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誘惑

 川岸に並べられたキャンドルの灯りが、水面を照らしていた。様々な色が川面を彩る。その神秘的な光景の中に、一夜の幽玄を得た湖にそそぐ小川であった。

 その光の絶え間のない変化の中に、永劫があった。柔らかな光に照らされながら、ひ

と時も同じ表情を見せぬ川。

 一瞬でさえ同じ物ではない水の流れ。

 しかし、川は、常に変わるからこそ、川なのであった。常に変化し続け、それでこそ同じ川なのであった。常に変わりながら、しかし変わる事によりそれは同じ物と見なされるのだった。

 それは、当たり前の事であるが、よく考えれば、その意味が分からなくなる不思議な話であった。

 変わる事が続く事を作っているのだ。変わるものがなぜ同じ物とされるのか? それは、考えれば、考える程にわけがわからなくなる話であった。

 君は、その夜、キャンドルの光の瞬きと瞬きの間、変わるからこそに続く、その不思議にはっとして、その意味を考えかけたのであった。

 しかし、踊り疲れた君は、そんな面倒な思索をそのまま続けることはできなかった。今まで何を考えていたかも、すぐに忘れた君は、川岸の大きな石に腰を掛けて、足を踵まで水の中につけながら、ただぼんやりと夜の川を眺めていたるのだった。

 キャンドルの光の揺らめく川の向こう岸では、ビートの無い電子音が流れる中で、十数人の人々が音の中を漂うかのように踊っていた。その様子を眺めていると、とても気持がちよかった。

 君は、なんとも、幸せで、満ち足りた気分になるのだった。まるで満腹したときのような、満足した気持ちが、君を眠りに誘う。

 そんな心地よく、暖かな気分に捕らわれて、君は、耐えきれずに、このまますぐにでも寝てしまいそうだった。

 ――いや、もちろん、君は、今、寝てしまっても別に何も構わないのだった。なにしろ、君は、もう十分に踊っていた。楽しんだ。昨日の夜から続くパーティでは、途中ちょっと昼寝をしたくらいで、今まで、次の真夜中過ぎまで、休まずにずっと踊り続けていたのだった。

 体はもう身動きできないほどに疲れ果ていた。対岸から流れて来る気持ち良い音楽を聴きながら、このままその辺に横になって寝るなら? 

 ……それも悪くない。

 むしろ、今日この後のベストな過ごし方であったのかもしれない。

 君はそんな風に思わないでもなかった。

 しかし、君はどん欲だ、その日は、湖畔のあちこちで様々なパーティが行われている大イベントの最終日なのだった。

 滅多に無いそんな機会ならば、君は、少し無理をしてでも踊り続けよう、――面白そうなパーティの梯子をしようと思っていたのだった。

 だから、君はひどい眠気に襲われながらも、さっきから何度もそれに抵抗する体を、無理矢理に立ち上がらせようと努力をしていてた。

 腰を少し浮かせては、そのまま立ち上がろうと心を奮い立たせるのだけれど……。

 しかし、疲れた体は思うようには動かない。

 君は、そのまま、ますます朦朧とした意識の中に沈み込んでいってしまうのだったが、


「あれ?」


 君は、いつの間にか、次に行こうと思っていた場所にいたのだった。川岸で眠りかけてから後、歩いた記憶は無いのだけれど、気がつくと君がいたのは、もともと、君が今日行こうとしていた目的地、――ヨットハーバーに作られたパーティ会場であった。

 ハーバーの管理棟の前の、広い桟橋の上で行われているそのパーティは、ちょっと離れたところから見ると、まるで人々が水の上で踊っているかのように見えた。

 それは、夢の中のような光景だった。なんだか現実感がないふわふわとした様子であった。目の前の風景は、まるで映画を見ているかのように思えた。スクリーンに映る幻影のように思えるのだった。

 音は、すぐ近くのスピーカーから鳴っているのに何処か遠くから聞こえているような気がした。やたらとはっきりとリアルに聞こえるのに、なんだか別世界ででも鳴っている音のように聞こえるのだった。

 君は、微睡んでいるような、半分寝ているような気持ちだった。

 君は、体を、――いや自分の心を、うまく認識する事ができなかった。自分と世界の境界がぼやけ、自分が世界そのものになっているような気がしてしまっていた。

 世界は自分の感情に合わせて動くように感じられる反面、同時に、下された神託のように反論の余地もない絶対で、全てが決まった通りに動いているようにも思えた。

 まさしく、夢の世界であった。そして、――夢の世界には、様々な色があった。サーチライトが湖面を照らせば、そこに浮かぶ、無数の、色とりどりの風船が、まるで無から出でたかのように、突然その姿を見せるのだった。

 君はその色彩の響宴を夢中で見ていた。色に心を埋め尽くされていた。様々な色が、それが現れるたびに、瞬間の煌めく感情を伴って、頭の中に塗られていくのだった。

 それは、夢のよう。

 色のある夢のような、ひどく鮮烈でありながら、どことなく現実味の無い光景だった。

 それは蠱惑した。君を誘った。

 ならば、君はこの色彩の中に飛び込みたくなる。

 その中に、夢の中に、飛び込みたいと君は切に願う。

 だが、目の前にあるのは夜の湖で、その暗き水の中に飛び込む程の勇気もない君は、いつのまにか岸辺のデッキの縁ギリギリに立ちながらも、そこから先には進めずにいたのだったが……。


「一緒に乗りますか」


 突然声をかけられ、君は振り返る。

 そこには男一人に女二人のグループがいた。

 その三人は、この夜の湖に漕ぎ出す気なのか、大きなゴムボートを横にして、みんなで支えながら立っていたのだった。

 その中の、男が言った。


「あなたがずっと湖を見ていたんで、あの中にいきたいのかなと思ったんです」


 確かに君は湖をじっと眺めていた。あの風船のあるところにいけたら素敵だろうなとは思っていた。

 とはいえ、いきたいとは言っても、流石に夜の水の中を泳いでまでいこうとは思っていなかった。

 ……が、――なるほど。

 君は思った。ボートでならいってみたい。

 岸からライトで照らされた水面は明るく、またライトの届かない所でも満月でそれなりに明るい。これならば夜のボート遊びも危険は少なそうに君は思えたのだった。

 君は頷き肯定の意を返す。

 君らは早速湖にボートを浮かべ、夜の湖に進んだ。

 それは、危なげも無くい、スムーズな出発だった。

 ボートは、それは川下りにでも使いそうな、丈夫な、十人ぐらいは乗れそうな大きなものだった。しかし、むしろ、大きすぎて、

「このボート、三人だと収まり悪いかなって思って、誘ってみよっかって」

 確かに、二列の椅子が付いているこのボートだと、三人だと微妙にバランスが取りにくいかもしれなかった。――でも四人ならなんとか。なので三人は君を誘ったのだろう。

「それにこの子があなたが気になるみたいだから」

 でも、理由はそれだけではないようだった。

 君は、今言われた「この子」の方を見ると、

「迷惑じゃなかったですか」とその女が言う。

「そんなわけは無いよ」と君が答えると、

 安心したように息をつく女。

「こんなのに乗せてもらえて僕はラッキーですよ。迷惑だなんてそんなわけないですよ」と笑顔で君。

 すると、それを見て、にやりと笑った男は、

「じゃあお言葉に甘えて」と言い、君はパドルを渡される。「男二人が力仕事は頑張りましょう」

 君はそれに頷き、受け取ったパドルを漕ぎ始める。それを見て男も頷き、漕ぎ始める。そして、ボートは夜の湖を進み出した。


 君と男の漕ぐ息はぴったりだった。

 なぜなら、君らは、流れるビートに会わせてパドルを漕いだのだった。

 最初は四拍で一回、次第に二拍で一回。

 曲が早くなれば早く、遅くなれば遅く。色鮮やかな風船の中を、光の中を。そして船は行く。

 ボートは、まるで花畑の中を進んでいるかのようだった。

 赤い花、青い花。様々な花の中を、君らは、音に合わせて進んでいった。

 同じように夜の湖に乗り出した、足こぎボートに乗るカップルに手を振りながら、君らは風に吹かれて飛んで来る風船の固まりの中を抜けた。

 夢のようだと岸から見た、色とりどりの風船の浮かぶ湖は、そこに行って見ても、やはり夢の中のようだった。モノクロの夜の世界の中にはっと浮きあがる色彩。回るサーチライトに照らされ突然現れ消える。

 夢の花。その中を動く君たちは夢の胡蝶だった。花から花、色から色へと渡り歩く。笑いながら夢中で進む、我を忘れ進み続ける。どこまでも。そして、いつの間にか岸を遠く離れ、暗闇の中、――漂う。

 君らはもう漕ぐのをやめ、波に流されるままだった。君らは、パーティの音も遠く、小さく聴こえるだけとなった湖の真ん中にいた。星々の中にいた。

 君らは、湖面に映る宇宙の中にいた。その中に浮かんで、さざ波の水面に映る月の上に、その都を探して、何も見つからず悲しければ、何とかそれを見つけようと目を凝らした。

 しかし、そこにあるのは神の消えた世界の鏡像。

 君らもその中の住人となり、揺れる。それは、まるで自分の心が揺れているようでもあり、君を悲しいとも、心地良いとも判別がつかないような微妙な信条の間で揺れ続けさせる。

 それは、不思議な魅力で君を捕らえる。君は、自分のぼんやりとした影を睨みながら、その平面の中の自分の事をいつまでも考え続けてしまう。

 すると、

「難しい顔してますね、何か困った事でもあるのですか」

 と同乗の男の声に我に返り、

「いや何か特別の事は」

 と君は答え、

「そうですか。それならば良いのですが。一緒にボートに乗ってもらって、無理矢理になってなければ良いのですが」

「いや楽しい航海ですよ」

 と続けるものの……。

 ――君は振り返り、岸のパーティの様子とその周りの湖面に浮かぶ風船がライトで照らされるのを見る。

 確かに、そろそろ帰りたくなってきたのも事実だった。

 水面を駆け抜ける風は心地良く涼しく、それに乗ってやって来るパーティの音は君をリラックスさせてくれたけど、このままでは気持ち良さ過ぎて、ここから動く事が出来なくなるのではと思えたのだった。

 なので君はその事を三人に伝えようと思ったのだった。けれど……。


 君は月を見上げながら、女の差し出してきたグラスを受け取った所だった。

 そこは大きな船の甲板だった。

 一瞬前まで乗っていたゴムボートとは桁違いに大きな遊覧船だった、それが一隻貸しきられてパーティの会場になっていて、――君はいつの間にかそこにいたのだった。

 君は、そこで、夏の夜にふさわしいような哀愁を帯びたトランスミュージックのかかる中、何事が起こったのかも分からずに、ただ呆然と、差し出されたグラスの中の酒に口をつけるのだった。

 甘いラムでつくったカクテルだった。

「ダイキリかな」

 と君が言う。

 すると、女が、

「……バカルディよ。バカルディのラム使ってるならバカルディって言うの。私も今バーテンの人に聞いたのだけれど……」

 君は頷きながら一気にグラスの中身を飲み干し、今自分が置かれている状態に戸惑いながら言った。

「いやそれよりも――ここって何処なんだろ」

 すると、女が答えた。

「ああ、私達が出た岸から見たら、今は湖の反対側みたいよ。……ほらあの微かに見える灯りの辺り」

 君は、「何処」と言う言葉で、この船は何なのか、その上になぜ自分がいるのかを尋ねたつもりだった。

 しかし、女はここは「何処」と言う質問は船の今いる場所の事だと思った様だった。

 つまり、女に取っては、君らがこの船の上にいるのは、説明するまでもない当然の事なのだった。その事について、質問がなされるようなものではないと言う事だった。君らがこの船に今乗っている理由、それを君は知らないが女は知っている。そして女は君も当然それを知っているものと考えている。そう思って、女は話しているのだった。

 それに、――その事に気付くと、君はもやもやとした気持ちになった。女が、知っていて、自分が知らない記憶の欠落があるのだと思うと、その時に何が起きたのかと、君は居ても立っても居られないような気持ちになった。

 ならば、君は、それを、聞こうと思って口を開きかけるのだが、

「まったく、ちょうどこの船が通りかかってくれて助かったわよね」

 女もグラスの中身を飲み干すと、君から特に尋ねなくとも、ちょっと前に君らの身に起こった事を語ってくれた。

 それは、言われれば、うっすらと、その記憶があるような気持ちもしてしまうような、――まるで色の無い夢、――思い出す。それは淫夢であった。

 君らは、ボートの上、一面の星空の下で重なりあい、互いをまさぐり合っていたのだった。暗闇の湖面で星を見てるうちに良い気分になって、君らは、そのまま、――セックスを始めたのだった。

 遠くで聞こえる音楽をよりも、生々しい、粘液と粘液が混ざり合う音がしたのを思い出した。

 声が漏れた。舌が細かく動き、軽く噛まれた瞬間に絶頂に達した。

 しかし、まだそれは続いた。相手を変えて、再び絶頂が来た。

 君らは、さらにまさぐり合い、混ざり合った。 

 君は、女同士がいやらしく見つめ合うのを見ながら、体を激しく揺らしていた。

 もう一人の男も、負けじと女を激しく揺らしていた。

 揺れるボート。

 激しくロールして……。

 ――バドルが落ちて流れていく。

 再び絶頂を向かえる君ら。波打つ湖面。乱れる星空。

 遠ざかるバドルに手を伸ばすが、それは次第に離れていく。

 そして、


「タイミング良く、この船が現れるなんて本当に奇跡ね」


 近づいて来た、船に向かって君らは懐中電灯を振り、声を上げる。

 ――そうしてこの船でやっているパーティに、君らは入れてもらえる事になったのだった。

 まったく――偶然の――できすぎた話。夢のような、甘美な冒険談だった。

 本当にそんな事があったのか?

 君は、それを、言われればあった事かもと思えたが――本当の事だと確信できる程にはしっかりと思い出す事はできなかった。

 それは、女の話によると、ついさっきの事であるはずなのに、遠い昔の事であるかのようにさえ思えた。

 幼少期の、詳細が思い出せない記憶のような、……いやそれよりも前。生まれる前の記憶のように感じられた。

 ――夢のよう? 夢なのではないか? でも女も同じ夢を見た?

 君は、答えの出ない、問いをぐるぐると繰り返した。

 これは、本当の事なのか、そうではないのか?

 それを、どちらかと言えるような根拠を君は自分の中に見つけられなかった。

 君は答えを持っていない。

 ――しかし、君は思う。

 答えを持っていないと言うのは、逆に、疑う根拠も持っていないと言う事だ。そう考えれば、君は、記憶よりも言葉の方が本当の事のように思えていく。

 女の言う、それが事実であるように思えて来る。

 いや、でも……?

 君は分からなくなった。君は、目眩を感じる。君は混乱する。

 君は自分を疑ってしまったのだ。

 自分で、自分がわからなくなった。

 自分で、自分を失いかけていたのだった。

 ならば、君は正解を与えて欲しかったのだ。

 君は女の言う事が事実なら、――それでも良いと思えて来たのだった。

 なぜなら、君は魅惑された。

 なぜなら、それは、甘美な夢の中にではなく、今その場にあった。

「さっきは、……湖の真ん中でどうなるかと思ったけど。でも、こんな素敵なパーティに来れたんで結果的には良かったかな?」

 艶かしい体を一歩近づかせ、上目遣いで君を見つめながら、女が言った。その時に、鼻孔に入ってくる、女の匂いと、若草のような湖の水の匂い。

 そして、甘い酒の匂い。

 匂いが、疑いを忘れさせた。

 いや、むしろ疑いが、淫靡な思いを増した。

 君は、自分が興奮しているのを自覚する。

 そして、それに気づいている様子の女は、君に、さらに、胸が当たるくらいまで近づく。

 君がどぎまぎしているのを見て、女は、さらに押し付けるようにして身体を密着させると耳元でささやく。

「後でまたみんなでしましょ」

 女はそう言うと、君の分のグラスも持って、バーカウンターに行き、自分のグラスと一緒に返すと、そのまま甲板で踊り狂う人達の中に入り踊り始めた。

 君は去って行く女の後ろ姿を見ながら、彼女の裸を思い浮かべていた。君らは、船尾の人気の無い、物置に囲まれた一画で、長いキスを終えて見つめ合っているところだった。

 興奮した君は、強く抱きついたまま女の体をまさぐると、女も興奮した様子で君の首筋を強く吸い始めた。

 君はそのまま、抱き合ったまま、女の来ていた絞り染めの麻のワンピースを裾からまくり上げて脱がす。

 すると、その下には何も着ていなかった女はその生まれたままの姿を月光に照らされて、妖しくも美しい。

 その姿に。君は、一瞬次にする事を忘れ止まってしまうのであるが、――女の方が進めてくれた。女は興奮する君の短パンのファスナーを外す。船の前の甲板から歓声が聞こえる。……


「ねえ、こっちこないの? そろそろ踊らない?」


 君は我に返り、女が君に向かって手を振っているのに気づいた。

 その横には残りの二人がいた。女が何事か二人に耳打ちをすると、それを聞いた二人は振り返り、君を見て、こっちにやってくるように手招きをした。

 しかし、君が身振りで、バーでもう一杯酒を取る事を伝えると、三人は大きく頷いて親指を立ててニッコリと笑う。

 その爽やかな笑顔に、君は一瞬前に、何だかやたらとリアルな妄想をしてしまった自分が恥ずかしくなった。

 あの女の話だと、君らは、さっきまで湖のど真ん中で、正にそんな事をしていたと言う事なのだが、――それは本当の事なのだろうか?

 それは本当に起きた事のようにも思えるのだけど、しっかりと思い出そうとすると、細部がはっきりとしなくて、嘘くさく思えてしょうがなくなって、本当に起きた事とは思えなくなって来る。

 女は、湖の途中で記憶の飛んだ君の事をからかって面白がっているだけなのではないか。君はそんな風にも思えて来た。

 でも何のため? わざわざそんな話でからかう事をして面白がっている様子にも見えないが。……

 君は、迷い、混乱する。

 しかし、調度その時、ドラムロールが始まり、歓声が上がった。

 君は、それを見て――その甲板の盛り上がる様子を眺めて――答えのでない問いについて考える事をいったん止めた。

 なにしろ、そんな事よりも、今、目の前で起きている事の方が面白そうだったのだ。

 ――船上のパーティはずいぶんと盛り上がっていた。

 湖には不釣り合いな程大きな、まるで外洋にでも出るような客船の広い甲板に、そこからこぼれ落ちそうな位に人々が集まり、踊り狂っているのだった。

 それも当然だった。満月の夜空の下、爽やかな風の吹く水面に揺られながら進む船の上で踊る。――これ以上のシチュエーションがあるだろうか。

 人々は踊り、歓声を上げ、パーティを楽しんだ。君は、偶然にも、今日もっとも望むべき場所に行き当たったのだった。君は、その幸運を喜び、早くその仲間に入るべきなのだ。

 だが、君にはまだ、なんとなく、心に引っかかるものがあるのだった。

 何か違和感があった。

 この素敵な熱狂の中に入る事を妨げる異物がこの幸せな光景の中にあるのだった。その異物が、君がこのパーティの中に入る事を思い留まらせていたのだった。

 ――いや、その異物が何なのかは直ぐに気付いていた。異物が何のかは何の疑問も無かった。

 異物。それは、君の今いるバーで、すぐ横に立つ白髪の男だった。

 この素敵なパーティの様子を、そこから物憂げな表情で見つめる男だった。

 男は、この幸せなパーティの様子からひどく浮かんで見えた。

 暗く、不満げだった。空間がそこだけ暗く落ち込んでいるように見えた。それを見て、君は不思議に思ったのだった。

 こんな楽しいパーティの中、男は何故そんな表情なのか?

 男は、憂いている、飽いているかのような様子だった。男は、完璧に見えるこのパーティの中の唯一の違和感であった。

 君は、そんな男の事は無視をして早く踊りに加わりたいとは思うのだが、完璧に見えるこのパーティの中の唯一の違和感である彼の事がどうしても気になるのだった。

 その違和感をもったままパーティを楽しむのは、この完璧な状態を壊してしまうように思えたのだった。

 なので、迷っているよりも、それを直接確かめようと思い、バーテンダーにギムレットを頼みながら男に一歩近寄ると、

「あの……」

 楽しみを楽しみともう感じられなくなったかのような、憂鬱な表情で夜空を眺めている白髪の男に、君は話しかけたのだった。

 男は、すると、相変わらずのつまらなさそうな表情で振り返った。

 君は、その仏頂面に少し躊躇するが、しかし、男の様子に拒絶の様子は無く、むしろ君に話しかけて欲しそうにさえ見えた。

 ならば特に前ふりの会話も無く、その表情のわけを君は聞く事にする。

「なぜあなたはこのパーティをそんなつまらなそうな様子で見ているのですか。何か気になる事があるのですか」

 男は、君の問いに、すぐに答えて言う。

「気になる事があるのかだって? そんな話をして来るって事は君だって分かってるんだろ」

「いや分からないんですけど、やはりなにか気になるんです」

「いや君だって気づいてるはずだ。でもそれを認めたくないだけさ」

 認めたくない。

 君はその時にちょうどバーテンダーが手渡して来たカクテルのグラスを受け取ると、それを飲みながら男の言った言葉の意味を考えた。

 何を認めたくないんだろう。君が既に分かっていると言うのに認めたくない事。 

 しかし、それが何なのか、考えても思いつかない君は、もう一度その意味を男に聞こうと口を開きかけるが、

「――聞いちゃだめだ。聞かれなければ知っているが、聞かれると分からなくなってしまうものって世の中にはあるだろ」

 男は君に向かって親指を立てながら言った。

「お前ならまだ間に合うはずだ。頑張れ……」

 そして、男は寂しそうに笑い、丁度彼を呼びに来た妙齢の女性に連れられて甲板から船内の暗闇の中に消える。

「あなたは……」

 君は男を呼び止めようと一歩踏み出すがその足を止める。

 なぜなら君は驚いてしまったからだ。

 その瞬間の男の姿、――暗闇の中に消えかかった男が自分に見えたのだった

 歳も、姿形も違うが、なぜか君そのものに。


 ――聞いてはいけない。


 ――触れてはいけない。


 聞いたら、触れたら、彼は君ではない事が分かる。

 しかし聞かなければ、君はこの男を君と考えるのならば?

 ――君は、君がすべきことができる。

 だから、君は逃げ出した。

 この船から。余りにも心地良く去り難いこの場所から。

 後ろ髪を引かれながら、とても後悔をしながら。

 この心地よい船に乗ったままこのままずっと楽しもうと、しつこく説得して来る心の中の君を振り切って、――逃げ出した。

 君は、君を欺く表面を突き破って、無意識の中に。この世界の表面からその奥に、君は逃げ出した。

 君は湖に飛び込んだ。

 叫びながら、水の中に、世界の裏側へと飛び込んだ。

 そうしたならば……。

 飛び込んだならば、――物が、圧倒的な物が君を包んだ。

 冷たい水の中に君は沈みつつあった。

 物の中に入り、君は物そのものになっていった。意識を失い……。


   *


 君は、拍手の音に目を覚ました。

 それは対岸のパーティから聴こえて来ていた。君は寝ぼけ眼でそれを見ながら、丁度、パーティが、今終わった所なのに気付いたのだった。

 パーティが終わるところ? すると、――君は、あれから、河原に座りうとうととしてしまってから、ずっと寝てしまっていたらしい。

 足が冷たかった。君は、寝てる間ずっと水の中に入れていたようで、――冷えきった足を、そこから出しながら大きなくしゃみをした。

 夜はとっくに明けて、太陽はもう天頂近くに輝いていた。やはり、君は、次のパーティ会場に行こうと思いつつ、河原に腰掛けたら、そのままここで寝てしまっていたらしかった。

 川の中に置かれたキャンドルの殆どは、溶けきって小さくなり、川の水をかぶって消えていた。

 やはり、君は随分と長い間ぐっすりと、ここで寝てしまっていたようだった。相当疲れていたのか、硬い石の上に座り寝ていたのに、途中で少しも目を覚まさなかったようだった。

 君は、ここに腰掛けてからの、夜の間の事は何も覚えていなかった。

 夢も、もしかして見ていたにしても、すっかりと内容を忘れてしまっていた。

 しかし、ぐっすりと寝たにしては、すっきりしない寝覚め、背筋に寒気が走るような変な感覚があった。

 脇や手のひらに、冷や汗もかいていた。何か、奇妙な感じがした。

 夢? ――なのかどうかは分からないが、君は、夜に何か奇妙な体験をしたような気がしてならなかった。

 しかし、それを思い出そうとすると、近づこうとすると、脆弱な、あぶくのように虚ろに漂う。その記憶は弾けて消えてしまうのだった。

 何も思い出せない。何も知らない。

 思い出そうとすると、それに近づけば近づく程、磁石の同極をあわせようとする時のように、その記憶はするりと滑って何処かに行ってしまうのだった。

 それでも、君は何度かその記憶を、曖昧な痕跡でもよいからと思い出そうとした。心の中で、ゆっくりと近寄り、そっと手に取ろうとした。

 こっそりと近づき、その淡い水色をじっくりと眺めて見たりもした。

 だが、結局、どうしても何も思い出せないので、君は、その妙な寒気は、一晩足を小川に浸けていて身体が冷えきってしまったせいだろうと思い、足を日に照らされて熱くなった河原の石の上に置く。

 すると、しばらくたって暖まって来た足の指先がひどく気持ちよい。

 君は、ほっと一息つき、和やかな気持ちになりながら、川の流れをまた眺め、またうっかり眠ってしまわないようにと、君は立ち上がり歩き始めるのだった。

 そして、川の流れに沿って、流れ、歩く、君は君を思ううちに、また次のパーティを見つけると、そこでまた踊り始めるのだった。

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