プロローグ いつかの思い出
昨日も、お母さんは帰って来なかった。
わたしがそれを知ったのは、今日の朝。既にお母さんは仕事に行く準備を始めていて、お化粧を忙しそうにしながら、よくわからない話をお父さんとしている最中だった。
それでもわたしは何か言って欲しくて、お母さんに話しかけたのだ。
だが―――
「―――、――っ」
そこにわたしの欲しい返事など、無かった。
昨日は、わたしの誕生日。
今までどんなに忙しくても、その日だけは優しかったお母さん。でもそれも、どうやら去年までのようだった。
わたしは悲しくて悲しくて、ずっと泣き続けた。泣いて泣いて、学校から帰ってきても泣いて、学校ではみんなが心配してくれたけど、そんなのどうでもよかった。
わたしにとって、お母さんは特別だったから―――きっとそれ以外の人に何を言われても、意味なんて無かったのだろう。
学校から帰った後も、誰も居ない家が嫌で、飛び出した。
近所の公園に行って、ベンチに座って泣き続けたのだ。
小さな場所で、周りから変な目で見られていることも知っていたけれど、それでも泣くのをやめられなかった。
どうして。
お母さん。
わたしはこんなにお母さんの事、好きなのに。
お母さんはわたしの事、好きじゃないの―――そんな事を思うと、もっと涙が溢れてきた。
「・・・」
いつごろからだっただろうか。
「・・・?」
わたしの正面に、女の子が立っていた。
まだ、何も分からないような年頃の女の子だ。わたしから見ても、『こども』だと思うような小さな女の子。
彼女はじっと、そこでわたしの方を見ていた。
何をするでもなく、じっと。
(何よ、どっか行けよ)
どうせ、この子にわたしの気持ちなんか分かんない。
こんな小さな、何も分からないような子に、この辛くて寂しい気持ちは分かんないよ。
だから早く、この場から去って―――
ぽん。
頭に、小さな手が乗せられる。
「よしよし、いいこ、いいこ・・・」
女の子のものだった。
小さく、小さすぎるくらい小さなその手が、わたしの頭のてっぺんを撫でる。
「おねえちゃん、いいこ」
彼女はこちらを見上げ、真っ直ぐにわたしの目を見つめながら言うのだ。
涙を必死で拭いながら、彼女の顔を見ると。
「いいご、いいご・・・。こわくないよ」
その小さな女の子はわたしに釣られるように、表情をくしゃっと崩して、涙を零しはじめてしまった。
だけど、それでも―――わたしの頭に乗せられた手と。こちらをじっと見てくれるその瞳は。そのままだった。
「うぇぐっ・・・いいこ、いいこ・・・」
彼女は涙を流し、しゃくりあげながら、それでも。
わたしの方を見つめ、頭を撫で、必死でわたしを元気づけようとしてくれていた。励まそうとしてくれていた。
―――泣き止ませようと、してくれていたんだ。
ごしごし。
目を擦って、涙を消し去る。鼻をすすって、前を見る。彼女の方を。
気づくとわたしは、泣き止んでいたのだ。
「ああ・・・」
なんて、心強いんだろう。
この乗せられた小さな手が、とても温かく、大きなものに感じられた。
「貴女がわたしのお母さんだったら、よかったのに」
何を思ったのか、年下の女の子に向かって、そんな事を言っていた。
物心もついていないような、小さな子。だけど、この子の行動にはわたしの求めた全てが詰まっていた。
わたしは―――『おかあさん』が欲しい。
たとえ、それが”年下の女の子”でも、構わないのだ。