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永遠

 ドアを開けて、強烈な音圧に包まれた君は思わず一瞬立ち止まった。そこにあったのは、――ドアの向こうにあったのは、入るものを拒むかのような熱狂だった。君は思わず気後れをして足を止めたのだった。

 そこにあるのはひとつの塊であった。満員電車以上に混雑したダンスフロアだった。人々がひとつとなって、叫び、踊っている。それは入り込む余地の無いような密集、――塊。

 人々は互いに強く結びついていて、まるで鋼ででもあるかのようだった。叩けば瞬間でフロア全体に振動が伝わる、集団はそんな理想的な剛体としてここにあったのだった。

 音への反応は、一拍のズレも無くフロア全体から返って来た。レゾナンスのかかったベースの音。コンプレッサーのかかった荒々しいドラムの音。まるで宇宙人の為に作られたかのような奇妙なシンセの音。その一つ一つに、フロアは塊となって反応を返した。

 そこにあるのは個々の――個人個人の――集合ではなかった。それは集合でなく一つの物、まるで一つの生き物ででもあるかのようだった。

 集団が一つの意思を持っているかのようであった。人々が互いに密に結びつき、感情をフィードバックする、共振する熱狂であった。

 人の密集したフロアは、踊るどころか自由に身体を動かす事もままならないほどで、とても、快適な状態とはいえなかった。エアコンも十分では無く、暑く、息苦しかった。

 人々は押し合いへし合い、身体がぶつかり、その顔には少しイラついたような表情が浮かんでいた。

 ここには、気持ち良さも、高揚も、感動もなかった。普通の意味での音楽の楽しみは無かった。あるのはヒステリー気味の、やけくそとも言えるような、激しい情動の発散であった。それは、普通であれば、ひどく辛い体験となるはずであった。

 しかし、こんな場所でしか起きない、この場所でこその世界の変容があった。逃げようもなく結びついた人々が、ぐっと近づき、心の核を触れ合わせる事でのみ出せるエネルギーがここに満ちていたのだった。

 日常の延長にあるのでは無い、断絶された、世界の裏側から取り出したエネルギーがここにあった。そして、それは――意を決して群集の中に入ってみれば――あっという間に君の核とも融合を始めた。

 君はたちまちに熱狂した。フロアの真ん中に少しだけ空いていた空間を偶然見つけ、そこで踊り始めたら、――あっという間だった。

 君は、すぐにこの塊の一部となった。君はこの濃密な音の満ちる閉じられた空間の中に、あっという間に混ざり込んだのだった。

 体が押しつぶされるような音圧に、歪んだバスドラムの音に、君は、心も身体も叩きのめされた。しかし、叩きのめされれば叩きのめされる程、それを、その刺激を、激情を、求め、君は悲鳴のような絶叫を上げた。

 まわりの人々もそれに呼応して――いや君が呼応したのか、――激しい叫び声を上げた。禍々しくも豊穣な空間であった。激しい音に打ちのめされ、しかし、それが君らを鍛え、硬い鋼に変えた。君らは、強く、激しく、叫び、踊った。君らは固く結びつき、一つになって揺れた。

 満杯のフロアであった。これ以上は詰め込めないと言うくらいに人が入り、転び、尻餅をつくようなハプニングも許されない。――少し動けば周りの誰かに当たるような混雑の中、君にできるのは、一体となったフロアの中で、その一部としてなる事だけであった。

 ――つまり、熱狂の一部となる事だけであった。

 君は、瞬く間に熱狂そのものと化したのだった。君はこのフロアに現れた巨大な鋼の無個性な分子となって、意思よりももっと原始的な感覚で反応したのだった。

 極限まで鋭くなった君の感覚は、瞬間の共感を君にもたらしたのだった。押し込められ、鋭敏な反応を返すフロアの人々が一体となって、一つのの物質となる。君は、DJの作り出す、まるで異星人の音楽のような奇妙な音の連続に、他の人々と寸分の遅れもなく絶叫するのだった。

 音が割れる寸前まで歪んだバスドラムの音に、神経を逆なでするような電子音。素早く、次々に切り替わっていく曲は、心おだやかに聴くことができるようなものは一つもなかった。どれもが、激しく、扇動的であった。鳴り響く爆音は、君の気持ちをひどく荒ぶらせるのだった。

 フロアは酷く暑苦しく、混み合っていて、不快で逃げ場も無かった。その中で、痛みさえ感じる、耳障りな大きくこもった音が君を追いつめる。――悲鳴があがる。しかし、それは歓喜の極限での悲鳴だった。

 その時、――カットインされたピアノの音に、君は、自分も声の限りに叫んでいるのに気づいたのだった。続くのは、音割れ寸前まで歪んだバスドラムの音。激しくうねるベースの音。そしてまた聞こえる印象的なピアノのフレーズ。

 このフロアの全員が待ち望み、それに備えていた曲が始まったようだった。人生の変わる時、――そんな時が来たのだった。

 揺れた。フロアがひと固まりとなって叫んだ。様々な人々が、その内に抱える様々な波が、合わさり、大きな波になる瞬間だった。それは、宇宙の始まりから、あらかじめ決められていた出会いだった。

 太古に別れた感情どうしが、約束された出会いを果たした瞬間だった。君は、それを目撃した。君は知った。離れ難く結びつく、この瞬間が、瞬間でこその永遠を持つ事を。永遠がここで溶け出した事を。

 君は見たのだった。飛び交う電子音の中、その音の中に様々な世界を見たのだった。世界が音になり、音が感情を呼び、それは君に伝えるのだった。それは、言葉ではない何物かで君に語りかけるのだった。言葉以前の、感情が会話をする。つまり、揺れる感情と感情が、世界と世界が、重なり合ったのだった。

 波と波が合わさった。新しい音ができた。その音は、新しい大きな感情を創った。君が君のままで、君の感情を持ち、そこにある。しかし君は大きな感情そのものでもあり、君は、今、その不思議の中にあった。

 君は、ちょっとした矛盾の中にいたのだった。君は、自分でありながら自分でない何物かであるのだった。君は、君でない何ものかとして、君自身を見つめているのだった。

 君は奇妙な、むず痒いような感覚に捕われた。自分を見つめている自分を自覚すれば、それが自分になるのならば、それを見つめる自分がまた現れる。この繰り返し、この再帰、――その迷宮の中に迷い自分が消えてしまう気がするのだった。

 でも、心配はいらない。飛ぶ矢がゼノンの矛盾を孕んでいても、いつか的に当たるように、――亀はアキレスに追いつかれるように、君は、踊り、叫ぶなら、確かにそこにあった。

 君はあった。何の迷いも、疑問も無く、踊るその身体は、――いた。そこにあった。君は見た。君自身を見るその視線がつくる自分が踊る。君は君自身を見た。

 君は、叫ぶのだった。そして、パーティは進む。

 熱狂が熱狂を呼ぶ。繰り返す。それは激しく、辛く、しかし素晴らしかった。

 君らは、このままいつまでも爆発し続けていくかのように思えた。フロアを揺らすエネルギーは、永遠につきないものであるかのように見えた。

 ――叫んだ。

 君らは、見えないエネルギーを、現実の裏側より取り出し続けた。

 君らは爆発しつづけた。君らの宇宙は、幾何級数的に広がった。

 熱狂は、熱狂を呼び続けた。それは終わりが無く、そのままいつまでも続くように見えた。

 際限無く、限界を超えた熱狂が何度も何度も繰り返された。

 この宇宙は、無限の中に無限を孕みながら、どこまでも広がっていくように思えた。

 フラッシュライト。

 光があった。

 光が消え闇に包まれた。

 ――何度何度も、世界は、生まれ、消える。

 創造と消滅を繰り返す。

 その度に世界は少しずつその中に持つエネルギーを増しているように思えた。

 君が、君たちが、その内に熱量をため、宇宙に無限の可能性を与えていくのだった。

 宇宙が、琴線のごとく、君の人生を奏でる――その曲が始まる。

 すると、これ以上は熱狂しようがないと思えた君たちは、やすやすとその限界を超える。――相転移をして、そのひめられたポテンシャルを解放する。

 今夜最高の熱狂に包まれたフロア。

 そして、パーティは続く。


 いつまでも。


 いつまでも。

 

 しかし……。


   *


 いつの間にか、――もう午前四時を過ぎていた。

 一晩中、熱狂がずっと続いていたダンスフロアだったが、さすがに、パーティの終わりが近づき、始発ももうすぐに走り出す時間ともなれば、少し疲れたような雰囲気も漂い始めていた。

 今日の最後のDJは、ダラけ始めたフロアを盛り上げようと激しい曲をかけ続けていたのだが、それはむしろ逆効果で、もう帰りかけの連中を追い出してしまう結果となっていた。

 さっきまで、鋼のようにみんなを結びつけていた緊張がとけて、人々は、このフロアを覆い尽くした熱狂のを構成する一つの粒子から、ふらふらと自由にさまよう個人へと変わったのだった。

 ならば、人々は、音が激しければ激しいほど、その音に押し出されるように、次第にフロアから離れていったのだった。

 そうして、だいぶ空いてきたフロアでは、真夜中過ぎの一体感も何処へやら、人々はフロアを思い思いにふらつく余裕も出るのだった。

 今、人々は、それぞれが好き勝手に、それぞれの思いのままに、自分の世界を彷徨っているのだった。

 そして、マクスウェルの悪魔も眠りについた今、誰もフロアから去っていく者を止めることはない。

 エントロピーの法則のごとく、人々は、散り散りに、ポツポツと、いつの間にかフロアから去っていく。つまり、――もうそんな時間。祭りが終わる時間だった。

 君は、そんな時間に、フロアの端で壁に背を預け、ゆっくりと体を揺らしながら、ぼんやりとフロアを眺めているのだった。

 スポットライトがぐるぐると回ってフロアが明るく照らされていた。さすがにもう人々を躍らせることを諦めたDJの曲は、ビートのない、綺麗な電子音のアンビエントミュージックに変わっていた。その曲を聴いて、今日のパーティの終わりを悟ったフロアの人々は、足を止め、ただ光を眺めていた。そのまま、ただ心を音に任せていた。

 君も、そんなフロアをぼんやりと眺めながら、音の中に自分を漂わせていた。音に心を任せ、君は、――音そのものになっていっていたのだった。満ち足りた気分で終わりいくパーティーの余韻に浸るのだった。

 そして、最後の曲が終わる。君は、フロアに漂うその音をずっと追った。

 音は、どんどんと小さくなっていくけれど、無限に小さくはなるが、――終わることはないように感じられた。

 君は、消えゆく音の、残響に、その心地よい感傷に、自らを溶け込まそうとしていたのだった。その中に入り、永遠になろうとしていたのだった。

 もう、DJはブースから消え、――明るくなるフロア。

 周りから聞こえる楽しげな話し声。

 しかし、君は、音の残響を、その永遠を探していた。

 その音は、散り散りになりながらも、でもまだ微かにあちらこちらに残っているように思えた。君は、それを探して、歩き、フロアから出てラウンジに移る。

 君は、そのまま、窓際まで歩き、ビルの九階であるその場所から外を眺める。

 音は、すでにこの建物から出て、外に広がっていったように思えたのだった。

 なので、君は夜明けの繁華街を見下ろした。そこには、窓の外には、毒々しい街の姿が、ビルの九階から見える欲望の俯瞰があった。

 消えゆく音を探し、君はその街を漂った。

 様々な色と言葉に満ちた、様々な人のいき交うその街の姿がそこにあった。

 生々しい欲望に満ちた街であった。

 そこには、抗い難い実在、個物があった。

 そこには現実が、生があった。

 ビルの谷間ゴミ袋をあさる男の姿が見えた。

 路上に転がり眠る男の姿が見えた。

 女の背中ににしなだれかかりながら歩いてる、泥酔した男の姿が見えた。

 白髪の老人に土下座をしているガラの悪いスーツ姿の男が見えた。

 まだ肌寒い、三月の明け方なのに、はだけたコートの下は半裸の格好をした女が通り過ぎた。

 何もかも恨んでいるような顔をした少女が、世界を呪う言葉を呟きながら歩いていた。

 魔都の朝には、彼ら、彼女らの母なる大海である豊穣な夜から放り出され、乾いた現実に苦しそうにもがく、様々な人々がいた。朝の裁きを受け、人々は、今日も始まったこの世の煉獄を、浮かない顔をしながら渋々と受け入れるしかないのだった。

 そんな、夜明けの通りを、君は進むのだった。

 疲れた顔をした客引きの横を通り抜け、ピンクチラシのつまった電話ボックスを通り抜ける。

 君は、どうやらもっと先までいってしまった音を探して、さらに街を進んだ。

 夜が明けても、太陽の見えない。薄曇りの、スッキリしない空だった。

 雑居ビルから一緒に出てきた、太った男と腕を組んだ、けばけばしいドレスの女は、虚ろな目でその空を見上げながら、目の前を通り過ぎた君の気配に、不思議そうな表情になった。

 犬が吠えた。その飼い主らしい、リードを握った浮浪者風の男は、犬に向かって、夜に見たお化けの話をし続けていた。「ほら、まだいる」と、君のことを指差しながら言った。

 そう、君は、まだいた。君は、夜明けの街を、音を、永遠を探しくまなく歩き回っていたのだった。毒々しく鮮明な現実に取り込まれ、今にも消えそうなくらいに薄くなっていたが、君はまだこの世界にいて、――間に合った。

 君は、その男だった。

 君は、派手な赤色のダウンジャケットを来て、数人の友人らしき男女と一緒に道端に立っていた。

 君は、足を止め、今日のパーティの事を楽しげに思い返しながら、今日のパーティの会場のクラブのあったビルの窓をもう一度眺めていた。

 君は、今日のDJの作り出した音を、――その残響を体の中に感じながら、名残惜しそうに、路上に立ち止まっていたのだった。

 すると、

「もう、いくよ」

 声をかけられて、君は振り返る。

「今日は楽しかったね」

 と、そこにいた女が言い、君は頷いた。

 すると、

「でも、いいかげん腹減ったよね」

 女の後ろの男が言い、君らは、何か食べて帰るかと相談しながら駅の方向に歩き出した。

 君らは、ずいぶんと楽しげな一団だった。

 君はその集団の中の一人だった。

 君は、すでに、まさしく、その男だった。気の置けない仲間達と週末を過ごす、リラックスした様子の男だった。怪しげな早朝の歓楽街を歩く、ちょっとした異界探検に心をうきうきさせている若者たちの一人だった。

 君らは、夜の放蕩に疲れ果てた街の中で、周りから少し浮いた感じのテンションのまま歩いていた。君は夜に生まれて朝までにひどく年老いた街を歩いてた。

 君は朝日の下で明らかになった、闇と光の化粧の取れた、街の素肌に囲まれていた。

 道路に散らばるタバコの吸殻。水たまりに浮かぶ虹色の泡。薄汚れ、落書きされた建物の壁。

 君は、ふと一瞬垣間見た、そんな世界のリアルさに少し当惑した。背中に寒気のようなものが走り、――畏敬の念のようなものを感じた。

 しかし、君は、すぐに忘れる。仲間と歩く楽しさにその違和感を忘れたのだった。君は、仲間と一緒の安心感を感じながら。薄ぼんやりとした目で、街を見た。

 そこには、君の日常へと続く街並みがあった。このまま、駅に向かい電車に乗り、日常に、アパートに帰るための、その道を君は歩くのだった。

 そんな道路の端を、君を追い越して、ネズミが走り抜けて行く。そして、そのネズミは、客引きの音楽にテクノをかけている早朝営業の風俗店の中に入っていった。

 君は、その様子を無意識に、じっと見つめてしまっていた。すると、それに気付いた後の女に、

「呼ばれてるわよ」

 と言いながら背中を叩かれて、

「そんなとこ行かないよ」

 と答える。

「そりゃ、お前、こんなとこ行く暇ないだろうな」

 前の男が振り返って言い。

 ――大して面白くもないこのやり取りにまわりは爆笑する。

 そして、少し頬を赤くする君の横ににいた女。

 君はそれを横目で見て、――目があって少し照れた表情になるが、この子がセックスの時に叫ぶ言葉を思い出してむらむらとした感情になっていた。

 君は、アパートの一緒のベットの上、女とたがいにむさぼり合った時の姿を思い浮かべていた。

 君は女の口の中にあった。

 その中に飲込まれた。淫楽の中に沈んだ。

 意識は、肉の中に埋もれ、他の事は何も考えられない。

 君は、飲み込まれた。……

 いや、――君は、道をそのまま歩き、仲間と一緒に駅の近くまで歩いて来て、早朝でも開いている居酒屋に入ろうとしているのだった。

 君は、通り過ぎる車を眺めていた。

 カラスがガードレールに止まって鳴くのを聞いていた。

 君は、自分でも意味がわからないままに、ため息をついた。

 その、なんの変哲もない光景が、なぜか、――妙に不安を煽るのだった、

 君は囚われていることに気づく。

 なので、その原因がわからない不安を気味悪く思った君は、それを探し、最近の自分の生活を振り返り、その中に見つける。

 しかし、間違う。

 最近の君の生活の変化。プライベートと会社で、だんだんと会社の比率が上がっていく中で感じていく、そんなちょっとした憂鬱を、君は不安の原因だと思ったのだった。

 ――こんな朝をいつまで君は迎えられるなのだろうかと、君は考えるのだった。

 音楽や映画、ファッション。そんな最先端の文化に詳しい高等遊民を気取っている自分が、少しずつ変わっていくことに感じる堕落。

 しかし引き換えにある、安定した生活の継続。

 その中で君はしだいに後者を選んでしまって行くようになっていた。

 そう言えば最近、会社も後輩達が入ってきて次第に責任のある立場になってきた。

 いつまでも遊んでばかりは……。

 ――ため息をつく。

 君は、そんな、どこにでもいる、長いモラトリアムを終わろうとしている男だった。

 そんなありきたりな現実を生きる平凡な男だった。

 君は、そうあり、そう生きた。

 ――そのまま生きた。

 その時に付き合っている子と別れた後、次に付き合った友達の紹介のOLと結婚し、二人子供を授かり、社会を中庸の徳をもって生きた。

 多少の浮き沈みはあれど平均的で、極端に華々しくもないが特に悪くもない人生を過ごす。

 ――君は、そんな男だった。

 若い時はいろいろ思うところもあったが、人々が支えあって作る会社や社会の大切さを次第に噛みしめるようになりながら、華々しくはなくとも、しっかりと着実に生きる。

 平凡だが正しい男として人生を過ごした。

 ――君はそんな男だった、

 会社人生も数十年もたって、最後の出勤の日、君を信頼し、一緒に苦難を乗り越えた若い社員たちに見守られながらオフィスを出て、思わず涙する。 

 定年後、家人には先立たれたものの、次女が生んだ孫娘をひたすらに可愛がりながら、地域貢献活動に、良い隣人としての老後を過ごし……。

 ――君は死ぬ。

 君は、郊外の自宅の庭木の手入れの途中で脳溢血で倒れそのまま帰らぬ人となる。

 君の死を悲しむたくさんの人々に見送られながら、君は焼かれ、空に煙が上る。

 君は散る。

 消える。

 君の平凡だが楽しくもあった、偉大な人生とはいえないが恥じるものでもないその生が終わる。

 美しくもなくとも、安定し、実直に生きた。

 それが君?


 違う。君は、そんな男ではない。


 君は慌てて窓から顔を離すと、なぜか自分の顔をすぐに確認してみたくなって、トイレに向かって走っていった。

 トイレは限界を超えた湿気のため、結露した水滴が床のタイルを濡らしていた。

 君は、そこにあわてて足を踏み出し、滑り、腰をしこたま打ちながら床に転げた。

 しかし、君はその床に叩き付けられた痛みよりも、早く鏡を見なければと言う焦燥感に突き動かされて。みっともなく床を這った。

 洗面台の縁を掴みながら中腰で立ち上がった。

 そして、立ち上がって見下ろした、洗面台にはゲロが溜まっていて、君は、慌てて、手をそこから離す。


「へっ、なんだい、あわててるね。俺は転んでないぞ」


「みっともねえなあ。ゲロくらいでビビるなよ」


「おいおい馬鹿にしちゃダメだって……」


 君の後ろで揶揄するような口調で話しながら、三人の男が笑い合っていた。

 それにひどく腹が立って、君は、そいつらに何か言い返してやりたい気持ちが、心の中で満帆に膨らんだのだったが、――今はそれどころではない。

 君は、確かめたかった。自分が誰であるのか。

 だから。君は、顔をあげ、目の前の鏡を見た。

 君は、それを見て、ギョッとして、一瞬目をつむる。

 が、――もう一度目をしっかりと見開くと……。

 しかし、そこには君の知らない男がいた。

 鏡の中の男は自分の知らないくたびれた中年男性だった。


 ――あれ、自分はこんな顔をしていたっけ? 


 ――こんな所にほくろがあったっけ?


 ――あれこんな男の事知らないんだけど? 


 君はビックリしながら鏡を見つめる。目の前の鏡の中の男の事なんて、君はまるで見覚えがないのだが、鏡の中の男は君だ。

 その男は、呆然としている君のことなど無視をして、洗面台へ唾を吐いた後、下品な悪態をつきながら、今日の飲み過ぎを悔やむような言葉を口にして、髪に水をつけて整えた。

 そして意味も無く卑猥な言葉を呟きながら、鏡に顔を近づけながら言う。

「なんだ、この醜いウンコ野郎」

 君は、自分を卑下して、それに少し喜びを覚えている男が自分であることにイラッとする。

 ――こんなはずではなかったと君は思う。

 君は、こんな男のはずではなかったのだった。

 君は、君のはずであった。

 鏡に映る男は、君が思う君とは違う誰かのようであった。

 しかし、念のため、目を瞑り、まぶたをこすって、もう一度目を開けて、見直しても、――やはり君はその男であった。

 悪態をついて、気が一瞬晴れても、その多幸感から元に戻る時の憂鬱とともに、君は自分がその男であることに思い知る。

 落胆し、溜息をつく。

 君は、もう、その男なのだ。君はそれを十分に知っていた。君はそれが自分である事、それが自分の生である事を知っていた。

 終わってしまったのだった。

 君は残滓なのだった。

 真面目に実直に生きた人生に入り込めなかった残りカスであったのだった。

 君はその事が分かっているが、――君は君として生きる以外どうしようもない。

 だから、 

「つまんねえし――もう、帰るか」

 と君はつぶやくと、踊るわけでもなくラウンジで管を巻いていただけの今日のパーティを思い出す。

 本心では、君はそんな自分を嫌悪する。だが、嫌悪している自分自身を認められないままに、その事をごまかすように、喉元まで出かけた言葉を飲み込むと、残った空虚を吐き出すように溜息をつく。

 ――もうこんなパーティに来ても楽しいわけでもない。夜通し馬鹿騒ぎをしても、それだけで楽しい歳でもない。

 君は、ただ、今さら他の事をやっていてもかっこつかないのでこんな場所にいるだけだった。楽しみと言えばせいぜい……。

 しかし、今日は女にも逃げられた。

「馬鹿にしやがって」

 その今夜の、君の失敗を思い出した君は、舌うちをして、醜く顔を歪める。

 君が業界の肩書きを見せながら話しかけた女は、最初は興味ありそうに近寄って来たのに、朝方にはいつの間にか彼氏らしき青二才が現れて消えていた。

「つまらねえ」

 君は、その言葉を、今日のパーティに対してなのか、自分に対してなのかも曖昧なままに言うと、振り返り、――そんな自分が今いるこの世界に向かって怒りをぶつけるのだった。

 その時、君は、世界の中で最も嫌いで、最も取り返しのつかない自分というもののつまらなさを呪い、そして、それを全てを人のせいにして、それ以上考える事をやめる。

 もちろん、君の人生のつまらなさは、全てが君のせいではなく、その人生には不運も、努力でもどうしようも無い物もあっただろう。しかしそれは、君の人生でしかないのだ。それが君には耐え難ければ――それを見る事ができなければ――君の人生は、つまらないだけではなく、生きているとさえ言えない。

 もしそうしたならば、君はこのまま、生きる事も無いなら、――死ぬ事もできず、澱のようにこの世の底に溜まるのだった。

 いや、まだ間に合うよ。

 君がこのまま振り返り歩き出せばそうなるはずだった。このまま立ち去った君はそんな亡者としての永遠を、世界の底で過ごすはずであった。

 しかし、君は、振り返る間際、もう一度鏡を見つめた時、鏡に映る自分を見て一瞬その動きを止めた。

「なんだこの醜い奴」

 君は、自分の醜悪さに思わずそうつぶやいた。

 すると、

「確かに、全く、ひでえ顔だ。全部人のせいにして、何もしようとしないで生きるとこんな顔になるのか?」

 鏡の中の男が答えた。

「はあ?」

「醜い奴に醜いと言っているだけだ。だいたい、お前がいった話だろ。――自分が醜いって」

 君は、一瞬口ごもり、

「……。うるせえ。お前に俺の事がわかって……」

 逃げるように言葉を濁しながら、振り返り、歩き去ろうとするが、

「なぜそこで思考を止める」

 鏡の中の男の声に足を止める。

「止める? 当たり前だろ」

「なぜ?」

「もう終わったんだよ」

「何が?」

「俺の人生だよ。――なら思考だって停止するってもんだろ」

 君は投げ捨てるように言った。

 でも、

「あんたはまだ生きてる」

「生きてる意味は無い」

「そうかな? 意味なんてあなたが勝手に決めた事だ」

 と鏡の男は問いつめるが、

「もう遅いんだよ。俺は運が無かったんだよ。上手くいっていたら今頃……」

「運が無かっただけなのか?」

「何が言いたい?」

「運なんて、結果の後に思い返して言う言葉だ。そこであなたの選択があったはずだ」

「悪いのは、俺じゃねえ。こんな不況が続いて、景気が悪くて……仕事が無くなっていったらどうしようも無いんだ。音楽なんてお遊びは最初に庶民のふところから削られてしまうのさ……」

 君はあくまでも言い逃れを続ける。

 だが、男は続ける。

「じゃあ、あんたは別の生き方をすれば良い。そんなかっこばかりつけて中身の無い人生でなく」

「もう遅いんだよ」

「遅いのはあなたがそう思ってるだけだ、――自分を見ないだけだ」

「うるせえ。悪いのは時代なんだよ。少し早く生まれれば俺だって……」

「でもあなたは、今いるのはこの時代だ。その中であんたは、あんたであり、生きているのは……」

「うるせえ」

「――あなたの生だ」 

 鏡の中の男に、君は問いつめられて黙ってしまう。

 しかし、どうも君には、まだ迷い、渇望があるようだった。

 ならば、まだ間に合うだろう。

 だから、

「馬鹿野郎!」

 君は――男は――叫びながら、トイレの隅に立てかけてあったモップを掴むと、雄叫び声をあげながらそれで鏡を叩く。

 すると、もの凄い音がして、鏡は割れた。

 ひび割れ崩れた鏡の後ろには、そこにあるべき壁ではなくぽっかりと空いた空洞があり、そこから、何か光りが漏れて来ていた。

 その光りに君は何かとても惹かれるものがあった。だから、君ははさらに何度も鏡を叩き空洞の入り口を広げた。

 いままで周りで男を好奇の目で見ていた連中は、目をそらし、その場から逃げるように駆け出した。

 それはそうだ、突然鏡を割り始める男などいたらあえて誰も関わり合いにはなりたくはないだろう。君をさっきまで嘲っていた男たちは、顔色を変えてあっと言う間に消えたのだった。

 それを見て、君はますます一生懸命に、鬼気迫る様子で鏡を割り続けた。

 この場には君を邪魔するものはいなくなった。しかし、もしかしたら、男たちはそのまま店員にこのことを通報して、男を取り押さえるために、何人かが駆け込んでくるかもしれない。そうすると、男がやりかけているこの逃亡は未完に終わってしまうかもしれなかった。

 だが、それは無用な心配だった。

 もう少しだった。もしかして、誰かがやって来るとしても、その前に、――終わる。君は最後の一振りを振り下ろす。

 鏡が粉々になって砕け散った後にはぽっかりと大きな穴が開いていた。そして、そこからはさらに強く光りが漏れて来ていたのだった。

 光はとても強く、まぶしくて先は何も見えなかった。その先には何があるのか分からなかった。しかし、君は迷わなかった。疑いも無く信じていた。するべき事を君は知っていた。いくべき場所に君は向かった。

 君、醜い中年男性は、洗面所にあいた穴に向かって、そこから漏れる光りに向かって飛び込んだのだった。

 迷いも、逡巡もなく、君はその中に入った。

 君は、虚の中に落ちた。君を、光りが包み、焼き尽くした。

 君は、男は、消えた。底の無い深淵に落ち続けるうちに、その灼熱の中に焼け尽くされたのだった。

 君は、その体は、消えたのだった。

 しかし、それで良いのだった。焼かれ、焼き尽くされ、消えて、虚無になる。

 しかし、それでこその無限の可能性として、君はあるのだった。


 ――君はあった。


   *


 君は、いつのまにかあの湖にいた。爽やかな風に吹かれ、心地良い気持ちの中、岸辺で、水面を、そこから赤くなりかけた空へ向かう飛び立つ白い鳥を見つめて立っているのだった。

 君は、呆然として、じっと湖を見つめていた。なぜ自分がそこを見つめているのか分からないまま、鳥が全て飛び立つまで、見えなくなるまで、夕焼けの空に円を描きながら次第に遠ざかる鳥達が点になり、そして完全に消えてしまっても、――君は、息をのんでその光景を見つめていたのだった。

 じっと、ぴくりと身動きもせずに。君は、ただ景色を眺めていた。そのまま、ただそこに、いるのだった。

 君は、ただ見つめていたのだった。そのままずっと、飛び立った鳥達の事も忘れ、空を見ていた理由を忘れ、でも君は、いつまでも、飽きもせず。ぼんやりと空を見ていたのだった。

 だから、――だからこそ、そこには君がいた。君は空でありゆえに全てだった。君が生まれた場所。世界の想像の秘密。その場所から君はまたこの地に降りたのだった。

 ――と、気づくと、いつまにか、遠くにバスドラムの音が聞こえている。

 君は、無意識に、音に合わせ体を揺らしていた。

 歓声。この湖畔のどこかで、ちょうどパーティの始まる所のようだった。君は、それに気づくと、地を揺るがし響くベースの音が聴こえると、いても立ってもいられなくなる。

 君は、振り返り、音の聴こえる方に向かって歩いていくのだった。 

 ――君は帰って来て、またここにいるのだった。

 つまり、君は、またパーティの中に戻ったのだった。

 それが果たして君に取って、何を意味するのか、知らないまま、――考えもしないまま、君は、新しいパーティを見つけると、その中に溶け込んで、また踊り出すのだった。

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