一寸先は異世界!
ある朝、綱木公司がトイレのドアを開けると、そこにはすでに先客がいた。
「あ、すいません」
反射的に謝ってからドアを閉める。そして彼は不意に異常さを実感した。
ここは自分が住んでいる部屋だ。大学に通う為に借りた場所だ。今、自分はここで一人暮らしをしている。
なぜトイレの中に先客がいるというのか?
もしや泥棒だろうか。だが何故トイレに。
ひょっとしたら自分の見間違いかもしれない。そんな希望を抱きつつ、公司は再びトイレのドアを開ける。
やはりいた。
公司はまじまじと目の前の先客を見つめる。先ほどは即座に閉めてしまったためにわからなかったものの、それはとてつもなく奇妙な出で立ちをしていた。
基本は人型である。小柄で華奢だ。女の子のように見える。見える、というのは所々が人間離れしているからだ。
まず肌。濃い紫色をしている。やたらと露出度の高い衣装を着ているせいで余計に目立つ。
次にこちらを見返しているその瞳。白目にあたる部分が黒く染まっており、爬虫類のような金色の瞳をしていた。
そしてぼさぼさの赤い髪の合間から生えている捻れた角。額には縦に開いた目があり、うつろにこちらを眺めている。
どう見ても人間ではない。
そんな少女らしきものが、青色の灯火が照らすうっすらとした明かりの中、立派な玉座にふんぞり返っている。当然の事ながら、公司のトイレにこんな設備はない。
硬直していた公司は、少女が身じろぎしたのを見てようやく気を取り直した。
「しっ、失礼しましたぁっ!」
「待てい」
がしっ、と
閉じかけたドアを片手で押さえ、異形の少女がトイレだった場所から顔を覗かせた。
情けない悲鳴を漏らす公司を見上げ、少女は目を細める。
「貴様、人間だな? 何故我が居城に立ち入った。言え」
「な、な、な、なんでと言われてもっ!」
何が起こっているのか。事態が把握できない公司はただ意味のない答えを返すことしかできなかった。
訝しげに目を細めた少女の視線が、公司から室内へと移動した。首を傾げた彼女は、どこか呆れたような声を出す。
「そしてなんだここは。家畜小屋か?」
「い、いや。俺が借りてるアパートで」
「あぱあと? 聞き慣れぬ名だ。それはどのようなものだ?」
「え、ええっと……それよりも、ですね。その、なんでトイレから出てきて」
ぎろり、と睨め上げる少女の威圧感に、公司は思わず口を閉じて唾を飲み込む。
実に不愉快といった様子で少女が言う。
「……我が居城を言うに及んで便所呼ばわりとは。死にたいようだな、人間」
「ち、違う違う違う! そういうつもりでいったんじゃなくてこのドアは元々トイレに繋がってて!」
あたふたと弁解する公司。そんな彼を見て、少女は重々しく息をつく。
「まあよい。事情はどうであれ、我が居城にかけられた封印を突破し、我を自由にしたのは褒めてやる」
「ふ、封印? あの、全然話が読めないんだけど」
「……貴様、先ほどから何を言っている? そもそも何の為に封印に穴を開けた」
「いや、トイレに行きたかったからで」
正直な公司の言葉に、少女は心底呆れたような眼差しで彼を見上げた。
ドアを押し開け、部屋の中へと入ってくる。
「先ほどから何を言ってるのだ、貴様は。貴様が魔術によって我を解放したのだろう? 人間にしては見上げた真似をしてくれると、少しは感心してやっていたのだが」
「ま、魔術って……そんな漫画やゲームじゃないんだから」
ばたん、と音を立てて閉じるドアを眺めながら公司は困ったように呟いた。
首を傾げた少女は腕を組んで室内を見渡す。無造作にベランダへと歩いていくと、窓から見える風景を眺め始めた。
しばし時間を置いてから、彼女は身を捻って公司を見た。
「なるほど、貴様は異界の魔術師というわけか」
「い、異界? いや、それはわかんないですけど魔術師ではないです」
一介の大学生である。そういうのに憧れた時期もなくはなかったが、昔のことだ。
困惑している公司に歩み寄ってきた少女は腕組みをしたまま彼を見上げる。
「しかし、ここが我にとって異界であることは間違いない。なんとなれば、あそこから見える風景は我の記憶にあるものとまったく違っているからな。それに漂う魔力も薄い」
「……じゃあ、さっきのは異界? 俺のトイレが異界に繋がってたと?」
「貴様にとっては、な。しかし便所の扉と異界を繋げたということか?」
疑問符を浮かべていた少女は、やおらトイレへと近寄るとドアを開けた。中を覗き込んだ少女が動きを止める。その背後から同じく覗き込んだ公司も目を丸くした。
そこにあるのは、いつものように利用していたトイレの姿。
「ぬぅ、これは……? おい、貴様」
「あ、ちょ、ちょっと待ってください! その、トイレ行ってから話聞きますんで!」
「あっ、おい!」
追いすがろうとする少女の目の前でドアを閉じてから、公司はようやく一息入れることができた。
少し遅めに起きて、トイレに行こうとしたらこの騒ぎ。異界に魔術と来た。
「いったいなんだってんだ……」
思わず呟きが漏れる。
用を足し、水を流してから公司は扉を開けた。
外が真っ暗な闇になっていた。
「……は?」
呆然と公司は声を上げる。彼の目の前では、闇の中にいくつもの光が灯り始めた。
それが燐光を放ついくつもの瞳だということに気づいた彼は悲鳴を上げて扉を閉める。
なんだ、いったいなんなんだ。
荒い息をつく彼の耳に、外から扉を叩く音。彼は身を竦めた。
『おい、人間! 貴様いつまで便所に籠っているつもりだ!』
が、次に聞こえてきた声を聞いて彼は一気に安堵した。あの少女だ。
彼はドアを叩き返しながら叫ぶ。
「す、すいません! 出ます、出ますから開けてください!」
『はぁっ!?』
「なんか俺が開けると変なとこに繋がっちまうんです! ですからお願い、早く開けて!」
一瞬の沈黙ののちに、扉が開かれた。見えたのは苦虫を噛み潰したような少女の顔と、見慣れた部屋の一部。
公司は思わず床へとへたりこんでいた。
「た……助かったぁ〜……」
「良かったな。いいから早く出ろ愚か者め」
少女の辛辣な物言いがやけに身にしみる。公司は目に涙を浮かべながら、なんとかトイレを這い出る。
少女が虫を見るような目でこちらを見ているのも、公司は全く気にならなかった。
「……貴様の話を聞くに、だ。どうやら貴様は扉を媒介にこの地と異界を繋ぐ力を持っているらしいな」
床に直接座った少女は、涙ながらの公司の説明を聞いて迷う事なくそう言った。
「持っている、って……ちょっと待ってくださいよ! 今までそんなことなかったんすけど!?」
「貴様の事情など知るか。実際そうなっておるのだからしょうがあるまい」
不機嫌そうに少女はそう返す。
思わず床に手をついた公司は、何故こうなってしまったのか記憶をたどり始める。昨日まではこんなことなかった。今日と昨日、何が違う。
「……あっ!」
「なんだ。どうした」
「そういや今日、俺の誕生日だ……」
呆然と言った公司に、少女は思いっきり顔をしかめてみせた。そんなことを気にする余裕は彼にない。
自分でもあほらしいと思うが、これしか説明がつかないのだ。今日は18歳の誕生日。それをきっかけに、特別な力が芽生えた。それしか説明がつかない。
わなわなと震え始める公司を見て、少女は呆れたようにため息をつく。
「理由がなんであれ、貴様にそうした力があるのは確かなのだ。試してみるぞ」
立ち上がった少女は、無理矢理に公司を引っ張り上げた。小柄な体に似合わぬ力の強さで、彼は立たされる。
少女に引かれるままにトイレの前へ。少女が無造作にドアへ手をかけ、開く。異常なし。
「ふむ。次は貴様だ」
「は、はぁ」
公司は半端な返事をしながらドアを開ける。
そこにトイレの風景はない。先ほどと同じく、おどろおどろしくも厳かな雰囲気が漂う玉座の部屋がそこにあった。
少女が唸る。
「どうやら間違いなさそうだな」
「ま、マジですか……今日からトイレどうしろってんだ……」
「そこらで済ませたらどうだ」
「できるわけないでしょ!?」
思わずツッコむ公司に、少女はうるさげに自分の耳を塞いでみせた。
首を巡らせていた少女の視線が、ある一点で止まる。玄関だ。
「おい人間。あの扉の向こうには何がある」
「な、何って。外に出られるだけだよ……待って、まさか」
嫌な予感を覚えた公司もまた玄関へと目を向ける。正確には玄関の扉を。
そう。扉。
少女が重々しく言った。
「……貴様の力。そこの便所の扉に限ったものと思うか?」
「ど、どうだろう……」
「試してみろ」
「えっ」
「試してみろ。早めに把握しておくに越した事はあるまい」
公司は扉を見つめる。無意識に生唾を飲み込んだ彼は、ゆっくりと扉に近づき、手をかける。
数度深呼吸をしてから、勢いよく開けた。
扉の向こうに広がっていたのはどこかの森林。もちろん、普段のアパートの外にはこんな光景など広がっていない。
そしてなお悪いものを見て、公司は硬直する。
そこには竜がいた。
蜥蜴のような胴体にコウモリのごとき翼。全身を覆っているらしい深緑色の鱗。そして角の生えている頭部。
眠たげな竜の瞳が公司へと向けられる。
「閉じた方が良いのではないか?」
真横からかけられた少女の声に正気に返った公司は扉を閉めようとした。が、遅かった。
興味を抱いたらしい竜が鼻先を突っ込んできたのである。
慌てて閉め出そうとしたがもう遅い。
「わーっ! わーっ!?」
「ぼんやりしているからそうなるのだ。愚か者め」
「そ、そんなこと言われても! てか見てないでなんとかしてくれよ! このままじゃ扉が壊れる!」
「ふん、無礼な奴。仕方あるまい」
竜の侵入を防ごうと躍起になっている公司の横をすり抜け、少女はやおら竜の鼻先に手を当てた。
そして。
「はぁっ!」
気合いとともに、耳をつんざくような破裂音が響く。公司はとっさに耳を押さえた。
見ると、竜が少し離れた場所に吹き飛ばされている。
「す、すげぇ……!」
「無論だ。我を誰だと思っている? そんなことより早く閉めろ。竜の耐久性を甘く見るな」
「そ、そうだった!」
弾かれるようにして公司はドアを閉める。辺りに静寂が戻ってきた。
息を整えている彼を後目に、少女がドアを開ける。外には、普段通りの……公司にとってはなじみ深い風景が広がっていた。
つまらなさそうに鼻を鳴らした少女は、ドアを閉めると公司を見やる。
「なるほど、扉ごとに繋げられる世界が違うというわけか。しかもそれを制御できていない。……とんだ召喚師もいたものだ」
「そ、そんなこと、言われても! 人生で初めての経験なんだよこんなの!」
「だろうな。我もおそらく貴様よりは長く生きているが、このような無様な召喚師は初めて見る」
動揺しっぱなしの公司を見た少女は、しかしそこで不気味に笑ってみせた。
たじろぐ彼の首元を掴んで引き寄せると、耳元に囁く。
「だがそれ故に面白い。……どうだ、人間。我に力を貸す気はないか」
「え、えと?」
「つまりだ。貴様の力はどことも知れぬ異世界へと我を導くことができる。その未開拓の地で、我に従う部下を集める。こういう寸法よ」
中々に危険な提案だった。
公司は思わず眉をひそめ、少女を見つめ返す。
「あ、あのなあ……それ、俺に協力するメリットないんじゃないか?」
「何を言う。貴様、今のままでは日常生活すらままならん身だろう? 少なくとも、貴様一人であの竜をどうこうできたとは思えんが」
「うっ」
「しかし我に協力すれば、だ。貴様が術を制御できるようになるまで、我が力を貸してやることができる。……まあ、代わりに扉を開けてやる程度だがな」
意地悪く笑う少女に、しかし公司は反論することができない。
実際、この急に目覚めた力のせいで彼はかなり追い詰められた。そしてこれからも追い詰められることだろう。少なくとも自力で家から出る事ができなくなる。
この少女がいれば、まだなんとかなる。
しばし逡巡した公司は、結局力なく首を縦に振った。
少女が満足げに頷く。
「うむうむ、良き判断だ。魔王たる我が力を借りられること、光栄に思うが良いぞ人間よ」
「あ、やっぱりそういう立場の人なんだ……あとさ、その人間てのやめてくんない? 俺には一応ちゃんとした名前があるんだけど」
「ならそのちゃんとした名前とやらを言ってみろ。そもそも自己紹介すらしなかったのは貴様だぞ」
言われて初めて公司は気づいた。そういや今の今まで自己紹介をしようと思う余裕さえなかったのだ。
長い付き合いになるかもしれない。公司は息を整えてから口を開いた。
「綱木公司だ。えーと……学生、って言ってわかる?」
「それくらいわかる。どれだけ我を馬鹿にしているのだ貴様は……まあ良い。では聞け公司よ。十三代目魔王たる我が名を!」
胸を張りながら少女は名乗りを上げ始める。まさに威風堂々とも言うべき態度だった。
が、残念ながら公司には彼女の名前を覚える事ができなかったのだ。
まず長い。とても長い。異常に長い。少なく見積もっても二時間以上に渡って少女の名乗りは続いたのだ。
加えて、人間には到底発音できない言語が往々にして混ざる。それが混乱に拍車をかけた。
「——これが我が名だ。覚えたか?」
「ごめんなさい、無理です」
得意げに見上げてきた少女に、公司は迷う事なく頭を下げた。
一瞬だけ侮蔑と怒りの混ざった表情を見せた少女も、やがて何かを思い出したように首を振った。
「そうであった、忘れていた。人間には高貴なる我が名を発することができないのであったな」
「あ、向こうの人にも無理なんだ……それじゃ、どういう風に呼べばいいんだ?」
「どうと言われてもな。貴様に呼びやすい名で呼ぶが良い。許可してやる」
そう言われて公司は悩んだ。急にそんなことを言われても困惑するしかない。
愛称を付けるにしてもあの名前からどうやればいいのか。しばし悩んだ彼は、おずおずと提案する。
「その……じゃあ、マオってのはどうかな」
少女の目が見開かれた。
まずったか。公司は即座に後悔する。魔王だからマオというのはさすがに安直にすぎた。
が、当の彼女は思いも寄らない反応を返してきた。顔をほころばせたのである。
「マオ、か。短いが良い名だな。いいだろう。お前に限り、その名で呼ぶ事を許す」
「あ……うん。光栄に思います、はい」
「ふふん! 良い心がけだな」
嬉しげに目を細めるマオを見て、公司は安堵のため息を漏らした。なんとか上手くやっていけるかもしれない。
と、彼の腹がぐうとなった。
思わず腹を押さえる公司を見て、マオは呆れながらも笑みをこぼす。
「なんたる情けない音を鳴らすか」
「せ、生理的な反応ってやつだから仕方ないだろ!? ……うわ、もう十二時過ぎてる……飯どうすっかなあ」
「外に買いに行くが良い。我が同行してやろう」
公司はマオを凝視した。そして彼女の様子から、なぜそんな提案をしてきたかを把握する。
子どものごとく目を輝かせている様子を見れば誰だってわかるだろう。彼女はこの世界を見てみたいのだ。
苦笑しながらも、公司は玄関へ向かう。
「それじゃ、近くのコンビニにでも行くか。マオも来る?」
「よくわかっているな公司。様をつけなかった無礼を帳消しにしてやる」
言いながらも、マオはドアへと手をかけた。どこか弾んだ様子で。
彼らの奇妙な関係、それに昨日とはまったく違う生活。それらがまさに今始まろうとしていたのだった。