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07.囚われの人魚 その弐

 次に気づいた時、桂は全身ずぶ濡れになっていた。バケツで水を掛けられた衝撃で目が覚めたのだ。

 腕も足も力を封じる呪いが込められた縄で縛られ、猿轡(さるぐつわ)を噛まされ、コンクリートの床の上で直に転がされていた。

 窓は上の方に明かり取り用のものがいくつかあるだけで、室内は薄暗い。たぶん、どこかの倉庫の中だろう。


「見事な髪色だな」


 空のバケツを持っていたのは、桂を誘拐した中肉中背の特徴のない顔をした男だった。感嘆の声を上げた男を、桂は睨みつける。

「まさかとは思ったが、本当にセイレーンか。だが、尾がないな。これでは水が足りないのか」

 桂の視線など気にもせずに、男は呟く。

「まあいい。その髪色さえあれば証明になる。スポンサーに引き渡すまで、そこで大人しくしていろ」


 バケツをその場に置いて、男は桂に背を向ける。しばらくして扉が開く錆びついた音がし、不愉快な音を立てて閉まる音がした。倉庫に結界が張られ、外界から遮断されるのを感じる。

 気配を探り、この場所に自分以外の誰もいないことを確かめてから、桂は深く息を吐き出して強張った身体の力を抜く。

 まだ、誘拐されてさほど時間は経っていないのだろう。窓から入る光は昼間のものだ。


 セイレーン。


 何者をも惑わす歌声を持つ者。

 その歌声で恋しい男を海原へと誘い、その魂を抱いて微笑む人魚。


 そう言われてきた。それは時に事実であり、時に事実とは異なる。

 本来、セイレーンは平穏を望む、女だけの非力な部族だ。けれど、その歌声は他の者達から脅威とも、利用価値の高いモノとも受け取られてしまった。

 だから、恐れられながらも彼女達は迫害され続け、その歌声を道具とするために狩られ、絶滅寸前まで追い詰められた。


 それでも地上の男に惹かれ、恋焦がれ――悲しき因業を繰り返す。


 桂の顔には嘲りが浮かんでいた。


 己にその力はもうない。自ら捨てた。

 だというのに、セイレーンの証明であるこの髪色は残ったまま。

 信じた人に裏切られ、自ら選んだ所業のために大切なモノを手放した。

 それでも卑しく生き長らえている己が、なぜセイレーンだと言える?

 いっそのこと陸地をどこまでも歩ける丈夫な足を得た時に、この髪色も失ってしまえばよかったのだ。そうすれば――。


「伴侶殿。そんな風に己を責めるものではないぞ」


 声と共に、見知った気配が現れる。

 神出鬼没な、得体の知れない男の声。桂を伴侶と言い続ける、女たらしの声だ。

 猿轡を外され、両手両足の縄が解かれる。桂は上半身を起こし、すべて分かったような口を利く海を睨みつけた。


「おまえに何が分かる」


 低く恫喝するような声を気にするでもなく、海は桂の少し長くなった前髪に手を触れ、邪魔にならないよう横に梳く。

「わしは何も知らんよ。ただ伴侶殿の心の慟哭が伝わってくるだけだ。それを取り除いてやりたいとは思っているが、その心を踏みにじりたいわけではない。伴侶殿はまだ、わしをその心に受け入れてはくれないだろう?」

 傷ついたような表情で淋しそうに笑う海から、桂は視線をそらす。


「わしは過去などどうでもいい。今の伴侶殿を愛しいと思う男がここに存在することを、心の片隅で良いから留めておいてくれ」


 不思議なことに、海が触れている部分から徐々に水気が退き、さほど時間も置かずに全身にまとわりつく水気は払われた。

「さすが女たらしは口が上手いな」

 離れていった手を少し淋しく思い、その思いを追い払うように桂の口からは皮肉が零れた。


 本心からこんな言葉が言いたかったわけではない。本当は感謝を告げるべきだと分かっていた。

 海は気をつけろと忠告していた。迂闊にも気を抜いてしまったのは桂で、この街では基本的に己の身は己で守らなければ生きられない。用心に用心を重ねたとしても、無駄にはならなかった。

 こうして海が桂を助けに来る義理など、最初からないのだ。それなのに――。


「それでわしは長年、浮世暮らしを続けてきたからな」

 本気か冗談かよく分からない答えを返した海を、桂は胡乱に見る。

「心配せずとも、もう浮世暮らしは止めたぞ」

 ニカッと悪気ない笑みを向けられ、彼女はため息をついた。

「反省しない変態に言われても、真実味はゼロだな」

 ばっさり切り捨てたその言葉に、海が意気消沈して肩を落とす。

「やはり伴侶殿はつれない」

 状況もお構いなしにしゃがみ込み、のの字をコンクリートの床の上に量産し始めた海に、桂は呆れた視線を向けた。


「おまえは何をしに来たんだ? こうして助けに来てくれたことには感謝するが、阿呆なことをしていると置いていくぞ」


 力を封じるための呪いが施された縄さえ解ければ、この程度の結界など桂でも壊せる。扉の外を探れば、誰か立っている気配があった。だが、少数なら自由の身になった桂の敵ではない。

「今、外に出るのはお勧めしないな。ここから逃げたとしても、同じことの繰り返しになる可能性が高い」

 即座に立ち直った海は真顔でそう告げると、無造作に置かれていた木箱にドカッと座る。


「待っていれば向こうから来てくれるというのだから。ここで迎え撃とうではないか、伴侶殿」


 海の言葉には一理あった。

 ここで逃げ出しても、また狙われる可能性がある。ならば、今ここでその憂いを消し去ってしまった方が、今後の生活にも支障がない。

 それは確かだろうが、この男はいつから話を聞いていたのか、という疑問がわき上がる。

 桂がこの場に連れ去られた後の、中肉中背の特徴のない顔をした男との会話を聞いていない限り、そんな言葉が出てくるはずがない。


 訝しげに海の顔を見て、桂は言葉を失った。

 彼の顔に浮かんでいたのは笑みだ。だが、それは獰猛で、酷く禍々しく危険なものに見えた。


「伴侶殿を手荒く扱って道具にしようなんて考える輩には、生き地獄をフルコースで味わわせてやるから大丈夫だ」

 桂に向けられる笑みも声も、どこまでもやさしい。だが、内容は物騒極まりなく、そのずれにいっそう薄ら寒く感じてしまうのだから不可思議だ。

「……街内での殺しは規律に反する」

 戦闘自体は禁止されていないが、それに関しての規律は細々とあった。

 物騒な言葉を口にした海に、危険を感じて忠告する。誘拐された立場にある桂にしてみれば、相手が死のうとも自業自得な気もするのだが、それによって彼が罪に問われるのは嫌だった。そうなってしまうのは、彼女としても寝覚めが悪い。

 今回、正当防衛でどこまでが容認されるか微妙なのだ。

「殺し? そんなことはせん」

 あっさりと返ってきた否定の言葉に桂は安堵しかけ、


「奴らにとっては死を選んだ方が楽だと、そう思える報復を用意してやった。だが、そう簡単に死なせるものか。伴侶殿を傷つけた罪は、万死に値する」


 淡々と感情のこもらない声で続けられた言葉に背筋が寒くなった。

 そこにいるのは、桂の知っている海であってそうではない。


 これが、この男の本性。

 隠し持った鋭い牙の片鱗。


 思わず己の身体を抱き締めて身震いした桂に、

「大丈夫だ。伴侶殿はわしが守るよ」

 一度は突っぱねられた台詞を再び口にして、海は笑い掛ける。やさしく、その瞳が(かな)しみを宿しながら桂を見つめていた。



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