41.姉、襲来 その伍
「訊きたいことがあるの」
店の出入り口から現れた海に向かって、遼は問い掛ける。
その内容を知っている桂は、彼女の口を塞ごうと動いたが、反対に拘束され口を塞がれてしまった。桂よりも小柄で非力そうにみえる遼だが、一端捕まってしまえばその腕から逃れるのは容易ではない。
「あなたは桂を伴侶と言ったわよね。その言葉が真実だというのなら、桂に真名を告げられるはず。桂に真名を渡しなさい。それができるなら、あなたが桂の側にいることだけは認めてあげる。その先をどうするかは桂とあなた次第よ」
桂は止めることもできずに、その言葉を絶望と共に聞いていた。どんな返答があるにしろ、ここでこれまでの海との関係は終わる。そう思うと、それが酷く悲しかった。
腕を組んで真顔で遼を見ていた海は、その腕の中で身動きできない桂に視線を移すと、その顔に笑みを浮かべてみせた。やさしい、ただ愛しみだけを浮かべるその表情に、桂の顔が歪む。
「わしの真名を桂に告げるだけで良いのか?」
拍子抜けしたとでも言いたそうな軽い口調に遼の拘束が少し緩み、口が自由になった。
「おまえの真名など、私は要らない!」
遼が何かを答える前に、桂は叫ぶ。その言葉に海の表情が困ったようなものに変化した。
「桂になら、わしの真名を渡しても良いよ。そんなことで側にいられるのなら構いはしない。姉御は桂の身が心配なだけだ。わしら一族は他の種族からすれば脅威でしかないからな」
海には遼が危惧していることが分かる。海から桂を守るために必要だと、彼女は思っている。それは一心に桂の身を案じているからだ。それ以外の意など、彼女からは読み取れない。
「おまえがどんな脅威になる。私の攻撃で気絶するような奴が、脅威になどなるものか。だから、真名など要らない」
桂の口から飛び出した内容に驚いた遼の拘束が更に弛んで、桂は身体の自由を取り戻す。
「どちらにせよ、いずれは告げるつもりでいた名だ。それが今であろうと、わしは構わん」
「おまえが構わずとも、私が構う!」
海に駆け寄った桂は、彼の口を塞ごうと手を伸ばす。だが、それはあっさりと動きを封じられてしまう。その時の彼女には彼を黙らすために言霊を使う、という考えはすっかり抜け落ちていた。
「おまえは私に隷属するというのか? 私は嫌だ。そんなこと望んでいない」
桂の悲痛な叫びに、海の眉尻がいっそう下がり、その表情は困惑が深まる。だが、紡がれる言葉はどこまでも穏やかだった。
「隷属、か。まあそうとも取れるな。そんなつもりはないんだが、確かにそういう風にも使える。桂はわしをそういう風に扱うか? 違うだろう? だから構わんと言ったんだ。さすがに姉御に聞こえるとまずいから、できれば耳を貸して欲しいんだが……無理か」
いっそう暴れ出した桂に、海はため息をつく。
「まあ極小規模の結界を張れば済むことだな」
「嫌だ。私は聞きたくない」
瞬時に張られた外界を隔てる結界に包まれる感覚に、桂は身を強張らせる。
「桂。これはわしにとっても保険になる。だから聞いてくれ。わしの真名は――」
「やめろ。嫌だ。聞きたくない!!」
桂の叫びが海の言葉を遮る。その顔がくしゃりと歪み、その瞳からは大粒の涙がポロリと零れ落ちた。一粒落ちれば、あとはもう抑えようもなく、ポロポロとその頬を幾重にも涙が伝っていく。
「聞き、たくない。おまえの真名など要らない。対等でない関係など意味がない」
涙を流しながら、桂はそれでも必死に海を睨みつけていた。その視線の先では、海が慌てた様子でオロオロしている。結界も拘束も解き、恐る恐るといった感じで彼は彼女の頬に手で触れた。
「は、伴侶殿。泣くほど嫌か。嫌なのか? これはわしが原因か。わしが泣かせたことになるのか? とにかく、わしが悪かったから泣き止んでくれ」
拭っても拭っても堰を切ったように溢れてくる涙に海は途方に暮れ、これまた恐る恐るといった感じで桂の身体を抱き締め、宥めるようにその頭を撫でる。
「わかったから。そこまで嫌だというのなら、伴侶殿が良いと言うまで真名は言わない。それで良いか?」
大人しく腕の中で留まったままの桂が頷いたことに、海は安堵の息を吐き出す。
「本音を言えば、いずれは知って欲しいものだがな」
腕から伝わってきた震えに、海は早口に言葉を続ける。
「いずれでいい。ただ、わしの真名を知っていいのも呼んでいいのも、伴侶である桂だけだからな。だから、いずれは許可をくれ。そうでなければわしの真名も哀れだ」
顔を上げた桂が、物問いたげな顔をして海を見る。涙が止まっていることに気づいて、海は安堵の笑みをその顔に浮かべた。
「伴侶殿しか呼んでくれないのに、その伴侶殿に拒絶されてしまえば、わしの真名は誰にも呼んでもらえないのだよ。それはすごく淋しい」
桂の眉間に皺が寄り、その顔が複雑な思いを映す。
そんな理由で真名を押し売りしようとした者など、この男以外にいないはずだ。真名とはもっと、こう神聖な扱いをされるもので。
「阿呆、だな」
ようやく開かれた桂の口から零れ落ちたのは、そんな皮肉の言葉だった。
「酷い、伴侶殿。でも――いつもの伴侶殿だ」
文句を言いつつも、海は笑っていた。
そして、別の方面からもクスクスと笑い声が聞こえてくる。その声でこの場に遼がいたことを桂は思い出し、その顔をほんのりと赤くした。
「ご、ごめんなさい。邪魔するつもりはなかったんだけど、ね。あまりにおかしくって……」
二人分の微妙な視線を受けて、遼がなんとか笑いを収める。
「私がやろうとしたことはお節介だったみたい。でも、安心したわ。ようやく桂は泣ける場所を見つけたのね」
「泣ける場所?」
不思議そうに海が問い掛け、遼と桂の顔を交互に見る。桂が気まずそうに彼から顔をそらし、その様子に遼が意味深な笑みを浮かべた。
「桂はね、もうずっと泣けずにいたのよ。泣きたいほど悲しいことがあっても、どれほど悔しいことがあっても、ね。私にすらこの子は頼ってくれなかった。甘えてはくれなかったの。こっちは存分に甘やかす準備までしていたのにね。だから、そんな場所ができたことは純粋にうれしいのよ。姉としては、とっても複雑だけど」
第一印象というものはなかなかに根が深い。海が女たらしという印象を、遼はどうしても拭えずにいた。
「真名なんて必要としなくても、あなた、桂には勝てそうにないし。まあいいわ。招待状は桂に渡しておくから、あとで受け取りなさい。とりあえず邪魔者は奥へと引っ込んであげるから、どうぞごゆっくり」
言いたいことだけ告げて、ヒラヒラと続きの家の方へと姿を消した遼の態度に、二人は顔を見合わせる。そして、ここでようやく桂は己の置かれた体勢に気づいた。
「伴侶殿。招待状って……?」
不思議そうに問い掛ける海と、羞恥心で震える桂。
「伴侶殿。どうか――」
したのか? と告げる前に、海の頬に平手が見舞う。海が呆けたのと、桂が彼から身を離したのは同時だった。
拳ではなく平手なので、衝撃もいつもからすれば軽いものだ。だから、痛みもほとんどない。
「伴侶殿。大丈夫か? どこか調子が悪いのではないか?」
叩かれたというのに、叩いた張本人である桂の方を心配する海に、彼女はウロウロと視線を彷徨わせる。反射的に叩いてしまったが、今回、彼にはなんの咎もない。
申し訳なさもあって上目遣いに桂が海の様子を伺えば、クラリと彼の身体が僅かに傾いだ。
「……それは反則だ」
ぼやきと共にガバリと抱きつこうとしてきた海を、桂はこれまた反射的に拳で殴る。見事、鳩尾に入った彼女の拳に彼は一瞬息を詰め、その場に崩折れた。
背を丸めて呻く海の姿を見ても、今度は罪悪感もわかない。
「酷い、伴侶殿」
聞こえてきた呟きを、桂は一蹴する。
「自業自得だ」
そう吐き捨て、彼女は海に背を向けた。
「いつか、な。私の覚悟がついた時に――なんでもない」
消え入りそうなほど小さな声で途中まで告げ、桂は店の奥へ、海から見えない場所へと行ってしまった。その姿を目で追った海の顔には、自然と笑みが浮かぶ。
彼女の告げるいつかがいつになるかは分からないが、それは曖昧な、それでも二人の間で取り交わされた約束のように思えた。
これにて「姉、襲来」は終了。




