29.過去からの謝罪 その壱
ここは九曜の執務室。昼間である現在、当然の如く彼は仕事をしている。だが、その視界の端。応接セットの置かれた場所ではやる気を削がれる姿があり、彼は些かげんなりしていた。
「おまえな。俺は仕事中なんだ。ここに居座って、寛ぎながら酒を飲むのは止めろ」
なぜか九曜の執務室で酒を飲む海の姿が、毎日の如く長時間見られるようになったのだ。真面目に仕事をしている部屋主からすれば迷惑極まりない。腹の立つ光景だった。
「伴侶殿から手出し禁止と言われた」
不貞腐れた顔でぼそりと呟かれ、九曜はため息をつく。
「だからって、何も俺の所に居座らなくてもいいだろうが」
「おまえの所がこの街で一番情報が集まるだろう?」
「………」
海の言い分は間違っていない。城塞都市に関わりのある情報。街の内も外も、ありとあらゆる情報が統治者である九曜の所に集まるよう、そういう体制が組織作られている。街内でのことを知りたければ、ここほど有用な場所はない。
だが――。
「それに伴侶殿の所にいると、うっかり手を出しそうになる」
海の一番の本音はそこなのだ。
「手を出したら伴侶殿は絶対に怒るから、それは嫌だ」
まるで子供の言い分だが、それなら何もここで酒を飲んで寛ぐなと言いたくもなる。結局、堂々巡りなのだ。
桂は今、ある問題に関わっていた。そして、それに海が関わることを良しとしなかったのだ。
ある意味、その判断は正しい。海が関わると問題が拡大する、または予想もしていない所に被害が飛び火する可能性があるので、下手に関わらせるべきではない。
その問題は九曜がもたらした、ある報告書から始まったものだった。
城塞都市は特殊な立地条件の下、特殊な規律によって成り立っている。だからこそ、それが守られるために出入りする者を調査して、その背景を探るのもまた九曜の仕事だった。
外から来る者も、内から出ていく者も調査される。そうでなければ対処のしようがないからだ。知らなかったで済まされるほど、この街のあり方はやさしくない。
幸い、出入りには門を通る必要がある。門は二つあるが、そこ以外からの侵入と脱出は基本的に不可能だ。高い壁があり、目に見えない結界で街全体が覆われている。この特殊な結界を壊すことは非常に難しい。
ちなみに、ウイの一族はその範疇に入っていない。
そんなわけで九曜の元に、少し妙な動きをしている外の商人の話が上がってきた。商談でこの街を訪れたのは間違いないようだが、その男はどうやら人探しをしているらしい。碧掛かった黒髪と琥珀色の瞳を持つ女を――。
この街は人種の坩堝だ。だから、探せば他にもそんな特徴を持つ者がいるかもしれないが、その報告を聞いて九曜の頭に浮かんだのは桂だった。
桂に下手な手出しはしないよう、以前の一件から九曜は部下共に徹底させている。その見せしめとも引き締めともなっているのが、その以前の一件で海を怒らせた部下であり、先日の一件でさらされた海のずば抜けた能力だ。
桂に害が及ぶとなれば、海が黙っているはずもない。
引き続き調査の続行を命じて、部下を下がらせた九曜はため息をつく。
「ここに来て、なぜか問題が増えている気がする。あいつのせいか。そうだな、あいつのせいだ」
彼の気苦労もまた、それに比例するように増えている。
すべては厄介事に好かれる海のせいだ。九曜はそう結論付ける。
その上、困ったことに海は厄介事を巻き起こすのも得意だった。巻き込まれるこちらは堪らない。
「よッ」
そして、当の本人はそんなこと気にもせずに、こうして九曜の所を訪れるのだ。
「結界の張替えは終わったのか?」
「ああ。動力源は無事、新しい物に移行した」
海はそれらの仕組みを作った側なので知っているが、その事実を知るのは限られた僅かな者だけだ。
この城塞都市を保つためにおよそ十年に一度、特殊な結界の動力源を変える。というか、そのスパンでなければ手に入らない代物が、結界の動力源になっていた。
それが例の拳大の紅石だ。あの石は高純度の強大な力を秘めた、他では滅多にお目にかかれない希少品だった。
「そりゃ、よかった。またしばらく安泰なわけだ」
「まあな。おまえが下手に手を出さなければ、だがな」
九曜が白い目で見れば、海がそれを避けるようにあらぬ方を見る。
「わしは別に、何も……」
「しているよな? おまえの気まぐれな実験は百害だ」
「……そこまで言うか。あれはまあ……若気の至りだ」
ポリポリと気まずげに頬をかく海に、九曜の顔が引きつる。
「若気の至りだぁ?」
当時の九曜は若かった。だが、当時の海は若いとか言える年齢ではない、はずだ。それともこれもまた、種族の寿命の違いというものなのか。
「わしは今でも十分若い」
海はなぜか自慢げにそう宣言する。それに九曜は呆れた顔をした。
外見だけは確かに若い。
九曜よりも年下に見えるほど若いが、実年齢は何十倍も年上だったはずだ。
考えるだけ無駄な気がして、九曜は息を吐き出す。このまま堂々巡りをするよりも、海には話したいことがあった。そういう意味ではちょうど良いタイミングで現れたとも言える。
「あのな、海。最近、薬師殿の様子はどうだ?」
ソファに座ってどこからともなく酒とグラスを出す海に、九曜は話し掛ける。薬師殿、という単語を聞いた途端、海の空気が尖り、その表情が訝しげなものになった。
「なぜ、おまえがそんなことを訊く?」
警戒するような低い問い掛けに、やはりという思いがわき上がる。この男は彼女のことになると、酷く狭量だ。こんな状態の奴を相手にしたくはないのだが、この件は話しておいた方が後々のためにも良い。
商人の身の安全というよりも、この街の現状維持のために絶対必要だ。海に街内で暴れられるのは非常に困る。
「別に変わりがないようならそれで良いんだが――これが俺の部下が作った中間調査報告書だ」
商人について書かれた報告書を海の方へと放る。それは意思を持ったようにふわりと空中を舞い、海の手に納まった。訝しげな顔のまま、それに素早く目を通した海が、ある一文の所で目を見開く。
「碧掛かった黒髪と琥珀色の瞳の、女?」
その文をなぞるように呟く。
「そう。薬師殿の特徴と同じだ。ま、違う人物の可能性もあるが――」
現段階では、情報が少なすぎて完全には否定できない。
たとえ桂が男装していて女人には見えなかったとしても……。
「そうだ、な。可能性はある」
しばらく報告書を睨みつけていた海は立ち上がり、
「伴侶殿に訊いてみる」
それだけ言い残すと報告書を持ったまま、その場から姿を消した。九曜が止める間もない。
「あの報告書、持ち出し禁止なんだが――もう無理か」
がっくりと項垂れ、九曜は執務机に突っ伏する。
顔だけを上げた後、テーブルの上に置かれたままの酒瓶が目に入った。栓は抜かれないまま、ただ、同じく出ていたはずのグラスの姿は無い。
ということは、海はあの瞬間、グラスは片付けたが、酒瓶は置いていったということになる。あの酒好きが酒を忘れるはずもないので、これはわざと置いていったのだろう。
これは情報料。飲んで良い代物。
そう勝手に決め付けて、九曜はいそいそと立ち上がり酒瓶に手を伸ばす。それは見たことのない銘柄だったが、海が飲もうとした物に外れはない。彼の酒利きは大したものなのだ。
栓を抜き、異空間から取り出したグラスに酒を注ぐ。
本当に酒でも飲まなければやっていられない。
それは香りも味も、やはり上等な代物だった。




