煌めく瞬間(とき) その4
「今日は学校の委員会で遅くなります」
朝、寮を出る時、彩夢にそんな事を言われた。
「あ、そっか・・・」
わたしはその時、ある日のことを思い出して、胸の奥がむず痒くなっていた。
あれは一週間前だっただろうか。夕食の時間になっても、彩夢が帰ってこない日があったのだ。
わたしは心配で心配で、色々考えちゃって、最悪の事態なんかも頭に過ぎって、あたふたして、不安定で、小学校まで迎えに行こうとしたけれど、小学校の場所なんて分からないから何も出来ず、ただ茫然としてしまっていた事があった。
そして七時過ぎに彩夢が帰ってくると、泣きつくように抱き着いて、しばらくそのまま。
後々説明して、学校の下校が下校時刻いっぱいになり、スーパーで買い物をしていたらこの時間になってしまっただけだということを聞いたけれど、それでも心配は絶えなかった。
(女子小学生が暗くなっても一人でうろついてるなんて・・・)
危ないことこの上ない。
何かあってからでは遅いのだ―――そんな正義感にも似た何かを胸に抱き、わたしが直接小学校まで送り迎えしようかと提案したのだけれど。
「それは止めてください」
と、そう本気のトーンで言われて、止めざるを得なくなってしまったのだった。
「歌子さんは気にし過ぎなんでスよぉ。おかーさん、ちゃんとしてるから大丈夫でスよ」
「ちゃんとしてるって言っても小学生だよ?」
「それ言ったら歌子さんも未成年の高校生じゃーん」
「同じでスよねえ」
「同じだよねえ」
有紗と明日香はそう言って互いを見つめると、あっはっはと堰を切ったかのように笑い始めた。
(何がそんなに面白いんだか・・・)
こっちは真面目に相談してるのに。
この二人には、この二人にしか分からない世界がある。
こうして二人で、他人からは到底理解できないことでゲラゲラと笑いあっているのをよく見るのだ。
(でも、)
ちょっと、羨ましいかなって思ってしまうのは、わたしのあまのじゃくさ加減が足りないせいだろうか。
互いを理解しきった仲の友人・・・。そんなものは簡単にできるものじゃない。少なくとも、わたしは出来たことがない。だから、この二人がけたけたとふざけ合ってる様子は、鬱陶しいと感じつつも、心のどこかでは羨ましいという思いが込み上げてくるのだ。それを必死で抑え込んでいるだけであって。
「歌子さんも、一緒に運動しようよ」
「運動・・・?」
「健全な精神は健全な肉体に宿る。歌子さんが不安定なのって、身体が弱ってるからだよ。私と一緒に運動して、身体を鍛えよう!」
「いや、わたしそう言うのはちょっと」
「明日香は脳筋でスから」
「誰が脳筋かー」
「でも」
折角、言ってくれたんだ。
「軽くジョギングするくらいなら・・・」
何もしないよりは、何かした方が良い。その方が気も紛れるし。
このままここでぼーっとしていたら、色々考えてもっと不安になっちゃいそうだったから。
「はあーーーッ! はああぁーーーッ! ―――っんく」
失敗した。
「ん・・・、ッ、はあーー!」
普段運動なんてしないのに、急にジョギングと称した走り込みなんて、するもんじゃない。
「歌子さん、もう終わりー? ここから心地よくなってくるのにー」
制服からジャージとTシャツに着替え、寮の周りを何周かしたけれど、もう限界だ。一歩も歩けん。
わたしは膝に手をつくポーズから体勢を崩し、その場にドカッと座り込む。体操座りを少し崩して、後ろに手をついて天を仰いだ。
「死ぬー。しかもクソ暑いし! ジョギングなんてするんじゃなかったー」
「えー? 楽しくない?」
「ぜんっぜん楽しくなんてない!」
「よかったー。ウチ、絶対こうなると思ってたんでスよねえ」
見てるだけだった有紗が、冷たい水の入ったペットボトルを手渡してくる。
「なんで最初から言ってくれなかったの・・・」
「だって言ったら歌子さん、ジョギングなんてしないでしょ?」
「これのどこがジョギングだよー。ランニングじゃん!」
文句をぶーたれて貰った水を一気にごくごくと飲む。
「まあまあ、良いじゃないでスか。走ったことは事実なんだから。その分、きっと健康になれまスよ」
結果論から逆算したみたいな論法で、丸め込もうとする有紗。
「辛かったけど、今、気持ちいいでしょ?」
明日香の健康的な笑顔がはじける。
確かに、息の乱れがもとに戻ってきて、心臓の鼓動も遅くなってきたし、水を飲んだおかげで辛さみたいなものからは大分解放されつつあった。
「まあね」
ただ、
「でも暑い・・・」
暑さ。これだけは如何ともしがたい。
汗がすごい量出てきて、体温調整しようと身体は頑張ってるみたいだけど、この汗が良い感じに冷たくなって熱が引いていくのは、もう十分近く先の話になるのだ。
「あとやっぱ疲れた。動けない~」
「もう、だらしないなぁ」
「歌子さんの赤ちゃんモード出たでスね」
「なんだよ赤ちゃんモードって~」
「自分のその大きく盛り上がった胸に手を当てて、よく考えてみることでス」
手を当てる気にもならんし、赤ちゃんモードの詳細も分かりようがない。わたしはただその場でだらんとしているだけ。あとは空を見上げて、もうそろそろ夕暮れも終わって暗い空が混じってきたな、みたいな事を思うくらい。
「しょーがない人でスねえ」
よっと、という掛け声と共に、有紗と明日香が両肩を自らの肩で持ち上げるように支えてくれる。
「このまま寮の中まで運びまスよー」
「次は負荷付きのジョギングだね!」
「誰が負荷かー」
まあでも、運んでくれるならなんでもいい。後輩のJK二人に身体を預けるこの感覚も、なんだか悪くないというか、訳得な感じもするし。
「うわ、このおっぱいホントに大きいし柔らかいし重い! 負荷じゃん!」
失礼な。
「肩を持つという名目でこのおっぱい堪能できるなんて最高じゃないでスか」
「有紗はガチでいやらしい考え持ってそうでなんかヤダ」
「明日香は良いんスか!?」
「明日香はどちらかと言えば『こっち側』の人間じゃん」
「?」
その言葉に、なぜか首を傾げる明日香。
「まぁ、その意見には同意ッス」
有紗の方は、分かってくれたみたいなのに。
ずるずる。
二人がかりとはいえ、小柄な女子高生がやることだ。完全に身体を持ち上げることなんて出来やしない。足を引きずるように持っていくことが精いっぱいだ。そこまでしてくれるんなら、わたしとしては何の異議もないけれど。
「有紗、身体冷たいね。大丈夫?」
「ウチ、低体温で低血圧なんでスよ。毎朝大変でスー」
「有紗はほんと目覚め悪いからね~。おかーさんに起されたことも一度や二度じゃないんだよ」
「最近・・・歌子さんが転校してきてからは、まだ一回もないんでスけどね」
あはは、と有紗が照れ笑い。
「彩夢に起されるって・・・、部屋に直接来られてってこと?」
「そうでスよ」
「鍵とかかけないの?」
「寮母さんでスから、合鍵持ってるはずでスよ」
「管理人室のどこかにあるはずだよなー」
管理人室の、どこかに・・・合鍵・・・。
「あ! 今ヘンなこと考えたでス!」
「誰が考えるか」
ごめん。
一瞬、忍び込んで驚かせてやろうかなとか思っちゃった。
「歌子さん、夜な夜な合鍵でウチの部屋に忍び込んで、寝こみを襲うつもりでスー!」
「いや、アンタにはしない。どうせするならもっと他の子にする」
「例えば?」
「・・・ゆみりちゃんとか」
「やっぱロリコンじゃないでスかー!」
「ロリコンじゃない!」
途轍もなく失礼なことを言われたので、まっすぐに返しておく。
「誰の寝こみを襲うかって話題でゆみりんはロリコンでスよー。ねぇ?」
「うん。ちょっと犯罪臭がする・・・」
「ちょ、ガチドン引きやめてよ! ジョークじゃんっ」
私たちの身体も狙われてるかもしれない、と担いでいた肩からするっと逃げていく―――まあもともと、もう寮のエントランスロビーに着いたところだし、丁度良い言い訳が出来た程度のことだろうけれど。
「ロリコン女子」
「ロリコンお姉さん」
「もういいから、やめて・・・」
身体はへとへとだし、そのうえ精神攻撃までされたらたまったもんじゃない。
ひとしきり言いたいことだけ言うと、二人は夕食の当番だからと食堂へ消えていった。
(夕食の準備はじまったのに、彩夢、帰ってこないな・・・)
いつもなら率先して準備に取り掛かる彼女が居ないとなると、食事の時間は少し遅めになるかもしれない。
そんな事を思いながら、ロビーのソファーでごろんとする。時計を見ても、針はさっきと同じ時間を指し示している。これがなかなか先へ進まない。
(あれ、なんか・・・)
運動したからか、それとも一日の疲れが来たのか。瞼が重くなってきて、うとうととしてくる。
意識が飛ぶか飛ばないかのその時に、わたしは銀髪の少女がこちらに手を差し伸ばしている光景を見た。
「あや・・・め・・・」
その少女の手を取るように、わたしも手を伸ばす。
「彩夢ぇー」
「はい」
すると、わたしの頭の中の彩夢が、返事をくれた。
ああ、これは完全に夢だと思って。
ぼふっ。
と、彼女の胸に顔を埋めてみた。
「んん~~~」
胸にぎゅうぎゅうと顔をおしこめるように左右に揺らしてみる。
「ちょ、歌子さん!? 起きてください寝ぼけてますよ!」
寝ぼけてる?
冗談じゃない。わたしはいたって正常だ。絶対に寝ぼけてなんかいない。
「ん、あ・・・」
薄目を開いて、目の前の彩夢を認識する。
「やめ・・・?」
ランドセルを背負ったままの彩夢が目の前に居て。
そして、なんということでしょう。
その後ろに、いたずらっぽい笑いを浮かべた有紗と、明日香の姿があった。彼女たちは目の前の光景がおかしくて仕方がない、我慢ができいないと言った様子で。
「やっぱロリコンじゃないでスかー!」
そんな事を言いながら、けたけたと笑っていた。
「・・・は、」
そこで初めて、思う。
「あああぁ!?」
やってしまったんだっ―――ということを。