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私とてんや

作者: 江永 司

私には、常に一つだけどうしても理解できないことがあった。


何故、他の人はてんやで定食を頼まないのだろうか??と、言う事だ。


てんやとは、主に関東を中心に展開する天丼中心の外食チェーン店である。


下手な専門店や、蕎麦屋で食べると1000円は軽く超えてしまう庶民のご馳走である天丼。


その天丼をリーズナブルな価格で提供すると言うので、関東では根強い人気が有るチェーン店だ。


近年、関西を始めとした地方にも出店し始めたが、関東風の甘辛いタレに絡めた味付けにも拘わらず、

どの地域にも高評価で受け入れられている様である。


それもその筈、てんやには他には抜きんでたレベルの高い味とコスパの良さがあるのだから。


何と揚げたての天ぷら乗せた天丼が500円、ワンコインで食べられるのである。

圧倒的なコスパと言えよう。


しかし、そこで冒頭の疑問に戻る。

なぜ人はてんやに行くと天丼を頼むのか??


たしかに天丼はてんやのフラグシップとも言える看板メニューだ。


そして、天丼には独特の美がある。

丼に盛られた天ぷらにかけられた甘辛く旨味の有るタレ。

四季折々に変化する季節の具材による、丼の上にダイナミックに盛られた天婦羅の種類の豊富さ、

どれをとっても一個の芸術品たる風格ががある。


それは否定しない。


だがあえて言わせてもらいたい。


てんやにおいては定食こそがコスパ最強であると。


何故なら天丼500円が大盛りで600円なのに、定食ならば190円+の690円で食べることができる。


しかも、ご飯のお代わりが自由なのである。


大事な事なので繰り返して言おう。ご飯のお代わりが自由なのである。


この一点を見ても、てんやにおいては定食こそがコスパ最強である事の証明と言えよう。



だからこそ私は、てんやでは定食を頼む。



通いなれた店内に入り席に着くと、顔なじみの店員さんから差し出されたお茶を受け取り、

いつものように天婦羅定食を注文する。


笑顔で注文を受けた店員さんに笑顔を返しながら、私はまず出されたお茶をひと口、口に含み舌を湿らせた。


そして一息ついていると、私の中の内なる声が囁いて来た。


上天麩羅定食ならば100円増しだが海老二本である。

上を頼むべきでは無いか?? と。


確かに海老二本の誘惑は大きい。


その意見には傾聴する価値はあるし、私も気分によってはその選択を取ったかもしれない。


だが、ここは敢えてコスパ重視でいかせてもらおう。


それに上だとキスの天麩羅が付いて来ない。

コレは頂けない。


私がてんやで定食を食べる時に、キスの天麩羅は順序を組み立てるのに如何しても欠かせない素材の一つなのだから。


そんな事を考えていると、店員さんが何時ものように私が注文した天麩羅定食を運んで来てくれた。


その定食を見て、私は何時もと何も変わらない事への安心感を覚える。


海老、キス、烏賊、カボチャ、インゲンの、五つ揃った天麩羅の盛り合わせがメインに、

おひたし、大根おろし、味噌汁、それと小盛りのお茶碗のご飯が並んでいる。


美しい。


完成された編成だ。


そして、その横には抜かりなく添えられた、若干薄口の醤油がある。


私は、箸を手にとると、まずその醤油を手に取り、おひたしに多少多めに、そして大根おろしに少々振りかけた。


おひたしの上に掛かった削り節が、醤油を浴びてしんなりした所を箸でひとつまみ。

白いご飯の上に乗せてパクリと頬張る。


まさに日本人として生まれてよかった、と、心から思う瞬間である。


だが、当然ここで終わる訳がない。


そこで私はおもむろに、そして欲望のままに天婦羅の盛り合わせの中心に位置する本丸、海老へと箸を伸ばす。


てんやに来ているからには、天婦羅を、海老を食べに来ているのだ。

その認識を誤魔化す者は、生涯地を這う。


そうニヤリとほくそ笑みながら、箸で海老を摘み上げると、盛合わせの隣に添えられていた天つゆにその先端を潜らせ、

そのまま口へと運ぶ。

天つゆの旨みを吸い上げた衣の食感と同時に、揚げたての海老の風味がふんわりと口に広がり、

サクリとした歯応えと共に、圧倒的な多幸感が口の中を満たす。


てんやに来た事の喜びを噛みしめる瞬間だ。



だがしかし待って欲しい。



てんやに来たからには天麩羅は甘辛い天丼のタレで食べるべきではないか?


天つゆではその欲望が満たされないのではないか??

だからこそ人は定食ではなく、天丼を頼むではないか??



当然の疑問である。



だが、私はその疑問に答える術がある。


そこで私は手を挙げて店員さんを呼び、天丼のタレを持って来てほしい、と頼んだのだ。


そう、てんやにおいては天丼のタレを別に注文する事が出来るのだ。


この驚天動地のサービスに寄って、てんやでは天丼の味が些か物足りない時だけではなく、

天つゆで天麩羅を食べざるを得ない定食においても、天丼のあの甘辛いタレを余す事なく堪能する事が出来るのである。


私は若干量を減らした白米の上に、インゲンとカボチャの天麩羅、そして半分齧った海老を乗せ、

運ばれて来た天丼のタレを掛け回す。


即席の天丼の完成である。


私は約束された美味さが凝縮されたタレをたっぷりと纏った天麩羅と共に、白米を口に運ぶ。


天麩羅、白米、味噌汁、天麩羅、白米、味噌汁、この計算され尽くしたワルツの前に、

お茶碗の中身は瞬く間になくなってしまった。


だが、悲しむ事は無い。てんやはここで終わりではない。寧ろ始まりなのだ。


私は再度店員さんを呼ぶと、こう力強く告げる。



「おかわりをお願いします」、と。



店員さんは心得た様子で、


「かしこまりました。盛りはどうしますか??」と訪ねて来る。


愚問である。


「大盛りで」

私のその即答に店員さんは笑顔を返すと、即座におかわりを持って来てくれた。


最初の小盛りとはレベルの違う大きめのドンブリに盛られた白米。

並みの男なら、いや、太めの男子でも躊躇する量であろう。


だが、私は目を輝かせながらドンブリに手をのばす。


この時のために温存しておいたキスの天ぷらに、卓の横に置かれた粗塩を振りかけ、白米と共に口に運ぶ。


先程までの天丼とは全く違う爽やかな美味しさに、食が驚くほど進んでしまう。


キス、白米、おひたし、キス、白米、おひたし、と、先程とは別の三拍子を刻みながら、

瞬く間に山盛りの白米は消えていく。


最後に残った味噌汁で口を潤し、私のてんや行は満足のままに終わりを告げた。


おかわりは自由である。


望めば天丼のタレを掛けて、それだけでもう一杯行く事も可能だろう。だが、それは余りにも醜い所業だ。


自分の美意識を偽り、望むままに食を貪るのは、暴食だ。

食べ放題だからと言って、必要以上に貪るのは豚と変わりが無い。


私は努めてその愚を避け、腹八分目で店を出た。


これだけ食べても値段は驚きの690円。

コスパ的にもニッコリの価格である。


しかも味は抜群だ。


これ以上何を望むと言うのだろうか――



私はそう思いながら、何時も大満足でてんやを後にする――


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