05.濡れ髪と部族名
今日もまた、変態を構ってしまった。
風呂桶に浸かって凝り固まった筋肉を解しながら、桂は深く長い息を吐き出す。
得体の知れないあの男は三日と間を置かず店に現れ、下らないことを抜かしては桂の神経を逆なでしてくるのだ。
次こそは無視してやると決意するのだが、気づけば海の思惑通りに乗せられ怒鳴りつけている始末。怒鳴りつけても気にした様子はなく、いくら殴ろうが蹴ろうがあまり堪えた様子もないので、日々溜まるストレスのせいもあってそれを繰り返す。悪循環だ。
そのストレスの大半が海なので自業自得と言えるが――本来、桂はこれほど手が早くはなかったはずなのだ。
色々と理不尽過ぎる。
そう思いながら桂は風呂桶から上がる。長湯は逆上せるので好まなかった。
脱衣所で全身の水気を拭い、己の身体の貧相具合につい眉間に皺が寄る。
「こう、もうちょっとあっても、なぁ」
胸のふくらみはやはり乏しい。それが悲しくもあり、だが、男の振りをし続けるには都合が良いので困り処なのだ。
「まあ小さくはあるが、形は良いと思うぞ。美乳だ。ふむ。思ったよりはあるな」
唐突に聞き覚えのある声がして、桂は見事な速さでバスタオルを身体に巻きつけた。そうしてから機械人形のようにギクシャクとした動きで、声がした方を見る。
案の定、そこにはなぜか海がいた。
いつからいた?
いつ、いつ、いつだ!
カアッと全身の血が沸き立つように巡り、桂は不届き者に拳を繰り出す。直撃を受けた海は狭い脱衣所内から吹き飛び、いつの間にか開いていた扉の横を通り、その先の廊下の壁に激突して止まる。
壁に沿ってずり落ちた身体を前に、バタンと激しい音を立てて脱衣所の扉が閉められた。
声がするまで海の気配などなかった。
あれほど側に近寄られるまで気づかなかった、ということなのか?
桂とていい歳だ。今更裸を男に見られたからといって、悲鳴を上げて硬直するほど若くない。だが、羞恥心まで捨てたつもりもない。
急いで下着や部屋着を身に付け扉を開ければ、壁に激突した状態のまま首だけ動かし海が桂を見上げた。その顔には苦笑が浮かんでいる。
「こんばんは、伴侶殿」
何事もなかったかのように彼は挨拶を口にして、手をヒラヒラと振った。
「おまえはつくづく私の感情を逆なでしてくれるな」
ダラリと伸びた足の付け根の上で片足を静止させ、桂は物騒な笑みをその顔に浮かべる。
「本気でこのまま踏み潰してやろうか?」
このまま力を入れて踏めば、今は平然としている海だってさすがに悶絶する。得体の知れない存在だろうと、ものすごく頑丈な奴だろうと、一般的な男の急所が適用されていたのは確かだ。
「いやいやいや。待って、伴侶殿。わしの大事な場所が潰れたら、世の……。なんでもありません。あれから浮気はピタリと止めました。伴侶殿一筋です。……後生だから踏んでくれるなぁ~」
桂としても好んで踏みたい代物ではないが、この男を黙らすにはたぶんこれが一番効率的な方法だった。余分な口をきく海の急所を、それでも手加減して踏みつけ、桂は上から彼を睨みつける。
「覗きはいけませんって習わなかったのか?」
「……覗いてない。堂々と見物させてもらった」
「………」
「………」
見つめ合った後、桂がにっこりと笑う。その優しい笑顔に、海もヘラリと笑い返した。そして――。
「○△×◇◎~~~!!!」
言葉にならない絶叫が、海の口から吐き出されたのだった。
怒り心頭な桂は急所を抑えて悶絶する海をそのままに、台所へと行き自分が飲むためにお茶を入れる。
桂がお茶で一服した後、ようやく復活したらしい海が居間に現れた。
「酷いではないか、伴侶殿」
不機嫌を露わにした顔を不愉快げに見て、桂は言葉を吐き捨てる。
「何が酷いものか。当然の報いだ」
「まあタイミングが悪かったのは認める。だが、お陰で良い物が見られた」
海のまったく反省していない言葉に、桂の眼光が鋭くなる。
「おまえは死なねば反省もできないようだな」
唸るような呟きと殺意に、海がブンブンと子供のように頭を振った。
「勘違いするな、やましい意味ではない。その髪だ」
先程の痛みを思い出したのか、海の顔色は青い。一方、髪のことを指摘された桂は、遅ればせながら己の不注意に気づいて顔を顰めた。
桂の髪は種族の特性上、水気を大量に含んだ状態だと色が変化する。乾けば普段の碧掛った黒色に戻るのだが、風呂上がりを目撃されたのならその髪色も見られていたはずだ。
透明な海の碧のような色をした髪を――。
「伴侶殿はセイレーンだったのだな」
告げられた部族名に、桂はビクリと肩を震わせる。
種族は水人族になるが、水人族は住む場所とそれぞれが持つ特色によって細かな部族へと分かれている。海が口にしたのは、今はもう細々と存在するだけになってしまった部族の名称だった。
彼は知っているのだ、セイレーンというモノを。
「……正確には元セイレーンだ。海原は私を拒絶する」
この男に告げてどうするというのだ。そう訴える己がいる。だが、桂の口は止まらない。
「私は海原を捨てた。自由に水中を泳ぐ尾と何者をも惑わす歌声と引き換えに、地上を歩く丈夫な足を得た。だから、セイレーンではない」
すべては若かりし頃の感情に任せた行いの代償だ。後悔は無い。
それなのに時々思うのだ。自ら捨てた海原が恋しい、と。
苦く笑って俯いた桂の頭に大きな手が乗せられ、ポンポンと子供を宥めるように軽く叩かれる。
「すまん。わしが悪かった。だから、そんな顔をしないでくれ」
悔恨の滲んだ声が上から降ってきた。だが、桂はその手を振り払うことも、顔を上げることもできなかった。
このことに対して、海が謝ることなど何一つない。彼はただ、桂の部族名を言い当てただけだ。そう分かっているのに、桂の口から言葉は出てこない。
「伴侶殿は否定するが、セイレーンの証であるこの髪はとても美しいと思う。伴侶殿に良く合っているし、短いのがもったいないくらいだ。それに、な」
言葉を区切り、海が笑ったのが雰囲気で分かった。
「わしは伴侶殿のことをすべて知りたいとは思っているが。どんな存在だろう、たとえどんなことを知ろうと、伴侶殿が愛しいことに変わりはないのだよ」
女たらしで、遊び人で、得体の知れない存在。
なのに、この男は桂が無意識に望んでいた言葉を、事も無げに告げるのだ。現在の桂を肯定する言葉を――。
「……さすが、女たらしの言うことは違うな」
取り乱したことが恥ずかしくて、桂は顔を上げないまま憎まれ口を叩く。それに海は声を上げて笑った。
「そうだろう。長年、浮世暮らしをしていれば、女子の好みそうな言葉も手管も色々と、な」
笑み含んだ言葉に、桂の顔が引きつった。
「ほぉ、そうか」
それを気取られないように曖昧に答えながら、いまだ頭の上にある手にゆっくりと手を伸ばす。
「女子の心は秋の空と同じだからな。なかなかに難しい」
口の軽い男はまだ、そこで笑っていた。桂は込み上げてくる怒りを胸に、彼の手の甲を思い切りつねり上げる。
「私もその女子の一人なのだよ、変態」
手の感触が頭から消えたことに、清々とした気分で桂は海を振り仰ぐ。つねられた手を痛そうにさすりながらも、彼女の視線を感じて海が微苦笑した。
「知っているよ、伴侶殿」
穏やかな声で紡がれる肯定。
先程の言葉は彼が口を滑らせた事実なのか。それとも、わざと口にした冗談だったのか。
彼の瞳に浮かぶ揺らめきに、桂は気づかない振りをする。
それに囚われてしまえば、また泣くことになるのは自分だ。桂の瞳に過去の出来事に対する痛みが一瞬だけ蘇り、すぐに仕舞われた。
「今日の昼間、少し沈んでいただろう? いつも通りの伴侶殿に戻ってよかった」
桂の心情に海は気づいたのか。気づかなかったのか。
性懲りもなく彼女の頭に手を伸ばし、ゆるりと撫で、
「おやすみ、伴侶殿」
そう告げると、その場から姿を消した。
一瞬にしてかき消えた海の姿に、桂は瞠目する。
空間転移。
あの感情の機微をまったく察しそうにない男に、己の些細な感情のへこみを悟られていたことにも驚かされたが、空間転移なんて高度な術が使えることにも驚かされた。
あれは相当な力量と技量を持ち合わせていないと使えない。種族的に力の弱い水人族としては過大な力を持っている桂だが、空間転移は無理だ。力量も足りないが、それを行なえるだけの技量も持ち合わせていない。
それを海はあっさりと行った。しかも桂の結界内から、その結界を破りもせずに――。
いまだに己が張った結界は健在している。
海から感じていた力量は、桂とさほど変わらないくらいだった。だというのに空間転移が使えるのなら、それはおかしい。
「本当に得体の知れない変態だ」
無意識に入っていた全身の力を抜き、桂はソファにぐったりと身体を預ける。
色々とおかしい。海は桂の知っている常識が通じない、非常識の塊だ。だが、それもこれも考えても無駄なことだと、彼女は早々にそれら諸々に関して考えることを放棄した。