎に手を当てて首を傾げた。
「そうなんですよ。あまりこじれないといいんですが」
「橋田さん、いい子なんだけどねー。根が深くなると大変かもー」
山北の担当は別のクラスだが、俺が教師を始めたばかりの頃は一緒に講義を一緒にしてもらっていたので俺のクラスの生徒事情に詳しい。こういう時はなんだかんだで頼りになる。
「そうですね。過度に干渉するのもよくないですが、悪い方向に行かないよう最初に話しておいた方がいいかもしれません」
中川さんが頷きながら山北の意見に続く。
「話し合い……か」
「えぇ。あの子たちは〈アスラ〉です。感情はいずれコントロールできるようになりますが、若いうちは浮き沈みが激しい子もいます。感情の過剰な揺れは〈アスラ〉にとって重大な結果を引き起こす可能性がありますから」
「分かりました。ちょっと話してみます」
二人のエールを背に、俺は職員室を飛び出した。