28.嵐 その玖
桂に気づかれないよう、さりげなく海は彼女の視線からその部分を隠していた。だから、先程見られた時にはその怪我に彼女が気づくことはなかった。だが、バランスを崩したその身を止めるために彼が反射的に伸ばした手は、利き手である右手だった。
動かすのに痛みを伴いはするが、普通に使える。というか、先程までは普段と変わりなく使っていた。
「あ? あぁ。はぁ、見つかってしまったか」
現物を見られてしまえば誤魔化すことも不可能だ。
隠すことを諦めて気まずそうな顔をした海の無事な左手を取り、桂は奥へと進む。調合机の横に置かれた椅子に彼を座らせ、彼女は奥の棚から軟膏の傷薬を持ってきた。
「少々相手が悪くてな。本来ならこれくらいの傷、すぐに消えるんだが……。多少、通常よりは治りが遅いとしても、明日の朝には元通りになっておるよ。だから、薬は必要ない」
実験と称して水球に色々やっていた時、うっかり直に触れてしまったのだ。これが他種族なら色々と吸収され骨と皮の状態になり即干からびて御臨終なのだから、この程度で済んだだけでも驚異的である。そこはもう、規格外な種族だからとしか言いようがない。
そんなことだとは露とも知らない桂が、無造作に置かれている海の右腕を手に取る。そして、薬を塗ろうとしたのだが、その彼女の手首を海が左手で掴んで止めた。
「伴侶殿。このままでも大丈夫だ」
「それが事実だとしても、治療すればもっと早く治るはずだ。痛みはあるのだろう?」
海に手首を掴まれたまま、それでも桂はその傷口に軟膏を塗ろうとする。だが、更に力を入れて彼女の手をその場に止めようとする海によって、それを実行することはできなかった。
「痛みはあるが。まあ、大したことはない」
しれっとした様子で嘯いてみせた海の顔を、桂が目を眇めて観察する。
「大したことはない、で済まされるような軽い怪我には見えないが――」
桂の手首を止めようとする力は相当なものだ。余程、治療されるのが嫌なのかと考え、ふと先程彼に向かって己が告げた言葉を思い出す。
「なんだ。この薬が怖いのか?」
海の拒絶の仕方に、なんとなくピンとくるものがあった。この反応は痛いのは嫌だと抵抗する子供と同じだ。絶対に彼は先程の言葉を気にしているに違いない。そこには妙な確信があった。
「怖く、なんてない。わしはそんな子供ではないぞ」
それはタラリと冷や汗を流しながら言う台詞ではない。空笑いする海がさすがに可哀想になり、桂は息を吐き出した。それに彼がビクリと震えたのが、掴まれた手首から伝わってくる。
「これは普通の傷薬だ。痛み止めの効果もあるから、おまえが今感じている痛みが軽くなることはあっても酷くなることはない。安心したか?」
呆れたような視線を桂から向けられ、海の顔から笑みが消えた。
「だから、この手を離せ」
じいっと互いの真意を見抜くように見つめ合い、納得したのか。海が桂の手首を解放した。
「……伴侶殿の意地悪」
「はいはい。大人しく治療されていろ」
恨めしげな呟きに適当な相槌を打ち、海の右手の爛れた部分に軟膏を薄らと塗っていく。一通り塗り終わった後、その部分に包帯を巻き、患部をすべて覆い隠した。
「ほれ、終わりだ」
初めの抵抗が嘘のように、大人しく治療を受けていた海の右手を解放する。
「ありがとう、伴侶殿」
素直な感謝の言葉に、桂は笑顔になる。
「どういたしまして」
「大好き、伴侶殿」
「……寝言は寝て言え」
つれなく切り捨てた桂に、海がしょんぼりと肩を落とす。
「本気なのに……」
軟膏を奥へと仕舞いに行った桂は、その言葉に聞こえない振りをした。
「ねえ、伴侶殿。呼び名で良いから、伴侶殿の名を教えて?」
その言葉に朝、海がここを出ていく際にそんなことを言っていたと思い出す。
小棚の上に置かれた木箱に軟膏の入った器を仕舞い、それを隣の棚の上段に置き、戸を引いて閉める。そうしてから海の方を見れば、彼は黙ったままじっと真剣な表情でその答えを待っていた。
桂は小さく息を吐き出す。
「私の名がそれほど重要か?」
呼び名の扱いなど、真名からすればずいぶんと軽い。真名は変えられないが、呼び名ならばどうにでもなる。桂はずっと桂の名を使い続けているが、たまにいくつもの呼び名を持ち、使い分ける者もいるくらいだ。
「名は伴侶殿自身を表すものだよ」
ゆるりと穏やかに、愛しい者を見るような眼差しで海が微笑む。
「呼び名でも、か?」
問う声が震えていないか、不安になった。海の視線に耐えかねて、桂は棚に寄り掛かって俯く。
「関係ないよ。確かに真名のような名の縛りは呼び名には無いが、それでも伴侶殿を表す一番身近なものだ。だから、知りたい。伴侶殿の口から聞きたい」
馬鹿なのか、正直なのか。
策士なのか、天然なのか。
大人なのか、子供なのか。
海という呼び名を持つ、この男は桂にとって不可解な存在でしかない。
ウイの一族だという。桂よりも色々な意味で強い存在。
本当は桂の攻撃など、この男に易々と当たるはずがないのだ。彼は簡単に避けられる。だというの、なぜか避けられるはずの、防げるはずの桂の拳をこの男はその身に受け続けてきた。
その手の変態思考でも持っているのかと疑ったことがないわけでもないが、そうではないと否定できる雑学を桂は持ち合わせている。それらの知識まで己に教え込んだ先代に感謝するべきなのだろう。当時は不必要で無駄な知識だと思っていたが、変な所で判断の役に立った。
だからこそ、本当にわけが分からない。妙な男。
「……桂だ」
それでも怪我の心配をするくらいには。無償でその手当てをするくらいには。
気に掛ける存在に変化していた。
「桂、殿?」
「殿はいらん」
戸惑うように告げられ、桂は苦笑する。呼び名にまで敬称をつけられて呼ばれることには慣れていないし、そもそも必要だとも思わない。
「桂」
うれしいという感情が前面に出された笑顔で名を呼ばれ、桂の内心では困ったような、恥ずかしいような、そんな感情がわき上がる。
「大好きだよ、桂」
笑顔のままそう告げられて、桂の動揺が増す。だが、それを悟られないように息を小さく吐き出し、彼女は呆れた表情を取り繕った。
「……寝言は寝てから言え、と言ったはずだ」
できるだけ突き放すような声音で告げる。
これ以上、心に入り込んで欲しくない。入り込まれるのは怖い。
そんな桂の心情を知ってか知らずか。
「伴侶殿はつれない」
いつもの呼び方に戻った海はいじけたようにそう呟き、その顔に苦笑を浮かべたのだった。
これにて「嵐」は終了。




