38.姉、襲来 その弐
「街の中をその恰好で、しかも一人で歩いてきたのか……」
この街で女人の一人歩きはあまり感心できるものではない。表通りを通ったとしても、運が悪ければ絡まれる。特に非力にみえる女人が一人で通りを歩いているとなれば、鴨が葱を背負って来るようなものだ。よほど運が良くない限り狙われる。
家の方の居間へと通し、遼をソファに座らせ、桂は茶を入れるためにキッチンに立つ。
「なぁに、心配してくれてるの? 多少絡まれたけど、丁重にお相手してあげたわよ」
笑み含んだ発言に桂はため息をついた。
言葉通り、丁重に相手をしてきたのだろう。それはもう、相手がしばらく再起不能になるくらいには。
桂もセイレーンとしては変わり種なのだが、この姉もまた、別の意味で変わり種なのだ。
遼は普通のセイレーンだ。桂とは違い、仮足である彼女はそのための制限もまた持ち合わせている。だが、彼女はなぜか地上の武術にはまり、べらぼうに強かった。
初めは護身術程度の嗜みだったものが、あれこれと手を出し極め続けて、今や原形を留めない様々な格闘技が入り交じった使い手になっている。一見、か弱そうに思えるのだが、その外見に騙されて痛い目に合う者が後を絶たない。特にならず者の多いこの街では――。
桂が武術を多少齧っているのも、遼が彼女にそれを仕込んだからだ。それらは地上で身を守るために役立っている。だから、そのことは今でも感謝していた。
問題は、だ。
今日、ここを訪れた原因が先程の遼の言葉の中にあるとするならば、彼女が藍から何かを聞いて訪れたのは間違いない。
手紙のやり取りはあの後も何度かしたが、海について桂は一言たりとも書いていない。書いたらとんでもないことになるのは、目に見えて分かっていたからだ。そして今、それに近い状態になっている。
「藍が何か言ったのか?」
お茶を入れ、湯飲みの一つを遼の前に、一つを自分の前に置いて、桂は彼女の座るソファとは別の、一人掛けのソファに腰掛ける。
「……あなたが藍の結婚をこうもあっさり認めるとは思っていなかったのよ、私。桂は猛反対すると思っていたわ」
意味ありげな視線を向けられ、それから避けるように桂は湯飲みに手を伸ばし、お茶をすする。
「藍がよろこんでいたわよ。忘れるといけないから、先に渡しとくわ。これ、結婚式の招待状。海原から離れた地上で式は挙げるから、あなたも参加しなさい」
手元に置かれていた手提げ鞄から白い封筒を取り出し、遼はテーブルの上を滑らすようにしてそれを桂の前に置く。封筒と遼の顔を交互に見た桂は戸惑いも露わに、それでも不参加の意を口にしようとして、そのことに気づいた遼から睨まれた。
「あなたが参加しないなら、あの子、式を取り止めそうな勢いなの。だから、参加しなさい。分かったわね?」
そう釘を刺されてしまえば、参加しないとは言えない。娘の大切な日を桂は壊したくない。
それに藍の晴れ姿を見ておきたい、という思いもある。ただ、気掛かりがないわけでもないのだが――それはここで話しても仕方なかった。当日までに、桂が覚悟を決めておけばいいだけだ。
桂は頷き、その件については了承する。だが――。
「言っておくが、私は大手を振って認めたわけではないぞ。ただ、あれなら藍も幸せになれるだろうと思っただけだ。――本音を言えば、藍には人間の男を選んで欲しくなかった」
認めていないわけではない。ただ、やはり胸中は複雑なのだ。それは藍の伴侶になるライが人間だからというより、その寿命の違いが心配だったからだ。
セイレーンと人間では、平均寿命がかなり違う。だが、たとえ寿命が大きく違うとしても――二人とも、それは覚悟の上だと言った。
一緒に同じ速度で歳を取り生きることができなくても。たとえその期間が短いとしても。
今を二人で共に歩みたいと。その時間を大切にしたいと。
そう桂に告げた二人の顔には、迷いが微塵もなかった。
どちらもとても真摯に互いに向き合っていたから、自分のような道は歩まないだろうと桂は思ったのだ。
「あの子はあなたと同じように頑固だもの。一度決めたら、自分が納得しない限り、他人の言うことなんて聞かないわ。でも、見る目はあるでしょ?」
「……まあな」
遼に悪気があるわけではない。ただ、その言葉はやはり少し堪えた。
「それでね。ここにもう一通、招待状があるの。海っていう人宛なんだけど……あなたの新しい男よね、これって」
取り出したもう一通の白い封筒を指に挟み、ヒラヒラとさせながら遼はニヤリと笑う。
「これを渡すかは、私が決めるわ。だから、どこにいるのか白状なさい」
「…………知らん」
桂は深く息を吐き出す。事実、彼女は海の居場所など知らなかったのだが、それを誤魔化しと受け取った遼が眦をつり上げた。
「隠し事するとためにならないわよ。桂、私が大人しくしている内に白状なさい」
「あいつは神出鬼没だ。普段の行動なんぞ、私は知らん。それにな、藍がどこをどう勘違いしたかは分からんが、あいつとはそういう関係ではない」
きっぱり否定したというのに、遼の目は疑うように桂を見ていた。
「……その割には雰囲気が変わったように見えるけど。殺伐とした張り詰めた部分が減って、ずいぶんと丸くなったみたい。格好は男のままだけど、それでも今のあなたは女に見えるわ」
先程、女将にも指摘されたことを遼にも告げられ、桂は己の変化を感じ取れないまま、嘆いていいのか喜んでいいのか分からずに微妙な顔をする。
手元の湯飲みをユラユラと揺らし、彼女はぽつりと呟いた。
「本当に海とはそういう関係ではない」
そういう関係になったつもりは、桂にはなかった。
確かに初めの時のような拒絶まではしていないし、うっかり口付けられてしまったりもしたが、桂とてどうしていいのか困っている最中なのだ。
俯き気味で途方に暮れた子供のような表情になった桂に、遼が小さく息を吐き出す。
「ま、いいわ。どちらにしろ、一週間はここに滞在するんですもの。その間に会うこともあるでしょう。どんな関係だろうと、あなたに近づく男には一度会っておきたいの」
海の分の招待状を手提げ鞄に仕舞い、遼は少し冷めてしまったお茶をすするのだった。




