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15.姉からの手紙 その壱

 桂は手紙から視線を上げ、深く息を吐き出す。

 それは唯一連絡を取り合っていた同胞からの、姉からの手紙だった。


 セイレーンは主に海中で同族と寄り集まって暮らす部族だが、地上で暮らす者がいないわけでもない。色々な制限は付くが、仮の足を手に入れて地上で暮らす者も僅かにいた。

 だが、桂のように歌声と尾を代償に完全な足を手に入れる者は滅多にいない。それはセイレーンにとって故郷であり、安息の地である碧い海原へと至る道を失うことになるからだ。証を失った者に開かれる道はない。


 桂の姉は水人族の別の部族の者と結婚したが、商人である夫が地上に出した店を、仕入れや取引で留守にしがちな夫に代わって切り盛りするために地上と海中を行き来していた。

 その姉の手紙には、要約するとこう書かれていたのだ。


(あい)があなたに一度会いたいと言うので、近い内にそちらへ送り届けます』と。


 藍とは、桂が娘に贈れた唯一の呼び名だった。

 産んですぐに手放した娘。今までにも何度かその成長を綴る手紙はもらっていたし、稀に姉がこちらに来た時には彼女の口からも色々聞いていた。だから、つい先日、彼女が成人したことも知っていた。


 セイレーンは碧い海原で孵り、そこで一定の期間を過ごす。碧い海原から出られるようになったとしても、成人するまでは地上へと出てくることはできない。仮の足は成長途中の者には負担でしかなく、成人した者でなければ得られないからだ。


 ついにこの時が来てしまったと、桂は喜びとも悲しみともつかない思いを抱いて途方に暮れる。


 仕方なかったとはいえ、自分は産むだけ産んで育てることができなかった。姉に任せるしかなかった。会いたくても会いに行けなかったし、そもそも合わせる顔もなかった。

 恨まれているだろうと、詰られても仕方ないと覚悟していたつもりだったが、それでもそれが目前に迫ってくればやはりどうしていいのか分からない。

 娘には会いたい。でも、会ってどうすればいい。ただ、そのことが怖かった。




 そうして、二週間が過ぎた。

 その間、考え事をするようにぼ~っとする時間とため息が増えた桂を海は心配そうに見ていたが、理由を問うことはしなかった。普段のふざけた言動も嘘のように鳴りを潜めて、彼は言葉少なげにただ彼女の側にいた。


「伴侶殿。わしはずっと側にいるからな。たとえ何があったとしても」


 調合机に向かい合うようにして座っていた海が、突然、ポツリと呟いた。

「なんだ、唐突に……?」

 いつの間にか考え事に没頭していたらしく、手元の作業が完全に留守になっていた桂は、その声で現実に引き戻された。

「今の伴侶殿はどこか危うい。消えてしまいそうだったから、わしの存在を忘れて欲しくなかったのだよ」

 静かな声でそう告げた海が、気遣わしげな表情で桂を見ていた。


「……私の態度は、それほどおかしいか?」


 茶化すでもなく、桂の問いに海は頷く。

「この二週間、ずっとぼ~っとして何かを考えている。伴侶殿が話してくれるまで問わないつもりだったが、止めた。最近、眠れてないのではないか? 何をそれほど気に病んでいる?」

 鋭い指摘に、桂の肩が小さく震える。

「何を根拠に――」

「目の下に薄らとだが、隈ができている」

 そう告げて海が困ったような顔をする。


「わしでは伴侶殿の力にはなれないのだろうな。わしは伴侶殿のことを何も知らない」


 力無く肩を落として淋しそうに笑う海の姿に、桂はなんだか申し訳ないような気分になった。

 色々どうしようもない男だが、意外に桂の感情の浮き沈みには鋭い。時に妙な言動で彼女を振り回したとしても、気づけばそれらが沈んだ心を浮上さていたなんてこともある。


 本気なのか、冗談なのか。芝居なのか、素なのか。

 海の言動が桂には理解できない。


 それらはヒモみたいな生活をしていたために身に付いたのか、それとも天性の才能か。たぶん両方だろう。

 だが、今。桂の前では、そんな男が本気で己の無力感に打ちひしがれているように見えた。


「そんなことは当たり前だ。おまえがこうして押し掛けてくるようになって、どのくらい経ったと思う。たったの三カ月だ。それで私のことがわかると豪語されてしまったら、私の今までの人生はどれほど薄っぺらなものだ。私だっておまえの過去など知らん。出会ってからの、ほんの少ししか分からない」


 こんな態度、海には似合わない。だから、それが当然なのだと桂は笑い飛ばした。そして、久しぶりに自分が笑みを浮かべていることに気づく。

「姉から手紙がな、来たんだ」

 自分のことを本気で気に掛けてくれていた海に、少しなら事情を話してもいいかと桂はポツリと呟く。

 姉が存在したということも、その姉と手紙のやり取りをしていたということも、海にとっては初耳だった。だが、その驚きを表に出すことなく、彼はその先の言葉を促すでもなく、ただ彼女の顔を見つめる。


「その手紙に、な。近い内に娘をここに送り届ける、と書かれていた」

「娘?」


 不思議そうな声に、桂は苦笑する。


「私の娘だ。もし会ったとしても手を出すなよ」


 しっかり釘を刺されたが、海の心境はそれどころではない。


 娘が、いる。ということは――。

「薬師殿は、結婚しているのか」


 伴侶殿、と。言葉にできなかった。

 この三カ月間、彼女の周りに男の影はなかった。だからこそ、海ものんびりと構えていられた。だが――。

 荒れ狂う心をなんとか沈めようと、海が必死になっているとも知らずに、桂は自嘲の笑みを浮かべる。


「どうだろうな? 今となっては私にも分からん。何せ、相手はもう死者だ。私が――殺した」


 殺した。そう告げた桂の声には、深い悲しみが含まれていた。

 笑う彼女の顔と、テスの魂を抱いて涙を流しながらも笑っていたセイレーンの顔がダブる。


 海が口を開きかけた時、店のドアベルが軽快な音を立てた。どうやら誰か来たらしい。

 棚などで隠れてしまっている出入り口の方を見た、桂の表情が徐々に強張っていく。後ろを振り返った海の目に、無粋なタイミングで訪れた来客の姿が見えた。


 物陰から姿を現したのは、少女だった。この街の住人ではないだろう旅装の少女は、まっすぐな栗色の長い髪と琥珀色の瞳を持つ、外見は人間年齢に換算して十代後半くらいに見えた。

 小柄で、その容姿は可憐という言葉が似つかわしく、外見は桂とあまり似ていない。それでもこの少女が先程話に出ていた彼女の娘なのだと、海は直感的に悟ったのだった。



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