30.過去からの謝罪 その弐
桂は調合机に向かい、その上に置かれた乳鉢の中身をゴリゴリとすり合わせていた。中身を満遍なく混ぜた後、等量に小さく丸めてしばらく乾燥させる。乾燥が終われば丸薬の完成になるが、それはまだ先の話だ。
「伴侶殿。訊きたいことがある」
唐突に店内へ現れ、開口一番でそう告げた海を、作業の手を止めた桂が胡乱に見る。
「おまえは……。入口の扉を開けて入ってこい」
ただいま~、と自分の家のように入ってこられても困るが、こうして唐突に出入り口を無視して出現されても困る。どこでも自在に使えるらしい空間転移を、己の活動空間では使って欲しくない、というのが桂の偽らざる本音だった。突然現れるものだから、こちらとしても心臓に悪い。
「すまん。それで、伴侶殿。この男を知っているか?」
謝罪は口にしているが、これは絶対に反省していない。またやるに違いない。だが、これ以上注意しても無駄なのは経験から分かってきていた。
そもそもこの男に反省を求める方が間違っているのかもしれない。
複雑な思いをため息と共に吐き出した桂は、目の前に提示された紙を手に取る。どうやら誰か特定の人物に対して書かれた物らしいが、ざっと流し見てもこれといって何がどうとも言えない。
「この男がどうかしたのか?」
紙を返し、桂は訝しげに問う。そんな彼女に対し、海はある一文を指し示して告げた。
「ここに碧掛かった黒髪と琥珀色の瞳を持つ女、と書かれている。これは伴侶殿のことではないのか?」
確かにそれはどこにでもある特徴とは言えないかもしれないが、まったくいないとも言えない。この街は雑多な種族が住んでいるし、その特徴に合致する人物は桂以外にも存在するだろう。
「条件は合致しているようだが、違うだろうよ。少なくとも私はその商人に会ったことがない」
「伴侶殿が覚えていないだけではないか?」
「関わったことのある人物なら覚えているはずだ。その男がこの街を訪れるのは、初めてだと書いてあるだろう? 私は基本的にこの街を出ない。出掛けたとしてもこの街の周辺で、日帰りできる範囲内だ。他の街まで足を伸ばしたことなどない。この街に住む以前ならともかく、な。だが、そうなるとこの商人がまだ生まれていないほど昔の話だ」
商人の外見年齢は三十代前半。種族が人間ならば、実年齢と外見年齢はさほど違わないはずだ。
桂が城塞都市に住み始めたのは、五十年以上も前の話になる。商人本人との関わりがあるはずもない。
それらが事実ならば、桂とこの商人は無関係だった。
それなのに海は何か胸の奥がざわつくような、そんな感覚を捨て切れない。
納得できずに唸る海の姿を、桂は不思議そうに見た。
「何がそれほど引っ掛かっているんだ? というか、この書類はどこから持ってきた?」
こんな書類、出所が普通の場所であるはずがない。なんとなく嫌な予感がするのだが――。
「ああ。九曜がくれた」
九曜が聞いたら「あげてない!」と即否定するだろう答えを返し、海はやはり納得がいかない顔をしていた。彼の答えを聞いた桂は、こちらに向けられたままの文面をもう一度、今度は真面目に目で追ってそれがこの商人に対する調査……その報告書であることに気づく。
商人がどんな人物かも然ることながら、この街に何日滞在するか。どんな品物を仕入れに来たかなど、本来は秘匿されるべき個人情報が事細かに書かれていた。
「……本当にくれたのか? これは本来、外に出しては不味い類の書類――」
そう言い掛けて、桂は口を噤む。
事実はどうであれ、聞かない方がいいに違いない。知らなければいいこと、というものは意外にこの世の中ゴロゴロと転がっている。
「とにかく私は知らない。仕事の邪魔をするなら、出て行け」
そう告げれば海の唸り声がピタリと止んだ。彼は横に除けてあった椅子を定位置まで持ってくると、そこに座る。
邪魔はしない。だけど、出て行きたくない、という意思表示らしい。
桂は仕方ないと息を吐き出し、手元の作業に戻った。こうして側にいても気にならないほど、海は気配を消すのが上手い。黙っているならば、そこにいようとも作業の邪魔にはならなかった。
こうしてこの件は方が付いた、はずだった。
それが覆ることになるのは、それから数日後のこと。気だるげな昼下がりに訪れた、例の商人が持ち込んだ物からだった。
ドアベルを鳴らして入ってきたのは、旅姿の男だった。どこかで見たような顔だと思い、それが例の報告書に載っていた商人の顔だと思い出す。だが、そのことを顔に出すことなく、接客のために立ち上がった桂は通常通りの会話をした。どうせこの男の捜している人物は、自分ではないはずだ。
「どのような物をお探しで?」
乱雑に物が置かれたゴタゴタの店内を呆気にとられた様子で見回していた商人は、その声で桂の存在に気づいたらしい。
そこまではこの店に初めて訪れる者がみせる反応だった。物が溢れて片付けもされず、無造作に置かれているようにしか思えない店内を初めて見た者は、大抵、似たような反応を示すのだ。
だが、そこからの反応が少し違った。
桂を見た商人はハッとしたように目を見開き、徐々にその顔を困惑したものに変化させる。
「……失礼を承知でお訊ねします。あなたは、女性ですか?」
桂をマジマジと見つめ、問い掛ける商人の声は戸惑いに揺れ、頼りなく掠れていた。




