貴方は其処にいますか? 3
旅立一之三『『貴方は其処に居ますか? 3』
――お前は誰だ?
幸福も不幸も無く、ただ、一切は過ぎて行った。何にも無かった。何でも無かった。特に別に何にも無かった。特別に絶望するような悲劇がなければ、特別に胸躍るような喜劇もなかった。何かに心血を注ぐ情熱も、此処でない何処かへ行きたい夢もなかった。意志もなく、行く当てもなく、誰なのか解らず、それに対する疑問はなかった。自分には幸福も不幸もなく、ただ、一切は過ぎて行った。
――お前は何がしたい?
俺は何か凄い事がしたかった。例えば物語の主役の様に、闇を切り裂く聖剣を持ち、星を落とす魔法を唱え、騒がしい仲間を引き連れて、胸躍るような冒険をして、愛する誰かを救い、世界を滅ぼす魔王と闘うような、そんなありふれた夢物語。現実から逃げ出したいワケじゃない。子どもの頃からそうだったんだ。だから親や教師に成りたいものを尋ねられたって、応えられるはずがない。建物と建物の間を潜った先にある世界を、朽ち果てた廃墟に残された何かを、空から落ちて来るヒロインを、或は憂鬱な世界を踏み潰してくれる怪物を。俺は本気で望んだ。
だけどそんな事はありえない! 君の世界ではありえるかもしれないけど、俺の世界はそうなんだ。そんな事はありえないんだ。英雄や勇者を望めど、世界を滅ぼす魔王はいない。終ぞそんな事はありえなかった。望むものは絶対に手に入らなかった。だから俺は諦めた。「そうだったらいいのにな」と思いつつ、「けどそんな事はありえない」と思いつつ。
――お前は何処に居る?
そんなものだと言い聴かせてきた。皆、そうやって生きているのだと。妥協して、折り合いを付けて、誤魔化しながら生きているのだと。「俺は此処にいた」と描きたくなりながら、スーパーで慣れない接客業をする様な茫洋とした毎日さ。「自分の居場所は此処ではない」と、「この仕事が誰の役に立っているのだろう」と思いながらも会社に行く大人の様に日々を過ごすのだと。生きる事に意味を見出せず、だからと言って全てを投げ出す程ニヒルにもなれず、世の中を憂えど何かを謳い叫ぶこともなく、どうでもいいことに一喜一憂し、頭でっかちなプライドを作り上げ、他者の言葉で個性を見出して、人目を気にせずカッコつけ、不安だ不幸だといいつつも、何だかんだで今日もこうして生きていく。そしてそうやって死ぬのだろうと。
だが奴は消えなかった。追ってくるんだ! 何処までも。影のように、虚無のように、夜のように。耳の中で喚くんだ!
――俺は誰だ? ――俺は誰であるべきだ? ――俺は何をしたいのだ? ――俺は何をすべきなのだ? ――俺は何故此処に居る? ――俺は此処に居てもいいのか? ――お前に何の意味がある?
――ああ、そんな事言ったら、何もかも……。
そして解ったんだ。気付いたんだ。ああ、俺は気付いてしまったんだよ。この世界に俺がやりたい事なんて何もなかった。俺は、俺に、何も望んでいなかったんだ。もしかしたら何にも期待していなかったのかもしれない。曖昧に誤魔化していればこれほど幸せなものはないだろうに。気付かなければこれほど楽な事はないだろうに。
だが俺は誤魔化しきれなかった。追ってくるんだ! 何処までも。影のように、夜のように。皆はどうやって誤魔化してるんだ? このやるせなさを、茫洋を、倦怠を、虚無感を。俺はそんな方法習わなかった。両親も先生も教えてくれなかった。それでも莫迦な友達と一緒に莫迦をやってればいいものを。何も悩まず、何も妬まず、何も悔やまず、何も欲せず、今の幸せに疑問せず、信じる事すらせず生きていればいいものを。あの囁きから、俺は終ぞ逃げ切れなかった。
だから俺は飛ぶことにした。天国も要らない。地獄も要らない。ただ終わってほしかった。嫌になったワケじゃない。疲れてしまったワケでもない。不幸でも、哀しみでも、諦めでも、疲れでも、何でもない。ただ、ふと思っただけだ。
もういいかな、と。
「だから俺は飛ぶ事にした。空に行こうと屋上から身を投げた。何時までも悩まなければいけないのなら、いっそのこと何もかも終わってほしかったのだ。夕焼けの光、曖昧な海に沈む様に。幕を降ろすように眼を瞑り、永遠に覚めない夢の中へ……」ケイは淡々と語っていた。煙草の煙を吐く様に、かつての日記を読む様に、或いは他人事の様に、事も無し気に、軽い笑みと身振りを交えて。「『そんな事で?』、と、誰かは笑うかもしれないな。実際、俺も異世界を本気で目指すなんて莫迦っぽいと思ってるよ。普通は夢見るだけで実行には移さない。だから何でここまで熱を入れるのか問われも上手く答えられん。まあ子どもの頃、夏休みの間だけ遊んだ田舎の親戚の女友達が妙に忘れられなかった様な、そんな甘酸っぱい片想いだったのかもしれないな。顔も声も名前を忘れた、あの『青春の幻影』に。……でも、本当に本気だったんだ。普通なら大人になる時点で諦めて妥協する事を、終ぞ俺は受け容れる事が出来なかったんだ。
――色々な事をしたと思う。それこそルネッサンスの万能人もかくやに、あるいは不幸自慢で一夜を過ごせるくらいに、崖だらけの暗闇の中で全力疾走するくらいに。小学で初体験したり、秘密基地造って薄い本を集めたり、中学で引き籠ったり、ゲームや漫画作りで缶詰したり、底辺の高校に入ったり、暴走族に入ったり、莫迦なハーレム作ったり、お賢い大学入ったり、物語や研究書を読み漁ったり、『私は此処に居た』と描いて首を吊ろうとしたり、都会を舞台にサバゲーしたり、真っ白な部屋に隔離されたり、福祉支援しながら街を渡り歩いたり、技名叫びながらストリートファイトやったり、目的の解らんゲリラ部隊に入隊したり、本気で魔術を研究したり、有名・無名を問わずスポーツやら科学やらロボットやらコンピューターやらゲームやらの大会に出たり、詐欺紛いの商売をやったり、それこそイジメや犯罪や薬だって。
……ハッ、解ってるさ、アレもアレで中々に冒険的な青春だった。アレだけの日々を送っておいて、アレをツマラナイ日々だったと想い出にする程、俺は阿保でも気取り屋でもない。傍から見れば、そりゃあ面白い人生に映った事でしょうし、実際、彼方の世界にもマジでヘンテコな異世界は一杯在ったさ。マジで超能力研究してる組織や、妖精と会話しようとする奴等がいたし、宗教だって信じる奴らによっては本物だろう。てか一流の大学でも割と普通にそういう事研究してた。わざわざ映画館に本物を知らない資本主義が描いた商品の戦争映画を見に行かずとも、少し飛行機に乗って遠出すれば、生のスリルがそこには在った。『感動? 何それ食べられるの?』、ってなくらいには。機械だってそれを知らない他所から見れば十分魔術的でしょう。そして俺もまた……。だから俺は俺を不幸だと何だと気取るつもりはない。悲劇の役者扱いしてもらっても困る。『じぶんだけで面白いことをしつくして、人生が砂っ原だなんていふ』なんておこがましいよ。況や『未知生、焉知死』だ。三十年前後しか生きてない奴が人生論をぶるなど、高が知れているという所だ。それにまた、それは人を虚仮にした見方だ。普通に生きて、普通に働いて、普通に家族を持って、普通に幸せになって、普通に死ぬ。それは幸せな事だ。そんな普通さえ生きられない奴もいるんだ。解ってる。解ってるんだよ。俺はそういう事を解ってるんだ」
肩をすくめた。自虐するように、救えないとでも言うように、ニヒルな笑みを浮かべて魅せた。だがその笑みはすぐさま怒気に描き消される。
「だがそうじゃないんだよ! 俺がやりたいのは、世界一の金持ちでも、世界一のサッカー選手でも、世界一の科学者でも、世界一の王でも、世界一の人格者でもない。魔法だ! 超能力だ! 冒険だ! 俺が撃ちたいのはピストルじゃない、ファイヤーボールなんだ。解ってる、あの世界にだって楽しい事が在る事を。ただ、俺の望む幸福とは違っただけ……。そういうものとは違うんだ。何処か何時か誰かがやった既存のものとは違うんだ。普通は莫迦にするような事を、俺は真面目に追ってたんだよ。俺は真剣だったんだ。その為には何だって努力した。地道に身体と頭と技術を鍛える事から、バイトしながら海外放浪したりフィールドワーク染みた民族研究をやったり、見える地雷な新興宗教や魔術書や超能力体験を漁ったり……。現実逃避や迷子で行くワケじゃない。他ならぬ俺の意志と身体で、偶然ではなく必然で、俺は行こうとしたんだ。まあ、結果は、この様だが。
『ああ、青春よ、青春よ! あの頃の私はどんな夢を描いていただろう。どんな困難を耐えようとしていただろう。しかし期待したものの、現実はどうだ!? てろてろとした人生の夕凪にさしかかった今思い出すのは、あのみるみるうちに過ぎていった春の朝の雷雨ばかりではなかろうか?』。『いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎて行きます』。『消えろ、消えろ、束の間の蝋燭! 我等は歩く影法師、一つの憐れな役者に過ぎぬ。舞台では大仰な役も出来ようが、終わればもはや何も残らぬ』。『今日も簡単そうに世界は回る』――Huh! ドイツもコイツも、言ってる事は皆同じ。そして言うだけ言って、やはり世界は何も変わらない。ありきたりだ。下らない。そしてそんな他者の台詞でしか語れない己も、また……」
その言葉は真意だろう。その心も。真意に道化ているのだろう。芝居がかり、今の道化がかつての道化を嘲笑う。何もかも解っているくせに、何を今更そんなに頑張るとでもいうように。諦めたままで何を願うとでもいうように。
「ああ、解ってる。もしかしたら在るかもしれない。魔法や、超能力や、『宝島』のような胸躍る冒険が、あの世界にもあったかもしれない。でも俺には見つけられなかった。そしてどうしても辿り着けないと言うのなら、何時までも悩むくらいなら、いっそのこと何もかも終わってほしかったのだ。だから俺は、俺は、俺は……」
けど本当は期待していたのかもしれない。そうすれば、此処じゃない何処かに行けるんじゃないかって。眼を覚ました時、何か別の自分になっているんじゃないかって。
「そうなのですか……」
夕焼けに照らされる少女は真面目に話を聞いていた。ケイの長ったらしい演説を、ツマラナイと嘲る事も、眼を逸らし退屈する事もなく、じっとケイを見て聴いていた。その事に、ケイは心の中で自虐した。
高い丘の上、ノアとケイはそこにいた。家の方向も解らずにずっと空を飛んでいるわけにもいかず、また場面転換の連続で疲れたケイもとにかく落ち着いた地面に降りたかったため、取り敢えず近くの見晴らしの良い場所に降りたのだった。すっかり森を見渡せる丘だった。風が吹き、少し寒いほどだった。けれども気持ちのいい風だった。しかしすぐ近くは崖であり、そんな風に近づこうものならば、それに気付かず落ちてしまいそうだった。
「嫌だったのですか? 世の中の何もかもが」
「まさか!『違う。違うよ。絶対にそんなことはない。なんだって君はそんなことを言うんだ?』。彼はライ麦畑の住人だが、彼なりに世界を愛していた。俺もまた同じように、あの世界にも色々な楽しい事がある事を知ってるさ。そうだ、俺は嫌ってなんかいるものか。嫌いじゃない! 好きだとも、絶対にそうだ、愛したいんだ。
デカダン? 違うね。世を儚んだワケじゃない。厭世したワケじゃない。『水タバコをふかしながら断頭台を夢見る怪物』に殺されたワケじゃない。『倦怠の内に死を夢む』たワケでもない。ただ星を取ろうと竹竿片手に『勇敢に屋根に這い上り』、そして落っこちただけ。ライ麦畑の愚者の様に。
そうともだ、俺は違う。逃げてきたワケじゃない。はしゃいで舞台から落っこちたんだ。与えられた舞台で上手く踊れないから現実逃避など、役者としちゃダサいもんだ。不細工だ。無粋だ。野暮だ。自分の夢見る世界を、そんな自己満足の吐き溜め(ティッシュ)にするものか。今居る場所が嫌だから逃げる程度の心意気じゃ、『銀河鉄道999』には乗れないよ。異世界を目指す者、生半可な覚悟ではイケないさ。『リアルで駄目な奴はネットに来たって駄目。ネットを舐めるな!』って噺さね。少なくとも、特別な噺じゃない。ありきたりな死因だ。平和に飽きてしまっただけ。疲れてしまっただけ。『灰色の男たち』に殺されただけ。ただそれだけの事だ。悟り世代のアイキャンフライだ。ネットでやる不幸自慢がマジになっただけさ。ありきたりだよ。いや、でもそもそも、俺は舞台に上がられていたのか……? あの世界という丸盆に……。
……何て、彼方の台詞を言っても解らんよな。ましてや創作の小説や漫画の引用では。そうさ、俺なんてありきたりだ。誰かの台詞でしか語れない、ネットで不幸自慢をやってる吐いて捨てるほどいる社会不適合者だ。そして救えないのは、そうやって自虐する事は不幸自慢だと知っている事だ。『汝等を見よ!』と喚いてる。自分を不幸だと言うのは、それだけ自分が特別だと勘違いしているという事だと知っている事だ。ま、でもそれなら俺は割といい所まで行けたかもな。此処が人生の終着だ。落っこちる所まで落っこちた。まあ、邪魔されたが。……チクショウ! 何でお前は俺を此処に呼んだんだよ! 俺はもう諦めるつもりだったのに! 酒も薬も煙草も止めるつもりだったのに、堕ちた先がこんな、こんな、こんな……此処は地獄か? 売春宿か? 仕方なく不細工な女で疲れ果てる程マス書いた後に世界一の美女が出てくるようなもんだ。今更だよ、『ずっと夢見させてくれてありがとう』と諦めたのに、まだ死者にムチ打つつもりか!?」ケイの身体は打ち震えていた。そこには酷い哀しみと怒り、後悔が在った。「そりゃ嬉しいさ。望んだ夢だもんな。でもだからって、こんな方法で来たくなかった。自殺など……まるで現実から逃げるみたいに……台無しだ! 俺の夢見た世界は自己陶酔と自己満足の吐き溜めに成ってしまった! 俺は自分の力と脚と意志で来たかった、無理矢理でも偶然でも誰かに与えられるワケでもなく! なのにこんなの、ゲームのラスボスを友達にチートでクリアされた気分だ、小説の結末をネタバレされた気分だ、明日殺そうと思ったイジメっ子が事故って死んだ気分だ、友達が勝手に俺の気持ちを好きな女の子に告白した気分だ! 意味が解るかい? 詰まる所、肩すかしだよ! 寝正月だ! 一番面白い所を君は奪った! 最高に面白い瞬間を、『忘れられない冒険になる』壁登りを、俺は寝たまま誰かに背負われて登っちまったんだ。君の所為で、俺は自分が大切にして来たものを、こんな形で駄目にしてしまった! 俺の人生の意味を、夢を――丹精込めて描いた竜の最後の締めを、画竜点睛を手前が描きやがった。絶頂の瞬間を奪った。俺は永遠にお預けだ! こんな燻った気持ちで来たって、何が、クソッ……俺は恨むぞ、呪うぞ、殴るぞ、首を絞めて、殺し……於戯、友よ! 俺の冒険を支えてくれた滑稽にして勇敢な道騎士よ、『サンチョ・パンサ』よ! 今こそ俺を笑ってくれ! 魔王を倒そうと旅立ったのに、何時の間にか別の勇者に倒された阿呆だとな! どうした、何故笑わない、俺の声が聴こえんのか! ああそうだった、俺は一人で来たんだった。Huh! ムカつくぜクソッタレーと現実に唾吐いた先には、見返す相手もいやしないとは。幾ら嘆いたって、記憶は消せない、物語は一つに一つだ、初めてソイツを見た時の感動は、もう、もう、もう、どうにも……それをお前は、お前は、お前、はぁ…………ッ!」
ケイは己を殴った。頭を冷やせとでも言う様に。彼女は何も悪くない。悪いのは己だ。怯えさせるな、愚か者め。
「……スマン。いきなり現れて何言ってんだって感じだよな。勝手に憧れて、勝手に片想いして、大砲で打っ飛んでまで宇宙に行って、けれども月が思ったよりも綺麗じゃなかったって、文句など言っちゃいけないよ。こんな事で熱くなっても仕方ない。そもそも悪いのは自分を殺した俺の方だ。成程、元の世界に帰れないのも無理はない。世界を捨てたも同然だ。そんな俺に帰る場所などないってワケだ」ケイは自嘲して、吐き捨てるようにそう言った。「そうだ。俺はこんな奴だったというワケだ。こんな奴にこの世界が面白いとか楽しいとか言われても、困るよなあ? 説得力ないっての」ケイはそう言って、肩をすくめて笑った。「悪かったな、俺のせいで引っ掻き回しちまって」
「そんな事は……」
「そんな事はあるさ。こんな素敵な世界に俺なんかが……ああ、『俺なんか』というのも気取りだな。不幸に酔ってる。癖なんだな、こうすると優しくして貰えるって知ってるから。実は俺、女ったらしなんだよ。『人間失格』みたいなイケメンが泣き喚けば、そりゃ女房の股も濡れるさね。ナルシーじゃないよ。旅するなら第一印象くらい磨かなきゃダメだからね。それくらいの自負はあるし、不細工を気取るつもりもない。
ああそうだ、俺は実際にこの世界に来られたのだ。夢は叶ったのだ。なら不幸を言う権利も、もう無いよな。全く、ヤレヤレだぜクソッタレー。『汚れちまった哀しみ』だ。俺はもう不幸を言う資格は無い。様にならないなあ。だからこそ飛んだのに。もう悩まずに済むと思ったのに。やっと酔いが醒めて、素面に戻れる思ったのに。やっと目を覚まして、白昼夢も終わると思ったのに。やっと薬が切れて、正気に戻れると思ったのに。――飛べば、何もかも終わると思ったのに……」
ケイはそう言って、ぼんやりと夕日を見つめた。勿論、其処に何かがあるワケではない。むしろ無い方が良かった。何も考えたくなかった。応援も、共感も要らなかった。ただ休息が欲しかった。ただただ疲れていた。けれど、
「そんな事、ないよ」ノアは言った。何か言わなければいけない、そういう風に。「そんなに、自分を駄目にしないでください。だって、ケイさんが私を助けようとしてくれた時、ケイさんはとても一生懸命だったじゃないですか。結局は勘違いでしたけど、私は、ケイさんがあんな所まで追いかけて来てくれて、驚きましたけど、少し嬉しかったですよ? その時には記憶が無かったとしても、『ケイさんはケイさん』、でしょう? だからケイさんじゃなくていいだなんて、そんな事ないです。ケイさんのままでも、とても……」
しどろもどろとした言葉だった。けど、誠意と気持ちは十二分に込められていた。ケイにもそれは十分伝わった。だからこそ、ケイは嘲るようにくつくつ笑った。或いは――
「ハッ、同情かい? ありがたいね、惚れるね。ありきたりだな。そんな台詞はリアルでもネットでも何度も聴いたよ。それこそ君の様に可愛らしく、美少女ゲームのヒロインの様に愛とかいう奴を捧げてくれる女の子にね。腐っても異世界を目指した冒険者だ。その程度の幸も不幸も見飽きてるよ。初めてAV見てはしゃぐ童貞じゃあるまいし、テンプレなゲームが『貴方みたいな人は初めてです』なんて語る様に、俺は君を特別だなんて思わんぜ。言っただろう。そんな程度の心意気、俺はもう何度も経験したのだ。それ故に俺はこう応えよう。何度も言った事のある台詞で。
解ってないな、ノア。それはつまり、どんな俺でも良いって事じゃないか。それはつまり、どんな俺でも興味はないって事じゃないか。けど俺は……俺じゃない、別の誰かになりたいんだ」或いは、自虐する笑みだった。「俺はね、ノア。そんな事はまっぴらだ。止めてくれ。そんな定型句は止めてくれ。同情は良してくれ。共感も慰めも、まっぴら御免だ。何故って君はコチラ側だ。解ってたまるか、この気持ち。君如きに、解ってたまるか。
ましてや、そんな台詞で今までの人生が無かった事に成れば苦労はない。そんな誰かのお優しい言葉の一つや二つで済むくらいなのなら、じゃあ今までの俺の人生は何だったんだ。それこそ全部、嘘に成っちゃうじゃないか。その程度で頑張れるというのなら、初めからもうちょっとシャキッとしろという噺だ」
嘲笑う笑みだった。「所詮お前はこんなものだ」と、相手を笑う自分を笑う台詞だった。
「…………ごめんなさい」
その言葉を聴いて、ノアは自分の浅慮を恥じ、謝るようにそう言った。その返答を聴いて、ケイはなお笑い、しかしその笑いは火のように消えていき、やがて眼を背けた。
「……悪い、言い過ぎた。本心じゃないよ。君を論破して、打ち負かしたいワケじゃない。けど俺は皮肉屋でね……ヤレヤレ、難儀なことだ。自分の気持ちを『誰かに解ってほしい』と思いつつ、『誰に解るものか』とツッパるのだからな。餓鬼のような社会に喚く一人ぼっちのパンク・ロッカーさ。常識に対するテロリズムだ。インフラの恩恵に与ってる身分が何をって感じの癖に。理解されると価値が無くなると思ってるのだ。その他大勢になるのが怖いのだ。例えるならそう、植民地化された民族が支配国の文化と同化してしまう様なものだろうか……君の様な頭の良い娘なら解ると思うけど、アレは、怖いと聴く。夢から覚めたら自分が害虫に変身してたくらいにね。ムカつくぜクソッタレー。救えんね。
そして何より救えんのは、それでも解ろうとする奴がいる事だ。何処にだっているんだよな、君みたいな優しい子は。理由などない、誰もが望む無条件の癒しと優しさだ。逆に不安になるほどだ。優しさにも理由を求めるような奴は特に」
「そんな事……」
「あー……」
ケイは自分を叱咤した。どうしてそうひねくれた事しか言えないのか。記憶を失っていた頃の雄弁で軽快な言葉は何処へやら、今では息するのも億劫だった。喋るのが面倒だった。どうせお前には解らないとでもいう様に。
「俺はそんな価値ないんだよ」そしてそう決めつける事は、自分を心配してくれる人の価値まで否定する事は解っている。お前のしている事は無意味だと。「優しくしてもらっても、返せるものは、何も無い。もう放って置いてくれ。やっと諦める決心がついたんだ。酒も煙草も薬も止めるんだ。もう眠たいんだよ、俺はさ。悪いけど、本当に勝手だけど、今更もう楽しむ気力も無いワケよ。『The worst is not so long at we can say ‘This is the worst.’』だ。ネットや通行人に不幸自慢すら気力すらもはやない。もう飽いた。だから俺はこう言おう。『Now my charms are all o'erthrown, ― But release me from my bands With the help of your good hands: ― As you from crimes would pardon'd be, Let your indulgence set me free』……」消え入りそうな声で言った。「俺はもう、疲れたのだ」
ノアはそれを思いつめるような顔で見ていた。とても心配そうな顔で。そんなケイを見て……しかしノアは、眼をつむり、ふと笑い、そして、何かを決断したように、敢えて言おうというように、口を開いた。
「そんな事ないよ」ノアはそう言った。優しく言った。まるで夕日のように。「ううん、価値なんて考えなくていいんだよ。だって、この世界はこんなにも素晴らしいんだもの。色んな人がそう言うし、色んな本もそう言ってる。そして私もそう思う。世界はとても素晴らしい」そう言いながら、ノアは崖に向かって歩いた。歩くほどに風は吹き、照らす光は強くなり、影が奇妙に薄れて行く。「だから例え自分に価値が無くたって、そんなに気にする事ないよ。だって自分が居ても居なくても、世界はもう十分に幸福だもの。だからそう気負う事はないんだよ。自分が居なくなったくらいで、世界は何も変わらない」
「……ノア?」
ケイは何か奇妙なものを心に感じた。何だかノアがとても幽かに感じられた。ちゃんと目の前に居るはずなのに、存在感がまるでなかった。それは夕焼けの逆光のせいかもしれないし、自分の心の無さかも知れなかった。
だというのにノアの声はハッキリ聴こえ、ぼんやりと儚いぶん、耳を塞ごうにもするりと手の指の間をすり抜けて、心の中に入って来た。ああ、この感じは知っている。この感じは覚えがある。眼を開いても閉じても見える、あの景色。曖昧な光。
「私はね、たまに空に浮かぶ夢を見るんだ。ふわふわと宙に浮いて、漂ってるんだ。そうやって宙に浮かんでいると、世界が廻る分だけ置いて行かれる。人や、街や、星は、自分を置き去りにしてどんどんと先に行き、やがて遠くに行って見えなくなる。自分が居ても居なくても世界は廻る。自分が何もしなくても、この世界はちゃんと廻ってくれるんだ。その事に、私は――」
彼女は言った。ケイの方を向き、夕焼けを背にしながら、
「とても安心したんだ」
そう、淡く優しく微笑んだ。
「――――。ノア、君……」
男はその姿を見て、身体が締め付けられる気持がした。何処かでこんなモノを見た気がする。けれどそれは遠いかつての過去であり、何処かに置き忘れてたものだった。通り過ぎたモノであり、ぼやけてしまった原風景のように、もうはっきりと思い出せなかった。いや、もしかしたら、それは最初から漠然としたものだったのかもしれない。
――寂しいですが、仕方のないことです。
少女が言った言葉を思い出す。
(ああ、俺は勘違いしていたんだな)
彼女をとても強い少女だと思っていた。一人で森の中に住んでいて、一人で生きていける、そんな逞しい少女だと。寂しさに耐えて生きている存在だと。だけどそうではなかったのだ。耐えているわけではなかったのだ。ましてや諦めているわけでもなかったのだ。アレは達観し、納得している表れだったのだ。喜劇も悲劇も諸共に、彼女は許容していたのだ。何かを特別だと思う事が、彼女には……。
(そうか。彼女は許し、受け入れているのだな。何もかも、愛しているのだな。清らかな事も、濁らかな事も。哀しくないワケじゃない、寂しくないワケじゃない、それさえも一つの物語として……朝日の様に、月星の様に、この夕日の様に、受け容れて…………)
夕焼けはぼんやりと滲んでいた。曖昧な光に照らされていた。世界の全てに輪郭は無く、明るいくせに影は無く、境目を見失ってしまったように、街は水に溶かしたようにぼやけてた。時間は魔法にかけられて、存在感は空虚となり、現実感は浮遊した。
起きながらにして夢を見ている気がした。洋にたゆたう胎児の様に、茫とした光に浮かんでいた。
その光景はとても美しかった。曖昧な光に照らされた少女は、とても綺麗な顔をしていた。身体はとても震えていて、心はとても穏やかだった。瞳は熱を帯びたように、頭は茫と取り留めなかった。そしてそれ故に恐ろしかった。
ふとするとそれは消えてしまいそうだった。今にも崖から飛び降りて、光の中に溶けてしまいそうだった。もうどうしようもならなくなってしまいそうだった。それは何時か来るその時まで気づこうともしてないで、しかし気付いた時にはあまりにも手遅れで、もちいる全てを差し出しても、取り返しのつかないことは明らかだった。何処か遠くへ行ってしまい、もう追いつけなくなることが何故か解った。
それでも諦める事は出来なかった。手に入れたくてたまらなかった。だが自分だけの物にするなどおこがましいのは解っていた。それでもせめて近くに居たくてただ走った。手放したくなくて手を伸ばした。
手を伸ばした。
「……え?」「あ……」
何時の間にか、彼女の右手を握っていた。眼と鼻の先には眼をしぱしぱする少女がいた。その顔が赤かったのは熱のせいか、夕焼けの光のせいか解らない。
「あっと、悪い」
バツが悪くなって男は離れた。口元に手を当てて、ため息をつく。考え事をするとすぐこれだ。思考の海に沈んでいき、周りが見えなくなってしまう。どうせ役にも立たない考えだろうに。がっつく男は良くないぞ。ましてや理由も無く首を突っ込むなんて迷惑だ。
しかし……。
「そんなこと言わないでくれよ」ケイはノアの顔を見ずにそう言った。「君がどう思っているのであれ、今、此処に、俺がいるのは君のせいだ。俺を呼び出したのは君なんだ。それを嘘だなんて言わせないぞ」
ケイは自分でも何を言っているのか解らなかった。ロクに考えもしないで思い付いたことを喋っていた。それ等が意味のある言葉かも解らなかった。何か言わなければならないという思いだけがそこにあった。
「俺、楽しむように努力するから。今度は途中で投げ出したりなんてしないから。最後までちゃんとやり遂げるから。もうガッカリ何てさせないから」
何でもいいから何か言った。まるで夢から覚めないでいようとするように、必死に白い光の中で抗うように。でないと目の前の彼女が消えてしまいそうだったから。
「だから、自分が居なくてもいいなんて言わないでくれ……」
しぼり出すようにそう言った。情けない声だった。矛盾した台詞だった。それは自分の言っていいセリフではなかった。他ならぬ自分自身が、自分じゃなくていいと思っているという癖に。だが他の誰かがそう思うのは我慢ならなかった。
「ケイ……」そんなケイに対して、ノアがそう言った。紅い風がその髪を揺らした。「寂しいんだね、消えてしまいたいくらいに」
「寂しい?」ケイは眉をひそめた。だが、すぐに小さく笑った。「ありきたりだな。自己啓発本よろしく無責任に幸せと自由と歌う少年漫画の様なありきたりさだ。けど、そうかもしれない。俺は居場所が欲しかったのかもしれないな。俺だけの為にある『陽のあたる舞台』を。蝋燭の光で影法師の踊るこの世界という劇場で、俺だけにしか出来ない役を」
しかし本当は気付いていた、彼方の世界も、「こんな世界も悪くない」と。少なくとも、己の努力に応えてくれる世界はあった。
けれども自分はそれを受け入れなかった。「自分の望みではない」と切り捨てた。それを見た事も無いのに、自分の信じた夢が何か素晴らしい物だと信じて。「無謀すぎる賭だぞと止める親兄弟ありがとうと振り切って」、穴の中へ、虹の向こうへ、本を越えて、無何有郷へと行こうとした。意地になっていたのかもしれない。気付けば、差し出された幸福を素直に受け取るには、既にあまりにひねくれていた。
そしてその結果がこの様だ。憧れに愛焦がれた、灰色の男だ。夕焼けに近付き過ぎ、蝋の羽根は溶け切って、崖の上から落っこちた。
俺は一体、何の為に今まで生きて――
「あのっ!」
ケイは少し驚いた。ノアがその場に似つかわない、明るい声でそう言ったからだ。
「リボン、結んでください」ケイの左手首を指差してそう言った。「それ、私のでしょ?」
人懐っこそうな顔でそう言った。わざと可愛く振る舞っているのがケイには解った。そのらしからぬ行動にケイは驚き、そしてまた可笑しくなった。「そうわざとしなくても十分に可愛いだろうに」と、そう思った。
彼女は自分の可愛さを知らないのだ。いや、それはないか。何度も言われているはずだ。自分がそう言うまでもなく。だからそうではなく、ただ、自分でそう思ってないだけだ。
ケイは左手首のリボンをほどこうとした。が、そこで気付いた。何時の間にかリボンはボロボロだった。端がちぎれ、焦げていた。闘いの最中、何時の間にかリボンの事などすっかり忘れていた。
「ノア、その……」
そう言って、ケイはノアにリボンを見せた。ノアはそれを見た。
「はい、それが私のリボンですよ」
だが変わらぬ顔でそう言った。ケイはそれに呆気にとられたが、だがノアに一歩一歩と近づいた。
「じゃあ、失礼して……」
ノアの真正面に立って、手を回すようにして髪を結んだ。わざわざそうせずとも後ろから結べばいいのだが、ノアの背後はすぐ崖だった。なら動いてくれと言えばいいのだが、ケイはノアが動かないだろうという確信があった。無論、ただそう思っているだけなのだが、ノアのイタズラっぽい顔はそう言っているようだった。ケイは感覚と手癖で結んだが、ノアが何時もする様に、綺麗に結べていた。
ケイが結び終えて離れると、ノアがその後ろ髪をケイに見せ、そしてくるんと一回転した。ケイはそのまま崖から落ちてしまわないかとハラハラした。だがノアは夕焼けをスポットライトにし、綺麗に回って魅せたのだった。
そしてコチラを振り向いて、まるで始めてった人に向かうように、ふと道端でばったりあった見知らぬ人に良くしてもらったとでもいうように、他人行儀な口調で、しかし朗らかな笑顔でノアは言った。
「コレはお礼をしなければいけませんね」
折角このような人に出会えたのである、このまま「はいサヨウナラ」では勿体ない。ならこの状況を利用して、あわよくばお近づきになっても良いだろう。まるでそんな感じで少女は指をアゴに当て考え込み、そして何か良い方法を思いついたように、両手をポンと小さく合わせた。
「そうだ、私と友達になりませんか?」
「え? 友達?」
「そう友達」少女はゆっくりと手を広げて言葉を続けた。「せっかくこんな場所まで来たんだよ? さっさと帰ってしまうのは勿体あるまい。ならば親しい友達を作るのも悪くはない。一期一会、出逢いは大切にするものだ。君の世界だってそうだろう?」
飄々と出て来るその言葉は、誰かの口調に似ていた。
「それは、まあ……」
「なら話は早い。私と友達になりましょう? 無論、私で良ければだけど」
それを聴いて、男は面食らったように驚いた。そして、「ふっ」と小さく息を吐いて、わざとらしく悩み込んだ。
「しまった。そうか、友達か」
「どうしました?」
「あー、いや……だからだ。今の俺は記憶の戻った素面の気さくな、まあ、アレを気さくだとするのならだが、まあ、つまり……」
「恥ずかしい?」
「率直に言えば」
男は気まずそうに頬をかいた。少女はそれを聴いて優しく微笑んだ。
「『何だそんなこと』」男は何処かで聞いたようなセリフを言った。「私だって上手くないよ。だから気楽に笑っていればいい。私もそれを見て笑うから。むしろ、私のことを思うのなら、友達になってくれると嬉しい、ですよ?」
少女は「どうかな?」とケイを見つめた。男はそれに微笑んで、
「そっちこそ、俺がなって良いのかい? こんな何処ぞの馬の骨とも知れぬ男が?」
「そっちこそ、私で良ければ。折角の異世界旅行です。楽しんで行ってください。何、特別な理由なんて要りません。『そうあれかし』と祈れば、私は『そう』ありましょう」
彼女は素面でそういうのだった。ソレを聴いて、ケイは眼を細めた。
その表情を何と言おう。長年探し求めていたモノが見つかった様な、それでいてソレが自分のモノにはならないと悟った様な……そんな嬉しさと寂しさが混じった顔だった。
ああ、やはり、彼女はこういう者なのだ――と彼は思った。
「ふふ、それは良い。なら、仲良くさせてもらおうか。それじゃあ自己紹介とシャレこもう。と言ってもご存知の通り、俺は名前を思い出した」そう言って、次いで、やれやれとでもいうように首を振った。「けれど、その名前は彼方の名前だ。それは愛しい親から貰った大切な宝物だが、今は、捨てるわけにはいかないが、心の中にしまっておこう。今から俺の名前はケイ……そうだな、天駆慧一と名乗ろうか。君の名前は?」
「そうですね」少女は優しく微笑んだ。立ち上がった少女の頭はやっと男の腰ほどという位置だった。「はい、私は……」
そう言われ、少しの恐怖と、少しの恥ずかしさと、何だか解らない喜びが混ざったようにはにかんで、少女は言った。
「私は母アウロレラと父アルマギアの娘、ノーテルシア・メア。よろしければノアと呼んでください」
その言葉の意味は解らない。だが、とても綺麗な音色だった。
「そうか。ではノア、今から俺達は友達だ。その健やかる時も、病める時も、これを愛し、慈しみ、止が二人を分かつまで共に歩む事を誓いますか?」
そうおどけた感じで言う男、ケイは右手を差し出した。誰かに握ってもらうために。
「それは貴方の世界での誓いの文ですか?」ノアはその初めて聞いた大仰なセリフにくすくすと笑った。「はい、いいですよ。誓います」
差し出されたケイの右手に少女、ノアはそっと乗せるように右手を出した。
その少女の手は、雰囲気から白く柔らかそうに予想され、しかし実際には意外と薄汚れ硬かった。生傷も多くあった。此度の龍との一戦の所為でもあるが、それだけではない、昔からある傷も多くあった。綺麗な肌とは言えない、歳の割には老いた手――大人の、しっかりした、働く者の手であった。
一方、ノアはケイに右手を握られて、恥ずかしそうに、けれども嬉しそうにはにかんだ。トキトキとした表情で、ケイの顔を見つめていた。
その顔を見て、ケイは湧き上がる衝動を覚えた。胸に、星に火が入る思いだった。
ああ、これは何だろう。その笑顔はとても眩しくて、でも夕焼けの光じゃなくて、思わず抱きしめたい気分だった。本当を言うと、大声で叫びたいくらいだったな。それほど幸福な気持だったんだ。これが「ほんとうの幸」というものか。満ち足りた気分、ありがたい、足りないものは何も無い。ああそうとも。今、目の前にいる、この子こそが、この少女こそが、自分の探していた「我が麗しの貴婦人」、何時か見た「青春の幻影」、ただ名前ばかりがシャボン玉のように膨らんだ、夢幻の――
「……ごめん」とケイは言った。寂しそうな、申し訳なさそうな顔だった。その事に目の前の彼女は「え?」という。「やっぱり、駄目だな。おこがましいと思う。けど、やっぱり、そう簡単には割り切れない。幸福には成り切れない。それで俺の不幸を無かった事にしてしまえば、それこそ今までの自分が嘘になるから。……でも、ありがとう」とケイは優しくはにかんだ。「その気持ちは本当だ。折角だ、帰られるまでは、俺、もう少し頑張ってみるよ。何、落ちるところまで落ちたんだ。これ以上は、駄目になりようもないさ」
そうケイは道化る様に肩をすくめた。そういうと、ノアはくすりと笑った。
「またケイさんは可笑しなことを言ってますね」その言い方は少し酷いと思う、とケイは笑う。「けど、おこがましくありませんよ。私はこの森に在る、ただの一人の少女です。それでもいいのでしたら、気の往くまで、お付き合いしましょう? ――確かに、今、私は此処に居て、貴方の事を、見てますから」
「そうか……ありがとう」そう言うと、心の中がじんわり来て、頭の中が呆っとしてた。そう言えば、感謝の言葉を言ったのはいつ以来だろうか。「はは……いいね、本当に、勿体ないくらいだよ。まるで天国だね」ケイは困ったようにはにかんだ。「ああ、胸が幸福感で一杯だ。最高だ。恵まれてる。誰かに必要とされるって、本当に嬉しい事だなあ。何だか涙が出てくるね。魂が震えてるよ。解るかな、この幸福が。全く、君にキスしたいくらいだよ。それほど幸福な気持だったんだ」
「『キス』って、何ですか?」
「知らない? おお、アヴェ・マリア! 無垢なる処女よ。クチヅケさえ知らぬとは。その口はまるで『アイ』を喋らずとも、十二分に『アイ』を語る力を持っているのに! それともそういう文化なのかな? まあ、知り合うのはこれからだな」ケイは笑って肩をすくめた。「でも、ありがとう。本当にありがとう。もはや感謝しかない。ありがとう」
「ふふ、そうですか」
ノアは困った様に、けどそうやって喜んでくれるのが嬉しそうに微笑んだ。
「ああ、そうだよ。君は、君が、どれほど望まれているかを知らないんだ」
「そうかなあ」
「そうだとも」
奇妙な満足感がそこにあった。身体はとても震えてて、けれども心は穏やかだった。夢のような時間だが、確かな感触が手にあった。この感触を覚えている限り、自分は決して揺るがない。そして自分はこの瞬間を忘れない。何時までも、きっと――。
頬を熱いものが伝わっていた。しばらく止まりそうになかった。
それは心の熱さだった。
こうして二人は出会ったのだった。ある日森の中。曖昧な光に包まれて。二人は手と手を取り合って、互いに強く優しく握り返す。
不思議な運命が絡まる異世界アル。そんな世界にある国の一つ、剣と法の国〈エトアール〉。そこにある街外れの名も無い森。
二人の舞台は、ゆっくりと幕を開けたのだった。
――――――旅立一之三・終