2.都立調代東特別学園
時刻は正午過ぎ。
雲一つない天頂には太陽が輝き、その遥か東には月がうっすらと白い姿を見せていた。
ここは、都立調代東学園。東京の調代区にある学校で、昼間は小中一貫の公立学校である。校門の向こうにはやや小さめな校庭が広がり、さらにその奥には真新しい校舎が陽の光を浴びて白く輝いていた。
「おはよー、新宮先生ー」
と、馴染みのある声に呼び止められた。元気で不思議な安心感のある響きだ。
振り返るとそこには、グレーのスーツに身を包んだ女性が立っていた。彼女の名前は山北愛佳。濃い茶色のボブカットにフチなし眼鏡をかけ、メイクは薄めで愛嬌のある顔をしている。背丈は普通で体型はどちらかというとぽっちゃりの部類に入るだろうか。
「やー、だいぶスーツ姿も様になってきたねー」
山北はうんうん、と満足そうに頷く。
「そいつはどうも。やっと頭で考えなくてもネクタイ締められるようになってきたよ」
首回りと整えながら山北と並んで校門をくぐり、右に進む。校庭の向かって右端が校舎に続く通路になっているのだ。
「それは何よりだねー。でも、ネクタイは授業始まる前に外しちゃうんでしょー?」
「なんか、首を絞めつけられているとすごい速さで喉が渇くんだよ。てか、何で外してるの知ってんだよ?」
俺のツッコミに山北は意味深そうな笑みを浮かべる。
「授業中の身だしなみも教師らしく、という決まりは一応あるんだよー。でも、先生としてクラスをまとめているならたぶん大丈夫かなー」
「今後もそうだといいんだけどな」
「何か困るようなことがあれば助け船くらいは出してあげるわよー。私が先輩な訳だしー?」
「へいへい、期待しないで待ってるよ」
「むー、何よその言い方ー」
先輩面しようとする山北を適当にあしらって先に進む。
そうこうしているうちに昇降口にたどり着いた。昼間は常時開いたままになっている両開きのガラス扉を通り抜け、最上段に「職員用」と書かれている下駄箱に靴を入れる。
階段を登り、二階に着いた所で予鈴のチャイムが鳴り響く。窓の向こうの新校舎では、生徒たちが教室に入っていく様子が見えた。
「どうしたのー? 教室の方を眺めちゃってー」
「あぁいや、授業が始まるんだなーって」
「いつもの事でしょー。あ、もしかして昔を思い出したのかなー?」
「違うよ。子ども扱いすんなって」
口では否定したが、脳裏には小学生時代の情景がおぼろげに浮かんでいた。
小学校低学年の頃、俺はこの学校に通っていのだ。その後に引っ越した田舎での生活の方がかなり長いせいか、当時の記憶は霧の中にばらまかれたガラス玉のように途切れ途切れで曖昧ではあるのだが。
当時同じクラスだった山北と十数年ぶりに偶然再会した時も、最初は全然思い出せなかったくらいだ。
ちなみに彼女は、半年前にバイトを辞めて無職になっていた俺に教師の仕事を紹介してくれたありがたい救い主でもあったりする。
「うふふっ。私から見たら晴斗はいつまでも少年だけどなー」
「やめろっつーの」
職場では基本的に名字で呼び合うものだが、山北は時々下の名前で呼んでくる。場所も相まって、油断するとノスタルジックな気持ちになってしまう。
職員室に着いた。
新人教師である俺の一日の最初の仕事は職員室の掃除だ。午後の授業で先生方が出払っている内に手早く済ませていく。
職員室の座席は、大まかに二つにグループ分かれて配置されている。南側のグループが昼間の先生、そして北側が夜間の先生のデスクが集まったグループだ。
なぜ、昼間の先生と夜間の先生がいるのかって?
――それは、この学校が持つ特異性に大きく関係している。
調代東学園は近所でもよく知られた歴史ある公立学校なのだが、夜になるともう一つの役割を持ち、それに合わせて名前も変わるのだ。
〈調代東特別学園〉
それが、この学校のもう一つの名前である。
夜間に行われる講義は、国が定めた学習指導要綱には含まれない特別な内容で、それを受講する生徒も全く異なる。そもそも時間帯が違うので、教師も昼間と夜間の交代制にする必要があるのだ。
学校の教師でありながら授業の真っ最中である昼間に出勤しているのは、俺が夜間担当だからである。ちなみに、山北も同じく夜間担当の教師である。
掃除は山北が手伝ってくれたおかげであっという間に終わり、かなり余裕を持って講義の準備をすることができそうだ。
自分のデスクに並べている講義用のマニュアルを手に取る。すでに何度も目を通したテキストではあるが、特別学校の教師たるもの、暗記するほど読み込んでも損はない。
特別学校での講義。それは、〈アスラ〉に関するものだ。
その説明をするには、20世紀最後の年、1999年まで遡る必要がある。