あなたを想うだけで(下)
ヤバい!
遅刻した!
あんなに念を押されたのに、目覚ましが凄まじい音を立てて鳴っていたのに、寝過ごした。
最後は有紗と明日香が様子を見に来てくれて、それで何とか起きることが出来たのだ。
昨日、バイト終わりで同級生に捕まって、疲れに疲れたところを帰ってきて、彩夢とロクにお話もできないまま泥のように寝ちゃったけど、それがまずかった。土曜を空けるためにバイトのシフトとか色々無理矢理ずらしたせいで、金曜日がガチガチになってしまったが、それが完全に裏目に出た形となってしまったのだ。
わたしは一目散で支度をして、鏡で何度も何度も自分の全身を確認して、有紗・明日香にも変なところは無いか確認してもらって、それでようやく寮を出る。
時間的にはギリギリだ―――そこで。
寮を出た瞬間、あれ、小学校ってどっちの小学校だっけ―――という考えが頭を過ぎったが。
「高校の隣は私立、彩夢の小学校は公立!」
この間、街を案内してくれた時のことを鮮明に思い出す。
ここでの判断ミスはもう完全に取り返しがつかなくなる。あの日、あの時、案内してもらってよかった。さすがわたしの『おかあさん』だ。そんな事を思いながら、転ばないように坂を下る。
学校の少し前から、走りから早歩きに切り替えて、息を整える。
彩夢のお姉さんとして授業参観に出るんだ。ちゃんとしてないと、やっぱり恥ずかしい。
小学校の前に出ると、まだぽつぽつと大人が入っていく姿があった。
間に合った。授業の開始時間には完全に間に合った。
だけど、もう残り十分を切っている。
(急がなきゃ!)
走らないよう、細心の注意を払いながら来賓用の正面玄関から、五年生の教室がある二階へ。そして、彩夢に何度も言われた「5-2」の教室の後ろのドアをがらがらと空ける。
クラス中の注目の視線を浴びたのが、明確に分かった。そして、瞬間、ほとんどの顔が怪訝なものになるのも。
だけど―――
「歌子さっ・・・!」
がたっ。
椅子の音と共に、微かにわたしの名前を呼ぶ声が聞こえた。
―――彩夢の声だ
「・・・」
彩夢は気恥ずかしそうに視線を下に向けると、再び着席する。
(彩夢―――)
その瞬間だった。
わたし自身が授業参観を受けていた時の思い出が、頭の中にフラッシュバックする感覚に襲われたのだ。
あの日、わたしは教室の後ろのドアを何度も確認した。
いつまで経っても、あの人が来てくれなかったから。
そして授業が始まる時、わたしはあの人が元より来る気がなかったんだということを悟るように知った。
あの人は、わたしの授業参観なんてどうだってよかったんだ―――そんなことより、仕事だったんだと。
あの人を待つ時間はとても寂しく、そわそわして、不安を抱えたままずっと、三十分以上、わたしはまったく落ち着けなかった。来てくれるかどうかも分からない母親を待ち続ける娘の気持ち。だけど、その気持ちは後ろ向きなものばかりではなかった。
お母さんはきっと来てくれる。だから大丈夫だ。すぐにあの後ろのドアがまた開いて、今度こそはわたしのお母さんが来てくれるんだ。
そんな期待と希望を持ち続けながら、そわそわしていた、あのとき。
楽しくないわけがない。
待ち遠しくないわけがない。
今日はわたしが頑張ってるところを、お母さんに見てもらう日なのだから―――
(わたし、最低だ・・・)
彩夢はあの日のわたしだ。
ずっと、ずっと不安なまま過ごしていたのだろう。いつまでも現れないわたしを待ちながら、不安と期待で押しつぶされそうになっていたのだろう。
だからこその、さっきの叫びだった。
冷静で、物事ちゃんと見ていて、落ち着きがあって・・・。そんな彩夢が、わたしの名前を叫ばずにはいられなかった心情―――他の誰でもない、わたしだから、分かってあげなきゃいけなかった。
(ごめん、彩夢・・・)
あとでちゃんと謝ろう。
うんと彩夢と一緒に居てあげよう。
この不安をかき消せたとは思えないけれど、それでもかき消せるくらいの埋め合わせをしてあげよう。
「あれ、彩夢ちゃんのお姉さん?」
「金髪だ・・・」
あ。
(やばっ! ふつう、授業参観にパツキンのねーちゃん来たら!)
「「不良・・・?」」
そりゃ不良だと思われるよね!
しまった。完全にボーンヘッドだ。そこまで思考がまわらなかった。
ここは小学校。『ちゃんとした常識人』でなければならない場所だ。社会の中でも、最も常識であることを課せられる場所。
そこに、金髪の不良が父兄として授業参観に来たなど、彩夢にとっては恥でしかないのかも―――
(どどど、どーしよよーーー!?)
さっきの事もあり、わたしは完全に頭が上手く回らなくなっていた。
わたわたとその場で呆けていると。
「あいつ不良なんかじゃないわ」
甲高い、少し鼻にかかった声。
「メグ、この間、彩夢とあいつと一緒に遊んだもの」
「え。ど、どうだった・・・?」
「どうだったも何も、あんなの雑魚よ雑魚! ヘタレも良いところの奴だったわ! 見た目で騙されちゃダメ、あいつ全然普通だから!」
めぐが大声でそんな事をのたまうと。
くすくすという父兄さん達の笑い声と、
「へー、そうなんだー」
という生徒たちのきゃっきゃとした声が同時に聞こえてきた。
「え、えへへ・・・」
わたしは後頭部に手を持っていき、にへらと笑って見せる。
(助かった・・・)
正直、あいつにこんな事を言うのは気が引けるけれど―――ありがとう、めぐ。アンタのおかげで白い目で見られそうなのを何とか回避できたよ。
(あとで飴の一つでもあげないと・・・)
めぐのスーパーファインプレーにも救われ、若干授業の前にスライディングして滑り込んだことも曖昧になり、授業開始のチャイムが鳴って、先生が前のドアを開けて入ってくる。
(遅刻気味になったのはアレだったけど、結果上手くいった・・・の、かな?)
とにかく無事始めることが出来た。それは何より幸いなことだ。
だってこれは、彩夢の授業参観なんだから。
彼女が何の恥もかかずに、楽しく授業参観することが何よりなんだ。
(がんばれ、彩夢・・・!)
ここからは彩夢の番だよ。彩夢ががんばってるところ、いっぱい見せて!
授業は算数。教師の先生としても当てやすく、生徒の側としても当てられやすい、授業参観向けとも言える授業だ。
「それじゃあ、これとこれとこれを」
女性の先生だ。若く、わたしと十も変わらないんじゃないかってくらいの見た目。たれ目とおっとりした口調が特徴の彼女が当てたのは。
(ああ、違う子だ)
彩夢の名前は呼ばれなかった。
思わずぎゅっと握りしめていた拳の力を抜く。
手を挙げていた彩夢も、すっと悔しそうに手を下ろしながら唇を噛んだ。
(大丈夫。次、来るからね・・・彩夢)
またすぐに当てられる。次に頑張れば良い、と彩夢を心の中で勇気づけながら、自分としても彩夢じゃなかった悔しさに納得をつけさせる。
そして、次―――
「彩夢ちゃん」
やはり、彩夢は強い。
この場合、運なのかめぐり合わせなのか、先生と目が合ったからなのかは分からないけど、とにかく引きがある。
(がんばれー、彩夢・・・!)
ちゃんと見てるからね。焦らなくて良いから、分数の問題くらいなら彩夢はよく部屋でやってるじゃん。普通にしてれば解ける問題だから・・・。
ドキドキする。ハラハラを伴ったドキドキだ。彩夢が間違えるはずがないと分かっていながら、それでもと食い入るように見ていると。
「はい、正解です」
先生の言葉と共に、彩夢が無い胸を精一杯張りながら、わたしの方をこれでもかとガン見してくる。
こっちもバッチリ視線を合わせ、パチンとウィンクして見せた。
「・・・っ」
彩夢は顔を赤くし、満足そうに席へと戻っていった。
よかった。
(ウィンクしたの、先生にバレてないみたい)
そこだけが心配だったんだよ、バレないようにやったつもりだったけど・・・。
そうしている間にも授業は進んでいき、あっという間に授業時間が過ぎ去ってしまう。
キーンコーンカーンコーン、というチャイムの音が聞こえたと同時に。
(ああ、もう終わっちゃった)
と、残念に思った。
もっと彩夢が頑張る姿を見ていたかったのに・・・。
授業の後半は生徒たちが黙って手元の問題を解くシーンもあり、真剣に考えている小学生たちを見ていると、ちょっとだけ彩夢がカッコよく見えた。
(やってる問題自体は、高校生に比べたら全然簡単なのに・・・)
彩夢の真剣な表情は何かこう、ぐっとクるものがあった。何がクるのかはよく分からないけど、胸が少しだけきゅっと詰まるような感覚があったのは気のせいではないだろう。
「歌子さんっ」
授業が終わり、お母さん方の雰囲気も息苦しかったのでさっさと廊下へ退避すると、その後を彩夢が追いかけてきた。わたしの事が恋しくなって甘えたくなっちゃったのかな、と思っていると。
「何やってたんですか! 遅いですよ! 遅刻するのかとハラハラしました!」
めっちゃ、叱られました。
「余裕を持って家を出るように言ったじゃないですかーっ」
「ごめん、目覚まし時計が・・・」
「目覚まし時計?」
「そんで、有紗たちに起こしてもらって」
「もーっ、歌子さんはーっ!」
ぷんぷんと怒る彩夢の姿は、いつになく必死の様相で、申し訳なかった。
それだけ心配してくれてたって事なんだろうけど・・・。
「ごめんね、今度いっぱい返すから」
「・・・むー」
今日ばかりはむくれ顔がなかなか取れてくれない彩夢だったけれど、何度も謝ると。
「歌子さんがそこまで言うなら、今日だけは許してあげます」
ぷくーっと頬を膨らませながら、口に空気を含んだままのような声で、まだ気は済んでいないだろうけど、無理矢理納得したような口調で許してくれた。
「彩夢ちゃん、お母さんみたい」
「!?」
ズバリ核心を突かれた言葉に、胸に何かが刺さりながらその言葉の主を探すと。
「こら梨香。失礼なこと言っちゃだめよ」
「あ、うん・・・」
目の前に現れたのは一組の親子。子供の方はおとなしそうな子で、眼鏡をかけているのがそのイメージをより一層引き立たせていた。
「すみません、娘が」
「いえいえ。あ、わたし、彩夢の親代わりで来ました、藤堂という者で・・・」
ぺこぺこと頭を下げる梨香ちゃんのお母さんに、わたしもぺこぺこと頭を下げて、二人共頭を下げ続ける時間が少しだけ流れると。
「お姉さん、彩夢ちゃんの親戚の人?」
梨香ちゃんの一言で、会話の流れが変わり始める。
「あ、いや、そういうわけじゃないんだけど・・・」
「歌子さんは、私の寮の寮生さんです」
「こーこーせーなんですか?」
「まあね」
梨香ちゃんは普通の子よりちょっと大人しめな感じで、如何にも平均的な小学生という感じだ。
そっか、じゃあやっぱ。
(めぐのヤツって、相当生意気なクソガキだったんだ・・・!)
さっきは助けられたけど!
「あら若いんですねー。髪の毛も綺麗に染めてらっしゃって」
「あー、いや。あははー。オシャレとかしたい年頃でして」
このお母さん、普通に良い人っぽいなぁ。人畜無害感がすごい。
「梨香、彩夢ちゃんもそろそろ時間じゃない?」
「あ、そうだ。いこ、彩夢ちゃん」
「はい・・・。歌子さん、粗相のないようにお願いしますねっ」
彩夢に釘を刺され。
「えへへ、努力しますぅ」
変な笑顔を浮かべながら、彩夢を見送る。
「それにしても、」
そこで、梨香ちゃんのお母さんが―――娘とその友人を見守る親という、そんな立場の上での発言だったのだろう―――何かを懐かしむように。
「あの彩夢ちゃんが、香椎さんの代わりを連れてくるようになるなんて・・・。少し感慨深いです」
そう、言ったのだ。
―――ここから先は、恐らく非常にデリケートな問題だ
わたし自身、踏み込んで良いのかも分からないような。
だけど、この人が言った言葉の半分は、わたしが負わなきゃいけない責任だったような気がして。
「感慨深い、って・・・。どういう事なんですか?」
その責任を、果たさなきゃいけないと思ったから。
いつまでも、『そこ』から逃げ続けるわけにはいかない。今のわたしは、彩夢のお母さんの代わりなんだ。
だから、わたしは今、ここに居る。
「こんな事・・・、ぺらぺらと話して良いのか分からないんだけれど」
そして彼女も、それを言うのをためらっていた。
しかし。
「でも、貴女だから、言いますね」
何か覚悟を決めたような目で、その女の人は言葉を紡ぐ。
「彩夢ちゃんのお母さん・・・、香椎さんが亡くなったのが、今から三年前の話です。それから三年間・・・、あの子は授業参観に誰も呼ばなかった。おじいさんやおばあさんですら、彩夢ちゃんの気持ちに遠慮して来なかったくらいですから」
彼女は廊下の窓の外を見ながら、一つ一つ、思い出すように。
「それくらい、彩夢ちゃんにとって、彼女のお母さんは大きな存在だったんです」
そして、目を瞑った。
故人を思い出しているのだろうか、それとも、また違う何かを想っているのだろうか。わたしに知ることは出来ない。
それでも。
「あの、ありがとうございますっ」
気づくとわたしは、バッと頭を下げていた。
「わたしみたいなどこの誰かも分からない人間に、そんな話までしていただいてっ」
それ以外、どうしていいか分からなかったからだ。
「どこの誰かも分からないなんて、そんな事ないですよ」
気づくと、女の人はわたしの手を握ってぎゅっと持ち上げてくれた。
「だって貴女は、彩夢ちゃんが選んだ人ですから」
そして、その重なった手に、少しだけ力を込めて。
「彩夢ちゃんのこと・・・。よろしくお願いしますね」
精一杯の笑顔を、くれたのだ。
その表情は、とても嬉しそうだったけれど―――どこか、遠くに悲しみを残してきたかのような、そんな薄暗さも感じる、不思議な笑顔だった。彼女はそれ以上、何も語ろうとはしなかったのだ。だけど、その時が来たら、わたしの方から彩夢に聞いてみたいと思う。他人から聞くのではなく、彩夢に、直接。
そういう関係性を、築けていけたら・・・。
わたしは、彩夢の『そこ』までを知りたい。
この授業参観という行事が、わたしにそう決意させたことは―――きっと、偶然なんかじゃない。踏み出せない『いつか』という曖昧だった境界線を、くっきり鮮明にさせてくれたし、わたしにそこを乗り越える決意をさせてくれたんだと、思いたい。
ううん、思たいたいじゃない。思うんだ。
わたしは彩夢との関係を、逃げない。
いつかじゃなく、今日、この日に―――わたしは、彩夢に自分の思うありのままを話してみたいと、そう強く心に刻み込んだ。
◆
「何しにきたのよこの金色オバサン!」
と思ってたらコレだよ!
「アンタなんかと二度と会いたくないって思ってたのに、学校にまで来るなんて!」
「いや、彩夢に来いって言われたから」
「きーっ、言いくるめようったってそうはいかないから!」
さっき助けてくれたのは本当にありがたかったけど、やっぱこのガキは無理だ。お礼の一言でも言おうと思ってたのに。
「学校はメグとあーちゃんが仲良くできる最高の場所なの。アンタなんかに侵されたくない場所なのーっ」
「黙って聞いてりゃ人のことを何だと思って・・・」
「虫よ! メグとあーちゃんのイチャイチャを妨害するお邪魔虫!」
めぐは腕を組んで、ぷいっとそっぽを向くと。
「でも、今日はこの辺りで勘弁してあげる」
「え? なんで?」
確かにその方が、こっちも助かるけれど。
「あたしもお母さんが来てるからね! 今から一緒に帰って、出かけるの!」
「ほー、そりゃよかった」
「だからアンタとじゃれ合うのもこれまでよ」
「こっちは最初からそんな気ないんだけど・・・」
と、言ってもまあ無駄なんだろうなと思いながら、向こうへ行こうとしながらもなかなか行けないそわそわ感を味わっているめぐを見つめる。
「じゃあね! あたし、ほんとに行くから!」
「いやもう行けよ」
「アンタとは今度こそこれでお別れよ! バイバイ、永遠にね!」
わたしだって、できる事ならもう会いたくないよ。
「あー、はいはい。さよならさよならー」
小さく下の方で振る手が、何か名残惜しそうなものを感じていたなんて、きっとそんなの気のせいだ。清々するし、二度と会いたくない。その認識で、確かにわたし達には珍しく一致しているはずなのに。
・・・なんだかあいつとは、また―――会うような、そんな気がするのだ。