40.姉、襲来 その肆
「……桂。あの男は何?」
もがくのを止めた遼が、海の出ていった扉を見つめて問う。
「それは……私の方が聞きたい」
遼の身体を解放し、桂は自然と強張っていた身体から意識的に力を抜く。
「種族なら、ウイの一族だと聞いた。たぶん間違いない。だが、あいつは理解不能で意味不明な奴なんだ」
「ウイの一族?」
信じられないという思いがありありと伝わってくる声に、桂は頷く。
「信じたくないのは私も同じだ」
顔を見合わせた二人は内心の複雑な思いが表れる顔で、同じように深く息を吐き出したのだった。
このまま掃除の続きをするような心境でもなくなり、どうしてこんなことになっているのか問い詰められたこともあって、結局、店を閉めた桂は家の居間へと遼を連れて引っ込んだ。
あんな宣言をされてしまった以上、下手に遼が海に手を出せば命が危うい。だからこそ、どうしても彼女に納得してもらわなければならなかった。彼女の誤解を解き、今の微妙な二人の関係を――。
「それで? 出会った状況は分かったわ。だけど、あなたが絆された経緯は?」
まずはかい摘んで出会った時の話をして、桂は彼女の前に鎮静効果のある花茶の入った湯飲みを置く。
「あのな。なんで私が絆されたことになるんだ? 私とあいつはそういう関係ではないと何度も言ったはずだ」
反論する桂に、出されたお茶を一口飲んだ後、遼は呆れた視線を向ける。
「無自覚? あなた、あの男に対して気を許しているわよ」
遼の視線の先では、意味が分からないとでも言いたげな桂が首を傾げている。
「ずいぶんと心の内側まで踏み込ませているみたいじゃない。まさかあんな男だとは思っていなかったけど。あなたがセイレーンだけど歌声も尾も失っていること、あの男に話したって聞いたわよ」
「まあ成り行きで話したな」
「その感じだと、もしかして言霊のことも話したんじゃないの?」
「……結果的には」
ほら見ろとでも言いたげな遼の視線を受けて、桂は怯む。改めて他人に指摘されることで、どれだけ自分が海の存在を受け入れているか思い知らされた気がした。
「それともあの男以外に、他に男がいるって言うの? 男に対してはずっと一線を画す態度をとってきたあなたに」
「………」
返す言葉もなく沈黙した桂に、遼はため息をつく。
「あなたとあの男との間にどんな感情のやり取りがあって、今、あなたがあの男に対してどんな感情を持っているのか。私には正確に推し量れない。だけどね、私はあなたにもう傷ついて欲しくないの。同じことを繰り返して欲しくない」
遼の言いたいことは分かる。彼女はずっと見てきた。桂の行く末を気に掛けていた。藍が無事に育ったのだって、彼女の尽力があったからだ。
海原に拒絶されてしまった桂には、なんとかして藍を産んでも、碧い海原へと運ぶ手段がなかった。
セイレーンの出産は生まれてくる子供がセイレーンである場合、海原で行われる。碧い海原で出産するのが最良だが、海原ならば生んだ後すぐに碧い海原に運ぶ。そうでなければ卵生である彼女達は卵から孵ることなく、そのまま死んでしまう。
それほどに弱いのだ。
海原の拒絶を受けながら、それでもなんとか出産を終えた桂も、産み落とされた藍も、遼がいたから助かった。そうでなければ二人とも、その時に死んでいたはずだ。
「あの男に真名はまだ、渡してないでしょうね?」
不穏な遼の言葉に桂は頷く。呼び名は教えたが、さすがに真名は教えていない。
一方的に自ら真名を告げるなど、自傷行為に等しい。
「そう。ならいいわ」
にっこりと笑った遼に不穏なものを感じ、桂はその顔を窺い見る。
「ウイの一族がどんな種族なのか。私、詳しくはないの。桂は?」
唐突な話題の転換に戸惑いながらも、桂は首を横に振る。
「いや、私も詳しくは……。人外の者の頂点に立つ、最強の一族としか聞いたことがない。実際、あいつはとんでもなく頑丈で、立ち直りも早い奴だが――ただあいつが言うには、ウイの一族は永い生涯の中でただ一人の伴侶を選ぶ、らしい」
「そうなの……」
笑みを消した遼の顔は、何事か考えているようだった。
「桂。あなた、あの男から真名を聞き出しなさい」
真顔で告げられた言葉に、桂は驚愕する。
「ウイの一族に勝てる者などいない。悔しいけど、私にはあの男を退けられるほど力が無い。けれど、真名があれば別。あなたの自衛のためよ。だから、聞き出しなさい」
真名はその者の存在を縛る。相手の命すら握れるモノ。
それはどの種族にも共通。だからこそ、真名は隠される。
「……それは、できない」
桂は首を横に振って、否定の言葉を告げる。その顔は悲痛に歪んでいた。
「あの男はあなたを伴侶と呼んだ。だから、あの男の言うことが真実なら、あなたには真名を告げるはずよ」
遼の言葉が桂の心に突き刺さる。だが、桂はその考えはどうしてものめなかった。それは過去に桂が受けた仕打ちを、自らが引き起こすことになりかねないのだ。そんな――。
「そんな、一方的な関係を私は望まない」
もしも、海が真名を桂に告げたとしても、桂には己の真名を告げられるほどの勇気はない。そこまでまだ、海を信じられない。
片方だけが真名を支配する関係など、隷属と同じだ。桂は過去、自らの身を持ってそういう関係を体験していた。だからこそ、そんな関係は許容できない。
海とそんな歪な関係を築きたくない。
「桂。あの男に殺されることになっても、あなたは同じことが言えるの?」
海がその気になれば、自分達など一瞬で消される。ウイの一族というのは、圧倒的な力を持つ、そういう存在なのだ。
遼とて桂にこんな顔をさせたいわけではない。だが、大切な妹を守る手段はそれしか思い浮かばなかった。それなのに――。
「……そうなったとしても、嫌だ」
桂の震える唇から絞り出された言葉は拒絶だった。拳を握り締めて俯いてしまった彼女の表情は、遼には見えない。遼が吐き出した深い息に、そのことを気配で察した桂がビクリと肩を揺らす。
「わかった」
遼の言葉に、桂が顔を上げた。
「私が勝手にあの男に訊くわ。どちらにしろ、答えるかはあの男次第だもの」
徐々に見開かれていく桂の瞳に、遼は微笑む。
「あなたの意見は聞かない」
「遼!」
非難するように呼ばれても、それを遼は無視して、少し温くなってしまったお茶をすすった。
遼とて自らの命は惜しい。だが、あの時、壊れかけていた桂を目にしてから彼女はずっと後悔していた。自分がもっと強く桂を止めていたらと自分を責め続け、そうせずにはいられなかったけれど、それが無意味な行為だと知っていた。
桂はもう、あの当時のことを思い出したくない。すべては己の愚かな行動と浅はかな考えが招いたこと。確かにその代償は大きかった。けれど、あのことがあったから今の自分がある。だから、後悔はしていない。
ただ――。
もう二度と、同じことは繰り返したくない。
その思いは遼も桂も同じだというのに、二人の意見は平行線をたどったまま。翌日、海が現れる時まで結局変わらなかった。




