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16.姉からの手紙 その弐

 桂は立ち上がり、少女の方へと歩み寄る。だが、少女へと伸ばされた手は、彼女に触れることなく引っ込められ、脇へと力無く垂れさがった。

 同族の気配を間違えるわけがない。

 その瞳の色は桂と同じ色味だったし、外見は姉、ひいては姉と桂の母である、彼女の祖母とよく似ていた。

「お母、さ、ん?」

 胸の前で手を握り締め、少女が震える声で問い掛ける。

「藍、か?」

 そう問う桂の声もまた、震えていた。藍と呼ばれた少女がコクンと小さく頷く。


「……ここまで無事にたどりついてよかった」


 この街は治安が良くない。それにここから海原は遠い。仮の足を得たとしても、セイレーンはあまり海原から離れた場所には行けなかった。この街はその、ギリギリの境界線だ。

「一人じゃないの。外で待っているって」

 姉もこの街の状態は知っている。それでなくとも地上に不慣れだろう藍を、一人で旅に出すことはないはずだ。だから、その言葉は納得のいくものだった。


「姉さんの手紙で、私に話があるということは知っている。だが、慣れない地上で疲れただろう。外で待っている人も呼んできなさい。まずはお茶でも飲んで、ゆっくりするといい」


 その口からどんな話が飛び出すのか。

 緊張しているのだろう。握り締めた手はいまだに震え、藍は思い詰めた表情をしていた。だから、桂はできるだけやさしく告げ、安心させるように微笑みかける。

 だが、藍は首をフルフルと横に振った。


「話を先に……。あのね。私、結婚しようと思うの」


 桂は予想もしなかった言葉に目を丸くする。

 罵詈雑言でもなく、恨み言でもなく――。

「結婚? おまえはまだ、成人したばかりではないか」

 口から出たのはずいぶんと尖った声だった。


「成人したから。だから、結婚できる。伯母さんの所で知り合って、成人前からの付き合いなの。今、外にいるのもその人。……人間なの」


 藍の口から出てきた人間という単語に、桂の胸の内が激しく波立つ。

 姉がどの程度話したかは分からないが、藍は知っているのだ。自分の父親だった人間と桂の間にあった諍いを。だから、その種族名を口にすることを躊躇った。

 目の前が真っ暗になったようだった。


「お母さんにね。認めて欲しいと思ったの。祝福して欲しいと思った。だから、会って欲しいの」

 震える声で、それでも必死で言葉を紡ぐ藍を、桂は感情を消し去った瞳で見つめる。

「私はおまえに母親らしいことなど何一つしていない。産んだだけで育てなかった。私に母親を名乗る資格など初めからない。おまえの母はおまえを育てた私の姉だ」


 こんな所まで訪ねてきてくれた、娘に告げる言葉がこれなのかと自分でも悲しく思う。だが、桂の中にはまだ、あの頃感じていた憎悪が残っている。これほどの年月が経とうとも消えない憎しみだけが、相手を失った今でも存在していた。


 桂と藍は違う。その父親と彼女の選んだ男もまた、違う。

 たとえ同族だろうと、同じではない。


 だが、理屈では分かっていても、心が拒絶する。否定する。認めない。

 自分の娘だからこそ、祝福などできなかった。

「すまないが、帰ってくれ」

 存外、冷たい声が出た。

 藍から背を向けると、気遣わしげにこちらを見ていた海の存在に気づいた。だが、その視線すら無視して、桂は店の奥から自宅へと姿を消す。


 藍の方もまた、そこで初めて海の存在に気づき、二人の会話を聞かれていたことに青ざめた。伯母から母がここで性別を偽り、男として暮らしていることを聞かされていたのだ。

「あ、あの……」

 何か言わなければ、どうにか誤魔化さなければという思いが心をかき乱し、続く言葉が出てこない。

「薬師殿が女子なのは知っているよ」

 海は安心させるように、混乱する藍に向かって笑顔を見せる。


「大丈夫。薬師殿は混乱しているだけだ。少し時間が欲しいのだよ」


 ゆったりと笑うその顔に愛しみのようなものを感じ、桂の消えた奥へと向けられる気遣わしげな視線に、藍は少しだけ強張った肩の力を抜いた。

「あの。また明日来ます、と伝えてもらえますか?」

「ああ。必ず伝えておこう」

 海が請け負うと、藍はほんの少し笑みを見せた後、ペコリとお辞儀をして店を出ていった。カランカランとドアベルの鳴る音が店内に響き、静かになる。


「わしはどうすればいい……?」


 笑みを消した海が深く息を吐き出し、小さく呟く。

 胸中に燻るのは――嫉妬だ。


 過去に彼女を手に入れた男に対して。

 彼女の優しさが向けられる娘に対して。


 焼け焦げそうなほどの想いに駆られる。


 薬師殿は、伴侶殿は海だけのモノだ。

 他の誰にも、その心の一欠片でも渡したくない。


 だが、そんなことは不可能だと知っていた。先程見せられたあの表情が、殺したと呟いたあの声が、彼女がまだその男に囚われていることを示している。

 抱えてしまった激情から娘を守るために、悟られないために遠ざけたその行動が、たとえ育てられなかったとしても彼女が確かに娘を愛し、気に掛けていたことを示している。


 わかっていた。セイレーンとはそういう生き物だ。情の深い、心を許した者にはどこまでも愛情を傾ける者。

 それが時に、己の身も心も犠牲にすることだったとしても――。


 過去は変えられず、その過去があるから今の彼女がある。だから、海はそれらすべてを容認しなければならない。

 それらすべてを合わせて海の伴侶殿、だ。


 再び深く息を吐き出して目を閉じた海は、内で燻る嫉妬の嵐を奥深くに沈める。

 今の彼女にこの感情を悟られるわけにはいかなかった。ただでさえ傷ついているというのに、それを更に海が傷つけるなど、そちらの方が堪らない。

 それならばどんな感情だろうと押さえるし、我慢もする。そうでなければ意味がない。


 出会ったあの時に、そう誓ったのだ。

 いつかこの想いに己が完全に狂い、正体を無くす時が来るまで、その誓いが覆るなどありえはしない。


 次に目を開いた時、海の顔には笑みが浮かんでいた。

 店舗に部外者が誰も入れないよう結界を張り、彼は立ち上がる。

「伴侶殿に娘御の伝言を教えなければな」

 自室ではなく居間にいれば良いがと思いつつ、彼は桂の姿を探して自宅に続く奥へと向かったのだった。



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