希望
さて――。
君の話を続ける前に(次が最後の話になる)、僕の話もしておこう。
それはもうだいぶ前の話。
――気づけば、もう二十年も前になるのか? 僕がまだ学生の頃の話だ。
その日、もう地方都市のバスも地下鉄も終わる時分。
新幹線の止まる、街で一番大きな駅の東側にある映画館から、ちょうど出てきたところだった。
八月も終わりに近づき、夜には冷たい風が吹くようになったその頃。
レイトショーが終わって夜の街に出た僕は、Tシャツでは少し肌寒さを感じて、腰に巻いていたビニールのジャンパーをほどいて羽織る。
「南か……」
僕は、そんな言葉を呟きながら、映画館でのことを思い出す。
その日、僕は、そのレイトショーが、その街では初公開となる、当時話題のフランス映画をみるために、当時はまだ珍しかった、いわゆるアート系のミニシアターに足を運んでいたのだった。
そして、物語に、映像に引き込まれて、――二時間弱。呼吸も忘れるほどに夢中になっていた、映画が終わり、幕がしまってまわりが明るくなり、いっきに場内がざわついて、人々は次々に立ち上がって外に出て行くのだが、僕はあまりに映画に夢中になっていたので、まだその銀幕の世界の中から意識が戻ってこれないでいた。
僕は、目の前の空間をただぼんやりと見つめてしまっていた。
止まったフィルム。
終わった物語。
しかしそれはまだ僕の心の中では続いていた。ラストシーンで走りだした女は、そのまま走り続けスクリーンから飛び出して僕に向かっているような気がした。
その女は、僕に向かってずっと走り続けてきて、
「ふふ、ごめんないさい。あんまりに夢中な様子で面白かったから」
「……あ、すみません」
目の前の席に座った女が、ちょっと申し訳なさそうであるが、面白そうにな顔で、僕をじっと見つめているのに、――声をかけられて僕は初めて気づいたのだった。
「この、映画気に入りましたか」
「はい」
僕の答えに、女は嬉しそうに笑うと言った。
「ならば南に行けばよいと思います」
南という、どうにも曖昧な指示に、でもそのまま素直に従って、僕は夜の街を歩いた。
映画館のあるその一帯は、元は寺と墓場ばかりだった場所が再開発されている途中で、通りの片側には真新しいビルが立ち並ぶが、反対側には、草がぼうぼうでガランとした空き地や、人の住まなくなった廃ビルなどばかり。まだ深夜とはいえないこの時間でも、歩く人もほとんどいない。
賑やかな駅の近くとは思えないような、静かで寂しげな様子だった。
街灯もまばら。薄暗い歩道を僕は南の方角に向かって歩いていた。
歩きながら、映画館の女のことを考えていた。ついさっきのことなのに、なぜか記憶がやたらとおぼろげであった。その顔も良くは思い出せないし、時に着ていた服の色――青か白か赤か――そんなことさえも思い出すことができないのだった。
思い出そうとすればする程、近づけば近づく程に、その瞬間は僕の手をすり抜けてゆく。
――色が逃げていく。
そして、目を開けば、モノクロの街。
僕は、その夢の中の様にあやふやな風景の中を歩き続けた。
自分でも、見ず知らずの人から言われた、あんな曖昧な言葉に従っていったい何をしているのだと思わないでもないのだが、――大学一年生の夏休み、その後になんの用事があるわけでもない暇な夜。他に行くところもなければ、まだアパートに帰る気分でもなく、足は自然に南に向かうのであった。
夏の湿った空気の中に滲む様に浮かび上がる街灯の光。その無機質な明かりに照らされた風景は、ひどく現実感がなくで、まるで幻のようだった。
僕は、何かを予感してか、小刻みに震える足元の、頼りない感触を頼りに、その曖昧な世界の中をゆっくりと進むのだった。
薄暗く静かな道であった。
途中、何軒か、まだ開いている飲食店の前を通り過ぎると、その中から笑い声が聞こえてきたりもする。
だが、その音は湿った闇の中にたちまちに吸い込まれてしまい、後にはさらに静かな夜が残る。
いつのまにか迷い込んだ一角。
看板からではどんな事業なのかが良くわからない会社ばかりが入っている雑居ビルや、妙にツルッとした外観のマンション。
古い二階建てのアパートや、築何十年だろうと言う様子のボロボロの一戸建て。
様々な建物が入り混じるその場所。
どこからか漏れて聞こえるテレビ番組の笑い声が、僕にさらなる孤独を思い知らせ……。
――僕は路地の暗闇の中立ちすくむ。
沈黙する。
呼吸することさえも禁じられたかのように、息を飲み、ただそこにある。
見えるもの全てが止まる。
僕は、その静寂が少し怖くなって、――何か音を探してあたりを見渡し……。
――目に留まったのは柔らかい白熱灯の光に照らされた金色の天使。
それは、天使を形どったノブのついた、重厚な木製のドアであった。
そしてその奥から漏れてくるのは、くぐもったベースの音。
その音が、静寂の中に響く。
――これだ。
僕は、あの映画館で会った女が言っていた。
南――。
僕の短い旅の目的地はここであると確信する。
そして、その瞬間、ドアが開く。
バスドラムの音が大きくなり、中から可愛い女の子二人組が出てくる。
二人は腕を組み、小指をちょっと絡ませて、お互いにうっとりとした目になりながらキスをする。
その様子を、びっくりとした顔で見つめていた僕――に気づいた二人は、別に恥ずかしがるでもなく、ゆっくりと唇を離すと言う。
「ああ、パーティは全然終わってないですよ。まだまだ始まったばかりで、――今とても良いところですから。ぜひ入って見てください」
「私たちも、待ち合わせの友達連れてすぐに戻ってくるからね」
僕は女に言われるままに、そのまま中に入る。
「ようこそ」
受付の横に立っていた、後でこの店の店長のDJの奥さんであることを知る、クールで綺麗な女の人に一礼されながら、受付のゲイっぽい男性にエントランスフィーを払うと、僕は、女の人に開けてもらったフロアに続く扉を開けて中に入る。
――きらびやかな音の中に入る。
そこは、濃い煙に前が全然見えなかったけれど、音が僕に教えてくれた。
ここは、別世界の入り口であると。
その先には、豊穣な世界が広がっていると。
僕は、それに気づき、少し怖くなりながらも、音に引かれ無意識にその中に足を踏み入れると、――踊り始めていた。
いつのまにかスモークは晴れて、強烈なフラッシュライトが瞬いていた。
光と闇。繰り返すその連続。
僕は世界が、止まり、また動き出すのを見た。
周りでは、十人ほどの人々が踊っていた。
僕は、こう言う場所に来たのは初めてであったが、自然と踊り始めていた。
そんな僕を見て、何人か嬉しそうに笑っているのに気づいた。
目があって、――僕も笑みを返した。
太いバスドラムの音が僕の腹の奥を揺らした。
細かく刻まれるハイハットの音が僕の心を高く高く持ち上げた。
流麗なストリングスが感情をやさしく撫でた。
僕は、その時のことをしっかりと覚えていた。
前に飲んだコーヒーの味をふと思い出したきに感じる口の中の苦さのように、妙にリアルで、ある意味、今見る目の前の風景よりも生々しい記憶。
もう二十年も前の事となる、その日の夜の事を、僕は、その時の匂いまでも、はっきりと思い出すことができる。
店内に漂う甘いお香の匂い。
踊り疲れて座ったソファーの革の匂い。
目の前を通り過ぎる女の子の香水と汗の匂い。
漂うスモークの少し焦げたような匂い。
あの時、あの場所。
大音量のダンスミュージックの鳴り響くクラブのフロア。
――その奥のラウンジのバーで、僕は、頼んだジントニックが出来上がるのを待っている。
ボトルから注がれるジンに虹色のライトが当たって光る。ソーダマシンから注がれるソーダの、はじける泡の一つ一つに僕の思い出も一つ一つはじける。
あの頃、身体の奥を揺らすドラムのリズムと、強烈なフラッシュライトの光の中で踊っていた日々の中の、ある一日。
僕が、今、思い出すのはそんな日々の始まった、まさしくその日のことだった。
時間は真夜中をまわったくらい。
映画館を出た時は、もう今夜は終わりと終わったのだったが……。
――まったく、その夜は始まったばかりだった。
でっかいスピーカの前、太いベース音に身体と心を揺すられながら、僕は、自分自身と向き合いながら、目を瞑り踊っていたのだった。
踊りながら、頭の中に小さな宇宙ができるのを目撃しているところだった。
無から出でた有。
僕は目を開き、それを見た。
音と光りに満ちるダンスフロアを眺めた。
ミラーボールの光がフロアを回転させていた。
ビートに合わせて激しく振動するスピーカーのコーン。
スモークに包まれ、薄明かりの中浮かび上がる、DJブースはまるで祭壇のよう。
スポットライトが消え、暗闇に赤いレーザービームが走る。
暗闇を切り裂く光。世界は光りとそれ以外。
僕が今いるのは暗闇。心の暗闇から、僕は光を求めて浮かび上がる。
僕はビートに合わせて心臓を鼓動させながら、深い心の底から空へと浮かんでいく。
身体を音に任せる。
バスドラムに合わせて脚を上げた。
ベースに合わせて腰を回していた。
音が、世界が揺れた。
僕は、その時、DJが曲と曲をミックスしていく瞬間を初めて体験したのだった。
それは魔法のようだった。
二つの別々の世界が混ざり、新たな世界が作り出されていくかのようだった。
その新たな世界は、この世に素敵な共鳴となって現れる。
僕は、生まれてから今まで一番の歓声を上げ、まぶしいフラッシュライトに照らされながら、一層激しく踊り出した。
激しい音の中で、僕は自分が消えてしまったような気分を感じていた。
虚と実の間で身体を揺らし、自分と世界の境界が分からなくなっていた。
歓喜の中で、僕は音になっていた。
僕は、波に、世界を揺らす波になっていた。
もし物理学が正しくて、世界が波で作られるのならば、僕は世界その物になっていたのだろう。
僕は宇宙だった。
その誕生であった。
この夜。今日こそは、その夜だった。
夜の闇の中、暗き光はこの日ここでこそ集まり臨界点を越えようとしていた。
いつの間にかフロアにはずいぶんと人が増えていた。
異国のゲットーから届けられた、物悲しくも力強い、踊るための音楽。
ハウスミュージック。
その名もろくに知らぬまま、僕はその音の中に浸かった。
フロアに溢れるリズム。
天国まで昇るがごとくに、上昇するピアノの音階。
絡みつくストリングス。
強と弱。前進と後退、
まるで人生そのものを思い出せ得るようなような緩急の揺らぎ――シンコペーション。
何処までも、強く、続いてゆくリズム。
ビートに合わせ僕の鼓動が早くなる。身体が自然に揺れる。
グルーヴに身体をまかす。
僕は、音に、衝動に突き動かされて、激しく身体をくねらして、ステップを踏み、あっという間に息が上がり始めるが、――そのまましばらくすると、苦しみは高揚に変わった。
ダンサーズハイ。
高く高く、太陽よりも高く、僕は昇って行った。高く、どこまでも高く、音の続く限り、心は身体を離れて昇り続けていくのだった。
この日。
そんな夜。
ひどく蒸し暑い夏の夜。
ビルと言うビルのエアコンの室外機がフル回転して、その図太い振動が街のベースラインとなっている、そんな夜。
闇の中を通り過ぎる車のバックファイヤーがドラムとなり、セミの声と耳鳴りが伴奏で、通りの酔っぱらいの声がバックヴォーカル。
街が奏でる音楽は、気の狂いそうなくらい暑い夜にふさわしい、騒々しくも華々しい、そんな夏の夜だった。
少しネジの外れた夜。
だいぶ人の増えてきたフロアも、良い感じに狂ってきていた。
リズムブレイクの度に絶叫。
何度も何度も熱狂がその中を満たした。
人々は、力の限り歓声を上げた。
ブレイク。
歓喜の渦の中、僕は、また、なぜか素粒子の事を考えていた。
頭の中で粒子となった音が、激しく揺れながら、鮮やかな色彩を作り出していた。
僕は光を追いかけて飛んだ。
共振して激しく変容する電子音に乗り、光のその姿をを見ようとさらに心の奥へと飛び続けた。
宇宙は虹色に変わった。重力を越え、他の三つの力を越え、僕は真空で蠢く紐とその作り出す振動を感じた。
その一なる始原の下なら僕らは、一つだった。
フロアで踊る人々は、世界が始まった、その時の波にまで戻って触れ合っていた。
そこには違いも、争いも無かった。原初の波は――宇宙を揺らす音は、皆同じ物であった。
そう思えば、――僕はとても幸せな気分になった。
ここから全てを始められたら、僕らは新たなすばらしい世界が作れるのでは。僕にはそう思えたのだった。
フロアには共感と可能性に満ちていた。
今からその当時を思い返すなら、青くさい感情に囚われた、若者の生硬な考えと自分で自分のことを思わないでもないのだが……。
しかし、その時、その場所であれば、全ては正解。
すべての人々がビートの中溶け合って、互いにリスペクトしてゆけるそんな世界が、他でもないこの瞬間から、始まってゆくことができる。
その時に、僕が感じた思いに間違いはなかった。
その時、僕らは熱く、混ざり合っていた。
そして、そこでなら、全てが起き得るのだった。
まったく違う曲がターンテーブルで混ざり合っていく、クラブミュージックのように。
その時、僕らは、互いの心を混ぜ合わせていった。
その時、世界が、この熱狂を震源に世界は変わってゆくような気がした。
僕がその時いた、その場所から変えられると思っていたのだった。
もちろん、その後の世界が、――そんな妄想のようなことが、そのまま実現するわけはない。
けれど、
「やはり変わった」
僕は思うのだった。
「何が?」
あの頃から、もう二十年も経った今から、昔を振り返れば、
「この二十年は世の中がすばらしく良くなった二十年と言われることはあまりないけれど」
「一般には『失われた』と言われるわね」
「だが変わったのも確かだ」
と、僕は、やはりそう思うのだった。
「例えば、二十年前、インターネットが普及してなかった世界を想像できる?」
「いえ、スマホない世界だって想像できないわね。もう」
「YouTubeがない世界だって想像できないね」
「別の動画サイト見ればいいじゃない? ……って話ではないわよね。もちろん」
「そう。まあ、ともかく、動画サイトもスマホもここ十年くらいのことで、二十年前といえば、もっと原始時代だった」
「携帯やメールはあったわよね」
「あったけど、今からすると、良くあんなものでなんとかしていたなって」
「なら、その前の携帯もない時代には、いったいどうやって人は連絡を取り合ってたのかってたのかって思うわよね」
「――当時の男は彼女が集合場所に遅れたら彼氏はいつまでもその到着を待っていた」
「あなたが待っていてくれていたかは別として」
「別としてだ……ついでにそんなテクノロジーの話は別にしてもだ、世の中は変わり続けていたと思うんだ。その変化の中で自分も変化しているのだから、一見それには気づかないのだけど」
「まあ、過去の不義理の追求は別の機会にしておいてあげるけど……気づけばっていうのは確かにあるわよね。クラブミュージックだってこんなに広まるとは思えなかった」
「日本にはクラブがなくて、――ディスコしかなくて、スーツ着ていかないと入れない時代があったんでしょ」
「そう。踊るのにスーツ着ていかないといけないと言うのも随分変な話と今からなら思うけど。そんな時代も確かにあった」
「バブルの頃よね。狂騒の経済の中で、人はきらびやかな享楽を求めたっていえばうまく話はまとまるわよね」
「もちろん、そんな単純な戯画化は、大切なディティールを削ぎ落とした偽物の怪物を作り出してしまうのだけど……」
「変わったのは確かよね」
「そして、今日のこの日は、確かに、あの日感じた、あの熱狂の先にある」
僕がそういうと、彼女は同意の頷きを返してくれた。
ならば――。
オーケイ。ありがとう。
と、僕は感謝の言葉を告げ、――自信をもって思い出の中に帰ろう。
二十年後の未来から、その瞬間に戻ろう。
あの日へ。
パーティも佳境。
僕は、熱狂する人々の中へ。
そんな人々の集まるフロアへ。
その後何度も聞くことになる、アンダーグラウンド・レジスタンスの名曲が鳴り響く、その場所へ。
「ハイテク・ジャズ」
僕が教えてほしそうにしていたのか?
曲の名を、横にいた男がが教えてくれたその瞬間、
「いい曲だよな」
男の言葉に僕は頷いて、そのままフロアの真ん中に進む。
フロアにいる様々な人々と笑いあう。
叫ぶ。
今日入り口であった女の子二人組は、迎えにいった連れとは彼のことだったのか?
気弱そうな男をと一緒に手を取り合って踊っていた。
白ずくめのヴォーグダンサーたちがフロアの隅でポーズをとる。
その前では、しなやかに体をくねらす黒人の姿があった。
君の後ろの、高校生くらいの少女が、絶叫しながら、目があった僕に笑顔を向けた。
僕も笑顔をかえした。
「楽しいわよね」
見ず知らずの女性が僕の耳元で囁いた。
そのポアゾンの匂いにどきりとしながら、僕は、微笑みながら頷き、目の前で激しく踊る男のステップの真似をして、足を高く、高く上げた。
ベレー帽をかぶったスカした感じの男は、しかし、一心不乱に回るミラーボウルの光の上でサーフィンをしていた。
上半身はブラに下はホットパンツの女の子二人組が、みんなにエロスの香りを封じ込めたと称する脱脂綿を配りながら怪しく微笑んでいた。
キラキラな服で着飾った女性たちが体を滑らかに揺らす前で、我関せずといった感じで踊り続ける地味な男がいた。
スピーカーの真ん前で踊る女は、ベースの音が大きくなった瞬間、絶頂に達したような声を漏らした。
――僕は見た。
その素晴らしい瞬間を。
その幸せなフロアの様子を心に焼き付けながら。
――僕は踊る。
踊り続ける。
そして……。
*
――朝であった。
僕は、パーティが終わったあと、クラブから外に出て、明るくなった街を見ていた。
新しいものや、古いもの、さまざまな建物が混ざり合うその一角。区画整理でできた大きな道路に、不自然に分断されたかのように見える、入り組んだ細い路地。
そんな、街並みを見ながら、明るい朝日の元では、昨日の夜に見た神秘は消えてしまった、と僕は思った。
興味ぶかい光景ではあった。
開発の進む駅前と昔ながらの住宅街の境にあった、その、クラブのある辺り。
それは、なんとも不安定で、変わりつつある、この頃の世の中を象徴しているような、独特の雰囲気を醸し出していたけれど……。
今この目の前には、夜にあったものは無いのだった。
しかし――。
僕は思った。
それゆえに、それでこそ、あの神秘は、確かにあった、その意味は大きいのだった。
今、目の前が、リアルな、なんの変哲も無い光景に見えるのならば、なおのこと――。
それがありえたこと、――その意味は尊いのだった。
この現実を超えて、それがあることを僕は知ったのだ。
神秘は、夜、僕の目の前にあったのだ。
それはこのドアの向こうの世界につながっていたのだった。
その日。
その時。
それがあることを、僕は知り、――それを忘れない。
ならば、僕は振り返り、その閉じた扉に向かい、決意を持って、言うのだった。
「僕は、この後、自分の人生を過ごしていき、その中で、様々な体験をするだろうし、その中には、楽しいことも、嫌なこともあるだろう。僕は、このあと自分の人生を過ごしていく中で、様々なことを考えるだろう。その中には、正しいこともあるし、ロクでもないこともあるだろう。僕は、様々なことをするだろうし、その中には、思いがけずうまくいくようなこともあれば、とてつもなく失敗することもあるだろう。僕は、自分の人生を生きるだろう。それは、時には、全て肯定したいような気持ちになるものかもしれないし、逆に、世界が終わってしまえば良いと言うような感情にとらわれるものでもあるだろうだろう。僕は僕であるだろう。ならば、失恋もするかもしれない。恋が実るかもしれない。セックスには、愛があることもあれば、無いこともあるかもしれない。僕は、それに、喜んだり、後悔したりもするかもしれない。僕は自分の人生を生きるだろう。生きている限り。僕の生を、――僕は生きるだろう。僕は、そうある。そうありたい。僕は自分の生を、様々にしくじりながら、それでも進んで生きたい。思わぬ失意の中にいたり、憂鬱に囚われていたり。生は様々に僕を試すだろう。時には、後ろむきに進んでしまうかもしれない。
心の奥に閉じこもり動けなくなってしまうかもしれない。しかし、人生は、僕のものであれば、僕は、そうありたい。僕は、様々な、本を読み、映画を見て、音楽も聴くだろう。すると、僕は、様々な、感動や、衝動や、欲望を持つだろう。ならば、僕はさらに思うだろう。僕は世界の全てを知りたくなるだろう。宇宙の創生の秘密も、美味しいカクテルのレシピも。僕は世界の全てを見たくなるだろう――聴きたくなるだろう。文学も音楽も映画も、何もかもが、僕の前にあれとおもうだろう。全ての場所に生きたくなるだろう。全ての――。空を見たい。海を見たい。大地を見たい。そう思うだろう。その現在も過去も未来も僕は見たくなるだろう。しかし、それは叶わぬだろう。なんでもできると思える若き日は、早々に消え去るのだろう。僕は自分の限界を知るだろう。もしかしたら、最後にはやり残した事を悔やみながら死んでいくのだろう。しかし……」
僕は、一度言葉を止めて、深呼吸してからまた言う。
「今日のことは忘れない」