貴方は其処に居ますか? 1
―La La La……
旅の者ソフィルは語ります。夢の詩を、物語の詩を。それは今じゃない時、此処じゃない場所、さながら片想いするかのような、何時か何処かの夢物語。それは例えば分厚い混凝土の建物の隙間、或いは雨降る森の奥、或いは大人の忘却の影、或いは貴方の頭の片隅。空飛ぶ箒、姿隠しの外套、七里の靴、喋る猫、そんな不思議なものが本当にある世界の、しかしながらそれらが一つ、また一つと裏舞台へと帰って往く、そんな時の狭間の者語……まだ星が卵だった時の、種が陽々と照らされる場所の、ただ幸福の内にのみ謳われる神様がいた、そんな素晴らしき世界の子守唄。さあ、貴方に魔法を掛けよう。明日に成れば覚める魔法を。
汝等が信じる王の御名に最大の力を。現れたる役に清らかな祝福を。我等が肉と骨と魂とは、汝等が信じる世界のモノなればなり。是成るは誰かに与えられた王ではなく、己が見出す王への讃え。是鳴るは誰かに夢魅入られた役ではなく、賢にも愚にも夢魅入る役への歓び。或は彼の居ぬ路を辿る星の軌跡。この詩い手さえも――
『始まりに があり。 は神、あるいは混沌、虚無、根源、無貌、闇、光、場、力、父、母、様々な名を持って言われるが、 は である。
はそこにただ在るが、ある時、身体を震わせる。一度目の胎動である。その揺らぎにより「音」が生まれる。是が原初の「力ある霊」とされる。音は全にして一の存在であり、以後生まれる音の子等はいずれも天多ある音の相の一つである。彼は自らの生に喜び、歌う。音の主題とは、つまり を楽しませる事であるので、音はまた「楽しませる踊り(ラータク)」とされる。音が歌うたびにその身は和み、旋り、動き、響き合う。是により様々な力ある霊が生まれ、騒がしい時の霊は「陽気なる霊」、静かしい時の霊は「陰気なる霊」とされ、前者は を楽しませ、後者は を安らがせ、互いに対となるも相反せず響き合う。音は時間と空間を創り出し、「宇宙」や「世界」とされる場が生まれる。しかし如何せん、まだ音楽が上手くなかったため怖響なる歪が生まれ、是は「震えなき騒音」とされ、その主題は「語られる事」とされる。歪は姿なき囁き声であり何者も捉える事は叶わず、四十二の大いなる災厄を生み出し世界を狂わす事となる。音と音の子等は以後歪と歪の子等とぶつかり合う事となるが、歪により音色は更にいや増し、「何時か来る終点」には両者の敵と力を合わせて闘うとされる。
陰気なる霊の内、踊るだけでは物足りないと思い音が砕けた身の内、力ある霊に成れぬ「日を生む小さな欠片」を撒き、音を照らす事にした。これが世界に浮かぶ星々と成るので、後にこの力ある霊は「極星に座し光を図く者」とされる。陽気なる霊の内、歌うだけでは勿体ないと思い同じく小さな欠片を撒き、音を飾る事にした。これが星々に撒かれると大きな花と成ったので、後にこの力ある霊は「色を咲かす者」とされる。
この花の内、小さな千の実を落とすものがあり、そこから白い肌と黄金の髪と白い肌を持った者が生まれ、是が「千の始まりの星花詩」とされる。歌と星と花の力ある霊はこの初めての民と親しくなりたいと思い、盟約の代わりとしてそれぞれ「天の使い(リヌス)」、「天上の卵」、「音奏でる光の種」の名を授け、自らは「常しえの輝き(アイディオテル)」と応え、己を産んだ三つの力ある霊を以後誰よりも敬愛する。彼等が産まれた時、震えなき騒音もまた子を作りたいと考え「無音の星」を作る。しかしその星はとても乱暴で、三つの力ある霊とその子等は彼とも親しく成ろうとするが、彼は親しく成ろうとしない。仕方ないので三つの力ある霊とその子等は親しくなる気になるまで暴れるまま様子を見る事にする。しかしこれに震えなき騒音は己の子を否定された気になり、ますます恨む。
三つの力ある霊は子等に住む家を与えようと思い、この生命が生まれた日のあたる青い星を「めでたし晴の星」として、彼の星に送ろうと考える。千の内三百三十三がその素晴らしい輝きに感応し喜んでこの星に降り、内三百三十三がその後に何となく付いて行き、内三百三十三が力ある霊の元にとどまり、最後の内一は自らの子を作れなかった恨みを持つ震えなき囁き声に囚われ終ぞ行方を知る者はいない。彼等は率いる王に由来して順に、率先して前を行き中心で晴星を良く導く「極の民」、星に辿り着くと好奇して辺りをうろうろして好きな場所に住んだ「移ろう民」、力ある霊の住む星篭に留まり見送る「遠つ民」とされ、そして最後の一の老いて逝かれた民無き王を「無何有の民」とする。力ある霊はかの星へと渡る「箱舟」を創り、彼等は是に乗る事になる。
さて、彼等が晴星に降りる時、彼等の親である三つの力ある霊はその門出を祝う為、星花の内、大きく結実する花を採ろうとする。しかしその実に触れた瞬間、これは強く大きくその身を弾き、この時に出た世界全体を照らす金の光が「見守りの灯」とされ、この光は以後全てのものを祝福するが、同時に背後より生まれし暗闇が「黒示す者」と成り、以後形ある者の証明と成る。またこの時、その陰の内に居た白い詩の民はその陰の色に染まり「黒い詩の雫」と成り、以後黒い肌を持つように成る。対して、明光を「白示す者」と呼ぶように成る。見守りの灯は世界を照らし良く見て廻るため、ゆっくりとだが休まずに晴の星の周りを廻る偉大な光である。また、その光に結実し、だが何時までも弾けず見守りの灯に喜び追いかける銀の光が「天球の鐘」とされ、見回りの灯の居ない間は天球の鐘がその代役をする。これにより朝と夜が出来上がり、これに合わせて、白い民を「白金の民」、黒い民を「黒銀の民」と云う。また、見守りの灯の光はあまりに強く、これにより は二度目の胎動をし、音は大きく二つに砕け、「言葉」と「詩」となる。是が一つになる事は未だない。
三度目の の胎動により世界に無数の泡ができる。またこの胎動により旅立つ民はその無垢にして無貌にして未分化の相である白い光を割らし、その時に居た場所により「黄い地の民」、「青い水の民」、「緑い風の民」、「赤い火の民」、「碧い木の民」、「薄青い雪の民」、「橙い砂の民」と様々な虹の色相となる。
白い詩の民と共に降りた音達は此処でも楽しませる踊りを行い、その身を言葉が身体、秩序、理性、「現世」と成り、それら破片は時や場所、海や大地、草や獣と姿を変え、生み出す。詩が霊、混沌、空想、「夢物語」となり、それらの周りを漂い、祝福する。言葉が世界を作り、詩が世界に変化を与える。音と詩の民は楽しみながら、星を動かし、天地を造り、生命を育む。詩の民は美しか知らず、その手と口が作るものは全てにして美しい。それを不快に思う歪により美しいものが生まれる度に汚いものを造っていくが、最後には清濁を併せて呑む事になるとされる。
そのような日々を万を五つ繰り返した頃の事、詩の民は己等と同じ姿をした者達を見つける。詩の民は己よりも弱く、脆く、堕しやすく、死すべき定めを持つが、故に成長し、何かを求め、汚れを厭わず、音の輪から外れる力を持つ、束の間の影法師たる彼等を、優しさと慈しみを持って「無知にて進む勇敢なる愚者」、「一瞬の閃光」、「燃える草化」と呼び、彼等の内五を世界を導く「王」とし、「名」により世界に役を与える仕事と、王の証として己が宝と認めた存在を永久に所有しておける「幼き星」という道具を与える。この道具は永遠の未完成であり、無限の可能性の元に千変万化の姿を持ち、また幾ら姿を変えても始まりの姿に戻られる至宝である。これに彼等は深く感激し、力ある霊を敬愛する。また王は己の姿をした「子」を多く作り、子と共に霊を詩う。かくして王とその子達は世界を総べ、名は世界に魂を吹き込み、詩は魂の心と成るのである。
しかしやがて震えぬ語りによる囁き声により王達は狂い、驕り、世界を己が意のままに従える。この時に王が霊を罵る言葉を吐き、そこから「忘却」が生まれる。忘却は王に取り付き、やがて王は霊を忘れる。世界総べる事を止め、霊詩う事を止め、これにて導く者消え果てる。やがて忘却は世界と夢物語に満ち、忘却自身を忘却する。言葉もまた忘れ去られんとするが、詩が言葉を庇い、その身を捻じ曲げられる事に留まる。この事に言葉は大層哀しみ、涙で己と己以外の真の姿を見られなくなる。そして詩もまた忘却の力により世界の中から姿を消され陰と成り、今ではその姿は夢物語の中に感ぜられるのみ。
詩はそれをとても哀しむが、しかしそれを良しとされ、王の生み出した子等のそばで世界の行く末を見守る事にする。言葉はその優愛に己を悔やみ、何時までも届かぬ片想いを語る。そしてやがて王を失った子達は自らの力で世界を成し、自らの想いで夢物語を紡いでいく――』
かくして金日の神話の時代は幕を閉じ、銀月の剣と魔法と英雄の御伽噺の時代が始まったのです。
けれど、そんな御伽噺も今は昔――
旅立一之一『貴方は其処に居ますか? 1』
今より奏でるは、後の、後の、そのまた後の夢物語に語られる、〈金日の神話〉、〈銀月の御伽噺〉、それに続く第三楽章――最も多くを破壊し、最も多くを創造し、木の枝の様に広がる歴史があらゆる可能性を試したとされる、〈虹星の者語〉。(中略)。大陸を覆う巨大な獣。海中に没した古代都市。天空に浮く竜の城。断崖絶壁の水平の果て。回る世界の中心に立つ天への塔。太陽を喰らう竜と機械の月。乳の川を渡った先にある魔法使いの村。死を忘れた影の国。永遠に浮かぶ白い薄明。深森で行われる謎の儀式。雪原に凍る大いなる怪物。砂漠に残された超古代文明。空を覆おう霧の巨人。天に落ちる虹の火雨。怒り止まぬ火を噴く山。地中に広がる反転の街。作り手の消えた菓子の国。小人の住む氷の街。夢物語の中で永遠に続く勇者と魔王の闘い――天多の世界を巡り歩き、いずれの世界でも逢えなかった。
星よ、我が麗しの恋人よ、貴方は今何処に居る?
デイ・フィールス・リェンダァ『星を追う者(ラ・ヘーレ訳)』より抜粋
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『冒険の断章』
――もういいじゃないか。
起きながらにして夢を見ていた。洋にたゆたう赤子の様に、呆とした光に浮かんでいた。
夕焼けだった。空は紅く燃えていた。誰も居ないマンションはボロボロで、周りの建物もボロボロで、辺り一片ボロボロで、それを見つめる心もボロボロだった。
夕焼けは身体を締め付けた。何にも無かった。悲観することも何も無かった。悲劇のないことが悲劇なのかもしれないが、そこまで考える理由も特に無かった。
夕焼けはぼんやりと滲んでいた。曖昧な光に照らされていた。世界の全てに輪郭は無く、明るいくせに影は無く、境目を見失ってしまったように、街は光の中に溶けていた。時間は魔法にかけられて、存在感は空虚となり、現実感は浮遊した。自分の身体が、このまま光に溶けて行くように思われた。
――もういいじゃないか。そうだろう?
男がそう思うと同じに、その身体は沈んでいった。眠りの中に沈むように。ああ、これでやっと楽に成れる、そう思った。
――けど、願うならば。
右手を空に、ゆっくり差し出す。見知らぬ誰かに伸ばすように。
――誰かに……受け止めてほしかったな。
やがて男は、ゆっくりと眼を閉じた。己の幕を閉じる様に――
【NW.SYS Excel Word Pointer: # (00:00 24/12/??) poket>>REMERY】
ゆっくりと眼を開けた。
背の高い木々が見守る草花の上、その者は仰向けに倒れていた。草花はステンドグラスの様に咲き誇り、それらを照らし包むようにミルク色の木漏れ日が、光のパイプオルガンのように、天使の梯子のように地面に降りる。緑の風が運ぶ木々の衣擦れは波音に似て、木漏れ日の明暗は黒い影の海を白い光の魚が泳いでいる様にも、或いは身体を持たない者の足跡の様にも見えた。それらの光景はパステルの様に境目が曖昧で、触れようにもすり抜けてしまいそうとも、角砂糖のように砕けてしまいそうだとも思われた。
それは、もうすぐ夢から覚めそうな、ぼんやりとした感覚によく似ていた。或いは、白昼夢のような……。
と、其処に、蒼い空に浮かぶ白雲と共に、聞いた事のない鳥の声が飛んでいた。もう起きなさいと言っていた。そして温かい布団から出て寒い場所に行く様に、優しく柔らかな眠りから、手をこそばゆい草に乗せ、その者はゆっくり上半身を起き上がらせた。起き上がると視界が広がる。寝惚けた目に光が入る。初めは眩しかったが徐々に慣れ、明暗は確かな輪郭を帯びる。
どうやら其処は深い森のようだった。男は、深い森の、ぽっかり開けた場所に座っていた。爽やかだが苦い土草や優しく甘い花の香りがし、涼し気にせせらぐ小川や小鳥の声が聴こえ、風が心地良く吹く、豊かな森だった。それでいて、もうすぐ夜明ける薄明の曙光ような、静謐な森だった。人気の無い森だった。
しかし人が居ない訳ではないらしい。森に溶け込んで、建物が三つあった。一つは母屋と思われる他の木々よりひときわ大きな木の一部に貫かれた煙突の付いた建物、二つは倉庫と思われるこじんまりとした建物、三つは工房と思われる母屋より小さいがしっかりした建物である。いずれも随分と使い古されているようで、くすんだ壁や天井には蔦や草花や苔が這っていた。それらの建物の前には畑が在り、裏には澄んだ池とそこを駅にする川が在った。
それらを見てから、その者は呼吸した。すると身体に息吹が入る。心という火種が燃え始める。ぼやけた意識が定まる。定まる程に解らなくなる。
此処は見知らぬ森であり、何時の間にか此処にいた。此処は何処? 自分は自分という感じである。
自分とは何だ。自分は……そう、人間で、男だ。歳の頃は、少し解らないが、それなりに大人の様である。精悍、というよりは少しヤツれた姿か。頭に混じった白は、白髪だろうか。顔付きは何処も平凡で、印象も特徴も無い。しかし身体は一般より大きく、痩せているが無駄のない筋肉質で、鍛えられた跡が見えた。彼はそんな男であった。
で、結局、誰なのだ?
男は見知らぬ何かであった。名前も忘れていた。即ち、記憶喪失に成っていた。男はその様々な疑問の答えを探すように横を見た。
そこには驚きに満ちた少女がいた。
――少女だと?
その少女に、男もまた驚いた。次いで、ふと、男は先から自分の右手が暖かいもので包まれているのに気付いた。少女の小さく、優しく、だがしっかりとした両手で握られていた。幼い少女の割に、意外と硬い手であった。
「そ、それは大丈夫であるか!?」
目線を少女に戻す。彼女は野原の上に膝をつき、男の右手を小さな両手で精一杯に握りしめ、振り絞るようにそう言った。普段あまり喋らない大人しい子が、頑張って声を出しているのに似ていた。
幼い少女だ。歳はせいぜい10と少し。男の身体が大きい所為もあるが、背丈は男の腰程しかないだろう。その見た目は、ありきたりな言葉で言えば可愛らしい西洋人形という所か。藍染めやマリア様を思わせる瑠璃色の三角巾を被っており、その三角巾で腰より長い後ろ髪を瑞穂の様に低く一つ結びにしており、その三角巾はロシア人形のバブーシュカや農業する田舎娘やパン屋を思わせた。幼くも整った顔つきに化粧やアクセサリーの類は見られず、代わりと言っては何だが、半透明な淡く光る小さな羽虫や蝶が辺りを飛んでおり、髪には意図的ではなく自然に草花が付いていた。独特の苦くて甘い香りは、香水ではなく土草の匂いだろう。
ただ、あまり綺麗とは言えなかった。砂埃や泥や植物の汁が髪や身体や服に付いており、薄汚れていたのだ。……だが、その汚れが、男には何だか懐かしく安らかに思えた。そも、その汚さは衛生的な都会視点での評価であり、自然的には汚くもなんともなかった。顔自体も端整で、身体付きも健康なので、ちゃんと余所行きの格好をすれば普通に美人さんだと思われた。
そんな穏やかな少女の顔は、今、とても動揺しているようだった。男をとても心配そうに見つめていた。その表情はそのまま男の状況が如何に驚くべき状況なのかを示していた。
「気が付いて良かったなのです。容易に目が起きないでしたので……」
一方、男は驚く事なく、ぼんやりと見知らぬ少女を見つめていた。
この可愛らしい子は誰なんだろう、と。
衣装は、ショールかストールの様な肩掛けを結ばず巻かず羽織っており、その下には肩を隠すくらい大きな胸元で結んだスカーフの様な布と、腰エプロンのような物と、足元まで隠すワンピースを重ねている。それらの衣装は青と白を基調としており、まるで夜明けと朝暗れの薄明を思わせる。西洋的な衣装だ。
足元には大の大人より頭三つ分程大きな飾り気のない木の杖がある。キャンディケインのように角々とした半円と真っ直ぐな棒でできた杖で、半円の先端には遊色効果の様に、燃える虹の様に、連続的に色を変える金平糖か宝石のような星型正多面体を吊っていた。全体的に見えると、まるで先を照らす小さな街灯に見えた。或いは、問と旅立を示す「?(クエステイオン)」にも、解と到着を示す「了」にも見えた。
まるで魔法使いのようだった。まるで異世界に来たようだった。
というか――
『GRRRRR』
「あっ、あっ、それは無駄だ、無駄だよ。どうぞ、髪に噛みつくないで。現在私が重要に話しているので、ね? うん、遊ぶ事は後で、ね。私は残念である……」
……というか、どう見ても魔法世界だった。少なくとも、己の見知らぬ場所であった。物語にしか語られないような生物が、少女は己の結んだ髪を噛んでいた。
それは亀かと思ったが、違った。いうなれば火蜥蜴ならぬ「岩蜥蜴」だった。尤も、そのどべっとした形はスリムな蜥蜴というより大山椒魚に近く、大きさは彼の史上最大の鰐デイノスクスかと錯覚する程の巨体である。不意に遭遇すると、きっと驚き恐怖するだろう。だがよく見ると、そうでもない。身体中に岩が隆起しており、相利共生なのか寄生なのか苔や茸や花といった植物が生えている。ヌボーっとした雰囲気であり、眠た気な眼であり、何だか盆栽みたいだった。
ともあれ、その岩蜥蜴は、少女の言葉を理解したか、してないのか、噛むのを止めてのそのそと後ろに下がり、のしりと腰を下ろした。
その他にも彼女の周りには、先程から羽根のような耳の生えたウサギ(?)がパタパタしており、もちもちしたネコ(?)がベローンと寝そべっており、手足が無く耳の長い毛玉のような何かがワサワサと少女に抜け毛をくっつけ、羊の様に毛をモコモコした鳥が飛び、自走式の葉の生えた種がトテトテと日当たりの良い場所を探して歩いている。それらが彼女にじゃれながら、男をチラチラと見ていた。
その他にも陸を歩く巨大なウーパールーパーのような何かや、丸く綿毛で身体を包んだ小型犬くらいの蚕の様な何か、羽根で浮く透き通ったツチノコのような何か、兎の様に長い耳をもった犬のような何か、空を飛びそうな長い耳を持ったブタのような何か、魚のようなヒレと尾を持った鳥のような何か、それに木々の影にはよく見ると額に角の生えた馬のような何かや、手の平サイズの人に羽根と触覚の生えた何かが見られた。あれが糊付けしたものでないのなら、一角獣や妖精と呼ばれる類かもしれない。そして森の木々は、真っ直ぐな円柱があれば、半ばが太った円柱のものも在った。
辺りは如何にも童話のメルヘンといった体であり、今に七人の小人が斧を持ってやってきても、実はあの家はお菓子で作られているんだと言われても、貝殻を拾って一緒に歌うラリったくまさんが出てきても、何だか全然おかしくない気がするのだった。それほどまでにその男が今いるその場所は、何もかもが空想の中の様に曖昧で、映画のセットのように演出されているようだった。
まるで劇のようだった。まるで舞台のようだった。
しかしともすればその作りも、不思議の国のアリスの様に、違和感すら覚えない。そして今、男がいる場所はまさにそれ。ふわふわとした酩酊の様な、夕焼けの様な、夢と現実が奇妙にぼやけた曖昧な雰囲気がそこにあった。
少女はひとしきり周りの動物達を申し訳なさそうに遠くにやった後、慌ててまた男の元まで走ってきて座った。動物たちもそれに従ってまた男の元に寄って来た。なのでまた遠くにやった。そしてまた動物が寄る。最初に戻る。喜劇のようなそのやりとりを、男は呆けたようにそれを見守っていた。やがて諦めたのか、少女は己に体当たりして来る動物をそのままにし、言葉を続けた。
「それによって、それ……何処かに悪い場所があるですか?」
少女は伺うように上目づかいで訊いてきた。意図的ではない、天然の愛らしさがそこにはあった。それ故に、もしその好意を無碍にして、その瞳から哀しさが零れてしまうようなことがあれば、それはもう罪悪感で一杯になるだろうということが予想できた。
それと同時に、不意にこのモチモチしたほっぺたをつねるとどんな反応をするだろうかとも考えずにはいられなかった。驚きと裏切りと痛みに満ちたその表情は、さぞゾクゾクする表情だろうと思った。イタズラ心をくすぐらせる子だった。イケナイ子だった。
しかし「大丈夫か?」と言われても、そも何をもって大丈夫かとするのかという感じである。心の病を疑い「遂に俺もガンギマリか」と遠い目をしたり、パニックに成って「この誘拐犯め。こんな場所に居られるか、俺は帰る!」とフラグを立てたり、頑なに「コレはドッキリだ。でなきゃ夢オチだ」と現実逃避しても仕方なかった。或いは人の話を聞かずに「うわなにこれすっげー!」と眼を輝かせることもあるだろうし、また「That's one small step for (a) man, one giant leap for mankind.」と静かの海を気取っても良い。
しかし、だ。しかし、男は全く落ち着いていた。ぼんやりと上を見ると、果てしない蒼穹の空に、天高く白い雲が悠々と旅をして、それを温かな日差しが優しく見守っていた。
実に良い天気だった。
そんな良い天気に眼を細め、両手を地面に付けながら、男は溜息交じりにこう言った。
「マジかー」
それがこの世界に降り立った、男の記念すべき第一声だった。やっちまったぜ、という感じだった。人類で初めて月面に降り立ったニール・アームストロングの欠片も無かった。軽いノリだった。
男の生まれは天の川銀河の太陽系第三惑星地球。ヤパーナの東の都に上京した元田舎者。職業は大学院生。歳は三十前後(詳しくは忘れた)。実家には公務員の父とパートの母と歳の忘れた妹と弟と年金暮らしの祖母がいる。いわゆる「何処にでもいる普通の何とやら」という奴で、特に変わった事の無い男である。いや正しくは、であった、か。
「という様な事は覚えてるんですな」などと男はラフな格好で草むらに座り、インタビューのように余所行きの笑顔で語った。「けど、穴あきチーズみたいに点々と忘れている。特に此処で眠りこけてた直前に何をしていたのかはまるで忘れてるな。覚えている事も、記憶だけ入れられたロボットみたいに経験がない。何を覚えているのかも覚えて……いや、コレは普通か」ああ、コレはふと大事に育てている豚の貯金箱を振ったら全然鳴らなかった時の気分だな、と男は思った。「『くまさん ぼんやり かんがえた さいているのは たんぽぽだが ええと ぼくは だれだっけ』、みつお。『みつお』じゃない。てかみつおって何だ? まあ兎角、『雪国』よろしく夢を抜けると異世界だった、という訳でござい。雪国って誰だ? 無意識に言葉が出て来るな。面白い感覚だ。酔っ払いながらブログ書いてる気分だ。東野圭吾の『変身』だ。『カフカ』じゃなくて良かったね。で、ブログとか東野とかカフカって何だ?」
因みによく「そこは雪国だった」と間違える人が居るけれども「そこは」は余分で文章がだれてしまうのです、と男は自分を落ち着かせるために常識的な思考を試みる。
「それもそうである……」
一方、少女は至極真面目な趣きで、ちょこんとあひる座りで男の話を聴いていた。膝に乗せた犬と猫と狐を混ぜた様な獣の頭を撫でながらそう言った。その他にも彼女の周りには色々な獣が遊んだり寛いだりしており、頭には鴉か梟のような鳥が眠っている様に静かに乗っており、まるで「白雪姫」のようだった。
(健気な子だ)見知らぬ己を心配する姿を見て、男はそう思った。幼くあどけない見た目ながらも、言動からは利発で聡明な雰囲気を感じる。落ち着いて、礼節のある少女だった。彼はそう思いながら、その下部でテールにした髪の毛を引っ張るとどうなるかなー、と思った。邪心な男だった。(いや、ほら、真面目な空気であればあるほどそれを破ってはっちゃけたい気分になる時ってあるでしょう?)
などと男は頭の中で釈明し、ニヤニヤと笑う。傍から見ればちょっと頭の可笑しい奴である。一方、そうやって茶化す男に、目の前の少女は真面目に言う。
「でも、私はそのような星と国の名前を知らないなのです」
「うーん。ぢゃ、この場所は何ていう名前なんだい?」
「んと、そですね。私達の住む母星、ひいてはこの世界は〈日のあたる青い晴星〉と言うです。そしてこの森は、九大国の一つ〈剣と法の大国〉に在る、42街の一つ〈訪遠の街〉に在る、理想の大霊『レティス』の加護する13町の一つ〈巣立ちの町〉のずっと外れに在る、〈星誕地〉や〈導きの虹星〉や〈白昼の揺籃〉という森です。あ、私はこの森に住んでるです」と、少女は建物を指差した。先程、男の目に付いた建物だった。「それで……そのような名前を尋ねた物があるです?」
「絵本ならあるかもね。敢えて深読みすれば、『エトノワール』はフランス語のエトワール(星)+ノワール(黒)、『ブリュー』はアール・ブリュットやアルファオメガ→青、レティスは『DQ』やエンピレオや英語で聖なる歓喜の意味など考えられるが……まあ、それらは地球語の話だな。とまれ、殆ど聴き慣れない言葉が多くてよく解らなんだ。
けれども、ステキな名前ね。言葉って不思議。意味が解らずとも楽しいもの。クラシックとか讃美歌とかよろしゅうよねえ。
けど名前は響きだけでなく由来や意味もキチンとして欲しいとボカァ思います。例えば異世界物語の癖にドイツ語で神の約束を意味する『エリーゼ』や、十字架教の預言者の名である『エリヤ』を使うのはどーかと思うんです。設定ガバガバじゃねーかと。何で異世界なのに地球語使ってんだと。二つ名や技名に英語使ってんじゃねーよと。北欧神話の神様や希臘神話の武器とか黙示録とか七つの大罪とかどんだけ広まってんだと。現実に引き戻させるなと。ま、そんなのを考えるのは批判考察屋な頭でっかちだけで、『面白ければいい』とかいう受け身の畜群様にゃどうでもいいかもしれませんがね。そもそも、物語の数が多過ぎるのが駄目なんだ。似ている物語は淘汰されるべきだ。『はてしない物語』の虚無に還れ……ふふふふふ」
「よく解りませぬが、それ、単に否定したいだけでは?」
「oops! 中々に痛い所を突くね。そうそう、ああいうのは反抗期で、反抗期とは好きな異性へスカートめくりするツンデレの儀式なのさあ」そう、男は軽く笑って言った。呑気なものだった。実際に見た目ほど落ち着いている訳ではない。ただ、アニメのように無闇に騒ぐの食傷気味であり、また相手に心配かけるのも悪いと思っていた。「ま、異世界や召喚術なんて生まれて三十年分の常識が邪魔して俄かに信じ難いが、空気は読むよ。ヤパーニャの適応力は高いのさ。ヒロインが可愛けりゃ、世界とだって闘うぜ。けど、もし夢落ちなら君で色エロとやりたい所だね、ヒャッハー」
「『ひゃー、はぁー』?」少女は「ひゃー」で背を伸ばし、「はぁー?」で身体を横に傾げた。無意識だろうが、何とも可愛らしい仕草だった。「於戯、召喚術が失敗したので健忘症の場所または頭がパカにである……」
しかしその台詞はちと辛辣であった。
「俺の頭はパーじゃないよ? パーペキだよ?(腹黒かこの娘……?」
「兎角、私は残念です。このような物になるなんて……」
少女は頭を深々と下げて謝罪した。一方、男は「この世界にもお辞儀は在るのか」と感心していた。ちっとも話を聴かない男だった。
訊く所によると、少女は、家の倉庫で偶然に見つけた、古い本に描かれた見た事の無い術式の召喚術を試していたそうな。一般的な召喚術は用法・容量を守って使えば決して危ないものではない。何故ならその呼び出しに応えるかどうかは召喚される者の自由であり、強制召喚は著しく相手の自由を奪うので法的に禁止されているからだ。そしてこの術もそうだと思っていたのだが……勝手に呼び出してしまったという訳だ。しかも記憶喪失を負わせて。しかも見も聞きも知らぬ異世界から。
「私は残念です……」しゅん、と幽かな声で再び謝罪し、目を伏せた。儚げに見えた。ソレを見て男は「うーん、思わず抱き締めたくなる可憐しさだ」と思い微笑んだ。割と余裕そうだった。「けどけど、成功するとは思って無い無いだったのですよ。シナドとされる知人に、うな、知『人』は語弊があるですが、とまれ要求され作るた薬が煮詰まるまでの暇潰しに適切に遊ぼうと思うた次第で、そも召喚術ともよく理解しないで……」
「暇潰し……」男は何とも言えない顔で目を細めて。何というか、しょうもない。「俺もローグライクで『まあ大丈夫だろう』と解読してない呪文書を読んだり罠付きの宝箱を開けたりして乙る事はあるが、何が起こるかも解らない術を試したのか? 危ないなあ」
「うや。それはその通りですが……そのような事は通常されないなのですよ? けど、あの術は万象の術ではなく魔象の」と、そこまで言って少女は「えぅ」と言った。失言に気付いた様に。「えとえと、それは現在は家を空けているお義姉ちゃんの本であるでして、危険ので見ては駄目と呼ばれつつ、つい知的好奇心の星霊がお悩むでしたなのです」
「成程。鬼の居ぬ間に洗濯しようとしたが、『魔法使いの弟子』になった訳か」
「ま、魔法?」と、少女は些かドキリとした体でそう言った。だが、すぐにハッとしてコホンと咳払いし落ち着く。「あとあと、『魔法使いの弟子』って、何ですか?」
「『魔法使いの弟子』とは俺の世界の音楽かつ映画で、魔法使いの弟子が御師匠さんに命じられ水汲みをするが、面倒に成って魔法で箒に水汲みをさせた所、未熟故に魔法の止め方が解らず、挙句に神話の大洪水よろしく水浸しになる噺です」
そう男が言うと、少女は「あははっ」と笑った。子供らしい、明朗な笑みだった。
「面白そうであるようであるですね。もう少し親しく……」と、少女は紙芝居を聴く子供の様に興味津々だったが、途中でハッと思い出したように頭を振った。「無駄無駄無駄です、そのような物が尋ねられる時ではないなのですっ」
「あはは。面白い娘だね」と男は笑った。頑張って背伸びして礼儀正しくあろうとする子供みたいだ、と思った。「ゆーて、暇潰しか。動機がショボ過ぎて何だかなあ。どうせなら魔王を倒す伝説の勇者とかだったら良かったのに」
「近頃、その様、旧式です。まあ、開始が退屈とも、終了は素晴らしいかも知るませんよ? 遭遇は何時も恋愛物語の為に劇的である必要は無いなのです」
「おー、至言だね。日常的なやり取りが恋に変わっていくのも甘酸っぱいものだ。ちな、それってさりげなく誘ってるのかい?」
「? 何が……ああ、そのような物ですか。いえ、全然なのです」
「なまじ頭の良い子ってこれだから嫌だよね」
「わ、私は残念です……」
「冗談冗談。しかし、異世界召喚か。メルヘェンだなあ」
男はソレを聴いて、カラカラと愉快に笑い飛ばした。少女はソレに遠慮がちに尋ねる。
「あの、怒らぬですか?」
「いや? むしろ感謝しますぜ。魔法! 異世界! 美少女に召喚された! 字面だけでワクワクするじゃないか。『First Kiss』から始まる二人の恋のHysteriaだね。選ばれし勇者的な大冒険を想像させるよ。『撰ばれてあることの 恍惚と不安と 二つわれにあり ――ヴェルレエヌ』」男の一挙一動は大袈裟で、台詞は興に乗っていた。「於戯、そうとも。俺はこんな面白そうなことに巻き込まれて、脱力系主人公よろしく『ヤレヤレ』と気取るほどニヒルじゃないし、太宰治の様に世を儚むデカダンでも無いですぜ。むしろ道化なら、悲劇にこそ『最高だ!』と笑うべきさ。喜劇王チャップリンのようにバナナの皮に滑り、坂口安吾のように『ムカつくぜクソッタレー』と敗戦に特攻するのだ。それが芸人魂さッ!」
「ごめんなさい。何を言ってるか、よく解らぬです」
「つまり、俺は君に対して凄く感謝してるという事さ。伝わるかな、この幸福が。本当を言うと、キスしたいくらいだったな。それほど幸福な気持だったんだ」
「『キス』って、何ですか?」
「知らない? おお、無垢なる聖処女よ。クチヅケさえ知らぬとは。その口は愛を語らずとも、最も愛を語る力を持っているのに!」男はくつくつと笑った。随分と道化た男だった。「まあ、真面目に言うと、記憶では、俺はよく海外へ低予算旅行してたからね。異世界への召喚くらい、進んで臨む所なのさ。それに失敗したって問題ない。問題なのは停滞する事だ。例え1000の失敗をしても、最後に1の成功をすれば人生大喜劇なのである」
「それは経験論でありますか?」
「そういうのは訊かないお約束だぜ、フロライン。
ま、何、大丈夫さ。死んだ訳じゃないしね」男はそう慰めた。別に優男という訳では無い。折角、こういう漫画の様な展開なのだ。哀しいのは嫌だった。「ま、ゆーて、罪悪感を感じるなら、そうだ、折角のファンタジーだ。マジック・ショーを魅せてくれよ。つまり、本当に異世界なのか証明してくれ。例えばあの大岩、」と、男は10m程離れた場所にある軽自動車ほどの灰色の岩を指差した。するとその大岩と目が合った。目が在った。「何か?」とでも言いたそうな瞳だった。実は彼こそ世界を守護する七賢人の一人〈星命のガイア〉、ではない。「此処から動かずに、浮かせられる?」
しかし おとこは みなかった ことにした。都会の喧騒が大事な何かを消すように。
「彼を浮かすですか? うーん、万術は衒うを作らないし、重すぎて浮かぬかもしるませんが……えとえと、大岩さん、浮かせる良いですか?」と、少女は大岩に向かってそう言った。すると大岩は、「何なりと、マドモアゼル」とでもいうように目を瞑った。「ふむ、なら良いです。やったるです。ただ、危ないですので私から離れて見て下さいね」
と前置きした後、少女は横に置いてあった杖を右手に持って、立ち上がった。次いで杖を僅かに上げ、強く石突で野原を叩く。すると、
――Jingle.
杖の先に付いた宝石が揺れ、まるで降誕祭にてサンタ・クラウスの到来を告げるスレイ・ベルの様な「シャン」という音が鳴った。宝石が白く灯り、その周りに虹の星屑が万華鏡の様に散逸した。ソレと同時に辺りの空気が変わる。まるで劇場や映画館の灯が消え、音が静まる様に――今から始まる事を世界という観客が見守る様に。
少女が言葉に出来ない発音で何かを唱えた。その言語は英語でも和語でも、ましてや如何なる人工言語でもない。それは男の世界の言語ではない。それは彼女の世界の言語。
「本当はエルの反応を無駄なく高め、また反応が外に漏れ出す危険を抑える為に、万法陣や万法球による自我領域や工房たる開放系や孤立系や閉鎖系などの『系』――つまり物語に対する本、演劇に対する舞台、音楽に対する楽譜、実験に対するフラスコ、宇宙に対する天球儀を敷くが万法律で決まってるなのですが……まあ、軽く行くましょう」
そして杖を宙になぞると、なぞった通りに光の線が出来た。その線は文章の様だった。ラテン文字のように角々とした文字ではなく、流麗なペルシア文字のナスタアリーク体に似ており、楽譜を思わせる文だった。しかも筆記体よろしく水流の様に繋がっており、またどうやら別の単語同士もくっつける様で、文字の切れ目が全く解らなかった。無論、例え解ったとしても、それは男の記憶しているどの地球語でも無いのは明らかだった。
少女の持つ杖は己の身の丈より頭三つ分程大きく、そう軽い杖では無さそうだが、少女は片手で扱っていた。もしかしたら、見た目よりも腕力があるのかもしれなかった。
(……って、いや待て)
と思った瞬間、違和感がした。説明――そう言えば、何故、自分と少女は会話できるのか。先もそうだ。自分の世界の物語が伝わらないのは解るが、何故、それ以外の言葉は伝わるのか。その事に一度気付き、意識を傾けるとと、その違和感の正体は明らかだった。
即ち、立体音響の様に、耳では少女の理解出来ない言語が大気振動で震えるのに、頭では少女の理解出来る言葉が精心感応の様に響いていた。しかも音だけでなく、文字さえ思い浮かんだ。まるで多重人格のように自分の中に言葉を理解できる知らない別の誰かが居る様で、あまり意識すると酔いそうだった。
「それは召喚術の効果であるが思うです」と、何時の間にか少女が男を見ており、その疑問を察して応えた。「つまり、召喚者と被召喚者の交渉を円滑にする為の」
「つまり翻訳ソフトか。ファンタジーのお約束ですね。『指輪物語』なら人工言語バリバリだけど。とまれ、便利なものだ。けど、うーん、翻訳は要らないかなあ。だって君が見知らぬ土地に旅行するなら何を望む? 綺麗な景色? 有名な食べ物? 偶然の出会い? 俺ならハプニングを望みます。折角に『此処じゃない何処か』へ行くのだからね。言語が通じないくらいの――って、『思います』?」
「『思います』、です。仮定なのです。出現するが、違う世界の人と私が考えなかったので、この分だと、この術式が本当に理解しているのかどうか知らぬなので……」
「ああ、成程。今まで敢えてツッコまなかったが、道理で君の喋り方が気に成る訳だ」
「? 何が気に成るです?」
「其処だ。普通は『気に成るです?』ではなく『気に成るのですか?』とでもいう所だ。それじゃエキサイト翻訳だ。『アルジャーノンに花束を』だ。エセ中国人や日本語を片言で喋る外国人や外国語を無理に自国語に翻訳した感じだ。いや、もしかしたら君のキャラとか訛りとかの可能性も在る在るですが」
「? そう言ってるなのですよ?『気に成るですか?』と言ってるです」
「あれー? 送受信が上手く行ってなか? まあ、いいやであります。舌足らずで可愛いでありおりはべりいまそかり。うんにゃ、ほなけんどこりゃ白痴美やあるでないで。僕ァ白痴美は嫌いだべすてぃ。如何にも美少女ゲームに萌えるピグマリオンやな」
「はあ……」と、少女は可愛らしく小首を傾げた。「私は話している事をよく知らないですが、貴方は様々を見つけるですね。もしかして、貴方は社会学者なのです?」
「『~学者』と分類するのは近代の悪い癖だ。何故、バラバラ殺人をして肉片をホルマリン漬けするような事をするのか。況や、俺は少年漫画よろしく能力を一個しか持たない奴とは違う。そんなのはC言語しか使えなかったり、試験科目が少ないからと言って私立大学を目指す阿保だ。俺はルネサンスの万能人さ。文学、笑劇、喜劇、道化、笑い、心理学、子供の発達学などを学んでます。ま、敢えて分類するなら『衒学者』だな。瘋癲学者でござい。君の召喚術が、特に原理も解らないのに使えるようにね。
てか、万術はそんな何となくで使えるのか。ブラックボックス?」
「はい。辻褄を合わせるだけなら、何となくでも。けどそんなものです。鳥の子は空気力学を知らないまま親の見様見真似で空を飛ぶです」
成程、と男は思った。確かに、男の世界でも幼児は生まれながらに泣いたり笑ったりできるし、自動車は原理を知らなくとも運転できるし、万有引力は経験則に過ぎない。ソレが説明できないのは、難しいからではなく、逆に当たり前だからなのだ。
まあ、五月雨は「超能力の基本は確信だ」と言い、四月馬鹿は「魔法は基本的にデタラメだ」と言いますしお寿司、この世界の魔法だってそういうものなのだろう、多分。
「けど、遠い世界を召喚できて、翻訳機能だけが弱いのは解すが無いです。きっと、時差ボケ的が生じているのでせう。時間が経つに連れ学習され、同じ波長に在るが期待」
それに男は「ふーん」と応えた。もう少し詳しく聴きたかったが、そうするとまた召喚失敗の件に戻り少女を落ち込ませそうだったので、そうならない内に男は話題を変えた。
「しかし、何となくってのは怖いね。その手の術は強いんだから、下手すりゃチェルノブイリの二の舞に成りそうだ。もっと具体的な原理を教えて欲しいね」
「『原理』、ですか?」
「So、so。俺様は頭でっかちな科学者だから、大袈裟な病名出してハッタるバラエティ番組よろしく能力ありきでそれっぽい技名叫べば気合で勝てる少年漫画より、理論的な設定で技を使う漫画の方が渋くて好きです。でないと天邪鬼な大人様は『所詮はアニメ』って感じで素直に凄いと思えんのよねえ。だから詳しく教えて欲しいのさ。
例えば、その大事そうに手に持つ大きな杖は、まるで『千と千尋の神隠し』に出て来るゼニーバの跳ねるランプみたいな感じだが、どういう効果が在るんだい?
俺の世界じゃ術士と言えば杖であり、その由来は様々在る。例えば、アルレッキーノよろしく祭祀の権杖や王の笏杖の模倣だとか、音楽の指揮棒やTVのリモコンのような媒体だとか、騎士の剣の様な持物だとか、精心界の民である妖精霊が金属を嫌ったからとか色々在る。ちな、俺の一押しは、錬金術の始まりは主婦の台所から始まったと『鋼の錬金術師』が語る様に、魔女とは昔の科学知識が十分で無かった田舎の村人が薬学者を畏怖して言った総称で、つまり魔女の杖とは魔女の大釜に使うお玉だった、という説だね。老婆=年寄りだから何か凄そう=腰が悪いので杖を使う、という三段論法というのも在る。因みに、精神分析学者フロイト的には男根の象徴です。黒ミサですね、まあ、最近のファンタジーは杖使わないけど。やはり魔法剣士が格好良いのか? まあ、確かにエルフとかだと杖より剣や弓矢だしなあ」
男は紙芝居でも見るような感じで、のほほんと尋ねる。それに少女は律儀に「え、『せいとちびろ』? 何ですかそれは?」と応える。
「俺の世界のまとめサイトが纏めるまでもなく世界的に有名な映画なんだが……知らないとは、本当に異世界なのかもなあ。或いは新聞もTVもラヂヲも無いド田舎か」
「はあ……よく解るませんが、これは母様から貰った杖なのです。杖自体には何の力も在るませんけどね。けど、そういう無意味に意味を見出す心意気が大事なのです」
「儀式、という訳か。じゃ、この世界の術はどんな原理なの? 其処ら辺、詳しく教えて欲しいね。『AKIRA』な超能力?『パプリカ』や『インセプション』な夢操作?『ニューロマンサー』や『攻殻機動隊』な電脳ファック? それともトランスしてアカシックレコードにチャネリングするの? それか異世界の法則を現実世界に顕在したり自分のイメージで現実を上書きしたり膨大なエネルギーで宇宙法則を無視したり……」
「……? 何処でも理解されない単語の見られるが在ります」
「俺の世界の物語だよ、異世界なら解らなくて当然だ。著作権も無い」
「意味が伝わらないと解るが解り、よくも貴方の世界の物語は取り出され得るですね」
と、少女は目を閉じて微笑んで溜息を付いた。まったりと呆れていた。
「道化るのが癖なんだ。笑劇がね。ファルスとは詰め物料理にて棒なのだ。是が俺として、慣れて下せえ」
「あや。初めて会った人で『慣れてくれ』とは、随分と傲慢あるですね……頑張ろう」
「あはは、君も中々に滑稽ですぜ」と、真面目な趣で意気込む少女を見て、男は愉快に笑った。「とまれ、魔法の原理を教えてくれよ」
「ま、『魔法』? 魔法ではないですよ?」と、少女は慌て気味に強く言った。それに男は「? じゃあ、何だい?」と首を傾げる。その応えに、少女は迷うように杖を強く握った。それはどう説明しようかというよりも、応えて良いのかと考えている様だった。しかし、やがて彼女はその迷いに答えを出して、こう言った。「えとえと、これは『万術』というです。森羅万象の色相環を描く術です。己の内なる世界を外なる世界と調和させ習合し、竜の星辰と精心を描き、己の〈法〉を世界に顕在するなのです。全魂の基とされるアルオルフという〈詩〉を、アイオンが独自に研究し創った術で、特色は乏しいですが、その分、とても万能で和やかです」
「(『アルフ』? エルフの事だろうか……)『アイオン』ってのは何だ?」
「つまり、私のやうな種族です」
「ああ、人間の事ね。まあ、外見が同じだけで、中身つまり蛋白質・脂質・炭水化物なども同じかは不明だが……」
ソレを聴き、男は「成程」と軽く笑った。反応が鈍い訳ではない。聴き慣れない言葉を聴いて、いまいちイメージが掴めなかっただけである。まあそもそも、この世界の初心者である自分にはどう説明されても解らないのだろうが。
「じゃ、君は『魔』法使いならぬ『万』法使いという訳だ」
「あうあう、えと、それはまた違うです」
「? じゃあ、君は一体、何なんだ?」
「つまり、その……」と、少女は気不味そうに強く杖を握った。男は「この子、困るとあの大きな木の杖を握る癖でも在るのかな」と思った。道化てるようで、案外に痴れない男であった。とまれ、やがて少女は上目がちにこう言った。「万法使い見習いです」
召喚したのがこんな未熟者でスミマセン、というような声だった。それに男はくつくつと笑う。「見習い、か。中々にファンタジーな響きでござい」と。
「成程、それで失敗したのも納得できる」
「え? あ、その通り。あな、全く」
と、少女は男の言葉に一瞬だけキョトンとして、しかし直ぐに同意した。まるでその方が都合が良いとでも言う様な体であった。男はそれに気付いていたが、早く万法の事を教えて欲しいので、敢えて「全くだ」と同調して流した。
「それで? 万法使い見習いさん、万術とはどういうものなんですか? それとも、答えられない?」
「む。それを愚かにしないでくだしあ。其処まで莫迦はないです。答えるが出来ます。
んとんと、そですね。先ず、万法と万術は違うです。万法は〈法〉つまり理論を指し、万術は〈術〉つまり論理を指すです。『法』則と技『術』の関係ですね。尤も、これは学術的な違いに過ぎず、日常的にはそう区別されませぬ」
「成程。万有引力と落下、電磁誘導と発電機、熱振動と電子レンジ、蒸発熱と冷蔵庫の関係か。魔法が超常で魔術が手品とする『型月』世界観とは違うのね。そして区別されないのは、俺の世界の科学が人文・社会科学を無視し専ら自然科学を指す様なもんか」
「そして、自分を表現する方法が言葉以外にも音楽、絵画、演劇、舞踏、武術など様々あるように、一重に万術と言うても色々在ります。例えば、事前に決められた印を使う公共簡易な記号万術や、星霊に任せる祈願万術や、論理的で明確だけど遊びの無い演算万術や、最近は何時如何なる時でも同じ過程と結果を行う処理万術というのもあるます。そしてこれは、遊びのある曖昧だけど万能な筆記万術なのです」
「十字架教におけるカトリックやプロテスタント、科学における古典物理学や現代物理学みたいなものだね」
「しかし、枝葉は多々あれど、幹は同じです。即ち、万術とは、『貴方が物語を読む時、貴方の心は喜怒哀楽し、熱く成ったり冷たく成ったりするだろう。それは心が感応しエルが生まれるからである。万術はその様に、ラーにより世界や星の心を奮わせてエルを生み出し、地に山を、海に波を、空に風を、光に虹を励起する術である』と万術学校は教えるです。役を持たぬ無貌の役者たる透明のエルに、虹という仮面を被せエルラとし、世界という劇場で躍らせるのです」
一応、注釈して置くと、「励起」とは量子力学の用語で、大雑把に言えば、基底状態つまり安定した状態よりもエネルギー値の高い状態の事である。常温放置した水や萎んだ風船が基底状態とすれば、沸騰した水や膨らんだ風船が励起状態である。励起状態の時は原子を構成する電子が乱雑に動いており、これが基底状態に戻る時に、あたかも位置エネルギーのように乱雑度と安定度の差分が光として放出される。光とは、力を与えられて発生するものでは無く、力が抜けて出て来るものなのだ。閑話休題。
まあ、男にとっては、そんな用語の説明より、
「『エル』?『ラー』?『エルラ』? 単語が解らんし、説明も抽象的過ぎて解らん」
「そしてエルは森羅万象の素、即ち万力です。ラーは絵、舞踏、詩など様々な媒体で行われる儀式です。今行っているのもその一つ、祝字や祝文というものです」
「『祝』文?『呪』文じゃなくて?」
「じゅ、呪文じゃないです、祝文です」と、少女は苦笑いしてそう言った。「これらは世界を呪う文ではなく、世界を祝う文なのです」
「成程。神道の祝詞な訳だ。ま、確かに魔法とは、仏教影響下で正道とされた仏法に対し、邪道とされた西洋の神秘的な力に当てられた言葉だしね。魔女狩りじゃあるまいし、魔法が一般の世界で邪教や悪魔など悪い意味を持つ『魔』や『呪』を使うのは可笑しいな」
それは部外者の男にしてみれば些細な違いだが、当事者にしてみれば大切な部分なのだろう。宗教やオカルトは儀式を尊ぶモノであるし、科学だって用語や学名が曖昧では困る。名は体を表すのだ。
「祝文に決められた言葉を持ってません。様々が作品の解釈としてある様に、物事を指す言葉が世界各地で違う様に、己の心を現象する方法は言葉や絵や音楽など様々在る様に、世界は言葉としてどのような言葉も許すです。エルもまた同じ様に、万術士でない戦士の物凄い拳骨にもエルが宿るです。意志ある所に星は輝き、花は彩り、詩は響くなのです。
重要なのは、内容より気持ちです。自信無し王に民が付いて行くない様に、喜びであれ哀しみであれ、堂々と祝文る事が大切なのです」
「じゃ、『えい、えい、おー』や『やぱー』も祝文な訳だ。じゃあ、俺の世界じゃ魔力という力は魔法使い専用の力なんだが、魔法使いじゃない戦士も使えるのかな?『ゲド戦記』みたいな真名じゃなく、神道の言霊に近いのかな」
「貴方の世界観はよく理解されるませんが、この世界では貴方が祝文と考えるば祝文です。万術は万術士専用のものではありません。少なくとも、武術や作法も万術の一つです」
「ふーん、マナみたいな超常的なものではないのだな」
「で、エルラは星霊つまり世界やこの星の無意識が集合した意思の事です」
「つまり、アニミズムの妖精や精霊という事か?」と男は興味深く考える。或いは、精神分析学者フロイトの精心モデルが語るような氷山の一角たる自我か、ユングのオカルトな意味での金平糖の様に人の無意識は塊の様に繋がっていて自意識は隆起した部分であるとする集合的無意識か。いや、そんな特別なものじゃないか。人間だって原子の塊だし、天多もの単細胞生物の群体や超個体が一個の生命のように振る舞っているだけかもしれないしな。なら星霊とは星の細胞か。ガイア理論だな。異世界でも似た様な思想は在るか。これは原義の意味での集合的無意識だな――というような事を。「ふーむ、成程なあ。筋は通ってるね。アリだね」
「アルですか?」
「アルですよ。アルアルよ。やはり魔法と言っても、論理が無きゃね。半可通な奴は『アニメに真面目に成るとツマラナイ』や『科学は神を隙間にやった』や『宗教VS科学』を唱えるが、それは浅学。大人はどんな苦労があっても星を目指す者であり、都合良く星に憧れるだけで目指そうとしない子供とは違うのだ。『あいつは気違いだね』と笑ってるばかりじゃ、何も生まれないのだ。『千里眼事件』をオカルトと決めつけた学者こそペテン師だ。『ぬしのロケットは夢やロマンを噴射して飛ぶのか!?』と、『往きて帰りし者なし。飛行機は美しくも呪われた夢だ』と語る愚者にて道化こそ何時だって世界を革命して来たのだ。まあ、革命が必ずしも望まれている訳ではないが。一般人は平和が一番である。
とまれ、ガリレオもニュートンもエジソンも、皆、物理に神を見出したのだ。問題は、信じる神が違って見えた事だ。無論、神は一つだ。だが彼等は、己の神が白から分光した虹の一欠片に気付かなかったのだね。まあ、全知全能の神が分裂とか、それこそ『神は死んだ!』な訳だが……あ、神ってのは世界を創った偉い奴ね」
「えとえと、『かみ』とは大霊や の事であるです?」
「因みに、それって幾つ?」
「『幾つ』? 数は解りませんが、大霊は全で、 は一です」
「ふーん? じゃ、多神教的一神教なのかなあ。ま、そんな感じだよ。とは言っても、幾らこの世界で筋が通ってても、俺の世界にとっちゃ意味解んないんだけどさ」
「その様なものがそうです。とある思想が他に理解されないでも、その思想を祭る者にとってはそうなんです。貴方にとって非常でも、私にとっては常識です」
「成程ね。『銀河鉄道の夜』のあのやさしいセロのやうな声曰く、俺にとって宗教でも、君達にとっちゃ科学な訳だ」
「と言っても、万法の心意気は世界との調和。仲間外れはイクないです。だから、つまり、えぇと……そうだ。まあ、万術を別の理論で例えるなら、透明な光を分光して虹を作る様な、音程をある種の音高や音階に分音する様な感じなのですね。これで解るです?」
「うーん、どうだろ。化学反応や電気分解と同じなのかなあ。太陽や核爆よろしく元素合成や核変換は放射線的にヤバいけど……流石にそんなエネルギーは無いか」
と、男はお道化た笑いでそう言った。そしてお道化つつ、「『分光』か。俺の世界で分光法が確立されるのは18世紀以降……なら、この世界の文明もその程度なのだろうか。いや、需要と供給が解らんし、それは早計か。しかし光と音か、よく出来た『設定』だ。虹の色数と音楽の音階は似たようなもので、どちらも透明とオクターブを分割した波長であり、倍音で広がるオクターブは二進法コンピュータと親和性が高い……」と冷静に考えていた。如何に舞台が熱い笑劇でも、舞台裏の作者は冷めているように。
此処が異世界という少女の言に、疑心的なものは無かった。かといって納得している訳でも、取り敢えず目の前の事を受け入れている訳でも無い。言うなれば、どちらでもいいようだった。何処か一歩引いている様な感じがした。
「つまり俺の世界でいえば、エルが原子や量子や光子やエネルギーで、ラーは物理化学の実験や音楽である訳だ。或いは、色即是空かな?
あ、色即是空って解りゅ? 色即是空とは、分光法における透明と虹の関係の様に、原子が人間を作る様に、世界の本質は目に見えない「空」であり、この世の全ては空が変化して出来る実体のない無常の「色」であるとする思想だ。
そしてこれはプラトンのイデア論や洞窟の比喩との類似が見られ――弟子のアリストテレスは可能態や資料を唱え、パラケルススは『万物の第一資料』や『賢者の石』を――中世ヨーロッパでは笑いが抑圧されており故にルネサンスではそれが爆発――シェイクスピアの世界劇場もまた色即是空。無法の道化のように、空虚を肯定しその場に応じて役者の様に仮面を変えて生きるからこそ、逆説的にアイデンティティを得られ――個性は幻想、自我は氷山の一角、硬いより柔らかい方が壊れにくい。ならばむしろ無個性の方が豊かな個性と――人間が目指すべきは一神教の完璧な楽園ではなく、むしろ楽園が崩壊した後にある善悪を越えた桃源郷――」
などと、男はペラペラと話し出した。流暢なモノである。が、その流暢さは賢さ故というより、相手を無視した故のものだった。事実、少女は己の杖を握り、
「んやや。私は残念です、不明な単語が多くなので、それは理解されません……」
と、少女はやや縮こまった。それに男は笑って応える。
「いやいや、問題ない。概念は好きだけど、別に俺は帰依教じゃないしね。俺自身、正確に理解している訳じゃないから、君に上手く説明できるかどうか。
それより、その万術は後どのくらい時間掛かるのか、説明できるかなあ?」
「え? ……あっ、スッカリ忘れるました」
忘れるますものなのか……と、男は苦笑いした。何時の間にか、少女は先までの文章を描くのを止めていた。この娘はしっかりしている様で、何処か抜けているのかもしれない。故郷の母を思い出した。あの人も多分に天然であった。
「いあまあ、話し掛けたのは俺の方だから、俺が悪いのだけどね」
「いえ、私が注意する力が散漫なのです。万術士は常に堂々とするが当然ですから」とまれ、少女は万術に集中し直した。しかし、何分、中途半端に再開した所為か、「あれ、どうしよう、終わらぬ……」
文書は終わること無く、ぐるぐると少女の周りを取り巻いて、文字は煙のようにもやもやした。万法がどういうものか知らない男にも、その文章は蛇足し、酩酊していくのが解った。男はそれを見て「おーおー苦戦してる。面白いなあ。ヘンテコな魔法だなあ」と微笑み始めた……その時、
「……えいっ」
少女は無理矢理、終着点を打った。
その瞬間、文字の光が僅かに強く光ったかと思うと、大岩の眼が「お?」というように開き、危なっかしくぐらぐらと浮いて――盛大に爆散した。
爆散した(大事な事なので二回ry)。その爆発に少女はその勢いで尻餅をつき、周りの動物達はとことこ避難した。大岩の身体は弾丸の速度で辺りに飛び散り、一方は湖に水柱を作り、一方は地面を穿ち、一方は男の頬をかすめ後ろの木を穿った。男の顔は微笑んだまま硬直し、しかし首は無意識にゆっくり曲がり刺さった岩を二度見させた。
ところで魔法使いが現実に居たらとても恐ろしいことだと思うんです。何処でも発動できて証拠も痕跡も残しません。銃社会なんて目じゃねーです。魔女狩り迫害待ったなし。疑心暗鬼ってレベルじゃねーぞ(男のステータス:混乱)。
「……失敗しちゅーた」
「セヤナ」
お父さん、お母さん、妹よ、弟よ、お元気ですか? お兄さんも脳内友達もとてもアリスです。ホームシックも軌道に乗って、少しマジ震えてきやがった。出会った女の子はとっても可愛くて、それも何と二人っきりで、無性にハッスルしたい時もあるけれど――多分、それやると「インペリオ」が飛んできそうです(BGM『君をのせて』)。
「うい、私は残念です。気の動転が予想外でしてして、間違えてしまうたようです。それか、異世界と関係しエルが混色したものであるかも……」
少女は特に驚いた様子も無く、何て事なしにそう言った。避難した動物もすぐに何てこと無さげに戻って来る。もしかして、もうすっかり慣れっこなのだろうか? 流石、見習い……おそろしい子。
「いいえ。この程度は通常失敗が無いです。私だってやればできる子です。甘く見ないで下さい」
ヤればできる、至言だな。
「ただ、多くを特訓するので、相対的に失敗の多くが在るだけです」
物は言いようですね。
「うあっ! 怪我させちゃうでした? わ、私は残念です……」
と、少女はかすめた岩により血が流れる男の頬を見てそう言った。杖の先を仄かに光らせ、男の頬に当てる。すると不可思議に痛みが引き、傷口が閉じた。やさしい子。
「因みに、この万術は突然代謝を促進させ治療しすので、やり過ぎ時の老化は高度ですが……まあ、大丈夫ましょう」
やっぱり、おそろしい子……。
とまれ、宙に描かれた万術の文字は徐々に小さくなっていき、やがて消えていくと思われた。弾け飛んだ破片の一部は宙にぷかぷかと浮いていた。どうやら中途半端に万術がかかっているらしい。どういう原理なんだろう。
ていうかあの大岩さんは死んじゃったの? あんなアホっぽいやりとりで文字通り命が散っちゃったの? と思ったが、よく見ると飛び散った欠片に次々と眼が現れた。「ッブネーマジッブネー」という感じでキョロキョロしていた。どうやらキングスライム・システムなようだった。本当、どういう原理なんだろう。
しかし原理がどうなのかもはや問題ではなかった。明らかにそこには魔法という名の種も仕掛けもあった。それを見て、男は些か興奮気味に叫んだ。
「すごいぞ、魔法は本当にあったんだ。父さんは嘘つきじゃなかったんだ!」
「だ、だから魔法じゃぬですよ、万法です」と、少女は苦笑いしてそう言った。「……貴方のお父さんも、魔法使いだったですか?」
「あーいや、ノリで言っただけ」
男は興奮した事に恥ずかし気に苦笑いした。
(いや、けど興奮するのは当然なはずだ。そうだろう? だって、魔法だぞ? そんなのが目の前に現れたら誰だってワクワクするはずだ)
男は湧き上がる衝動を抑え切れなかった。好奇心は無意識に顔をニヤつかせた。
そうだ、そうだとも。全然ヘンテコな事じゃない。否否否。千辺否。万辺否。ヤレヤレ系主人公じゃあるまいし、此処はもっとテンション上がる所だろう?
「そうだ、そうだとも、君は何も可笑しくない! 君は至って正常だ! 召喚なんて如何にも主人公じゃないか! という訳で俺は今からテンションを上げていくぞ君ッ!
なあなあなあなあここ本当に異世界なんだな! 君本当に魔法使いなんだな! 凄いなあ俺も出来たい凄いなあ! ねえねえねえねえ俺にも魔法の使い方教えてよ『ガンダルフ』、『メリー・ポピンズ』、『ゲド』、『アルバス・ダンブルドア』!『魔法使いの弟子』にしてよ! そんで『ドラクエ』よろしく魔王倒したり『ハリポタ』よろしく魔法学校に通ったり『おジャ魔女』や『魔女の宅急便』よろしくご近所の悩みを解決させてくれああでもエブリデイ・マジックも良いね『西の魔女が死んだ』や『×××HOLiC』や『夏目友人帳』よろしく社会的弱者が立ち直るサナトリウム文学がさまあそれらの作品どれも最後まで読んだ事ないんだけど歳を取ると何でも継続するのが億劫になってとかいう更年期障害はさておき×2さあさあさあさあ早く早く早く早くハリーハリーハリーハリー!」
……と、大体、このような台詞を一呼吸で一気にまくし立てた。肺活量もそうだが、よく舌を噛まないものである。一方、そんなガンギマリの酩酊した怒涛の台詞に対し、少女は小首を傾げてこう言った。
「……はあ」特に驚き慌てる事もなく、へろーんとした感じであった。「まあ、兎角、落ち着くでしょう? 意外な物であるものであるかもしれないですが、先ずは自身と身の回りを殆どよく把握し「いやいやいやそんな事どうでもいいからさ兎に角魔法教えてくれよ魔法あいや万法だっけまあどっちでもいいや兎に角空飛んでみたいなあ空箒に乗ってさそれか今からカッコいい呪文で雷落としたりさねえねえねえねえねえ!」あわわわわわ」
少女は男に肩を掴まれてゆさゆさと身体を揺すられた。頭が赤子の様にガクガク揺れた。何故、この人はこんな激しい事をするのだろう、と気分の悪くなった少女は思った。が、やはり落ち着いて、
「わ、解るでした、解るでしたから。だからそんな怖い顔しないで……ね?」
そう、少し青ざめた感じの笑顔でそう言った。ソレに男は我に返り、「む。怖そうな顔してたか、スマン」と少女の肩を離した。
「いや、本当にスマン。年甲斐にもなく興奮していた……」
「あいや、お気になさらず。突然、もしそれが意外な場所に来られるたら、意図が脅えていることが自然であるです」
「君は幼いのに大人びてるね。でも弁明させてもらうと、コレは普通の反応だと思うですよ。この世界は、君にとっては日常系だが、俺にとっては夢物語の世界なんだ。そして俺は、ゾンビ映画的展開になったら逃げるよりもむしろ喜々として闘うタイプです。まあ、そういう奴がいるから公務員が困るですがね。津波警報が出てるのに海に行ったりさー」
「えとえと、話が長すぎてよく意味であるが理解されませぬ……」
「とまれ、訳が解らない程スゲーって事だよ」
「? 変なの」くすくすと草花が春風に揺れるみたいに和やかに笑った。「笑ってれた」と男は思った。ただ遊んでいる子供を見るだけで楽しいとでもいうような、優しく静かな笑みだった。男にはそう思え、男もまたはにかんで頬をかいた。「けど、それでも異世界の人が来るなんてねー。驚きだーぁ」
少女は続けてそう言った。ほんわかした子であった。コッチまで釣られて笑うような心地良い笑みだった。不思議な満足感がそこにはあった。
(可愛いなー)
男は心からそう思った。幸福な笑みは素晴らしい。いきなり見知らぬ場所に居るというのにあまり慌ててしまわないのは、一つに落ち着いた彼女のおかげであるかもしれない。
だが、その笑顔はすぐに曇っていった。自分のしでかした失敗を思い出す様に。
「だから、気にしてないって」
それに気付き、男は微笑んだまま困ったように言う。
「けれども、無断召喚は斬新な心と肉の侵略なのです」
「そういうものかね」
「ゴキゲンに自分の部屋に入られるくらい」
「あー、成程納得。けど君みたいな可愛らしい子なら誰だって許すんじゃない?」
「え? あぁ、はあ……」
少女は男の言葉を測り損ねたように、大きな眼をぱちぱちし、けれども社交辞令の様に、苦笑気味に愛想笑いした。現実的な反応をされてしまった、と男は苦笑いした。
面と向かって歯が浮く言葉を言ってしまった。いきなり別世界に来て思ったよりも動転しているのか、物忘れのせいで気が緩んでいるのか。それは真面目なほどに飄々としていた。記憶が戻ってもこんな軽い男だったら嫌だなあ、と男はバツが悪そうに口をなでた。
「あ、通りです通りです。つい、私は乱されてお喋りは加速していました。早く貴方は元の世界に返品される必要がなくては」
しかし、そんな呑気な男をよそに、朗らかな少女は先までと打って変わって真面目に言った。それに男は「へ?」と間抜けて言う。「返品」?「送還」っていう意味か? 男はソレに慌てて「いや、いいって別に」と言う。
「折角、こんな面白い世界に来られたのに、観光もお土産も無しで帰るなんてナイだろ」
しかし、少女はその台詞に頭を振る。
「イくないです。お父さんやお母さんに心配するが一杯なのです」
「いや、大丈夫だと思うぞ。先の通り、俺は海外旅行が多いから家族も友人も五年間音信不通でも心配しないし、学費も生活費も自分持ちなくらいもう自立してるとされる。だから人離れには、手前も相手も慣れているはずだ。心配される身分じゃ……」
「お父さんやお母さんに心配するが一杯なのです」
「いや、待て。君は冷静さを欠いている。落ち着いて話し合おう」
「お父さんやお母さんに心配するが一杯なのです」
「えい、なら帰される前に『グリグリモグモグ』してやる! 時に優しく、時に激しく」
お父さんやお母さんに心配するが一杯なのです
「『アリス』も『ドロシー』も『バスチアン』も、皆、元の世界に帰って行った。夢は終わり、朝が来る。幕を降ろし、目を開けるのだ。『さらばメーテル。さらば銀河鉄道999。さらば少年の日よ』。アレで泣く様になったら、もう歳だな。けど俺はまだこの世界に来たばっかだぜ? それなのに帰れとはあんまりだ。もうちょっと異世界見学したい所だよ。まあ『ナルニア国物語』よろしくイエス様の元に向かうのはちとイヤーンだけどさ。猫の世界ニャルニアなら良し。いやどちらも冗だ――」
「とにかく帰るでしょう」
「ぬーん」
多分、この子はとても生真面目なのだろう。落ち着いた言動ながらも、勝手に召喚という誘拐をした事に責を感じている様だった。かといってこれではまるで邪魔者扱いされてるようで、男はションボリした、というか勿体なく思った。だって、異世界だぜ? 折角こんな世界に来たっていうのに、「大きな葛籠」も「玉手箱」も無いなんて、そりゃないぜ(どっちもBAD END)。
しかし取り付く島もないようで、我が儘言って少女に迷惑かけるのも紳士ではない。男はそう思い最大限の抵抗で「えーあーじゃーお願いします」と嫌々渋々そう言った。
「じゃあ行くです。どうぞ動かないでくだしあ」
そう言うと少女は杖の先を男に向けた。今度の動作はそれだけで、先のように宙に文字を描くようなことはしなかった。にもかかわらず光の文字が杖の先端から現れて、それは男の周りを星のようにゆらゆら回った。光は辺りの音を吸い取ってでもいるのだろうか、淡く光る文字が出るほどに辺りは静寂に包まれていき、そして男もまたその文字に包まれていく。やがて繭のようにまとわりつき、男の姿は見えなくなる。そして……
「えいっ!」
と少女が号令するようにそう叫ぶと、弾けるように繭が光った。
強く眩しく光り輝き、少女はそれに眼を細めることなくそれを見つめた。その表情は険しく真面目だった。やがて徐々に光は弱まり、元の静けさに戻っていき……
「終わり?」
元の通り男が立っているままだった。
「あれあれ?」
「よっしゃ!」
「『よっしゃ』ではないです」
男は膝を折ってガッツポーズし、少女はそれに困った様にツッコんだ。怒ってはいないのだが、心配するあまり怒っているようにも見えなくもなかった。
「どうして? 逆流だけなので失敗が不可能なのに。いや、確かに反応は……」と少女は杖を強く握ってブツブツ言う。一方、男は「ははは、残念だったな」と笑う。「何を他人事のように。もう帰還するが無理かもなのですよ?」
「君のせいでな」
「あぁっ! それは……」と少女はガックリする。そしてまるで神に懺悔する様に常を強く握り、「お母様お父さん、御名を汚してしまってごめんなさい……」と言った。
「いやいや、ジョーク冗句。『男が痔の病気なので医者に診てもらい、彼に座薬を入れて貰った。一週間程毎日入れなくてはならないので、嫁に頼む事にした。そして嫁が男の尻に手を触れた時、男はこう言ったのだ。『男)ファック!』『嫁)どうしたの?』『男)どうもこうもあるか! あの医者、俺の尻に両手で触ってやがった!』』。HAHAHA」
一方、男はあまりに率直に受け取る少女にやや驚き、慌ててそう道化た。しかし少女はやはり幼い顔して落ち着いて言う。
「願望は真面目への一歩です。楽しいは良いですが、真面目が望まれる時にお茶乱気を思う心は物言いです」
「しかしその概念もまた誰かによって作られたもの幻想に過ぎない……」
「んム? それはそうですね」
「うん? 其処で納得されちゃうのか。素直な子だね。まあ、いきなりこんな事になっているんだ、事態を呑み込めずに混乱しているとしてご容赦を。そんな俺の愛読書は『ライ麦畑で人間失格して』。これはひねくれ者の聖典さ……何だその本」
「さあ、何でしょう。人間に失格とか合格とか在るですか?」
「さあ、どうなのでしょう。社会が望む姿というのは無きにしも非ずと思ふけど」
「ならその社会自体が失格か合格かも決める必要があるですね」
「そしてソレを決める者の合否もまた……。何処まで行っても疑問ばかり。問う己自身さえも解らないのだから」
「まあそんな事より、今は目先は私には殆ど大切であるですけどね。どうするですか、もし返品不可なら。友達から離れるは寂しいですし、親御さんも心配が一杯です」
「やー、でも俺は記憶では三十歳前後、一々心配してもらう歳でもないしなあ。大学の単位は困るけど。しかし無理に帰らされそうになってさっきの大岩みたいに『爆☆殺』されたらかなわないしね、ハハハ。ソレに先に言った通りだ。俺はこんな世界に来られて嬉しいよ。だから心配する事は無いです」
そう、男は軽口を言って愛想笑いした。しかし少女は物憂いそうな顔をした。事の次第の重大さが徐々に実感され、それは表情になって表れた。
「……私は残念です」
「だから構う事ないですぜ。死んだ訳じゃあるまいしです」
「でもでも……」と、少女は頼る様に杖を強く握った。そして暫し逡巡すると、やがて意を決したように、「そうだ、帰還が期待できるまで、私に何でも言うくだしゃあね」
「『何でも』ですか。それって色エロなアッチ方面のお世話も……ってうわ、こんな幼い娘に何言ってんだ。ロリコンかよ。親父臭い。ゴメン、今のやっぱなし」
「? 兎に角、安心するです。無料で不自由なく衣食住を用意なのです。万術士は世界と調和するが心意気、貴方がどんな方でも遠慮無しで良いです」
「切り替えの早い娘だね。そういう対応力の在る出来る女性って、俺好きよ? けど、親御さんが何て言うか……」
「大丈夫です。親は気にせぬで良いです。程度はあれ、被召喚者の権利や罪と罰などは召喚者に任されます。なので、貴方は責任を持ち私が面倒見ます」
「幼い成りして自信たっぷりに答えるね。可愛いぜ。そしてそれは、なんか使い魔というかペットみたいな感じだが……しかし、俺はこの世界に来たばかり、ましてや万法世界など意味不明、あまり労働は期待できないかも知れんぜ?」
「結構です。居候で構わぬです」
「むぅ、君に断る理由も物理的な問題も無い訳か。だが、俺としちゃ、女の子に男の大人が世話に成るのは、どーもなー。そりゃ、年の差カップルは少女漫画のお約束だが……」
「大丈夫です。本当に。どうか宜しくお願い致します」
そう、苦笑いして肩をすくめる男に対し、少女は申し訳なさそうに頭を下げた。それは免罪符を得ようとか、この場を丸く収めようとか、そんな打算や演出のない、自分の行いを反省している謝罪だった。逆に申し訳なくなる程に健気だった。
だから男はその謝罪を受け辛かった。彼女を悪いと思っていないのだから。幼い顔と温和な性格のクセして、頑固な少女のようだ、容易に意を譲らない。それでもその謝罪を受け取るわけにもいかず、男は許そうとした。
そして男はその少女の頭に向かって右手を伸ばした。しかし、その手は宙で止まった。
(何様だ)コミックやノベルよろしく頭を撫でようとしたが、そんな食傷な自分に頭を振った。それは女を見下し、オスとして征服感を満たしたい動物の行動だ。そんな風に彼女を見るのは嫌だった。だから男は肩をすくめ、手を降ろした。(大体、「許し」などと思い上がりだ。まあ、罪悪感に付け込むのも一興だが……)
どうせなら、もっと楽しく行こう。そう思い、男は「Snap」と指を弾いた。それに少女はビクリと顔を上げる。その目に笑った男の顔が映る。
「そうだ、俺と友達になってくれないか?」
「え? 友達、ですか?」
と、文脈が読めない少女は訊き返す。それに対し、男は「そう友達」と、ゆっくりと立ち上がり、言葉を続ける。
「折角の縁だ、この愚者めの友達に成って下さいまし。『フォレスト・ガンプ』は一期一会、『ラブ・ストーリー』は突然に、『BOY MEETS GIRL』は幾つものドアをノックして、『カサブランカ』は世界に星の数ほど女は居るのに君の所に行くのさ。まあ最後は冗談だが、とまれ、友達に成ろうず。この俺に君に親しい役をくれ。せめて赤の他人の居候じゃなくて、知り合いの友達が泊まりに来たとでも思ってくれれば、俺の安いプライドも幾分か落ち着く」
「はあ、成程……」
「そして成ってくれないと見知らぬ土地に来た孤独感で泣きながらお前を恨む」
「えぇっ!? そ、そんな……強く生きて下さい」
「(強さとは、何だ……)なんて当たり屋みたいな脅迫はしないから、友達に成って欲しいな。無論、君が良ければだけど」
「それは、まあ、良かですけど……」
「良いねぇ。包容力のある女性って良いですよ」
「良いですけど……」少女は思案するように口ごもった。「その……私、殆ど此処に一人で暮らしなので、人付き合いも少ないなので、上手く友達できるか……」
少女は俯いて気まずそうに頭を下げた。男は「何だそんな事」と笑った。
「友達は『やる』もんじゃないだべさ。適当になってるもんよ。むしろ苦手な方が歓迎やね。それだけ君の特別に成れるという事だから。それに大丈夫さ、俺は友達がどんなものかも忘れてんだから。気楽に笑ってれば良いさ。俺もそれを見て笑うから。むしろ、俺の事を思うのなら、仲間がいる方が楽しいですな」
男は「どうかな?」と少女を見つめた。少女は不安そうにしていたが、やがて決心したように、柔らかな笑みで男を見た。
「……はい、それじゃあ、私で良ければ」
「グッド。それじゃあ自己紹介とシャレこもう。と言ってもご存知の通り、俺の名前は忘れてしまった」最高だぜというように首を振った。故に男は「だから、取り敢えずそうだなあ」と悩んだ。さて、どうしようか。ネットがあればもうちょっと凝った名前を付けられるのだが、そうもいかない。それともこの幼い女の子が知らなそうな卑猥な下ネタでも言わせてみようか。そんな事を考えたが、しかし、この名前にする事にした。「俺の名は、ケイ。ケイとでも呼んでくれ」理由はない。口ずさむような、ふと思いついた名前だった。もしかしたら忘れている誰かの名前かも知れないと思った。「君の名前は?」
「あ、ええと」少女は慌てて立ち上がった。立ち上がった少女の頭はやっと男の腰ほどという位置だった。「はい、私は……」
そう言われ、少しの恐怖と、少しの恥ずかしさと、何だか解らない喜びが混ざったようにはにかんで、トキトキとした表情で、少女は言った。
「私は母アウレロアと父アルマギアの娘、『レティス・ノーテルシア・アウラギア・メア・レティス』。宜しくはノアと呼んで下さいまし」
その名と名を名付けた親を誇る様に、ケイの顔を見つめて言った。その言葉の意味は解らない。だが、とても綺麗な音色だった。それを発する彼女の心が綺麗だった。
「そうか。ではノア、今から俺達は友達でまし。喜劇なる時も悲劇なる時も男性名詞で箱舟に乗る時も、これを愛し慈しみ、シが二人を分かつまで、共に歩む事を誓いますか?」
そうおどけた感じで言う男、ケイは右手を差し出した。誰かに握ってもらうために。
「それは貴方の世界での誓いの文でありますか?」ノアはその初めて聞いた大仰なセリフにくすくすと笑った。「はい、良いが一杯ですよ。誓うです」
ノアはエプロンで右手を拭いて、差し出されたケイの右手に、そっと乗せた。その少女の手は、雰囲気から白く柔らかそうに予想され、しかし実際には薄汚れ、硬く、老人のようにガサガサしていた。切傷や火傷や赤切れや肉刺も多かった。綺麗な肌とは言えない、歳の割には老いた手――働く者の手であった。ケイにはそれが美しく、愛おしく、また羨ましく思った。
ケイに右手を握られて、ノアは恥ずかしそうにはにかんだ。トキトキとした表情で、ケイの顔を見つめていた。一方、その顔を見て、ケイは湧き上がる衝動を覚えた。胸に、星に火が入る思いだった(BGM『夏影』)。
「……ふふ、良いね。実に良し」ケイはノアの右手を両手で掴んだ。「初めて海外旅行した時を思い出すなあ。朝日を見てこれから『始まる』と『始まってしまう』というアンビバレンスなあの感じ? ああ、胸が幸福感で一杯だ。『この人の手を離さない。僕の魂ごと離してしまう気がするから。』って感じだ。あースゴイなあこれ現実かなあ? 本当の俺は今頃ガンギマリで精神病院で眠っているとかいう『マトリックス』じゃあないよなあ? ふふ、ふふふふ……」
「大袈裟だなあ」
ノアは困った様に、けどそうやって喜んでくれるのが嬉しそうに微笑んだ。
「大袈裟なものか。君は、君が、どれほど望まれているかを知らないんだ」
「えー、そうかなあ?」
「そうだとも」ケイは右手をノアの手から離し、劇役者のように大仰に語る。「『俺たちはな、ただ名前ばかりがシャボン玉のように膨らんだ、夢幻の恋人に恋い焦がれている』。幸福や真実や神という、見た事もない女性にな。しかし君こそは、僕の望んだ星に違いない。違いないと何千回も思ったが、今度こそ違いない。
君の笑顔が私の幸福。しかし恋を語るのが恐ろしい。何故なら君に恋する神の怒りを受けるだろうから。しかし君が僕に心をくれるなら、私は神とさえ戦おう。いやくれなくとも構わない! 私は無法の風刺者たるシェイクスピアの道化のような影法師。憐れな役者。故にただ、遠くで見る事が出来れば『GRRRR』ぐるる?」
ケイの台詞は「ぐるるるる」と言った音で上書きされた。いや、岩蜥蜴ではない。ケイの腹の音だった。最後に食事をしたのが何時だったのかを脳がすっかり忘れていた為か、あまりに呑気な頭に腹が立ったようだった。
「くすっ」その音を聴き、ノアは思わず左手を丸め口元に当てて笑った。「そして、1番目の為のしばらく早い昼食を取るですか?」
「いやあ、無遠慮だと思うけど……ハハ、そう言ってくれるなら、お世話に成ろうかな」
「はい、喜んでお世話しちゃいます」
にこやかな表情でノアが言った。
「おー。おおー……おー!」
ケイは感動していた。食卓の隙間は心の隙間。食事の温かさは心の温かさ。口から垂れる涎を止める術はあろうとも、顔に零れる笑みを止める術をケイは知らない。
「この焼いた肉は何?」
「それは針鳥のパチパチ焼きです。パチパチするです」
「この紫色の飲み物は何?」
「それは石菜を角育汁で煮込むものです。甘いが一杯です」
「この灰色の花びらは何?」
「それは月輪草のサラダです。仄かに甘くい花びらと柔らかく酸っぱい種をを口一杯にほおばってもしゃもしゃすると、楽しいが一杯なのです」
「コッチの揚げた肉は何?」
「それは緑風鳥です。堅果と一緒に揚げて、カリカリは香ばしくです」
「この蒼い木の実は何?」
「それは森の実です。実はさっぱり苦く、種は甘々です。二つ一緒に食べるが一般ですね」
「へへえー!」
ケイの質問に対し、前に座っているノアが応える。四人ほどが座れそうな机には、見たことある食事から見たことのない食事まで様々だった。
ケイはカランカランと鐘の鳴る扉を開けてノアの家に入り、彼女に食事を貰っていた。部屋の内装はこうだ。木と草を主とした造りであり、岩は少ない。四角い箱や天球儀の様な物を上に置いた棚には、ズラリと並んだ本と、その間々に写真や植物や動物の人形が置いてある。階段の上にも本が積まれてあったりする、片付け忘れている様だ。絨毯には木を主題としその回りに動物や木の実がある絵が描かれている。
(「如何にも」だな。ファンタジーだ。家を貫く樹なんかは「聖剣LOM」を思い出す)
そう思いながら、ケイは辺りを見渡し、ついで机の方に眼を遣る。
机の上にはケイの世界でも見た事のある様な料理が在った。例えば色取り取りの欠片が入った白いスープ、これはシチューに似ている。バリッとした皮に包まれた白い絹と木の実は、クルミパンによく似ている。ピンクの切り身はベーコンで、形の良い黄金の半月はオムレツに似ている。しかしそれ以上に見たことの無い物があり、特に生の野菜と思われる物は、食べるのには流石に勇気がいった。だがそれは楽しい勇気だった。
四角くてゴツゴツしたレゴブロックのような木の実や、丸いサンゴみたいな白くてうねうねした野菜(シャキサクしてる。カルピスみたい?)、兎に角大きくて厚い肉(歯ごたえありで汁っぽい。羊肉)、ストライプ模様の大きなゆで卵(中身は真っ青で黒身。ザラザラして味は甘いごま豆腐。固ゆで)、湯気立つバターのように柔らかい芋(バタークリーム味。パンに乗せると美味)など色々あり、まるで好奇心を食べているようだった。明らかにイモムシめいた魔女的な食べ物が無かったのは幸か不幸か、しかしそれでも今なら勢いで食べられそうな気持だった。
「やあ、舌鼓とはこのことだ。幸せのラッパも鳴ってるよ。食器を鳴らす金属音、スープをすする音、談笑に交じる鳥の声、日常の音というのはかくも心地良いものだったか」
叙情に満ちた表現で率直に語った。その台詞に、良くもまあぺらぺらとそんな言葉が出るものだと、見知らぬ自分が感心していた。目の前の少女も笑っていた。
「それは美味しいって事実ですか? だとしたら嬉しいな」
「そういう意味だよ。名前の付いた料理は久々な気がするね。これ、全部君が?」
「大体は通りですね。けど、色々に家事や私事のお手伝いをするくれる星霊がいるです」
「ふーん。使い魔って奴かな? 俺の世界にもそんな幽霊がいるよ。シルキーっていってね。シルクのドレスを着ていて、動く時に衣擦れがする。けど天邪鬼で、仕事がないと逆に邪魔をするんだって。そして割と美人らしい。けど、それは男の願望かもね。
けど、豪勢だね。何時もこんな感じなのかい?」
「いいえ。長い時間の後に他人と食べるので、それは少し張り切り過ぎちゃいました」
「あー、つまり『久々に二人で食べるから、張り切った』って事か? だとしたら、それは嬉しく成る台詞だね」
と、ケイはニコやかに応えつつ、自分で言った「久々に二人」という言葉を考えた。
つまり、それは「長らく一人暮らし」という事だ。それはどうにも奇妙である。こんな女の子が、こんな辺鄙な森で。寂しくないのか……。
「寂しいは無いですよ」しまった、とケイは思った。考えを読まれていた。意外と、この少女は聡いらしい。そんな彼女は、声を少し低くして台詞を続ける。「……お父さんとお母さんは、私が物心付く頃に家を空けて全く帰って来ぬです。風聞によって世界中を旅し働いてるようですが、手紙も何も無いのでよく解りぬです。お義姉ちゃんは来ますが、忙しいが一杯で月にほんの約一回来るだけです。だから、殆ど一人暮らしです。
けど寂しいは無い無いです。この森にアイオンは私しか居らぬですが、でも、この森自体が友達ですから」
「だけど、君は子供じゃないか。親も居ない何て……」
「子供だから如何にするです? 別に問題なかですよ。況や、この周りの成人基準は、年齢ではなく一人前かどうかであります。そして私は自立してるので、幼いけど大人です。例え子供でも、この森もまた親です」
ノアはさも当然そうに応えた。ケイもまた、確かに問題ないと思う。
子供の定義など環境により様々だ。伝統的な儒教たる家族を重んじる朝鮮だと結婚、狩猟社会では特定の獣を捕らえる能力、動物社会なら親離れが成人基準である。それを野蛮だ何だというのは、ただの文化進化主義である。むしろ能力も無いのに歳を食えば自動的に大人に成る近代世界の方が異常だろう。
況や、子供という概念が明文化されたのは、ケイの世界では1989年の国際連合による子どもの権利条約からなので、もしこの世界が安っぽい物語よろしく中世世界観なら子供の概念そのものがないだろう。寿命が低ければ相対的に成人年齢は低く成るだろう。
「だけど、子供を放っといて仕事など、幾ら世界を舞台に働いてるとは言え、福祉論を齧ってる俺様にとっちゃあんまりだ。君に関心が無いんじゃないの?」
「そうかも知れません」
「じょ、冗談に決まってるじゃないか」
「はー。でも、良いんです。きっとそれだけ世界に必要がされているのでしょう。そんなら私は親を誇るが一杯です。或いは、私を一人が大丈夫な一人前と見ているのでしょう。そんなら私は私を誇るが一杯です」
そう言って、ノアは静かに微笑んだ。親に厳しく優しく大切に育てられ、またそんな親を誇る事が解る、満足げな笑みだった。
「ははは、成程。君は親が大好きなんだね。俺も親が大好きさ」一方、ケイも笑っているが、内心、たじたじであった。黒い冗句のつもりだったが、こうも宗教っぽく和やかに返されるとは。こういう心意気の在る者に、ケイは弱い。「スマン、部外者があまり家庭事情にツッコムべきじゃないよな」
「おや、貴方は友達では? 友達なら、気にしないが良いですよ」
「あ、あー、そうかい?」笑うノアに対し、ケイはバツが悪そうに愛想笑った。「うーん、幾ら道化を気取っても養殖……天然には敵わんか」
「はい?」
「いや、あー、友達と言えばさ、一人暮らしと言っても、友達とかは居るんでしょ? それとも、アレかな、引っ込み思案?」
ケイは誤魔化す様にそう言う。それに対しノアは苦笑い気味に、
「あーぅ、そのようなものはそんなに不可能です。多く外者が連れて来られる時、森のエルが汚くなり、すれば回復する事が困難です。お酒が果実と水に分けられない様に……」
「……あー」そこまで聞いて、ケイもまた苦笑い気味にこう応えた。「つまり、環境破壊的な問題かい? ぢゃあ、もしかして、俺が来たら何か不味かった?」
「そりゃ不味いですよ。げー、ですよ」
「ぶっどぅはぁ!」
「『ぶっどぅはぁ』?」
ノアは可愛くオウム返しし、ケイは大袈裟に血反吐を吐く。ただの赤い果物である。食べ物を粗末にしては以下略。
「【つうこんの いちげき! ケイは 30の ダメージをうけた!】。俺、防御力は高いけどHPは低いメタル系だからクリはヤバい……俺なんかが居たら、森が汚れるよね」
「へあ? はっ! あぁっ」ノアはケイの言ってる意味が解り、三段階で反応した、「そ、それはそのような意味ではないですよ? 貴方が邪魔な訳ではなく、勝手に召喚するそれが不味い事である意味です。
それに、汚れるは構わないです。泥遊び好きな子供に親が怒る様に、汚れは普通の主観です。むしろ清濁併せ呑んで星は在る。白と黒が合わり始めて虹の色相環が成るのです。それが万法の心意気なのです」
「成程、万法は西洋じゃなく東洋的なんだな。聖徳太子曰く、『和を以て貴しとなす』。陰陽五行思想よろしく、絶対の善悪二元論ではなく、むしろ三原色よろしく両者が相生と相剋を繰り返し世界を作るのか」と、ケイは先までの具合の悪いフリを止めて、呆気らかんとそう語る。「そして実に、我が天多いる心の師の一人たる宮沢賢治作『銀河鉄道の夜』で、灯台守はこう語る、『なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。』と……おっと、この台詞は夜に沈むな。とまれ、世界は機械仕掛けに不条理なのであり、絶対なんて無いのさ」
攻撃魔法を描いた漫画は多々在れど、魔法の思想を描いた漫画はあまりないので、ケイはノアの説明に感心した。武術とは、相手を倒す為だけでなく精心を鍛え思想を顕在する為にあるものだが、少年漫画の魔法はあんまりそういう事を気にしない。
そしてその台詞に対し、ノアもまた感心していた。
「なう。ケイさんの世界に万法使いもいるのですね」
「まっ、物語を描くというのは、特殊相対性理論の『E=mc^2』に従って想像を現実にする、対生成の魔法もとい万法かも知れんねえ」
「しかし、絶対が無いとするはイヤーンです。完全無欠を目指す心意気が万法ですから」
「科学的だね。それがこの世界の科学たる、万法の心意気か」
「それはそうであります。で、話を戻すて、森に来る問題の後にまた在り……」と、その説明に次いで、ノアはケイの様子を探る様に見ながらこう言った。「この森が豊かですが、ともすれば豊か過ぎて、エルの過剰な摂取で成るのです。過呼吸と同じです。過度はそれでも及ばないが様にです」
「え、それって大丈夫なの? 魔法の薬でガンギマリとかに成んないの?」
「『がんぎまり』?」
「ああ、スラングは翻訳されない? つまり、何て言うか、幸福に酩酊するの」
「ああ、成程。なるなる」
「『なるたる』。でも君は大丈夫なんだね」
「はい、それが私がこの森を管理している由縁でして」
「『管理』? この森は君の所有地なのかい?」
「うー、まあ、そのようなものです」少し言いにくい事なのだろう、ノアは苦笑い気味にそう言った。「まあ、私が持ってると言っても、土地は誰のものでもなく、敢えて言えばこの星のものですから、別に私だけの物じゃないですけどね」
「いや、けどこんな森を持ってるとか、逆玉の輿が狙えそうですな。どうでも良いが、子供の俺は玉の輿を『男性の金玉の腰』に乗るから玉の輿だと思ってたが、漢字で見ると腰と輿は全く関係ないよなあ」
「『金玉』とは何ですか?」
「金玉というのはつまり空飛ぶ狸であり『ポケモン』の換金アイテムであり……まあ、まあ、子供には早い話だ」
「先の通り、私は子供じゃないです」
「俺の世界の言葉だから、領事裁判権的に君は子供です」
「むむ。治外法権イクない。世界と調和するが万法です。仲間外れ。ダメ。ゼッタイ」
「おや、専門用語が伝わった? これは驚き。召喚術の翻訳は、意外と柔軟だね。
まあ、オブラートに言うと、玉の輿とはお金儲けができるという事さね」
「はー、成程。でも、確かにこの森は豊かですが、利用するのは困難です。というのも、普通の者はこの森に住めませぬ。エルを摂取し過ぎて、病気に成った様に高熱、嘔吐、過剰精力などが起きますから。是にお馴染みに成るは難しいが一杯で、一年は掛かるます。しかも外に出たら一日で不慣れます」
「それは結構だな。要するに、ニンニクやスッポンなどのスタミナ料理を食い過ぎてオーバーヒートに成るって事か。精力剤を飲み過ぎたら、目が冴えて胃が重くなって身体がパンクしそうな気分に成るのと同じか。『そうだね、パイアグラだね』」
「『ぱーぐら』って何ですか?」
「あー、流石に造語は翻訳されないか。薬の一種だよ。あ、大丈夫だぜ? 俺は紳士だからね、いきなり襲ったりはしないさ。折角のファンタジーだしね、子供向けにイきたいのさ。てか、万術士に素手で勝てるとも思えんし」
「はあ、そですか(←意味が解ってない)。けど、何だかケイさんは大丈夫みたいなのです。何ででせうね」
「『千と千尋の神隠し』曰く、その世界で居るにはその世界の物を食べなければ成らんという。だから君の食事を食べた俺は大丈夫なのだ。ギリシャ神話の女神ペルセポネーや日本神話の女神イザナミな噺だね。まあ、アレは『バイオハザード』だが」
「或いは召喚者、つまり私の色相が移るが予想されるますね。環境への不適応が起こらぬよう、被召喚者を召喚者の色相に合わせるのは召喚術の基本ですから」
「ああっ! 僕がこの世界に居られるのは君のオカゲだよ! ありがとう! これはもう君の奴隷に成るしかないね! 結婚してくれ!」
「『けっこー』って何ですか?」
「え、是も翻訳されない? 何でだよ。R18禁だから? うーん…Rと禁で規制がダブってしまった。ミス・鈴木さん、みたいな。とまれ、どんな翻訳制限なんだ。放送コードに引っ掛かるのかな。じゃ、『キス』が伝わらなかったのも、意味が解らなかったんじゃなくて翻訳されなかったから? てか、そも誰が翻訳してるんだ」
「普通なら、翻訳者は星霊さんですね」
「何か電波ゆんゆんだなあ、俺」
などとケイは道化て笑った。
ノアとする食事は楽しかった。やはり食事は、食事自体の質もそうだが、わちゃわちゃ楽しんで食べるのが良い。畢竟、食事は心を楽します道具の一つなのだから。
(尤も、全くの莫迦に成るには、俺は大人過ぎるがね。ノアの一人暮らしといい、閉鎖的な森といい、ちと異常だ)そう、ケイの顔は少女に優しく笑い掛けながらも、頭は冷静に考える。(この森は、禁足地や神奈備や仙境的な場所なのかもしれん。奥に行ったら神隠しに遭う的な、神聖不可侵な場所的な。或いは、自殺名所なので危ないとか、闇の秘密結社やエリア51よろしく何らかの規制が在るとか。そしてノアが森の管理者か門番的な感じ。或いは仙人や隠者な世捨て人とか、穢多や非人の部落差別的な身分の者とか……考えるだけなら幾らでも出来るな)
いっその事、彼女に訊こうかとも思った。あまり言いたくない風であるが、素直な子だし、強く訊けば答えてくれるだろう。いや、逆にだからこそ答えくれないか?
しかし、敢えて訊かなかった。必要以上に部外者が他の文化に介入すべきでないのは、フィールドワークの常識である。況や自分は、自身でも何処の馬鹿の骨とも知れぬ赤の他人……訊くのは驕っていると思ったからだ。
(まっ、良いさ。昼でも夜でも、早すぎる男は嫌われるぜ。何か事情が在るのだろうが、先ずは様子見だ。それに彼女が本当に魔女なら、知っちゃ不味いものもあるだろう。「鶴の恩返し」や「浦島太郎」や「青ひげ」など古今東西の説話に見られる、見るなのタブーって奴がね。俺はオカルトを信じないが、否定もしない。そして本物なら、俺様如きに対処できるか解らん。
ま、とまれ、必要が在れば、アニメみたいに後で解って来るさ。少なくとも、彼女はずっとこうして生きて来たんだろう。なら、心配はおこがましい、余計なお世話だ)
だから出来る事といえば、少なくとも今はまだ、当たり障りのない事を言うだけだった。
「本当に寂しくない?」
「まあ、正直言えば少し寂しいですが、けど、仕方のない事です」
ノアは慣れたように応え、コップを両手で持ってすすった。
それが強がりなのか、我慢しているのか、ケイには解らない。しかしいずれにせよ、自分が思っているよりも大人なのだな、と思った。
「それに、森は楽しいですし、たまに街を行きますし、生活も困ってません。だから、私は大丈夫です」
「……そうか」ケイは余所行きの軽い笑みを浮かべて言った。ああ、そんな顔しちゃダメなのにな。友達になろうと言った矢先に、そんな他人行儀。「けど、残念だな。もう少し寂しがってくれれば俺の役もあっただろうに。もっと頼ってもいいんだぜ?」
「うーん、よく言われます。我が儘を少しもっと言って良いと。けど、子供の時間こんな感覚で生きてきましたから……」
「君には君なりの世界が在る訳だ。そしてその世界は俺には知り得ない。まあ今の俺は自分の世界さえ覚えちゃおらんのだが」
「早く思い出すが良いですね」
「その為には糖分が必要だな。甘いお菓子はあるかい?」
「はい、ありますよ」
「やあ、嬉しいなあ」
楽しい食事を終えた後は、家の中を案内してもらった。家は普段過ごす母屋と様々な品を置いてある広間に分かれていた。ケイは広間に行き、アットホームな雰囲気に感嘆した。
「おおー、『如何にも』、という感じだな。『らしい』というか、『様になってる』というか。ファンタジーのお手本だな。華やかというより古風な感じの。見てるだけで楽しいな」
棚に並べられてある品々に次々と指さして説明を強請った。ノアは快く応えてくれた。
「この銀の器は何?」
「これは『月星の器』です。一晩、器に水を入れる置くと、水が滋養と風味の良い酒に変わるです。上物であるのは、天気が良く月が満ちる時です。新月に汲む置き、満月まで寝かせると良いが一番です」
「このフライパンは?」
「それは『火龍の片手鍋』です。火龍の鱗をそのまま用いていて、耐熱性と浸熱性に優れるです。出し汁も取れて、これで料理すればどんな食材も一級の味と薬に成るます。殆どお高いですが、値段は能力です」
「このスライムみたいなとろりとした奴は?」
「『粘液糖』です。粘り気を置きたい時に掴まれるですね。活躍が料理から薬までです」
「コッチの瓶のキラキラした粉は?」
「それは『火妖精の粉』です。火薬や暖房や料理の隠し味など幅広く使うですが、何れにせよ、注意する取扱です」
「コッチの真っ黒な本と真っ白な本は?」
「両方とも『生きてい』……ええと、『生きていた絵本』です。ルルモさんとする高名な万術士の真似をして物語において時間の概念を作るたのですが、片方は余白が足らず世界は文字の為に窒息死してしまい、ならばと消去の仕様は追加された片方は自分の昔を忘却に絶望し自死してしまいました……」
「このキラキラした透明なコップも特別なもの? 俺の世界と変わらん錬金術レベルだ」
「それは普通の水飲みです。ただ、光を乱反射する少量の不純物が基礎の金属に混ぜているので、星屑は入れられた飲み物で燃えるようで綺麗です。柔らかく優しい光を演出します。名付けるなら『星海の残滓』や『昼の星空』という所ですかね」
「この『パンズ・ラビリンス』みたいなチョークは?」
「『空想描き』です。御伽噺の道具の模造品で、絵を具現して、何処にでも扉を作れたり、簡易結界を作ったり、空想生命を作ったりできます」
「この『魔法の国が消えていく』っぽい車輪は何だ?」
「それは『エルの車輪』です。それも御伽噺の道具の模造品で、設定した力場に回転し、その場にどれくらい設定の力があるか調査します。けど未完成です」
「この『シラノ・ド・ベルジュラック』の語りそうな綺麗な透き通った青色の液体は?」
「『空の涙』です。それも御伽噺の道具の模造品で、それを沁み込ませて日の光に当てたものは気球の様に浮くです。ただ降りる手段は別途必要で、沁み込ませが過ぎると月まで行って降りて来ぬになるです。液体を入れた小瓶ごと浮くので、管理に注意です」
「ほほおー!」
まるで映画の設定資料館をみているようだった。文字の形や線や濃度を好みに変えられる羽筆、入れた液体を好きな色に変えられる瓶、別の頁に内容が同期する紙の束、割ると水になる水晶、宙を浮く板、音に反応して歌う花、木彫りのお守り、簡単な踊りをする布の人形や動物、刺激を与えると光る木の実、その他の煌びやかな鉱石や、見た事の無い植物や、書物や杖や家具などの小道具や装飾品など、実用的なモノから純粋な観賞用、嗜好品まで様々だった。
部屋に差し込む陽は暖かく、仄かに渋く甘い匂いがした。土草の独特の匂いである。こじんまりとしかし様々な品が並んだその部屋は、一つの世界を作っていた。初めてなのに親しみ慣れたようなその部屋には、華やかではないが落ち着いた楽しさと安心感があった。
「これ、先の料理と同じで君が作ってるのかい?」
「そですね。隣の建物に工房が在るて、そこで作るです」
「へえ、凄いな。色々な道具が売ってあるんだな。雑貨屋みたいだ。『晴れたり曇ったり』や『トリスティア(ぱんつはいてない)』や『笑ゥせぇるすまん』みたいな異世界経営SLGができそうですね」
「『みたい』というか、そうなんです。森は全ての町からもウンと去っていて、また森自体も深いので、訪問し来る者はそう多くある訳ではないですけどね。特別受注ならしばしば来るですけど、そう手が素敏捷い方ではないので……」
「ふーん、経営難?」
「販売されない事はそんな意味ですが、経営の意図が全然ないので、何とも」少し照れるようにそう言った。「けど、良いんです。実験や物作りは趣味なので、お金は結構なのです。生活に森は十分ですしね。先の食事の材料も殆ど森起源ですよ」
「結構アウトドア派なんだね……って、さっきの食事も森由来なの? 随分と森の獣達と仲良さそうだったけど、殺しちゃったの……?」
「? それはそのようなものではないですか? それは自然であります。食物連鎖であります。素直は森なので良いです。食べて食べられしても、恨み痛み在っても、怒り悔い在るません。確かに、森の獣は家畜では違う友達です。けど私が彼等を食べする様に、彼等も私を食べして良いがなのです。今回は、たまたまただ前者であったです」
「ははあ、まるで農家だな。異世界の田舎で悠々自適に晴耕雨読か。少しだけ憧れるね。パックされた食材を買う都会人には解らん感性だ。
因みに、俺の故郷の農家は赤字しながら働くという超絶低空飛行らしいが、其処ん所ど思うん? まあ、土地が狭いのが原因なのだが。輸入産物ばかりに頼ってると、戦争に負けちまうぜ。まあ、もっと行って銃も輸入される様に成ったら笑えるんだけどなあ、アハハ。父さん、倒産しちまったんだ、ってな。まあこれを翻訳してもギャグには成らんが。俺の父ちゃん公務員で爺ちゃんは軍上がりの自衛隊だったけど」
「うや? はあ、他所の事を知られませんが、数が無駄なら品質が在るかを考えます」
「まあ、ブランドは大切だよねえ。学歴だのレッテル貼りだの世間は言うが、やはり先人の気付き上げてきたものは大きい。少なくとも個別化が無きゃあ」
「まあ、私は自分のを作って余りを売るようが多いので、商売はよく解りませんがね。後、基本的に注文を受けるから仕事なので、赤字は無いです」
「まあ、俺も『銀の匙』読んで感化されただけのニワカ・ファッションなのでTPPだの訊かれても知らんがね。そういや、TPPも一時は滅法騒がれたのに、何時の間にか消えたなあ。だから日本は思想が無いというんだ。メディアに言われるままに騒ぐ畜群だ。根本的な問題は其処だな。
などという社会学は若者にはツマランから置いといて、「えっ!? 異世界の文化、私、興味在るのに……」ああ、うん、ノアたんは学者タイプか……しかし、まあ、そんなら猶更、真面目に話せる時に、今度ね。教師やってた時に培った能力で面白く教えてやるぜ。
しかし、余りと言ってもなかなかの技術だ。まあ、森の中じゃTVゲームもネットも携帯も無くて、物作りしかやる事無いなら、そりゃ技術も上がるというものだがね。しかし特別受注が在るとは、幼いのに信頼されてんだね。これも一重に君の才が成す技かい?」
「まさか。森のオカゲです。森が凄いから、大して手を入れなくとも凄いなのです」
「ははっ。クールだね、ステキだね。そういう生活、憧れるなあ」
「大袈裟だなあ」
と言うものの、ノアはそれなりに照れているようだった。うむ、マイペースっぽいけど言葉攻めは効果あるかな、などとケイは適当な事を考えながら、棚に眼が行った。
「お、本がある。この本は何?」
「あ、それは売り物じゃないません。私物です。新聞とか、史書とか、料理本とか、絵本が在るですよ」
「絵本! いいねえ、夢の世界の夢物語か。魔法の世界のお月様は、どんな絵の無い絵本を語るのか知らむ?」ケイはワクワクして絵本を手に取った。夜色の装丁に、蒼月の銀と草原と少女が描かれていた。月の上にはタイトルが……「……おや?」
しかし、文字が全く読めなかった。ケイは割とオカルトや神話が好きであり、その手の書物は読んでいた。そしてその手の書物は和訳されてない海外ものも多く、必然、外国語に詳しくなった。海外旅行や留学も割とするので、読み書きだけでなく話す事も友人との日常会話程度なら色々と出来た。
しかし此処に書かれているのは、当たり前のように如何なる地球語では無かった。英語や中国語は勿論、秘密文字でも天使文字でも聖刻文字でも人工言語でもなかった。文法法則さえ解らなかった。
「むう。ノアの万術の時に描いていた文字は万術専用語と思い解らないのも当然だと思っていたが、普通の絵本も読めないのか……?」
「読めません?」
難しい顔をするケイに気付いたのか、ひょこっとノアが本を覗き込むように近付いて来た。しかし如何せん身長が足りないので、ケイの腕を掴んで降ろす様に背伸びしていた。
それにケイはそれに僅かに驚いて顔を後ろに逸らす。あまりに自然に近づいて来たので、それを異なる者と感覚できず、近づくのにまるで気付けなかった。
(パーソナルスペースの狭い娘だ。一人暮らしだから、そういうのに疎いのか?)とまれ、ケイは驚きを隠しつつ、冷静に応える。「そうみたい。君の言葉は解るのに」
「むー。召喚術による翻訳なら、召喚者たる私の言葉だけが唯一理解しているのかも」
「フーム。万能に見えて、色々と制約や努力があるのだね」
「いえ、この場合、召喚者にはそれがそれが便利である事であると思うますよ? だって、召喚者たる私がいなければ、この世界の言葉も文字もケイの為に知らないですからね」
「おぉっ? マジでそうだ。ファンタジーのお約束と思いきや、とんだブラック企業ですぜ……飼い犬の気分だ。まあ良いけどね。雨ニモマケズ風ニモマケズ歌う『十二夜』の様に、台詞を付ける『シラノ』の様に、夢にて悪魔たる『風立ちぬ』の様に、道化は使い魔の役がお似合いです。おっと、悲劇だなんて思っちゃいけない。道化は泪や感慨の裏打ちを暗示しないものだから。後は、忘れ去られる! 新しいアニメ・ヒロインが出る度に脳内嫁を取っ替え引っ替えするやうに……」
「私はそんな物忘れ残酷じゃないですよ。とまれ、けど、万術はそう難しいモノではないですよ。万術は何も持たない者が世界を愛し愛される為に作るたとされるですから。だから、歩く様に、絵を描く様に、卵焼きを作る様にできると大霊は言うます」
そう言って、ノアは持っている杖で空気を掻き混ぜるようにくるくる回した。するとその動きに風が従い、空気の渦ができあがる。そしてノアは混ぜるのを止め、空気の渦が消える前に、シュンと杖で縦になぞった、すると風の渦が斬り裂かれ、Bow、と赤いが炎が出来あがる。その周りに先の様な光の文字はない。またその動きは淀みなく、先に失敗して大岩を爆破させた者とは思えない。
炎はノアを中心にして星のようにゆったり回る。その炎は熱さや光を感じさせず、燃え移るという事も無い。さらに炎は姿を変え、火が凝固して風と成り、風が液化して水と成り、水が固化して土と成り、更に土は昇華して火へと戻った。それは森羅万象の色相環、ケイの世界の宗教でいうなら陰陽五行思想、科学で言うなら相転移を示していた。尤も、それはただの名前の違いに過ぎないかも知れない。とまれ、その一連は自然であった。
「けど、良い悪いもそれは事実で、極めるは困難が一杯一杯です。風より早い歩いたり、未知の絵を描いたり、一流の料理人に成るは技術や努力では無理な壁があるです」
「はあ、確かに」
ケイの住む世界でも数学や文字という万術がある。けれども学者レベルになるとそれはもうプロのレベルで、その他大勢が理解できる範疇を越えていく。天才と呼ばれる者達の所業は、それこそ魔法なのだろう。
「でも、私達は足の動かす補法を知らずに歩きますし、子供はお話を簡単に作りますし、お母さんの卵焼きは誰にだって負けませんけどね」
とノアは笑って付け加えた。炎がそれを照らしていた。ケイはそれに幻術に掛かった様に呆気にとられたが、やがて「……それも確かだな」と同じく笑った。
人体や心がどうやって動いているか解らない。大好きな人がくれたものなら何だって宝物。そういう事だ。理解などしなくても、確かな論理はなくとも、物事はいとも容易く進んで行く。「そうあれかし」と望むなら、空も飛べるのかもしれない。
まあ実際にガンギマリして頭がくるくるパーになっても空を自由に飛べるわきゃないが。しかし此処は誰人か識らん魔法の国。本当に飛ぶことさえ出来るかも知れない。
「俺にもできるかな。というかやってみたい」
ケイはノアの炎に触ろうとした。ノアがそれを止めながら慌てて炎を消す。
「うーん、如何に思おう。教科書はあるですが……」
教科書! そういうのもあるのか。
「けど読めない……」
ケイは恨めしそうに文字を睨んだ。
「ちゃんとした翻訳万術を探すが良いですか? 倉庫を漁れば出てくるは可能性」
「大丈夫だ、問題ない。言っただろう? 俺は旅行の醍醐味はハプニングだと。それに俺は海外旅行のエキスパート。地球語なら母国語並で三十、片言並なら千程度は喋られます。この辺りの言語も、『ガリヴァ―旅行記』の如く三週間でマスターしますぜッ!」
「わっ。よく理解されないですが、凄くですね」
「輝かしい眼が眩しい……」ケイはげんなりとしてそう言い、その台詞にノアは「?」と笑顔のまま小首を傾げた。「いや、流石に無理だ。せめて一カ月、いや二カ月……むむむ」ケイは眺めていれば答えが出てくるとでもいうように頁を見つめた。無論、出てこない。「Boy! 目の前にこんなに面白そうな話があるっていうのになあ」
「良いか私はお教えする事にしますか?」
「貴方が神か」
「ノアですよ」くすくすと笑った。「物語、好むのですか?」
「物凄く好き。高尚で長ったらしい言の葉で森を作る哲学書も、一輪の花のようにふわりとぽつりと語る詩もまた格別だ。と言いつつ、人に語るほど読書家でもないのだが」
「そうですか」
「そうなんです。そうだというのに……はあ、惜しいなあ。けど絵は理解できるなあ、月から銀貨が落ちて来るなあ。あっはっは、何処のグリム童話だよって……はあ、吹き替え無し字幕無しの外国映画だなこりゃ」
ケイは肩を落として諦めた。
ああ、パソ子(※「パソコン」の事)があればなんとかなるかもしれないのに。グーグル先生に頼れるのに。いや頼れるのか? ネット繋がらないだろ。けど、少なくとも日記は書けるな。帰ったら纏めて論文なり小説なりにすれば受けるかも知れん。
ああ、自分はなんと無力なのか。機械のあるあの世界が恋しい。いや、これが本当の実力なのだ。機械に溺れて強くなった気がしていただけなのだ。機械を持ったあの万能感。まるで虚構。経済に踊らされていただけなのだ。俺ってホントピエロ。せめてスマホが在ればなあ。そうすれば可愛いノアの料理姿とか写真撮れたのに。何時も、ポケットじゃなくて鞄の中に入れてるから……って、すっかり忘れてた。
「そう言えばノアさん、俺の荷物って落ちてなかった? それとも俺「あ」え?」
それとも俺だけ召喚されたの、と言おうとしたのだが、その前にノアがギクリとした。まるですっかり忘れていたことを思い出すように。というか実際、
「あ、あああ私は残念ですっ! 荷物、あぁっ、それはアミキュスが持つ行くて、アキュミスは『友達』とする意味で、私が母親代わりに卵から育てた子で……」
「落ち着いてよ。俺の荷物はそんなに重要なものじゃない」
ケイは何て事ないという風な顔で、肩をすくめた。本音を言えばパソコンやスマホが入ってるので在った方が良いのだが、ノアが慌てる事に比べれば小さな事だった。
「私は残念です。久々のお客様で、意図よりも楽しいが一杯だったようです……」
何て嬉しい事を言ってくれるのか、とケイは驚いた。いや言葉はよく解らないが、意味は十分に伝わった。それをすぐ「いやいやただのリップサービスだって」と冷静さんが殴り気味にツッコむ。そのおかげでケイは一部で「ふむ」と冷静に考えた。つまり、「友達がいるのだな」と(←何て言い方)。
いや、ノアに友達がいないと考えたわけではない。この森に他の人間の住民が居るのだなと思ったのだ。どうにも人が住むような場所ではなかったから。
(と、考えるほど俺はお約束ではない。漫画擦れした俺には解る。この展開から言うと、多分、そのお友達というのは、少なくとも人間では……壊れてなきゃいいけどなあ)
ケイはノアに気付かれないように、小さく溜め息をついた。
「と、兎角、返すを望みに行きますね。ケイさんはゆっくりしていって下しあ。けどあまり遠くに行くは危ないですから、注意を下さいね」
そうノアはバタバタと準備をし、しかし準備する必要のないことに気付き、足元まで隠す外套を羽織って、例の大きな杖を持った。そんな彼女にケイは言った。
「まあ、適当に頑張ってくれ。いってらー」
「え?」扉のノブに手をかけてキョトンとした。しかしすぐにハッとして、「あ、はい、いってきますですー」
そう少し恥ずかしそうに言って、てこてこと外に行き、歩きながら止まらず滑らかな動きで大きな杖に横向き(サイド・サドル)に乗って、哺乳瓶を届けたいパン屋さんが思わず「WAO!」という様な優雅な趣きで空へと飛んで行った。
「phew~♪『カッコイー』。マジで箒で飛んだよ。魔女が箒を使うのは、騎士の馬の代わりだとか、杖と同じく薬作りの女が清潔にする為によく箒を使ってたからとか、先っぽに魔薬を塗って膣に出し入れした時に空を飛ぶ幻覚を見たからとか、箒は払うので重力も払えるとか、そも箒は要らなくて悪魔に背中を摘ままれているとか、だから教会の鐘を聴くと落っこちるとかいうが……まあ、少なくとも、日本の魔女の箒のイメージは『魔女の宅急便』に由来するのだろうなあ」
ポツン、となった。
まるで劇の幕間のような、ともすれば取り残されてしまったような感覚。大学の講義で寝落ちして起きると誰も居なかったあの感覚。出席カードも出せないで欠席扱い。
「いってらっしゃい、ね。久々に言ったよ、そんな挨拶」
綺麗に整頓された玄関の前で、ケイは手持ち無沙汰な状態で、しばらく茫と突っ立っていた。役者ではない、偶然の観客であるケイには、それ以上する事がない。しかしやがて大きく両腕を上げて伸びをして、する事を決めたように息を吐いて腕を降ろした。
「さて、と」そして爽やかな笑顔でこう言った。「ノアの部屋でも漁るか」
冗談である。
「全くの冗談でもないのだが、トラップ・カードがオープンされたら怖いしね。だからこの場合の選択肢は……外にでも行くか。何か面白い事に会うかもしれんし。って、それはそれで危ないか? まあこんな序盤では死なんだろう」
というわけで、探索行動に行くことにした。
「『Amazing grace! How sweet the sound. That saved a wretch like me! I once was lost but now am found; Was blind but now I see―』」そんな歌を歌いながら彼は歩く。記憶喪失につき意味はさっぱり解らないが、しかしきっと素晴らしい歌だろうという想像だけで適当に歌う。「BGmはG2-MIDIの『日の当たる森で』や、FICUSELの『時の旅人』、海月堂の『屋根裏の散歩者』、SILDRA COMPANYの『秋風薫る君の部屋から』、ROBINの『クレヨン』やTAMの『やさしい雨』という所だね。夢追人の『黄昏の放浪』も良いし、甘茶の音楽工房の『クリームソーダー』や、oo39ドットコムの『ys129』も良いなあ(←インディーズ、というかフリゲやFLASH好き)。いやでも、そういう曲を聴く前に先ずは古典名作を聴くべきだな。シューマンの『トロイメライ』とか、サティの『ジムノペディ』とか、ドビュッシーの『月の光』とか……スマホがあればそういうBGMでも掛けるのだが、今は無いので、土と風と水と光と命を環境音楽にして楽しみますか」
ケイは家から少し離れ、周りを探索していた。ケイは、あまりノアの家を離れて帰れなくなると怖いので、開けた場所しか歩かない。ノアの家の周りは和やかに見えるが、森の奥はいわゆる「迷いの森」よろしく薄暗く不気味であり、姿は見えないが生物の気配もした。生と死が滑稽な程に表裏一体と成った、童話のようであった。
(樹木が侵入者を外に出さない様に鬱蒼としている。いや逆に、この場所を見えなくさせているのか……)
そして、ちと熱いな。今の自分は冬服なので、この世界は季節で言えば春なのだろう。麗らかな「ハルウララ」なのだろう。
「『並べて世は事も無し』。和やかな森だな。静かで、温かくて、優しい、薄明や白昼夢を思わせる……安閑天静だな。牧歌的、無何有郷、宮沢賢治のイーハトーブだ。陶淵明の桃源郷のようだ。
桃源郷は、完全な社会を目指した一神教の社会主義とは違う。むしろ呑み込む太母の魔王という保守の完全が革命たる英雄に倒され、否、相打ちと成り、白黒、善悪、秩序混沌などが終末論か核融合の様に混ざり合い、爆発し、崩壊した後に残る無法の日常だ。海の彼方には探さない、心の内にある原風景だ。
実際、初めて見る風景ばかりなのに、何だか家に帰って来たかのような懐かしい気分に成る。『兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川 夢は今も巡りて 忘れ難きふるさと~♪』、ってか? 田舎の農家を思い出すね」
ノアの家の周りには、家畜か友達かは解らないがとまれノアの知り合いなのだろう、猫の様な三角耳の生えた空を飛べる鶏っぽい鳥や、山羊と鹿を合わせた様な獣や、枝垂柳ように毛の生えた牛と豚とバッファローを合わせた様な獣など色々なものが居た。因みにそれらは泥遊びが好きなのか漏れなく泥塗れだった。自由過ぎる。
「あまり気持ち悪くないデザインで良かったね。『ピクミン』とか『ポケモン』とか的な日本の子供向けデザインだ。限界でも『リンダキューブ』。ディスカバリーチャンネルの『The Future is Wild』も良いですね。未来では地球は惑星動物公園と成っているのです。『After Man』や『La botanica parallela』なね。『SCP財団』だ。ボカァ全くイメージだけの架空生物も好きですが、環境設定とかその環境への適応経緯とか他種族との関係とか、そういうのを考証した設定が在る方が、もーっと好きです。落ち着いたら解剖とかしてみようかな……それは流石に、あのほあほあした能天気そうなノアも怒るかな」
それらの獣達は、本能的にケイに違和感を感じるのか、物珍し気に遠目で見るものがいれば、鼻を鳴らして身体を擦りつけて来たり、服を噛んで来るものも居た。
「止めとけ。俺は外界の住人だ。どんな病原菌が付いてるか解らんぞ。『フィロソマ受精完了』とか。笑えんな。STGってなんでああも変態なんだろ」と、ケイは捻じ角で長い灰色の毛を持つ山羊のような獣が己の服を噛むのを止めさせ、その獣から離れる。それでも他の獣がくっついてくるので、ケイは先から辺りをウロウロしている。それが更に興味を引くのが、中には勢いよく体当たりして来る奴もいる。尖った角で。過剰な愛情表現ですね。殺スケか。「まるで奈良の鹿みたいだ。人懐っこく、緊張感が無く、好奇心旺盛で……天敵がいないのかね。じゃあ、何を食ってんだか。しかし、魔法世界の獣なら喋ったり出来んのか? いや出来たとしても、地球語は解らんか」
森はあまり外界に晒されていないのだろう。辺りの岩には苔が付き、人の匂いが感じられなかった。いや人はノアがいるのだが……森に溶け込んで、違和感を感じなかった。
そう言えば、彼女は服も身体も髪も砂泥や植物の汁で薄汚れていたな、とケイは思い出す。もしかしたら此処ら辺はあまり風呂などに入らない文化なのかもしれない。
「いや、というよりも……」とケイはノアの家の庭を見る。そこには少女が耕しているのであろう畑があった。「仕事人なのだろうな。『わしらの姫様はこの手を好きだと言うてくれる。働き者のきれいな手だと。言うてくれましたわい……(よぼよぼ』ってな。あのガサ付いた手、実家の農家の婆ちゃんを思い出したぜ。けど素材は良いって奴だったね。磨けば光る玉だ。顔立ち自体は幼くも整ってるから、綺麗にすれば普通に見えるだろう」
と、ケイは少女を思い出す。しっかりハキハキとしてるので明朗な印象を受けるが、根っこの所は落ち着いて和やか、というかのほーんと呑気で子供っぽい抜けた所があった。
「ノーテルシア・メア、か……良い子だよな。ちょっと天然で、不思議ちゃんだけど、春の日差しのように心地良い。健気、御淑やか、品行方正って感じだな。こんな辺鄙な森で一人暮らしする生活力や胆力もある。何処の馬鹿の骨とも知らぬ俺への態度から見て、社交性や決断力や包容力も在る様だ。それに可愛い。可愛いってのは大切だ。舞台はやっぱ華やかじゃないとな。悲劇でも可愛いヒロインが居れば頑張れるです。
それに何より、ファッション関係のバイト経験のある俺様が見るに、幼い小動物のようで中々にエロいもとい良い身体していた。髪は豊かに艶やかで、肌は柔らかく張っており、腰はしなやかに引き締まり括れ、足はスラリと伸びながらも悩ましく、それにゆったりした服装なので解り辛いが着痩せするロリ巨乳と見たね。『最近の若者は発育が云々』なスタイル抜群だった。いや、というより体格指数が黄金比だったな。食い物が良いのか、自然に健康的だった。無論、と言ってもまだ子供だし、俺はロリコンじゃないので、成長するのが楽しみという所だがね。
という希望的観測はさて置き、まっ、人は外身じゃあ無いさ。そんなのを気にするのは、ヤりたい奴だけだ。折角のファンタジー、色香より中身を重視しよう。そして女は漫画や愛人ならツンデレが王道だが、現実や正妻ならやっぱり仕事帰りで疲れた夫を慰めてくれる癒し系だよなあ! 儒教な日本人の男は、自分の思い通りに成る貞淑な女が好きなのだ」と、ケイは自分で自分を抱き締め恍惚とした笑みでそう言った。阿保である。「ただし天然は遊ぶには良いがマジで付き合うと殺意湧くから簡便な。けど、惚れたぜ。折角のアバンチュールだ、元の世界に強制送還される前にしっぽりムフフとイきたいものですな。さて、どんな既成事実を作ろうか。手っ取り早く夜這いと行くか? しかし相手は万術士、一筋縄ではイカンだろう。魔法世界なら媚薬の一つや二つ……(ぶつぶつ」
などと勝手な事を言っていた。阿保である。
そしてそんなケイの目の前では、獣がノアが育てているのであろう作物を食っていた。
「散れっ!」
とケイはそれを止めさせるために叫んだ。が、当の獣達は「? 何で?」とでもいうように見返すだけでまた作物をもさもさ食べる。おや、食べても良いモノなのですか? なら此方も怒る理由は在りませぬが。
というかどちらかというと作物の方が散っていた。根っこが足に成ったり葉っぱが翼に成ったり……八百万というか夢の国の世界観であった。大変メルヘンな景色だが、アレを食べたと思うとゾッとするのは、ちとカルチャーショックである。生きた動物の肉は大丈夫で、野菜の肉は駄目というのは、何か変な噺だが。異化って奴かね。
「すっごいな~」ケイは純粋にそう思った。「『ハリー・ポッター』の世界観だね。生物学者が見れば泣いて絶頂するだろうね。名前とか付けていいのかなあ、俺が発見者だし。いやでも、この世界での名前はもうあるか。コロンブスじゃあるまいしね」
獣の他にも色々な植物が虫が居て、風に揺れると鈴の様な音が鳴る花や、大人の頭一つくらいあるカブトムシのようなモノがいる。森の奥には、太い数本の木の枝や根で編んだようなケイより大きな蜥蜴が見えた……いや、アレはただのパレイドリアか。
また、ファンタジーよろしく妖精の様なモノが何処を見ても三つか六つは目に入る。その姿は「ティンカー・ベル」な服を着た羽の生えた小人から、「人退の妖精さん」な呑気な顔をした人形や、「ゼル伝」な光の綿毛に羽根の生えたようなものや、他にも触ると身体が砕けてしまいそうな水、髪や手足が草や木でできた植物、燃える火の玉、チカチカ光る煙、動かない岩の妖精など色々だった。
「しかしこう実際に見ると、雰囲気を壊す様だが、ティンク型の小さな妖精ってのは遠目に見ると羽虫と変わらないな。いや見た目は可愛いけど、それは彼方の世界の見方であり、此方の世界ではそうではないかも知れない。都会の野良猫やカラスくらい害霊かも知れん。まあ一重に妖精と言っても色々居るし、悪戯好きな奴はいるだろうな。
けど、俺はああいう幼児の様にすぐ壊れそうなものは触ってて気分が悪くなるんだよなあ。グロ画像見てたり、他人に小指を折られそうになってる気分に成る」
ゲー、とケイは頭を振った。イマイチ、幻想に浸れない男であった。
他にも、アレは何だろう、淡く光るシャボン玉の様なモノがそこら辺に浮いている。いやシャボン玉というより、星の元である星雲の塊か原始星のようだ。地上に浮かぶ星の様だった。魔力、もとい万力の塊だろうか。それは「クラムボン」よろしく何ともかぷかぷと気持ち良く浮いているので、眺めているだけで夢心地の様に眠たくなるのであった。
「その形・色・大・感は様々だ。三角・四角・丸、拳大・岩大・身体大、虹・黒・白、固体・液体・気体……様々だ。ケセランパセランみたいな妖精なのだろうか。それとも、ノアの言ってたエルとかいう魔力的なものが固まったものなのかな。そういや、あの子、この世界の事を何にも教えずに俺を置いて行きやがったな……礼節は在るのだが、何処か抜けてるのは子供だからか」初めて見るモノに不用意に触るべきではないのは、旅における原則である。何でも安全な訳ではないし、特に一人旅の場合、何か問題があっても助けがあるとは限らないからだ。しかし、かといって折角の異世界である、何も問題が無い方が問題だ。故に、ケイは猫の様に好奇心を抑えられず、ソレに近付く。「マーブル色のモノは美味しそうである。食えるのかな……食ってるな」辺りを眺めると、鹿の様な獣が星を食べていた。蝶なども辺りをヒラヒラと舞っている。「一応、食べ物ではあるらしい。まあ、この世界の住人に安全でも俺に安全とは限らないのだが。けど折角だ、出来るだけ美味そうな奴を選んで食ってみるかな。コレなんかどうだろう。蜂蜜色で甘い匂いだ」
そう言いながら、ケイは自分の頭ほどもある星をもぎってみた。餅のように柔らかいのに、力を入れるとプリンかゼリーのようにぷつりと切れた。そして、口の中に入れる。
(……ッ! …………)咀嚼。思わず、絶句。(凄いな。一口だけでこの満足感。美味いとかそんなレベルじゃない。命そのものを食べた感じ。力が溢れる。一舐めしただけで若返った様な、いや、一転して生き返った様だ。聖書の語る「マナ」や、オデュッセイアの語る「ロートス」とはこんなものかと確信する)
料理評論家のように、その感動を冗長する事は容易い。口の中で煙の様に溶け五臓六腑や魂の底まで染み渡るだの、熟れた果物の様な清々しくも芳純な瑞々しい甘さだの、混ぜ物の一切ない土草を思わせる苦くも懐かしい香りだの、不思議で幻妙な味わいだの、軽やかながら深く下に沁み込むだの、味だけでなく母の乳のような柔らかくも溶ける様な感触が口全体を官能するだの……しかし幾ら評価を述べ上げても、無言、その原始的な無表現の表現に比べると、多すぎるし、足りないだろう。結局の所、言葉とは、砂を手の平ですくう様な、世界を抽出したものなのだから。
(この森は、本当に穢れの無い世界の様だ。いや逆か。穢れの生まれる前の……)
深山幽谷という奴か、森は原始的な雰囲気がした。酸素濃度は濃く、木漏れ日は柔らかく、幻妙な光景を創り出している。遺跡の様な神秘性さえ感じた。実際、野原には何やら丸いお地蔵さんのような物体が点々と生えていた。可愛いが、不気味である。随分と古く、磨耗し、苔生してたので、顔はよく判別できないが、人間には見えない。
(「ヨコハマ買い出し紀行」の人型キノコみたいだ。あの気配り上手に見えるノアがこういうのを掃除せず放って置くとは思えんな。触っちゃいけないものなのか? 神社の鳥居みたいな結界なのだろうか。そう言えば、ノアは、この森はあまり立ち寄るべきでないような森として言っていたが……)
そう思うと、この森が畏れ多く思えてくる。また同時に、こういう大いなる自然に触れると、親に守られていた子供の頃に還って安心するものである。事実、この森は何だか異様な力に満ちていた。そんな気配が在った。この力が、いわゆるエルという奴か?
(「天空の城ラピュタ」や「軍艦島」よろしく神秘的な気分に成るね。「もののけ姫」や「セレビィ 時を超えた遭遇」な森の中も良い。「腐海」、は語弊が在るか。アレは「チェルノブイリ」だ。けど、チェルノった結果、人間が居なくなったので逆に自然環境が良く成ったとか何とか。電磁波や放射能で生物が変化や巨大化ってのは、昔の者語じゃよくやられたよなあ)
何だかアノマロカリスやハルキゲニアが居そうだった。実際、あの自身の周りに水を纏い空を飛ぶもとい泳ぐ魚など、ミロクンミンギアやナメクジウオのようだ。可愛い。しかも微生物みたいに向こう側が見えるほど透き通ってる。綺麗。それなのに内臓が見えない。不思議。恐らく、その半透明さは魚特有のものではないだろう。というのも、他の蝶や花や大体の小さな生物は半透明だった。
(魚、蝶、花……水の所為か?)
そう思いながら、ケイはノアの家の近くに在る、湖の一つに近付いた。川の中継地のように成っており、広さは例えるなら学校の25mプールくらいだろうか。
ケイはその湖を見て驚いた。何という空色の透明さ。底で泳ぐ半透明な魚や、虫や、酸素を作っているのか泡風呂よろしくブクブクする草が良く見えた。
そして、何だアレは、家を載せたイカダが浮かんでいた。確か、とケイは思い出す。自分の家の近くに在る桜が綺麗な公園の湖に、あんなカモかアヒルかの家が在った。
子供の頃はよくパンの耳をやったものである。そのパンの耳は大きなビニール袋一杯に入る程でも無料だったのだが、自分が中学に成る頃には、迫る資本主義には勝てなかったが遂に有料化した。少しだけ大人の世界を知り寂しくなった青春の一頁。
……あ、何か家から青い親鳥が五匹の白い雛を連れて出て来た。まるで呑気に都会を歩いて引っ越すカルガモ親子みたいだ。和む風景である。まあ、カルガモは子殺しでも有名だが。因みに、五匹の白い雛の内一匹は黒かった。「みにくいアヒルの子」か?
(懐かしい。雛を拾ってはイケないと知らない子供の頃、鳩の雛を拾って育てようとしたが、何も食べてくれなくて一日で死んだんだよなあ。傷は一つもなく、餓死するほど痩せても無かったのに……死ぬほど俺が怖かったのか。涙さえ見えた。アレは虚しかった)
などと考え、ケイは頭を振る。何だか昔の事ばかり思い出すな。
とまれ、ケイは湖の傍にしゃがんで、手で水をすくい飲んでみた。ケイはワインのソムリエ国家資格や一流料亭での仕事経験が在る。水を飲んだだけで産地や成分を当てたりする事は造作もない。して、その味は――
(――驚いた。何と清涼な超純水だ。こんな聖水、科学世界では自然にお目に出来ないだろう。純水は浸透圧などの関係で人体に悪いとも言われるが、これは甘露だな。美味いだけでなく、飲む度に身体の悪いモノが浄化されていく感じがする。魂に沁みて行く……)
そう思うと同時に、自分が酷く醜い存在に思われた。自分が外界の住人という事を実感し、此処にいていいのかとさえ思えた。土足で他人の家に上がった気分だった。歩くために草花を踏むたびに、自分の何か大事なモノを自分で汚している気分だった。
(俺にとっちゃ地獄だな。「風立ちぬ」だ。そういや、少し前はサナトリウム文学よろしくヒロインの死ぬ話が流行ったよなあ。誰もが不幸を喰らう寄生虫だ。いや、マゾでもあるか。ああいう奴等は、「ギャシュリークラムのちびっ子たち」とか「自殺サークル」とか「自殺うさぎの本」とか好きそうだな、いや即死系物理パズルゲームでもえろすでもなくて。ククク、これが俺の能力〈焼身兎(Bang Bunny)〉。全ての存在を1として、対消滅の要領で俺の死と共にお前の生を否定する、とか何とか。まるでぶっけけだな。この世の作品は並べてルサンチマンの自己満足だ)と思うと同時に、ハッとして頭を振る。(なんてひねくれた考え方だ。「人間失格」や「ライ麦畑」読んだ十代よろしく、何も知らない癖に世の中に起こることが何もかもがデカダンに思える、頭でっかちな考え方だ。
お前はそんな道化じゃないだろ。そんな簡単に、世界に負けてやるものか。「ドン・キホーテ」は悲劇じゃない。誰かに感動されたかった訳じゃない。そして俺も泪や感慨の裏打ちを暗示する売春婦じゃない。この不幸は俺だけのものだ。お前如きに解る程度の、浅い人間ではないのだ。俺が望む道化は坂口安吾。「ピエロ伝道師」よろしくムカつくぜクソッタレーと誰に構わず……坂口安吾って何だっけ。
最高だぜ。記憶を失う前の俺もこんないい加減な奴なのかね。まあ、良い。少なくとも、あのノアとかいう奴は俺を受け容れたのだ。その分くらいは、此処にいていいだろう)
などと、ケイは気取る様にニヒルに笑い方をすくめる。
「しかしこの森を見ると、彼女の呑気もといのんびりした性格も頷けるな。環境は人を作るものだ。こんな穏やかな自然に囲まれれば、ああもなるか」
森の生物はどれも未知の生物だったが、収斂進化(環境適応や生物的地位などにより別種の動物が似た様な姿に成る進化)という奴だろうか、同時に既知の生物と似ていた。
例えば、角の生えた兎。宇宙誌「被造物の驚異」ではアルミラージ、「UMA」ではジャッカロープ、「ドラクエ」では一角兎とでも呼ばれそうな兎だった。また例えば、「不思議の国」に出て来そうな丸い鶏。アレは、地球で絶滅したドードーに似ていた。その他の草花も、ケイの世界のソレに似ていた。しかし、やはり違うだろう。何せ四季折々の草花が一遍に咲いていたのだから。
「そう言えば不思議だな。天多のファンタジーやメルヘンがあれ、獣や植物の姿はヘンテコなのに人間の姿は二足歩行の毛のない猿だ。仮に人間だとしても、指が六本とか、触手が在るとか、肌の色が赤や青とか、目が三つとか、肛門と口が逆でもいいだろうに、いや流石に最後はイヤーンだが。
それは神が擬人化される様な人間中心主義故か、想像の限界か、資本主義的に受けないからか? 漫画擦れした俺様は、此処は可能性の近い並行世界とか、地球の未来や過去の世界とか、地球の生物は元々この世界の生物だったとか、その逆とか妄想するがね。
ま、『愛はさだめ、さだめは死』的な巨大蜘蛛よりマシか。タコ型火星人や、グレイ型宇宙人や、ケイ素生物や、ロボットや、相手の好みの姿に変身する或いは幻惑する生物とかよりは。何、非現実的だと? そんな事言ったら生命の存在自体が非現実的だ。……そう言えば、常識の方はどうなのだろうなあ。『気楽に殺ろうよ』よろしく価値観が全く違ってたらちと怖いなあ」
同じなのは木々や人間だけではない。温度は酸素濃度や光や水など、自然環境もケイが居た元の世界とそう変わらないように見えた。無論、飽くまでも見えるだけで原子的なものは解らないし、身の回りだけの判断であるが。
しかしむしろ、元の世界より良い調子を感じていた。身体は軽く、気分は良かった。
「『ドラえもん』や『銀河鉄道999』などのSFじゃあ地球人が地球より重力の小さい惑星に行って『スーパーマン』に成るというのはお約束だが、俺もそんな感じに成ってるのかな。重力がいきなり下がると釣り上げられた深海魚に成らないのだろうか。或いは、召喚術の恩恵だろうか。使い魔は術者の魔力を得て強くなる、って設定もお約束だろう。或いは『ガン×ソード』よろしく両者のオーバーフローとか……」
生命の星が出来上がる確率は二十五mプールに時計の部品を入れてかき混ぜるだけで完成する程度だと言いますが、それに比べれば、魔術の奇跡なんて奇跡でも何でもないぜ。
「はてさて此処は『不思議の国』か『オズ』か『はてしない物語』か。衣装箪笥なら『ナルニア』で、公衆便所なら『今日からマ王』で、ゲームなら『moon』で、要御扉は『ブレイブ・ストーリー』で、大砲なら『月世界旅行』で、『ネバーランド』。もしかしたら昔の世界でとすれば『指輪物語』、逆に未来なら『ナウシカ』か『BASTARD!!』。しかし召喚魔術的にはやはり『ゼロの使い魔』だな。まあ『メルヘヴン』や『サモンナイト』もありだけどね。『ハウルの動く城』や『ドラッグオンドラグーン』も異世界と言えば異世界か。ガンギマリの並行世界なら『流れよ我が涙』や『CROSS†CHANNEL』。夢落ちなら『ファントマイル』。転生なら『グリの街』か『ハードボイルド・ワンダーランド』。死後なら『死の島』? オカルトでも『異世界に行く方法』で検索すれば一つくらい正解があるかもしれない。そういや、『しまむらはエルフの国の入り口』とかいうのがあったね。最近の奴では古今東西の英雄が出て来る『ドリフターズ』というのもあるが、俺は英雄じゃないから違うかな。けど、もしかしたら異世界ではなく、俺の世界の未発見の孤島かもしれん、それならば『ロビンソン・クルーソー』や『ガリヴァー』だ。或いは遠い星で、それならば『スター・ウォーズ』だ。何処かに金色のレコード乗っけた『ボイジャー号』とか『パイオニア号』とか落ちてないかなあ。しかしいずれにせよ言える事は先にも後にもこの一言。銀河でヒッチハイクする名台詞。『Don't Panic』。これだな。『これだな』と言ってもそれが何を意味するかはちと忘れたけど。本を読まずにまとめサイトで名台詞だけ見て満足する感じだな。ニワカ乙。
やあ、異世界旅行は古今東西の夢ですなあ。色々な設定がありますん。誰だって一度は此処じゃない何処かを望むのさ。それが聖杯を目指すロードムービーの心意気です」
現実と妄想の区別がつかなくなっている可能性アリ。
「けど、実際まるでゲームの世界だ。此処は本当に現実なのかね。魔法で召喚されたと言われてもやはりいまいちピンとこないな。心の病や胡蝶の夢かもしれない。現実にしたって警察か大使館に駆け込んでる所だよ。大使館とか、こんなファンタジー世界に来ても発想は現実的だな。つか大使館があるとしても日本の大使はいないだろ。せめて荷物が戻ればパスポートや携帯くらいあるのだが。そも、俺みたいな常人が生き延びられる世界観なのかね。『D&D』や『ソード・ワールド』や『ルーンクエスト』なら喜んでTRPGという所だが、『火の鳥・望郷編』や『楳図かずお』や『伊藤潤二』みたいな世界観だと笑えないぜ。対岸の火事なら、シュールで逆に笑えるんだが……」
ケイは苦笑いして肩をすくめた。幾ら難しく考えても彼はこの世界の初心者である。幾ら考えても解らない。その実、風は彼の思惑など気にも留めず心地良く吹いていた。
「ま、いいさ。今は目の前を許容しよう。郷にいては郷に従え……精々、楽しませてもらおうじゃないか。例え彼女が実は『ヘンゼルとグレーテル』よろしく道に迷った旅人を肥らせて食べるお菓子の家の魔女だとしても。ヒャッハー、笑えんぜ……」
というか、こんな辺鄙な森であんな幼い女の子が一人暮らしとは……怪しい。そうか、人が寄り付かない理由は魔女狩りよろしく彼女の正体が恐ろしい怪物だからだ。或いは、自分を場末のフリーク・サーカスに売って見世物にするつもりだったりして。
「ま、可愛いければ何でも良いや」笑顔で言った。気楽な男であった。「俺がそう思ってるんじゃない。物語ってのがそういうもんさ。押しに弱そうだし、『赤ずきん』よろしく逆に食べるという事もありだな。性的にも物理的にも。
いやでも、天然娘とかほんわか系ヒロインって大体『しかし芯が強い』って設定があるからなあ。それに表面は気さくな奴ほど、裏では一線を引いてるもんだ。まあ、でも阿保っぽいから泣き落としで許してくれそうだが」
むしろお前が危なかった。というか何気に酷い奴だった。
「とまれ、そーゆー謎な部分は、話が続くにつれ解っていく事でしょう。ま、別に解らんでも良いけどね。リアルの友達だって、何でも知ってる訳ぢゃあないのだし」
そしてこれは「しかしゲーム脳」。此処で言う「ゲーム脳」とは「頭が悪い」という意味ではなく、「現実をゲームに置き換えて考える」事を示しています。なお「ゲームの様に人生を展開できる」訳ではありません。早い噺が現実と妄想の区別がついていない。
「ま、冗談はさて置き、それにしても、一人で行かせて大丈夫だっただろうか。これがRPGな森だったら、熊さんに出会うだけじゃ済まないか?」
勿論、あの子は森の中に慣れてるだろう。けどいざと言う時もあるはずだ。もしこれが物語で、ジャンルが異世界日常コメディーなどではなく血みどろスプラッター劇場ならば、一人で行かせるルートはBADだろう。
「はっ、もしかしたら触手系モンスターに掴まってイヤーンな事になっていたりなかったり? 何てうらやまいやけしからん。だとしたら見学、いや助けに行かないとなあ。はっはっは、ってか俺独り言多くね? 美少女ゲームかよ。でも喋ってないと正味こんな見知らぬ森で一人は寂し怖い。チェッ! ノアの『ターザン』野郎。自分で呼んでおいて一人放って置くとか、悪い娘じゃ無いんだろうけどやっぱ頭可笑し」GRR。「『ぐるる』?」
楽し気に独り言ちていた所、ケイは硬い何かを踏ん付けた。目線を少し下にやると、足元には何やらゴツゴツとした尻尾があり、そこからちょっと上にやると、コチラを寝ぼけ眼で見る瞳があった。チャーミングな瞳の……例の岩蜥蜴さんである。
「うおおっ! ビックリした、気付かなかった、ビックリしたー……」
同じ事を二度言いながらケイは慌てて飛びのいた。完璧に岩に見えて気付かなかった。
「あー、そのー……やーはは、悪気はなかったんだ」ケイは愛想よく笑いながら岩蜥蜴に向かってそう言った。「いや、正直、擬態ってイカンと思うんですよ。コッチだって進んで蝶や蛾に触りたくないですよ」
岩蜥蜴はようすをみている。
「けど木や草に同化されるとね、気付かずに踏んでイヤーンなこともあるわけで、全面的にコチラが悪いんじゃないと思うんです。ボクはね、そういう事が言いたいんです」
岩蜥蜴はようすをみている。
「だからここはどうだろう。全て水に流すという事で……」
岩蜥蜴がコチラを振り向いた。
「なななやるかコノヤロー! 俺と闘うってんなら俺の超絶奥義、〈絶刀・空断〉を喰らわせるぞゴルァー!」
岩蜥蜴がコチラに近づいた。
「うわやばいやばいこっちくるってこわいこわいこわい」
自分とは違うものを恐れるのは生物の本能です。クマバチがそうである様に幾ら温和な性格と解っていても怖いものは怖いです。デカいだけで怖いです。
しかしいわゆる「好奇心は猫をキル」というものもありまして。ケイは逃げようとわたふたと慌てつつ、触ってみたいという好奇心から逃げられないのでありました。で、一方、岩蜥蜴さんの方はというと、
――のし、のし……。
大して気にもしない風にケイを横切って行った。
「何だ、随分と呑気な生物だな。亀みたいだ」
そのゆったりした行動にケイも警戒を解き、岩蜥蜴をじっくり見た。やはりゴツゴツと岩が生えている。これは昆虫における外骨格のようなものなのだろうか? それとも亀の甲羅や、魚の鱗や、人間の爪と同じメカニズムなのだろうか。魚が陸地に上がったのが四足歩行だと考えると、魚が一番近いかもしれない。まあ、この世界でダーウィンが通じるかどうか知らんが。
とまれ、ケイはゆっくりと岩蜥蜴に近づいた。そしてちょっと触ってみようとして……
「よいしょっと」
背中に乗った。……あれ?
触ってみるだけのつもりが好奇心に勝てず、つい背中に座ってしまった。いやだって人というのは乗りたがる性分ですし。大型犬に成るのが夢だし(注※犬は物を乗せるようには出来ていません。酷い場合、背中を痛めてしまいます)。
兎角、すると岩蜥蜴は立ち止まり、首を後ろに回し、ケイをジーッと見つめた。もし喋られたのなら彼はこう言ったかもしれない。「何だお前」。
「……ははは」ケイは思わず曖昧に笑って誤魔化した。それに何を思ったか、或いは何も思わなかったか……岩蜥蜴は興味無さげに首を戻し、またのしのしと歩き出した。マイペースな奴であった。「……うん、この生物好きだな。気に入ったよ」
ケイは笑いながらべしべしとその背中を叩いた。岩蜥蜴の背中はゴツゴツしており硬かった。「ヤレヤレだぜ」という風に岩蜥蜴は「GRR」と鳴いた。
ノアは家から遠く離れ、大きな岩山を歩いていた。この辺りでは高い方の山であり、森をずらっと見渡せる。山から見下げる森は広く、端から端まで三日はかかりそうだった。岩山に緑は少なく、黒い地肌を覗かせている。人通りの少ない森の、そのまた少ない山である。無論、舗装された路はなく、路はあっても獣みちという塩梅だ。
そんな砂利っぽい岩山を、ノアは特に気にせず疲れもせず慣れたように歩いていた。
「アークー。アークゥ―? ……ここにもいないのかなあ」
アークというのは例の友達というアキュミスの事である。ノアは叫びながら空の方を見渡していた。友達は飛んでいるのだろうか?
「もうすぐ日が暮れちゃう……」
傾きつつ灯を見つめる。それはぼんやりとした色、曖昧な光。
「……友達かあ」夕暮れに照らされながら呟いた。「くす、久々な響き。悪くはないかな」
悪い人じゃなさそうだし、と彼女は思う。その笑みは年相応のあどけない笑みだった。
空が暗くなるにつれ、ノアの杖先の宝石が茫と淡く光を増す。まるで夜に星が輝くように。暗がりの路を照らしてくれる。
「けど、あの人ももう帰らないといけないよね。早く探さないと……アーク、何処に行っちゃったんだろう。それに、勝手に持って行っちゃうなんて……」
ノアはアキュミスがケイの荷物を持っていくのを黙って見ていたわけではない。ちゃんと持っていかないように言ったのだが、それでも無視して持って行ったのだった。
何であんな事したのかなあ……と思っていると、
「わっ、と」
危うく崖から落ちそうであった。曲がり道を無視してまっすぐ進んでいた。イケないイケない、うっかりするとすぐボーっとする。他の者の為に仕事している時はちゃんとしているのになあ。何故か自分の事に成ると、どうも……。
「ふう……少し高く上りすぎたかな」とノアは肩を下ろした。実際、空気がかなり薄かった。少し耳鳴りがする。「これ以上は降りるのに、時間が掛か」
しかし言葉はそれ以上続かなかった。ノアは気付いた。日を遮る黒い影。巨大に、雄々しく、翼を広げ、小さく、見つめる、黒い影。立ち尽くすノアに向かってくる。
「あ――」
消え入るような言葉を最後に、少女は黒い影に呑まれていった。
「『岩蜥蜴に乗って彷徨っていると君の前に扉が現れた。どうやら納屋の扉らしい。君はこの扉を開けて中に入ってもいいし、入らなくてもいい』」
などと如何にもな勿体ぶった台詞を言いながら、ケイは納屋の前に立っていた。割と大きく、元々人家だったのを利用したのではないかと思われた。母屋よりも古びていたが、作りは丈夫なようだった。
「入りますか? 勿論、YesYesYes」
ケイはにやりとしながらそう言った。
しかしここは魔女の家、奇怪なトラップがある可能性もなくはない。扉に触れた途端に身体が暴と燃え上がるなんて。ケイは細心の注意を払いつつ、扉に手をかけた。扉には鍵がかかっていなかった。不用心に思われるが、それだけ侵入者が来ないという事か。
そんな彼は傍から見れば泥棒だった。
「GRRRR……」
「何だよお前。鍵がかかってないということは出入り自由ということだろう?」
いや違くね?、と岩蜥蜴の眼は言っていたがそこは言葉の壁がある。ワタシ、トカゲゴ、ワカリマセン。都合の悪い話は右から左へ流れるステレオ使用でゴザイマス。
「まま、彼女なら許してくれるって、多分。嫌ならお前はそこで待ってなよ」
そう言いつつも、少し軽めに考えている事は自分でも解っている。平時なら勝手に人の倉庫に入ることはしない。それを入る気にさせるのは、見知らぬ場所という浮遊感と、物珍しさからくる好奇心。
(けど実際、自分から友達になろうと言っておいてなんだけど、無警戒すぎるよなあ。こんな森の中に一人だぜ? 襲われたら助けも来ないだろうに。もしやあの穏やかな顔は表の顔で、裏の顔はすげーバイオレンスなのだろうか)
そんな事を考えながら、ケイはゆっくりと扉を開けた。古い音を立て扉が開く。古い空気が漏れ出て行く。古い香りがむっと舞う。まっくろくろすけが光に驚き逃げていく。蒼白い光が広がっていく。
時の止まったような古びた倉庫。使われない道具が積み重なり、記憶の詰まった箱が積み立てられ、時が経つごとに積もる埃は色白い。そこは見知らぬ場所であるものの、何処か懐かしい感じがした。
ほお、とケイは息を吐いた。子供の頃はよく納屋を探索したものだった。子供の頃は何でも大きく見えた。実家の納屋だってかなりの広さがあるようだった。大人になって見てみれば、小さくなってしまったが。
倉庫は掃除こそあまりされていないものの、整頓されていた。箱は規則正しく積み立てられ、奥に行きすぎないよう取り出し易いように配置され、何が入っているのかを区別するためか、文字のようなものが描かれていた。箱に入れられていない道具は棚に置かれ、また壁に立てかけられている。それらは窓が閉じられた薄暗い倉庫の中、静かに、入り口から入る光に眼を細めていた。
そのような品々で作られた路を歩き、ケイは奥へと進んで行く。それはまるで劇場の中、天多の観客が並ぶ中、舞台へと続く赤い路を歩いて行くかのようだった。
そして部屋の奥に、ソレはあった。
ケイの腰ほどの高さもある横長の、何の装飾性も無い白い台の上、同じく白い布を被された、横長の何かがあった。他の物とは明らかに違う存在感。言い変えれば場違いか。隠される程に湧き上がる存在感――それは他の物とは明らかに一線を画していた。
「『如何にも』、だな」
ケイは手を腰に当て肩をすくめた。如何にも「らしい」。まるでおあつらえたような場面設定。「選定の剣」の剣を引き抜くような、そんなシーン。
そこまで人を誘うなら、無垢に乗ってやろうじゃないか。その神秘のベールに隠された素肌を空にさらけ出してやろう。
ケイは古ぼけた布を掴み勢いよくはがした。その幕より出でしは果たして何ぞや。
「これは……剣か」
ケイは溜息交じりにそう言った。それは黒く、重く、剛かった。
其処には鈍色に光る刃があった。柄を含めるとケイの背丈程はあろう両刃の長剣が、鞘も着ず刀身のまま、白い台の上に寝かされていた。
その剣は他の物々に比べ、一層、古いものだと思われた。手入れは行き届いているようで、大切に保管されているのが解った。それでも錆付き、くすみ、身体が傷付いているのは、手入れでは治らない程に沁み付いた、歴史がそう魅せるのだろう。
美女は言い難い。肌の色は燃え尽き炭化した様な灰色、飾り気は無く武骨、全身に苛烈さを物語る刃毀れが在る。致命的なのは横腹だ。巨大な生物に齧られた様に上辺りが欠けている、まさに首の皮一本で繋がっているという塩梅だ
しかし醜いという意味でも、無様という意味でもない。むしろ無駄なものをそぎ落とした姿は精悍な戦士のように雄々しく様に凛々しい。それはただ武器として作られて、観賞用ではありえなかった。戦場の中で奮われてこそ、泥の中で舞ってこそ、鮮烈に輝き詩い咲き誇ると思われた。外見は美しくなくとも、内は星の様に力強かった。
事実、星の様な引力が在った。異様な存在感が魂が惹き寄せる。目が離せない。
「――っと、俺とした事が思わず見惚れてしまったな。黙ってちゃ放送事故だ」と、ケイは暫しその剣を呆と見つめていたが、不意に自分が呼吸している事に気付く様に、我に返って飄々とした顔で頭を振る。「おーおーおー、やはりファンタジーはこうでなくっちゃね。剣と魔法、英雄と竜、平和に終末論ときたもんだーと。しかしこの剣、物語でしか見られないような実に使い勝手の悪そうな剣だ。こんなデカいの誰が使うんだろうね。剣より槍のが強いって。射程の大きさは覆せない」
ケイがそう言うと、剣がその台詞を非難する様に呻いた……とケイは思ったが、確証はない、風の音かもしれない。とまれ、しかしケイは肩をすくめる。
「怒るなよ。剣の良し悪しは剣自体で決まるもんじゃない。どう使われるかで決まるんだ。そうだろう?」ケイは余所行きの笑みでお道化て言う。「クールだね、ステキだね。圧倒的な力強さは、誰にも乱されることはなく、きっと処女のように美しい。それに……」
と、そこでわざと言葉を区切り、
「君を見ていれば想像できる。きっと君を使っていた御主人は、君が剣であるのと同じくらい、何ものにも揺るがない人なのだろうねえ」
トドメとばかりに、物憂げな表情で締めくくった。
相手の機嫌を取る時は、まず相手に合わせる事から始まる。この時、相手自身を褒めるのは諸刃の剣だ、それは相手を恥ずかしがらせる。しかし相手が好きなものを自分も好きというのなら、それは親近感が湧く事になり、直接的ではないにしろ相手を褒める事に成り、確実に相手との接点を作るのだ。大事なのは、相手のベクトルと交差する事ではなく、並行する事である。自分の感想ばかり言うのは、人間関係でも企業面接でも三流です。
(ま、子供は無意識に友達を作るのだが。自分は何時から自然な友達の作り方を忘れてしまったのだろうね)というか物言わぬ剣に世辞を言ってどうするよ、とケイは自分に辟易した。返事をしてくれる訳でもないかろうに。すれば魔剣か心の病だ。(しかし、話しかけたくもなる。まるで「眠れる森の剣」だ)ケイは魅せられたように手を伸ばし……両手を上げてワタフタした。(何をやってるのだ俺は)
まるで無防備に眠っている無垢な少女に触ろうとして、我に返ったように自虐した。
勝手に取ったらそれこそ泥棒だ。大体こんな命を簡単に奪える代物を手に取るなど、包丁持って笑うくらいにサイコパスだ。俺はRPGの人物のように、刃をブンブン回して正義を語るほど野蛮じゃない。
しかもこの剣、自分如きが扱ってもいいとは思えない。これはよほど良いものだろう、勝手に使って彼女に悲しい顔をされるのはゴメンである。それに……
(出来過ぎだ)ケイはそう思った。途端にケイは怖くなった。まるで受かると思ってなかった大学受験に受かった時の様な気分。「本当に大丈夫なのか?」という、あの解答のない漠然とした不安。(異世界に来て、如何にもな剣を見つけて、次は魔王か? なら主役はこの俺で、姫様はノアか?)
ケイは顔に微笑を浮かべたまま、頭を振った。
ダメだよ、それは。確かに、事件が起こり、それを解決、そしてまた事件が起こる……それが物語の法則だ。だが同時に、キャラには動機や理由が必要だ。
そして自分はどうだろね。「誰かを救うのに理由なんて必要ない」と突っ走る熱血系でも、「ヤレヤレ」と言いながら何だかんだで活躍する受動系でも、「うるさいうるさいうるさい」と引っ張る暴走系ヒロインがいる訳でも無い。事によれば、流れ星が見えてもただボーっと見ているだけかもしれない。
(どうして物語の主人公って奴は「自分がやらなくちゃ」と思えるのだろう。そんなに存在価値が欲しいのか? 俺には無理だ。「ドン・キホーテ」には成り切れない。自分が居ても居て居なくとも、「世界は今日も簡単そうに回る」のに……)
彼は道化を気取っているが、常に心は醒めていた。如何に舞台が熱い笑劇でも、舞台裏の作者は冷めているように。そんなケイは考える、己の役というものを。
努々、気を付けて置く事だ。人は夢物語に憧れる。だが「憧れる」という行動は、観客の行動だ。都合良く己を受け容れてくれる現実逃避の「魔法の場所」と思ってる行動だ。
しかしソレが本当に「本物」であるのなら、それはもう否定できない真実だ。もし己が取るに足らない端役であれば、何の感動シーンもなく、呆気なく死ぬだろう。
そして、あの子は自分がこの世界に来る前から不自由なく暮らしているのだ。あの子は「ピグマリオン」よろしく無条件の承認と必要をくれるお膳立てされた美少女ゲームのヒロインでも、「ラプンツェル」よろしくか弱く待ってる悲劇のお姫様でもない。むしろフェミニズムな「アリーテ姫」だ。
そして、自分も英雄ではない。空から落ちて来る少女を受け止める鉱山で働く見習い機械工の少年でもない。文字通りの「何処にでもいる普通の何とやら」だ。事によると、いきなり観客席から舞台に上がった乱入者だ。道化の「FOOLY COOLY」だ。莫迦をやるだけやって、結局、置いて行かれるような……。
(って、俺がか?)ふと我に返ったように、ケイは自分自身に驚いた。今まで、自分ではない誰かが考えていたようだった。随分と暗い考えだった。(もしかすると、記憶喪失の前の俺は、そんなヒーローに憧れていたのかもしれないな。全く、最高だぜクソッタレー。楽しい映画を見ている時ぐらい、素直に楽しんでいれば良いものを)
そう言ってケイは、台座に眠る剣を見る。
この剣は、きっととても強い。まさに神聖不可侵の鋼鉄の処女。運命に迷わぬ神話の英雄の刃。それは傷つく程に美しい。文句を言わず、涙を見せず、笑顔を見せず、ただ無為に剣の役を全うするその姿は、きっと星の様に美しい。
自分もこうなら良かったのに。相手が誰であろうと、自分が何であろうと関係ない。何の理由も価値も心意気もなく、ただの剣として生きられたら――
そう思って、ケイは無意識に剣へと手を伸ばし……
――GRAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAH!!!
空が震えた。その表現は誇張かもしれないが、ケイが感じた驚きはそれ程だった。
何か途方もない存在が近づいて来るのが感じられた。目の前に大型トラックが突っ込んでくるような、そんな圧倒的重量感。身体ではなく、魂で感じる質量感。イタズラを見つかってしまった子供のように電気ショックを浴びせられる。侵入がばれてしまったネズミのように、憐れに心臓が跳ね上がる。
「ウェッ!? な、何だ……?」
何が居る? 入口の方を見る。外で岩蜥蜴が空を見つめている。何か来る? 耳をすませるがドクドクする心臓が煩い。どうする? しかし身体は動かない。
お化け屋敷を思い出す。明確にその敵意と害意は感じるのに、その姿はまるで見えない。心臓の鼓動が怪物の足音を連想させ、身体の震えが架空の異形を創り上げる。
何か解らんが何かヤバい。根拠は無いがそう直観させるだけの力を持った何かが近付いている。その他大勢のモブキャラを何が起こったのかも解らずに抵抗権も与えられず木端微塵に散らせる程の。
ケイはどうする。選択肢を選ばなければ。留まる、逃げる、後は何? コンティニューはない。どうする、どうする、どうする、いや考える前にとにかく動
――GRAAASSSSSSSSSSSSSSSAAAAAAH!!!
二度目の音。地面が揺れた。大気を揺らす振動が倉庫を揺らし、倉庫に置かれた物々が揺れる。ケイはたたらを踏んでバランスを崩した。その時、思わず手が剣に触れた。
ザラつく肌触り。擦れただけで手が痛い。けれどもそれは心地良い。息遣いを感じた。
それと同時に吹っ切れた。ケイは思わずニヤリと笑った。
「はっ、何を悩んでいる『真夜中のカーボーイ』。悲劇どころかお噺にならない打ち切りの無劇など、そんなのは今更だ。『我ら役者は影法師』ってな。ならば止まってないでキリキリ動け。踊る理由はどうだっていい。『The show must go on! Make ‘Em Laugh(劇を続けろ。笑わせろ!)』。雨ニモマケズ風ニモマケズ、俺達は『品格を、常に品格を』持って雨に唄うのだ。莫迦に格好良く、憂鬱な世界を踏み潰してやろうぜ」
こんなにお膳立てされた舞台なのだ。ならノらないと嘘だろう。覚悟はないが、エキストラでも面白い方にサイを振ろう。道化に大立ち回り(アクション)しようじゃないか。
ケイは両手で力強く刃の柄を握りしめた。バイクのアクセルを回す様に、刃物という危険な代物が人の感情を昂らせる。
そして勢いよく剣を持ち上げた。と同時にゆろめいて後退した。剣が見た目とは裏腹に軽く、力んでしまった。イマイチ締まらないなと思いつつ、両手から左手に持ち替え、倉庫の入口まで走る。置物に足を引っ掛けて転ばなかったのは偶然だ。
そしてケイが薄暗い倉庫から出るのと、影が辺りを覆い尽くすのは同時だった。ケイは影に気付き空を見上げたが、影の主を捕らえる前にソレは地面に急降下した。
――――――旅立一之一・終