24.嵐 その伍
術の安定が元に戻った所でほっと息を吐き出し、海は同じく隣で慌てていた九曜を睨みつける。
「卑怯者」
じとっとした声で呟かれた言葉を、九曜は鼻で笑って受け流した。
「なんとでも言え。俺はこの街を守るためなら、どんなものだろうと利用する」
その言葉通り、彼はこの街が維持されるならばどんなこともやるだろう。利用できるモノは利用し、己のすべてを賭けるはずだ。
必要ならば、その命すら差し出す。それが九曜という呼び名を持つ吸血族であり、この城塞都市の統治者だった。
海は深く息を吐き出す。
「たぶんクソ爺は来る。今回はそんな気がする」
「それはおまえの勘か?」
「そうだ」
それなら間違いないだろうと、九曜はほっと息を吐き出す。
海は常人とは隔絶するほど勘が鋭く、彼が勘と断言した時は、それが外れることはほぼない。だが、絶対とは言えない以上、もしもの備えはしておかなければならなかった。
「もしも来なかったら――」
「分かった。わしがなんとかする」
皆まで言わせずに、海が諦め混じりに了承する。
「おまえ一人で、だぞ?」
「……分かった」
横暴だと訴えようとした口は、一拍間を置いて諦めの言葉を吐き出した。横目で見た九曜の顔が、できなければ薬師殿に、と脅していたのだ。
己がこの街で起こした過去の騒動の数々を彼女には知られたくない海にとって、それは最大級の弱みになった。そして、付き合いの長い九曜は、それらのいくつかを実体験として知っている。先代に話を聞いている可能性も考えると――それを盾に取られてしまえば、なかなか強くは出れなかった。
しかも、彼は不可能な要求をしているわけではないのだから尚更だ。
緊張感の欠片もない二人のやり取りを後ろから見ていた古参の部下の一人は、しばらく休憩かと泥のように重い身体を抱えながらその場に座り込む。
あとは何もせずに任務終了になるはずだ。だが、今の状況はいつなんどき予定外のことが起こるか分からない。事が済むまでは完全に気を抜ける状況ではないのだが――その口からは深いため息が吐き出されていた。
彼らを守るように張られた結界の外は、激しい雨風の真っ只中。そろそろ夕闇が訪れる時間帯らしく、辺りはだいぶ暗い。視界を補うように結界が仄かに光り、夜目の利かない者でも一定の範囲が見えるように作用していた。
器用というか、まかり通っている常識からすると色々あり得ない光景なのだが、これらをやっているのがあの御仁であれば諦念にしかならない。あれはもう、常識の範疇外に存在する生き物だ。そう思わなければやっていられない。
とにかく、外は大荒れの状況だというのに、毎度のことだが上司もその知り合いの御仁も気が抜けるほどいつも通りなのだ。
「もう少し緊張感があってもいいと思うのは俺だけか?」
小さくと口の中で呟く。それはほとんど声にもなっていなかった。だというのに、それが聞こえたかのように九曜が振り向く。
「何か言ったか?」
鋭く叱咤するような声が飛んできて、彼の視線の先で意識があるのは自分しかいないことを瞬時に悟った古参の部下は、背筋に嫌な汗が流れるのを感じた。
恐るべき地獄耳。
さりげなく視線をそらして沈黙を守った古参の部下に、九曜が物騒な笑みを向ける。
「口は禍のもとだぞ」
それだけ告げると、彼は前方へと視線を戻した。
しばらく身を強張らせながら九曜の様子を探っていた古参の部下は、何も起きなかったことにホッと息を吐き出し、再び全身の力を抜く。
今のやり取りで余分に疲れた気がする。これで他の者同様、気絶してしまえれば楽なのだろうが、そこまでになるほど枯渇していない。これはもう、早期回復のために余分なことは考えずに休んだ方が身のためだろう。
古参の部下は再び深々とため息をつき、周囲の状況を探る感覚だけは尖らせたまま目を閉じ、身体を休ませることに集中したのだった。
そんなこんなで二時間後。
水球を囲っていた海の結界に揺らぎが増えていた、そんな時。水球と海達がいる場所の中間に、突如、誰かが現れた。夜目が利く彼らにはその姿がはっきりと見える。風雨も妨げにはならない。
短い白髪に紅い瞳の、スーツを着こなした外見年齢は海と同じ年頃にみえる細身の男が、場の状況も無視して笑顔で手を振る。それは二人が待っていたウイの一族の長だったが――。
「クソ爺。遊んでないで、さっさとアレを始末しろ!」
海が顔を引きつらせて怒鳴った。その隣では九曜が半眼で白髪男を見ている。
「相変わらずふざけた爺さんだな」
彼の口からぼそりと低い呟きが零れた。
そんな二人の反応に対し白髪男は飄々とした態度を崩すことなく、この場の他の存在を省みることもせずにゆっくりと海の前まで歩いて移動すると、
「僕が爺ならおまえも爺だぞ。や~い、爺」
にこやかな顔で大人気ない台詞を吐き、ヒラヒラと手を動かす。それは外見に似合わない、なんとも子供っぽい応酬だった。
「……仕事をしろッ」
海からギロリと殺気の含まれた視線を向けられ、白髪男は面白くなさそうに肩を竦める。
「実際、僕とおまえの歳の差なんて五百くらいだろう? ほとんど変わりないじゃないか」
正確には四百九十五歳、海の方が年下なのだが――。
「五百も違えば十分違うわ。戯言をほざいてないで、さっさとやれ」
苛立ちを含んだ声にもどこ吹く風で、白髪男は結界越しに海の顔をしげしげと観察する。
「珍しくそれなりに消耗しているようだけど……耄碌した?」
ブチッ。
九曜は隣から何かが切れる音を確かに聞いた。そして、慌ててその場から飛び退る。その瞬間、海の拳が目にも止まらぬ速さで繰り出されていた。
己の作った結界を破ることなく飛び越え、白髪男の顔面に向かう右ストレート。しかも、単なる拳ではない。それに当たれば木端微塵になりそうなほど、殺傷能力を秘めた力がまとわりついている。
「死ね、クソ爺」
拳はあっさりと白髪男の手の平に収まり、そこで止められる。当然の如く、彼は無傷だ。
「気が短くなったんじゃない? それって歳のせいだよ、歳の」
カラカラと笑う白髪男の背後から、水球が迫っていた。海が水球を止める結界維持を意図的に放棄したためだ。水球は熱反応のある動く物体を目指す性質があるので、それの一番近くにいる彼はちょうど良い標的だった。
だが、水球は白髪男に触れる直前で爆発する。飛び散った液体すらすぐ傍にいた彼にかかることなく、雨も風も防いでいるらしい白髪男は、まったく濡れた様子もなくやはり無傷でその場に立っていた。
その様に海が柄悪く舌打ちする。その表情は凶悪を通り越して、極悪な笑顔だった。
「とりあえず、だ。おまえの相手は、今はわしじゃない。アレをさっさと始末してこい。おまえをぶち殺すのはその後だ」
殺気が駄々漏れな海の姿は、離れていても九曜の心臓には良くない。だというのに、白髪男は相も変わらずその様すら笑顔で更に煽るのだ。
「おまえが僕に勝てるわけがないじゃない。寝言は寝てから言うものだよ、海?」
内容とは裏腹に、その声は酷く穏やかに聞こえる。だが、性格が捻くれた彼の応酬は、それだけでは終わらなかった。
「九曜もそう、思うだろう?」
話を振られた九曜は青ざめた。
なぜ、このタイミングで、そんな問いをこっちに振ってくる。あのまま存在を無視されていた方が、平穏無事に過ごせたというのに――。
彼は内心、さめざめと泣いていた。
ここで下手な答えを告げれば命が無い。こんな碌でもない喧嘩の間に挟まれて命を落とすなど、末代までの恥だ。
「……伯。おまえは何だ?」
低く、唸るような問い掛けが海からなされ、それに白髪男改め伯はつまらなそうに小さく息を吐き出す。
「わかったよ。だから、僕は長なんてやりたくなかったんだ」
義務付けられた仕事を片付けるために踵を返し、伯は完全に顕現した巨大な本体へと歩いていくのだった。




