06.囚われの人魚 その壱
今日は先代から付き合いのある所との、月に一度の取引の日だった。
この薬店は、桂がこの街に来る前から存在する。途方に暮れて方々を彷徨い、この街にたどり着いた彼女を拾って弟子にした、ここは先代の店だった。
薬師としての己の技術を桂にすべて教え込んだ先代は、それを終えると彼女に己の店を任せ、安心したように大往生をとげた。それから桂はずっと一人で、この薬店を切り盛りしている。大繁盛しているわけではないが、それでも赤字を出すことなく普通の生活を送れるくらいの稼ぎはあった。
「今月の注文はこれですべてか?」
調合机越しに、桂は相手に話し掛ける。その視線は注文品のリストが載った紙に向けられていた。
「ああ。用意できるか?」
剣帯した中肉中背の、特徴のない顔をした男が頷く。
この取引相手は大口の顧客で、いつも似通った注文をすることもあり、すぐに用意できるようその分の作り置きはしてある。だが――。
「ほとんどは今、用意できる。だが、これは少し待ってくれ」
リストの最後の一文を指差し、桂は告げる。
今までの注文品からすると、少し異色なそれは在庫がなかった。これから作る必要がある。
「……どれくらいの日数が必要だ?」
そう訊ねた男に、少し考えてから桂は告げた。
「三日くれないか?」
作るだけなら一日も掛からないが、もし材料が揃っていなかった場合、仕入れなければならない。すぐにあれば良いが、なかった場合はそれくらい見込んでおけば手に入る。その薬に使われている材料はどれも、けして珍しい代物ではない。
「わかった。では、それだけ三日後に取りに来る」
そうと決まれば、交渉成立だ。
桂はそれ以外の薬を用意し、代金と引き換えにそれらすべてを男に渡す。
「では、三日後に」
「まいどあり」
短くそう告げて去っていった男の背をなんとなく見送っていると、狭い店内で男とすれ違うようにして海が現れた。ドアベルが鳴らなかった気もするが、奴は神出鬼没だ。空間転移も使える。どこにでも気配なく現れることが可能に違いない。
男は海の存在を気にするでもなく、軽快なドアベルを鳴らして店外へと出ていった。
一方、海は桂の前まで来て、端に置いてあった椅子を調合机の所まで引きずってくると、それにドカッと座り込む。その顔が珍しく不機嫌そうに歪められていた。
「伴侶殿。あの男は何だ?」
顔同様、不機嫌そうな声に桂は首を傾げる。
「客だ。ココは薬屋で、私は薬師だ。薬を売っただけだが、何か問題があるか?」
あそこの注文は桂の主な収入源の半分を占める。先代からの取引相手だし、何よりこの街で暮らしていく以上、あそこと揉めるのはまずい。
「あの男、嫌な臭いがした」
そう呟いた海に、桂は訝しげな顔をする。
「揉め事は余所でやれ。私を巻き込むなよ。あの男は中枢の人間だ」
この街が無法地帯にならず、ある一定の治安が維持されているのは、規律があるからだ。そして、その規律が守られるように管理する組織が存在するからだった。実質、その組織がこの街を支配している。
その組織のことを、この街に住む者達は中枢と呼んだ。
「中枢、か。また面倒な所の奴だな」
嫌そうに顔を顰め、そう吐き捨てた海の態度に、桂は奇妙な違和感があった。
「変態。いつものヘラヘラした態度はどこに置いてきた?」
掴み所のない、桂に何をされても笑っているような態度が、今日はどこにもない。急に背筋が寒くなるような感覚に襲われ、桂は身を震わせた。
「すまん。少し苛立っていただけだ」
桂の異変に気づいた海がその顔に笑みを浮かべるが、彼女はそれが表面上で作られたものでしかないと気づく。
「あの男に何かあるのか?」
真剣な表情で問う桂に、海は作り物ではない苦笑を浮かべる。
「単なる勘だ。気にしないで良い」
海は首を振って否定したが、桂は納得できなかった。海の態度はいつもおかしいが、今日はいつもとは違う意味でおかしい。
じいっと見つめれば、彼の苦笑が深まった。
「本当に勘でしかない。なんの根拠もないんだ。ただ――この手の勘は大抵、当たる」
嘆息して、海は言葉を続ける。
「大丈夫だ。伴侶殿はわしが守るよ」
そう告げていつもと変わりない笑みをようやく見せた海に、桂は安堵すると共に、口の端を上げて笑ってみせた。
「私に殴られて気絶するようなおまえに守れるものか。自分の身は自分で守れるさ」
「そうだな。確かに伴侶殿の一撃は強烈だ」
声を立てて笑う海は立ち上がり、桂の頭に手を伸ばす。
「……あの男には気をつけろ」
警告するように低く告げ、海は桂の頭をクシャクシャと撫で回す。受け流すには真剣な言葉に、その声に桂は彼に為されるがまま。
海は彼女にニカッと笑い掛けると、踵を返して店から去った。しっかりと出入り口から出て行ったらしく、場の空気にそぐわない軽快なドアベルの音が鳴る。
その後ろ姿を困惑顔で見送った桂は、腑に落ちない彼の言動に首を傾げる。どうにも胸がざわついて落ち着かなくなっていた。
そうして約束の三日後になった。その間、何事もなく桂は過ごしていた。
海はあれ以来、現れていない。今日辺り来るかもしれないと桂が頭の片隅で考えていると、カランカランとドアベルが鳴って誰かの来店を知らせた。
そちらに視線を向ければ、中肉中背の特徴の無い顔をした男がこちらに向かって歩いてくる所だった。
桂のいる調合机の所まで来ると立ち止まる。
「注文の品を受け取りに来た」
すっきり片付いた調合机の上に、桂は小瓶に入った薬を置く。
「これが注文の品だ。わかっているだろうが、扱いには細心の注意をしろ。一回の薬用量は三滴だ。それ以上は毒になる」
「ああ」
男は代金を置き、小瓶を手に取り、ポケットへと無造作に仕舞う。そして、踵を返して歩き出した。
桂は代金を手に取り立ち上がる。後ろの棚に置いた小さな金庫にそれを仕舞うために身体を反転し、ふと妙な気がして動作を止めた。
何かが変だ。そう。ドアベルの音が――。
瞬間、風を感じた。窓など開けていない。だから、そんなはずはない。
頭は思考を巡らす。だが、気づけば身体は何かに捕われたように身動きできなくなっていた。
真後ろに誰かの気配を感じる。
「力の使用は禁止ではなかったのか?」
自分で考えているよりも冷静な声が出た。
「規律にも穴はある。攻撃は違反になるが、捕縛は無効だ。戦闘行為とはみなされない」
それは去ったはずの男の声だった。
店の扉が開く時に鳴るはずの、ドアベルの音が鳴っていない。取引が無事に終わり、何事も無かったことに気が抜けていたらしい。
男は店を去るように装って、去らずに桂の隙を狙っていたのだ。
その結論にたどり着いた時、首に衝撃を受けた桂は気を失った。