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19.姉からの手紙 その伍

 その後、自宅の居間に移動して桂と藍は話をしていた。その場に遠慮なく海も交ざっていたが、彼はただいるだけで二人の会話に無暗に割り入るようなこともなく、その様子を穏やかな表情で見つめている。

 そんな中、店の扉に付けられたドアベルの鳴る音が聞こえた。普通なら聞こえる距離ではないのだが、自宅内のどこにいても音が届くように、桂は以前からそういう設定を術式に盛り込んだ術をドアベルに掛けている。

 誰かが来た以上、桂は店の方へ行かなければならない。だが、藍と海を二人だけにしておくのは非常に不安だった。


「大丈夫だよ。わしの想い人は伴侶殿だけだ」

 桂の躊躇いを正確に把握していた海がそう告げると、彼女の眉間に更に皺が寄った。

「おまえの言葉は軽い」

 唸るように返され、まったく信用されていないことに海はへこむ。その二人のやり取りに藍は笑みを見せ、

「お母さん。少しは海様を信用してあげなければ可哀想よ。こんなにお母さんのことが大好きなのに、ねぇ?」

 無邪気な顔で海に同意を求めた。それに彼はコクコクと子供のように頷く。その様子にため息をついた桂は、それでも釘を刺すべく口を開いた。


「海。もしも藍に何かしてみろ。おまえの大事な場所を、今度こそ再起不能にしてやる。わかったか?」


 ニヤリと意味ありげに笑った桂に、海は青ざめた顔で先程よりも必死に頷く。彼女はやると言ったら絶対にやる。前回盛られた薬の効能は、彼女の言葉通り、恐ろしいことにきっかり一カ月だった。

 海の反応をしばらく見た後、桂はにこにこと笑っている藍の方に向き直る。

「藍。もしこいつに何かされたら、何を使ってでも反撃しろ。しぶとく頑丈にできているから、遠慮する必要は微塵もない」

「何を、使ってでも?」

 桂の言葉に、藍は驚きの声を上げる。

「そう。何を使ってでも良い。それともおまえも店の方に来るか?」

 その方が良いかと思って問う桂に、藍は首を横に振った。

「私はここで海様とお母さんが戻ってくるのを待っているわ。早く行かないと、お客さんが待っているわよ」

 藍の言う通りなので、桂は気掛かりではあったが、仕方なくその場を後にした。視界の端で海がいじけてのの字を書いていたが、視覚的にはどうであれ、放置しておいても害は無いと無視を決め込む。


 そうして桂の姿が消えた後、重い息を吐き出した海は、自分のために入れられたお茶へと手を伸ばす。藍の手前か、桂は海にもお茶を入れたのだ。

 たぶん何も入っていない、と思いたい。桂の入れたお茶は変わらずに美味しい。

 そう思っていると、藍が躊躇いがちに海へと話し掛けてきた。


「あの、海様。母のことについて、どのくらい御存じですか? セイレーン、いえ、元セイレーンであることを御存じですか?」

「ああ。知っている」

「では、母がセイレーンの歌声も尾も失っていることを御存じなのですね?」

「ああ」


 確かめるように、縋るように見つめてくる藍に、海は安心させるように笑みをみせる。

「わしは伴侶殿がどんな存在だろうと構いはしないよ。ただ伴侶殿が伴侶殿であるだけで良い」

 そう告げると藍は安堵したような笑みをみせた。

 彼女はこの言葉を聞きたいがために、この場に残ったのだろう。

 海はそう思ったのだが、視線の先で藍は笑みを消し、どこか思い詰めたような表情をする。


「わしにまだ問いたいことがあるなら問えば良い」

 促せば、それでもまだ迷った様子で、躊躇いがちに藍が口を開いた。

「母から聞いているのなら私のお節介で済むのですが――海様は母がセイレーンとして少し特殊な存在であったことまで御存じかと」

 訝しげな顔をした海に、そこまでは知らないことに気づいた藍が慌てて言葉を続ける。

「御存じないのでしたら、聞かなかったことにしてください。たぶん海様になら、いずれ母が話すと思います」


「……それは、伴侶殿が持つ力量に関係が?」


 海の問いに藍は答えなかった。だが、彼女の表情がその答えを物語っている。

 桂がセイレーンだと知った時、海は意外だと思ったのだ。彼女が持つ力量はセイレーン、ひいては水人族にとっては破格だった。

 水人族の持つ力量は他の種族よりも少ない。その代わりに水中を自在に泳ぐ力を手に入れたと、そう言われている種族なのだ。


 だが、そんなことも海にとっては些末事に過ぎない。

「私も伯母から又聞きした話でしかないのですが、それでも――」

 言葉を濁す藍に、海は穏やかな表情で告げる。

「聞かなかったことにしておくよ。先程も言ったように、わしは伴侶殿がどのような存在だろうと構いはしない。愛しい存在であることに変わりはないさ」

 言葉を惜しむことも飾ることもなく、誰に憚ることなく当然のように桂への想いを告げる海の姿に、藍が微笑みを浮かべる。


「海様のような御方が母の傍にいて、本当によかった」


 それは藍の心からの言葉だった。

 母には産まれた時から一度も会ったことはなかったが、物心ついた頃に事情はすべて伯母から聞いた。伯母は藍が理解できるように分かりやすい言葉で説明してくれたし、疑問にもしっかり答えてくれた。

 だから、淋しくても我慢した。自分に会いに来られない理由は分かっていたし、母の分も伯母が実の娘のように可愛がってくれたから恨まずに済んだ。


 ただ、徐々に地上で独りぼっちな母のことが気掛かりになった。

 伯母以外の同胞は、桂のことを訊いてもけして話そうとはしなかったのだ。藍のことは他の同胞と同じように扱ってくれたのに、その母である桂のことは忌事のように口を閉ざし続けた。

 当時はそれが酷く腹立たしく、悲しかった。大人に近づくにつれ、その理由もまた理解できるようになったけれど、それでもやはりその気持ちに変化はない。


 だからこそ、海の言葉がとてもうれしかった。自分の命すら顧みずに藍を産んでくれた母の傍に、彼女が持つモノではなく、彼女自身を愛しんでくれる存在があることに心底ほっとした。

 その途端、瞳が潤んで端からポロリと涙が零れ落ちる。


 それを目にした海が酷く慌てた様子で問い掛けた。

「わしは何か、気に障るようなことでも言ったか?」

 その慌てように藍は泣き笑いのような表情で首を横に振る。

「いいえ。これは、そう。うれし涙です」

 藍が小さく答えたのと、海がその場から飛び退いたのは同時だった。


 いつからそこにいたのか。すぐ傍に桂が立っていた。

 なぜか、夜叉ようなの表情で――。


 藍が出入り口の方を見れば、そこにはライの姿もあり、彼は不機嫌も露わな表情で腕を組んで立っている。厳つい顔はいつものことだが、きつく引き結ばれた唇と眉間に寄った皺の深さが普段よりも不機嫌になっていることを示している、と彼女は知っていた。

 では、先程来店したのはライだったのかと藍がのんびり考えている間にも、桂と海の攻防は始まっていた。


「は、伴侶殿? 誤解だ、誤解。わしは娘御には指一本触れてない」

 じりじりと壁際に後退する海に、じりじりと桂はその間を詰めるように迫っていた。

「なら、なぜ泣いている?」

 唸るような問い掛けとその顔に浮かんだ恐ろしい笑みに、海は本気で身の危険を感じながら声を張り上げる。


「信じてくれ。けして伴侶殿以外にその手の触手が伸びることは、金輪際ない」

「嘘こくな。下半身で生きているようなおまえの言葉のどこに、その手の真実味があるかぁ」


 壁に背が当たって逃げ場を無くした海に、桂はニヤリと笑う。

「酷い。伴侶殿が浮気は嫌だって言うから、あれからずっと品行方正にしていたのにぃ。伴侶殿の、伴侶殿の――」

 胸倉を掴むはずだった桂の手は空を切り、

「いけずぅ~~~」

 声だけを残して、海の姿はその場からかき消えた。


 逃げられたことに桂は舌打ちし、その様を見ていた藍とライは瞬時に姿を消した海が今までいたはずの壁をポカンとした様子で見つめる。

「藍。変態に何かされたのか?」

 娘を立たせて確認作業を始めた母の肩に手を置いて、藍は彼女の動きを止める。

「お母さん。私はうれしくて泣いていただけで、海様は無実なのに……。あれでは本当に海様が気の毒よ」


 二人の間に藍の知らない何かがあるのは当然として。

 それでもあれほど全身で桂を愛しいと訴えて憚らない海なのに、当の本人からはその気持ちを疑われ、まったく信用されていないというのはあまりに不憫だった。


「だが、あいつは女たらしのすけこましだぞ」

 非難されようが納得できないと反論する桂の言葉に、藍は思わず納得しかけてその思いを余所へと蹴り出す。ここで頷いてしまえば、海の真剣な想いを否定することになってしまう。

 それでも完全に彼女の言葉を否定しきれなかったのは、藍が嘘をつけない性格だったからだ。


「たとえそうだったとしても。海様のお母さんへの気持ちに嘘はないわ。海様は良い御方よ?」

「……まあ。あの女たらしを除けば、な」


 不満そうではあるものの譲歩はしたらしい桂に、藍は内心ため息をつく。

 その時、ちょうど昼の鐘が鳴った。ライが迎えに来ると告げた時間だ。

 出入り口でどうすればいいかと表面上は厳つい顔のまま、内心では酷く困っているだろうライに、藍は笑いかけたのだった。



これにて「姉からの手紙」は終了。

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