02.出会い その弐
「手を離せ、変態」
この男は得体が知れない。桂が今まで出会ってきた者達と、同じようでどこかが違う。そんな微妙な違和感が拭えない。
正直、桂はこの男が怖かった。
赤毛に翠玉の瞳を持つ精悍な顔付きをした男だ。その男らしく整った、整い過ぎる顔さえ除けば、この街のどこにでもいそうな女好きのジゴロ。そう初めは思った。そう思える軽い空気を、海は纏っていた。
だが、凶器と呼んでいいのかも微妙な串を、あれほど正確に、しかも投げた動作すらわからないような速さで相手を仕留める技術も、あんな強烈な殺気も、徒人が持ち合わせている代物ではない。
「おまえは、何だ?」
できるだけこの男から離れようと、桂の身体は無意識に動く。
その様子に海が苦笑した。
「怯えさせたか。おまえにこの牙が向くことはないさ」
たぶん。と海は心の中で付け足す。
彼とてこれ以上怯えられては、さすがに良い気はしない。
「浮世暮らしをしていると、どうにも命を狙われることもあってな。自衛として色々身に着いただけだ」
冗談めかして告げれば、あからさまな侮蔑の視線が向けられた。
「クズだな」
低く吐き捨てられた言葉に、海の苦笑は深まる。だが、桂から怯えの感情が消えたことに内心ほっとしていた。
「……恩人のわしに、その言動はどうかと思うんだが」
「変態が手を出さなくとも、時期をみて反撃した。余計なお世話だ」
実際、ただ逃げていただけではない。桂は反撃できる時期を見極めていただけなのだ。海さえ邪魔に入らなければ、自分で対処できていた。
不機嫌そうにそっぽを向いた頬をツンと突かれ、それが海の人差し指だと気づいた桂は眦をつり上げる。
「触るな、変態!」
「いや、う~ん。何か違和感があると言うか……。男、だよな?」
風呂敷包みを押し付けるようにして距離を取ろうとする桂を、海はしげしげと観察する。
「見たままだ。それより手を離せ」
桂は寄ってくる海からなるべく離れようと、じりじり後退する。その反応を面白そうに見物し対応していた海は、少しだけ思案した後、真剣な表情になって告げた。
「手、ねぇ。離してもいいが、条件がある」
「……条件によっては聞いてやる」
この状況でどこまでも不利なのは桂の方だ。それに余計なお世話だったとはいえ、助けられたのは事実。後腐れないようにするためにも、今ここで済ませられるならばその方が桂としても良かった。
「わしの名を呼べ」
告げられた意外な条件に、桂は拍子抜けした。もっと無理難題を吹っ掛けられると思っていたのだ。
「そんなことで良いのか」
ボソリと呟けば、その言葉が聞こえたらしい海が眉間に皺を寄せた。
「おまえに呼んでもらえない名など意味がない」
いやに真剣な顔をした海に、桂が首を傾げる。
確かに名は大事だ。だが、別に真名でもない呼び名が、どうしてそこまで重要なのか理解できない。
真名は己の存在を縛る。だからこそ、滅多なことでは他人に告げることは無い。だが、呼び名はそんな拘束力など皆無だ。桂からすれば呼び名など、己を認識する一つの手段で、重要な意味など持たない。
海の考えなど理解できなかったが、それでこの状況から解放されるならいくらでも呼んでやるつもりだった。
この、先程とは別の、妙な光景に向けられる周囲の視線が痛い。
周りの者共は面白い見世物を見つけたといった具合に、好奇心丸出しの顔で二人のやり取りを見物していた。
「海。手を離せ」
そう告げれば、海が破顔した。それはもう、うれしそうに――。
「仰せのままに。わしの――お姫さま」
虚を突かれて固まった桂の手を騎士のように恭しく掲げ、海はその手の甲に口付けを落とす。
絶句したのは一瞬。
力を入れる必要もなく海の手から己の手を取り戻し、桂はわななく。
「おまえ女だな。わしとしたことが完全に騙されたわ」
機嫌良さげに笑うこの男を張り倒したい。今すぐ地の底に沈めたい。
だが、ここで手を出して、せっかく取り戻した自由を不意にされては堪らない。
わき上がる衝動をなんとか堪えて、桂は海を睨みつけた。
「こぉの、すけこまし。どっかの女に刺されて死ね! 二度と私の前に現れるな!!」
怒鳴りつけて、桂は身を翻す。そのまま猛然と往来を走った。
海の爆笑が聞こえてきた気もしたが、そんなことは関係ない。他の通行人とぶつかりそうになりながらも、桂はひたすら駆けた。とにかくあの男から、あの場から離れたかったのだ。
海が追ってくるのではないかと少々警戒してわざと遠回りで家路についたが、心配のしすぎだったのかそれはなかった。
小さな我が家の扉の鍵を開け、結界を解除して屋内に入った後、鍵を掛けて再び結界を張る。そうすればもう、この家には誰も入ってこない。
玄関で靴を脱ぎ捨て食堂兼居間へ行き、そこに置かれたソファに腰掛け深く息を吐き出す。
「なんなんだ、あの男は」
手に握られたままだった風呂敷包みをテーブルの上に放り、今日はろくでもない日だったと振り返る。
取引が失敗に終わったことも、変態に出会ったことも、最悪だ。
だが、それよりも女と知られたことが最悪だった。
あんな往来で、しかも他人の好奇な目が向いている中で、海は桂を女だと言った。この街は広く、種族もバラバラで多くの者が住み、多くの者が出入りしているが、あの中に桂のことを知っていた者はいただろうか。
もしいたとしたなら、あまり好ましい事態ではない。あの言葉に肯定を返しはしなかったが、疑う者が出てきたら困るのだ。
この街で女の一人暮らしがいかに危険か、桂は知っている。
自分の容姿は女には見えない。
悲しいかな、胸は絶壁。仲間内に凛々しいと言われ続けた顔付きで、声は低めのアルト。背も女にしては高い。髪を短くし、多少言葉遣いに気をつけ、男物を身に付ければ、外見だけは男に見えた。
そうして長年、この街で生きてきた。男と偽って――。
「最悪だな」
そろそろまた切った方が良いかもしれない。そんなことを思いつつ、長くなってきた前髪を後ろへと流し、天井を見上げる。
考えるべき事柄はたくさんあった。けれど、思考は一所に止まったままだ。
「……急所を蹴りつけて、使い物にならなくしてやればよかった」
耳に残る海の笑い声が不快で、桂はぽつりと呟く。
「いやぁ~。それはさすがに勘弁」
自分以外には誰もいないはずの室内で他人の声が聞こえ、桂はガバリと立ち上がる。
結界は破られていない。なんの反応もなかったはずだ。だというのに声がした方を見れば、そこには苦笑した海がいた。




