04.非常識な男と薬師の日常
桂の住む小さな家には、続きで店舗の部分がある。一日の大半を彼女はそこで過ごしていた。
「ただいま~」
カランカランと軽快なドアベルを鳴らし、精悍な顔をした男が店内へと入ってくる。海だ。
「ここはおまえの家ではないと、何度言ったら分かる」
薬の調合をしていた桂は顔を顰め、彼の方を見もしないでばっさり切り捨てる。
「つれない伴侶殿だ」
海は慣れた様子で色々な素材がひしめく店内を進み、桂がいる奥の調合机の所まで来て、そこに置かれた丸椅子を彼女の前まで移動してから座る。
「誰が伴侶だ、誰が」
口だけは海の相手をしながらも、桂は量りを見たまま、その手は調合する粉末量の微調整を行っていた。
桂が名を教えないせいか、海は彼女のことを伴侶殿呼ばわりすることに決めたらしい。いくら否定しようが、訂正を求めようが、のらりくらりとかわされ続けた桂は最近、問答する気力すら失いかけていた。
「では、薬師殿。そろそろ呼び名くらいは教えてくれぬか?」
真剣に仕事をする桂の姿を、海は楽しそうに眺めている。呼び方は一時的に薬師殿になるのだが――。
「変態に名乗る名は無い」
「やはりつれない伴侶殿だ」
こうしてすぐに伴侶殿に戻るやり取りを、何度繰り返したことか。精神的疲労が蓄積しすぎて、もう呼び方などどうにでもなれ、という投げやりな気分で桂は息を吐き出す。
いつもと同じように拒絶された海は、その顔に苦笑を浮かべて彼女を見ていた。
「……言葉を変えようか。私には、女物の香水をプンプン匂わせたヒモに名乗る名は無い。それほど知りたいのなら、どこぞのお姉さまにでも訊けばいい。きっと答えてくれるはずだ」
近辺では薬師の桂で通っている。この広い街では桂以外の薬師も当然存在するので、それぞれを区別するためにも呼び名は必要だった。だから、近辺の者ならば誰でも桂の呼び名くらい知っている。隠してもいないのだから、訊ねれば教えてくれるはずなのだ。
桂は作業の手を止めることなく量り終えた薬包紙上の粉末を乳鉢の中に入れ、その中で他の粉末と均一に混ざるようにかき回す。
彼女が海に呼び名を訊ねられても名乗る気にならないのは、彼の言動ゆえだ。
知りたくもないことだが、海から漂う香水の移り香は、今回もまた異なる代物だった。香りを変えることはあまりないので、必然的に前回とは違う相手ということになる。
というか、この男の場合、ここに来る毎に違う移り香を纏っている。初対面での桂の直観は、このことからも見事に当たっていたということが証明されていた。
「そんな無粋なこと、このわしがすると思うか。二人でしっぽりしている所に、余所の女の話など最低だろう?」
さも当然の如く告げられ、桂の顔が引きつる。手を止め、彼女はようやく海を見た。
その言動こそが最低だと、この男は思わないのか。
「世のため、他人のため、私のため。やはりおまえは現し世から抹殺するべきだな」
作業用エプロンのポケットからある薬の入った薬包を取り出し、桂はスッと海の前に差し出す。
「何も言わずに飲め。この世のモノとは思えぬ夢が見れるぞ、一瞬だけ」
「……その後は?」
調合机の上に置かれた薬包をしげしげと見つめ、それでも手は出さずに海が訊ねる。
「そのまま黄泉国へ旅立てる。痛みもない。一瞬だ。よかったな」
フフフッと笑っている桂だが、その瞳が全然笑っていない。彼女はどこまでも本気だった。
海が顔を引きつらせる。
「せっかくだが――」
「なぁ~に、遠慮することはない。お代はおまえの死体で手を打つ」
断ろうとした海の言葉を遮り、桂が真顔で告げる。そして、そのまま二人は無言で見つめ合うことしばし。
「……伴侶殿。冗談、だよな?」
「薬を使うと余計な物が全身を巡るから使い道は少ないが、おまえの死体なら売れんこともないだろう。世の中、妙な趣味の者はたくさん溢れているからな。特にこの街は」
ニヤリと笑った桂に対し、海は己の身を抱き締めガタガタと震え出す。似合わないその動作にわざとらしさを感じ、桂が白い目で彼を見た。
「おまえとの会話は不愉快だ。邪魔をするなら去れ。私の前に二度と現れるな。その方が清々する。いっそ、どこぞのお姉さまに永遠に飼われてしまったらどうだ?」
調剤作業に戻った桂を、なぜか海はうれしそうな笑みを浮かべて見つめる。
「伴侶殿はわしがお姉さま方と遊ぶのがお気に召さないのか。嫉妬か?」
「だぁれぇがぁ、ッんなことを言ったか! この女の敵が。ふざけたことを抜かす前に、己の不誠実な所業を振り返れ!!」
ビシッ。
うっかり手に力が入り過ぎて、乳鉢が悲鳴を上げた。それに気づいた桂が慌てて手を離し、深呼吸をする。
危ない、危ない。怒りにのまれて、この男のペースに巻き込まれる所だった。
海の言葉はどこまで本気かわからない。だが、作業は中断され、気づけば彼の相手をしていた、なんてことがざらになってきている。それは桂にとって大変不本意で、良くない傾向だった。
この男は警戒対象だ。まともに相手をしてはいけない。そう分かっているのに――。
「不誠実、と言うがな。相手がそれでも良いというのに、断るというのは甲斐性無しだと思わないか? 据え膳食わぬは男の恥、と言うだろう?」
桂は己の顔がピクピク痙攣するのを止めることができなかった。
この男はいったいどういう観念で今まで生きてきたのか。こんな台詞を真顔で、諭すように告げるのだからとんでもない。整い過ぎた精悍な顔立ちと鼓膜を震わせる艶のあるバリトンに、若い娘ならコロッと騙されそうだが、こちとら生きた年月が違う。
「物は言い様だがな。おまえのやっていることは、最低男のやることだ。まだ甲斐性無しの方がマシだ。男の風上にも置けない、クズ野郎」
静かに吐き捨て、桂は海から視線を外すと立ち上がり、奥の棚へと足りない物を取りにいく。その背を目で追った海は、困ったような笑みをその顔に浮かべていた。
彼女の怒りがいつもより深いことは分かった。怒鳴るでもなく、手が出るわけでもなく。これほど静かに冷やかな声で、言葉を吐き捨てられたのは初めてのことだ。
その声だけで室内の温度が数度下がったような、そんな冷たい空気が店内を漂っていた。
しばらくして必要な物を手に戻り、座って作業を再開した桂に、海は声を掛ける。
「わしは、な。伴侶殿の言うように不誠実な男だ。わかっている。だが、今までそうやって生きてきた。だから、伴侶殿に出会って愛しいという感情を知っても。こうして怒られても、今更、どうその生き方を変えれば良いのか分からんのだよ」
ぽつりぽつりと呟かれる言葉を聞きいているうちに自然と手元の作業は中断し、桂は内心困惑していた。まるで途方に暮れた子供のような、そんな呟きに呆れていいのか、怒っていいのか。困ってしまったのだが――。
「それに、な。アレはなかなか美味いんだ。こう、快楽に酔った精気は度数の強い酒のようで、病み付きになるというか。これでも気を使って大丈夫そうな相手を選んでいるつもりだが――それでもいかん、の、だな」
続けられた内容の酷さに、内からフツフツと怒りがわき上がる。
己の困惑を返せと訴えたい。
この男にとっては食事か? 嗜好品か!?
本気の者だっていただろうに――弄ばれた乙女の心の傷がどれほど深いか、この男は全然分かっていないに違いない。
無言で般若の形相になった桂に、海はしょんぼりと肩を落とす。
「わかった。伴侶殿がそこまで嫌がるなら止める。だから――」
そこで言葉を止め、海は桂の顔を窺うように見る。反省しているような、神妙な顔で彼女の反応を待っている彼に、己の感じた怒りを深く息を吐き出すことで何とか収め、彼女は続きを促す。
「だから、何だ?」
問う桂の声は呆れを多分に含んだものだった。きっと表情もそうだろう。
彼女の感情の変化を機敏に察した海がにっこりと笑い、口を開く。
「伴侶殿を抱かせ……ごふッ」
真剣に聞いて損をした。
白けた気分で、桂は海の顔面にめり込んだ拳を収める。
この男に反省という言葉は無縁なのだ。理解したつもりでいたが、まだまだだったようだ。
作業途中の調合机の上に海の上体が倒れかかりそうになり、それに気づいた彼女は無言で更なる一撃、肘鉄を彼の額に食らわすことで回避した。その反動で後ろに倒れた海は椅子から転げ落ち、周囲の物にあちこちぶつかってから、狭い店内の床に身体を投げ出す。
「見事な腕前だ、伴侶殿……」
かなりの打撃を受けただろうに、それでも気を失わなかったらしい海が、呻き声と共に呟く。
「おまえに弄ばれた、多くの女子の痛みだ。少しは反省しろ、変態」
さすがに床から起き上がってはこれないらしい彼に桂はそう吐き捨て、あとはもう作業に集中し、しばらくして復活した彼から何を言われようとも無視し続けたのだった。