08.囚われの人魚 その参
窓から入る日の光は徐々に少なくなり、ただでさえ薄暗かった倉庫内は早々と闇に沈む。だが、桂も海も夜目がきくので、行動に支障はなかった。
「なかなか来ないな」
海とは別の木箱を椅子代わりにして座り、手持無沙汰に桂が呟く。
「そうだな。そろそろではないか?」
海が短く答え、再び口を閉ざす。
あれから、普段は不愉快になるほどうるさい男が静かになった。桂もこれといって話すことがなく、やることもなく、ただ黙って時が来るのを待つ。退屈ではあるが、相手を迎え撃つことを決めた以上、これは仕方ない。
意外なことに、この沈黙はけして気まずいものではなかった。気にしなければ、海がそこに存在するということすら忘れてしまいそうなほど、今の彼は周囲に同化し、存在そのものが希薄だった。
そうしてまた、静かに待つことしばし。
結界が揺らぎ、錆びついた扉が開く不愉快な音が倉庫内に響いた。
近づく明かりと複数の足音。それに混じってコツンコツンと規則正しい音が聞こえる。
「まさかおまえがセイレーンだとは。灯台下暗しとはこのことだな」
杖をつく老人が、その顔に嘲笑を浮かべていた。
「セイレーンは美姫揃いだという話だったが、所詮は噂止まりか。まあその歌声さえ使えるなら、その他のことなど些末事だな」
この街の中で、金も権力も持ち合わせる老人。中枢にも発言力を持つ、豪商テス。
それがこの茶番劇を仕組んだ黒幕だったようだ。黒幕御自らこの場に現れるとは、意外に思慮が浅いのかもしれない。
「……余裕だな。今の私を縛る物は何もないぞ」
不思議なことに、誰も海の存在に気づいていない。すぐ側にいるというのに、姿が見えていないようだった。
桂は縛られていた手をヒラヒラと振って自由であることを示し、木箱から立ち上がる。
「私がなんの対策もしていないと思うか? おまえを従わせる手段を持っていないと、本気で思っているのか? 碧い海原まで狩りにいく予定を変更したのは、おまえが手近にいたからだ。おまえが使えないなら、そこまでセイレーンを狩りに行けは良いだけのこと」
テスの言葉に、その後ろにいた男達が一歩、桂へと歩み寄る。
「碧い海原への道など、余人に開かれるはずもない」
セイレーンの故郷、碧い海原と呼ばれる人魚の楽園。そこは閉ざされた海。
彼女達はそこで孵り、育まれ、外海へと巣立つ。死すべき時にもまた、そこへと還る。
碧い海原に至る道は、セイレーンにしか開かれない。
「私は歌えるセイレーンが欲しい。歌えなくなったセイレーンなんぞ、碧い海原へと至る道具としてしか使えぬだろう? 用無しを生かしておけるほど、この街はやさしくない」
桂は言葉を失った。
初めは嘘かとも思った。自分を動揺させ、無力化させる嘘だと。だが、テスは確かに懐かしい同胞の気配をまとっている。感覚を鋭くして注意しなければ気づかないほど微かにだが――。
視界が真っ赤に染まったようだった。
こいつは今までセイレーンを道具として使っていたのか!
数少ない同胞を、この男は!!
散々利用して、歌えなくなったら用無しと――無下に殺すと言うのか!?
怒りで体内の力が均衡を無くし、その奔流がテスへと向かう。だが、それは何かの壁によって彼に当たることなく消滅した。
この街の規律。術を攻撃に用いてはならない。発動しても、作用が消されてしまうのだ。
「規律違反だな。これでおまえを違反者として、堂々と捕えられる」
テスの嘲笑が深くなった。
その耳障りな声に、桂は顔を顰める。
「それはどんな理屈だ、テス。誰がそんなことを許した?」
今まで存在を消したかのように、静かだった海の声が倉庫内に響いた。感情を含まない、淡々としたそれに、桂は内に凝った怒りが抑えられていくのがわかる。
そこにいるのは、絶対的に君臨する者。先程とは打って変わり、圧倒的な存在感を示す者。
ようやく海の存在に気づいた男達が、不審者である彼を取り囲み捕えようとする。だが、彼らは海に触れることもなく、その場で昏倒し、苦しみ悶え始めた。
いくつもの呻き声が重なり、その耳障りな声に海が顔を顰める。
「うるさい」
その言葉に反応するように、男達の呻き声が聞こえなくなった。だが、その顔は苦悶に歪んだまま、目はあらん限りに見開かれて血走り、口はパクパクと音の無い悲鳴を上げる。
「誰が、そんなことを許した?」
昏倒した男達には視線も向けず、海は一歩、テスに向かって進む。テスは気圧されるように後退さった。
「おまえは、誰だ?」
問う声は先程とは一転。怯えを含み、虚勢が見え隠れしていた。
「誰だ? おまえのような小物に名乗る名など持ち合わせてはいない。ずいぶんとまあ偉そうになったものだ。昔は貧民街の洟垂れ小僧だった奴が、このわしをおまえ呼ばわりか」
その声はどこまでも淡々と紡がれていた。
どこか感情が欠落してしまったかのような、そんな印象を受ける声に、桂は海の顔を物問いたげに見る。その表情にもまた、なんの感情も浮かんでいなかった。彼女の知っている彼とは別人だと思えるほど、翠玉の瞳が酷く冷たい印象を与える。
「おまえは忘れてしまったようだが、わしは覚えているぞ。何せおまえを貧民街から連れ出して、あいつに預けたのはこのわしだからな。まったくこんな風に腐ってしまうと分かっていたら、あの時、捨て置くべきだったな」
その声にようやく少しだけ苦い物が混じり、海が皮肉気に口の端を歪めた。意外な言葉に、桂が驚きに目を見開く。
テスは海の言葉に何かを思い出したらしく、その身をガタガタと震わせ始めた。
「あなた、さまは――」
上下の歯が合わずに、カタカタと音を立てる。
「ようやく思い出したか。では、答えを聞こうではないか。誰が、そんなことを許した?」
物騒な笑顔で問う海を前にして、テスは杖を投げ出し、その場で転ぶように跪きコンクリートの床に額を擦りつけた。どう見ても土下座だ。
その身体はあからさまに震えている。あまりの恐怖に漏らしたのか。足元には黄色い水溜りができていた。
「どうかお許しを。お許しを――」
その口は許しを請う言葉だけを繰り返す。
豹変した態度にこれがあの豪商テスなのかと、己の目を疑い瞬きを繰り返し、変わらぬ様相に海を見る。桂には何がこれほどテスを怯えさせたのか、事の経緯がまったく分からない。
だが、海は気づいているだろうにその視線を無視した。
「許しを請うということは、許されざることをしたという自覚がある、ということだな?」
海の顔を見ることもなく、テスはコンクリートの床に額を押しつけたまま、ひたすら同じ言葉を繰り返す。
「お許しを。お許しを。お許――」
それはとても滑稽な姿であり、哀れな姿だった。だが、この男に囚われ道具として使われ、使い捨てられようとしているセイレーンは更に哀れだ。
本来、セイレーンが歌うのは恋しい男のため。
歌えなくなるほど長くセイレーンがこの男の傍に留まっていたのだとしたら、それはこの男を恋しいと思っていたからに他ならない。自分を道具としてしか見ない男を、それでも愛して、尽くして――報われないその想いに、彼女はどれほど傷ついただろう。
「変態。もういい」
気がつけば、そう告げて桂は二人の間に割り入っていた。