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赤鼻のトナカイさん

作者: 多奈部ラヴィル

 今は2015年12月25日、0時29分だ。つまり今日はクリスマスであって、昨日はクリスマスイヴだったわけだ。イヴ。それを人は大いに祝う。誕生のわくわくに誰もがじっとしていられないのだ。

 そう、わたしもだ。順ちゃんが買ってきたオードブルとチキン、ケーキをむしゃむしゃと食べて、順ちゃんが飲めない赤ワインを大いに飲んで、したたか酔っぱらい、今日はイヴであるからいいのだ、と病気のダイエット中のセキセイインコ、ポコちゃんに餌を多めにやったかと思うと、今度は、順ちゃんが来ないと刺す、と座った目で言ったそうで、ベッドに入った順ちゃんにしがみつき、

「誰が赤鼻のトナカイを笑えるってんだよお!」

と叫んだかと思うと、そう、なんとなく覚えている、エレカシのメドレーをやった。その後、順ちゃんにもなにか歌えと強要した挙句、ぼそぼそとクリスマスソングを歌う順ちゃんにしがみつきながら、少し寝てしまった。目をパチパチと起きると順ちゃんはそこにはおらず、インコのケージには何枚ものブランケットがかけられていた。今はわたしは父方のおばあちゃんの形見の、西川の毛布を膝にかけているので、去年まで使っていた、2枚のブランケットはセキセイインコに譲った。

 そう今頃、サンタさんも大いに、赤鼻のトナカイも大いに、それこそ張り切って、働いているのだろう。それは子供たちに希望を与えるためだ。うん、素晴らしい仕事である。尊いお仕事だ。


 本なんて、本など、読まなければ読まないほどいいのだ。芸術一般、それっていうのは生活に倦んだ時に接するものだ。倦怠の産物。それが本だ。だいたいにおいて家のマンションに住みついている猫たちは、どうやら本を読まない。それは生活のすべてが生であってそこには倦怠がないからだ。倦怠がない猫には、まあ、そこいら辺はよく存じあげないけれども、多分、文化なんてないように思える。本を読まない猫は尊い。生活に倦むということを知らぬ野良猫どもは尊い。生きる。生きていく。それが野良猫たちのすべてだといっていいのだろう。


 今日友人と論戦になったことをふいに思い出す。キンドルを買ったそうだ。まだ届かないそうだ。そして今までためらった「本を買う」という行為をこれで思う存分できると大変な喜びようで、わたしが「ふん、そんなもの」と発言したら、とても頑固で自説を曲げない友人は、

「読書とは人生を豊かにする」

と言い放った。わたしはそこで、なんせ論の立つべらべらしゃべる友人だったので、わたしはぼそぼそと、

「本、本なんていうのは、読まなければ読まないほどいいのだ」

とやっと言うと、

「読書っていうのは、とっても大切なものだわ。そう、人生を豊かにするんだもの」

とまた主張してやまず、

「どう、豊かになるの?」

と及び腰、

「だって、いろんな人の人生を体験できるじゃない?」

わたしは混乱をきたした。「そうなのかな?」とか「そうかも」とか思ってしまったのだ。つまりわたしの一瞬の怯みをつき、その友人は、話題を転じた。


 そして今日は珍しくテレビを見た。途中垣間見たに過ぎなかったからニュースの中の特集であったのか、ドキュメンタリーであったのかはわからないのだが、とにかくそこで「ひめゆり部隊」の語り部、その伝承者、戦争を知らない若者がひめゆり部隊の悲劇を伝承していくというものだった。わたしは単純に感動した。どうやら戦後70年になるらしい。わたしが覚えている「戦後〇〇年」というのは「戦後40年」からであるから、わたしも年をとったわけだなあと一抹の感想もやや混じったが、それはそれとして、その若い世代、その女性たちが、もう八〇代を過ぎたひめゆり部隊からの生存者に変わって、戦争、ひめゆり部隊の悲劇を語り継いでいく。尊い。そう思った。素晴らしい職業だ。わたしもそれをやりたい。

 それにしても「伝承者」としての「語り部」。これはちょっとした文化ではなかろうか。文化の割には有益じゃねえか。随分と偉そうな文化だな。随分と威張った文化だな。もしかしたら文化って偉いのかしら? そう、ちょっと思ってしまうのである。まあ、多くは語らぬ。


 そして職業と言えば、今天を、白い息を吐きながら、走っている赤鼻のトナカイさんだ。子供たちに、夢に過ぎないかもしれない、でも夢ではないのかもしれない、そんな宝物、「希望」を、吐く息が徐々に苦しくなろうとも、走って 配っている。そう悪童であってもよい子であっても等しく。それはコンプレックスまで武器にした、とても崇高な、走る「走る」っていう行為に見える。

いつもは笑われている赤鼻のトナカイさん。

いつもは笑われている赤鼻のトナカイさん。

けれど、そんなコンプレックスがあった故に、今日その赤鼻とトナカイさんには「役目」があるのだ。


 さてわたしが係る芸術。そいつはブンガク。これは呼吸にさえ役に立たないことで有名だ。でもわたしはさっき気づいてしまったのだ。わたしは赤鼻のトナカイさんと案外似ているのではないかと。己のコンプレックス、それは内緒だけれども、それさえむきになって、武器にして、駆けまわる。必ず、わたしの書くものを、活字を目で追って、読んでくれる人がいるっていうこと信じて。それが作っているわたしにはわからない理由であっても、読んでくれる人が必ずいると信じて。別に負けず嫌いで本を一生懸命読む人に、読んでもらいたいとも思わない。


わたしは人が見たなら滑稽だろう。冷えピタのヘビーローテーション。書いていると汗をかきます。考えていると汗をかきます。そうです。わたしは案外な悩む葦です。今はもうユニクロのヒートテック一枚でキーボードをたたきます。それがどうっていうわけじゃないっていうことも知っている。それが役に立たぬことも知っている。けれど倦怠が、倦んだその隙間、そのふとした隙間、それに入るサイズの光るもの、大きいかもしれないし、もしかしたら、目に見えぬほど小さい砂粒かもしれない、なにでできているのかもわからない。でもその隙間の、無益な存在であるがまま、役に立ちたいのだ。


そして時に人は痛烈にそれを欲しがる。そうなの。わかってる。本を読まなきゃいられない、そんな弱さ。人にだけある、そんな弱さ。本を読まない子供より、本を読まなきゃならない、オトナの方が、なんぼか大変か。そういう時がたまに訪れるっていうこと。たまには隠れたいと思うこと。本を読まなきゃやってらんねえって思う時があるっていうこと。心弱い人間の秘密を解き明かすとすれば、食べるとか睡眠とか、子孫をのこすだけでは、はみ出てしまう、なにか余ったもの、それが精神の世界に侵入してくることを。必要とすらするかもしれない。それはとても「慰め」という姿に似ていて、その、本を読み泣く人を、わたしは泣かないで正視できないのです。そう、駅のホーム。その端の方の冷たいベンチ、そこで本を開き泣いている中年の男性。わたしはあなたの味方です。あなたこそ尊い。


 どんな職業からも拒否をされ、コンプレックスはいろいろ。それは秘密のコンプレックス、無益だとは知っています。でも役に立ちたいのです。

 そうだ、なんの役にも立たないさ。カロリーでもなければ、女子に必須のビタミンでもない。けれど生活の倦怠を感じたなら、そこに隙間を感じ、空虚を感じたら、もしかしたら読んでくれるかもしれない。それを願って、今日もキーボードをたたく。


赤鼻のトナカイさんを誰が笑えよう?

赤鼻のトナカイさんを誰が笑えよう?

わたしは酔っ払って、何回も何回も叫んだんだそうです。

生活の倦怠。それは大きいため息だ。


心細い。なにをあてにしていいか、わからない。

病気のセキセイインコのケージを夫婦で覗き込む。そう、薬を飲み続けなければ死んでしまうブルーのインコと、片足がびっこの黄色いインコを飼っています。それを見ているとなんだか泣けてしょうがない。確かにこのポコちゃんときぃちゃんは神だ。けれどそれを見て泣く私と、それを覗き込んでは見てみぬふりのわたしの旦那。そう神より偉いのはわたしたちなんだ。

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