14.城塞都市の中枢 その弐
立ち上がった九曜が海のいる応接セットへと近づき、テーブルの上に置かれた酒瓶をヒョイと手に取る。
「また珍しい酒を飲んでるじゃないか。俺にも飲ませろ。おまえももう少し味わって飲め。そんな水みたいな飲み方、酒への冒涜だぞ」
異空間から自分のグラスを取り出した九曜は、海の返事を待つことなく、そのグラスに酒を注いで口に含む。口内に広がった独特の香りと深い味わいに、彼は満足そうな笑みを浮かべた。
「わしの食事にケチをつけるな」
そうは告げるが、九曜がその酒を相伴することに異存はないらしい。クイッとまた酒をいっきに呷った海の姿を、斜向かいに座った九曜が訝しげに見る。
「食事? おまえの食事は精気じゃなかったのか?」
「あれは趣味と実益を兼ねたものであって、別に精気でなくとも体内に取り入れることができれば基本的になんでもいい」
「……まさかとは思うが、操立てでもしている、とか?」
今日は本当に色々驚くことばかりだと、九曜は頭の片隅で思う。
「そうとも言えるが、違うとも言える。……薬師殿に、伴侶殿に一服盛られた」
一服盛られた?
何を盛られたかも気になる所だが、そもそもこの男に薬物が効くとは初耳だ。ずいぶん昔になるが、即行性の猛毒を口にして海が平然としていた場面を、九曜は見たことがある。
海の顔をマジマジと見つめれば、意外なことに彼は不貞腐れた子供のような表情をしていた。
「種族特性上、体内異物に対する分解速度は速い。異物の違和が大きいほど、それは速くなる。飲まされた直後は動揺したが、せいぜい効果があっても一日か二日だと後で思い直したんだ。だが、一週間経っても戻らない。わしに一カ月間もこの状態でいろ、と。この仕打ちはさすがに酷いと思わないか?」
「いったい何を飲まされたんだ?」
同意を求められても、九曜には判断材料が足りない。酒瓶に手を伸ばし、グラスに酒を注ぐ海は小さな声で答えた。
「不能になる薬だ」
「……ッ!!」
九曜は思わず飲んでいた酒を噴き出しそうになり、無理に止めたのでむせた。
なんて面白い薬を飲ませるんだ、こんな無茶苦茶な、下半身で生きているような男に!
咳き込みながらも込み上げる笑いが止められず余計に苦しい思いをしたが、それでも九曜は腹を抱えて笑い続けた。それを海がものすごい目付きで睨んでいたが、それすらも今の彼には些末事に思える。
ひとしきり笑った後。
「おまえ――」
それは脈が無いんじゃないか、と言い掛けて、それではさすがに自分の身が危ないと口を噤み、別の言葉を探す。
「薬師殿にそんなことをされるほど、何をやったんだ?」
九曜の記憶にある桂は理由がない限り、そんな暴挙に出るような人物ではなかった。余程、下ネタ関係で耐えがたい何かをやったとしか考えられない。
「……無賃の娼館通いがバレた?」
海はあの日あったことを思い返して首を捻る。それくらいしか思いつかなかったのだ。
「だが、浮気はしないと宣言してからは、まったく通っていなかったのだぞ? 誰にも一切、手は出していない」
この男にしては、それはそれですごい。だが、よく分かっていないらしい海に、九曜はため息をつく。
この女たらしは確かに女の扱いには長けているが、たまにものすごく無神経なのだ。
「女の立場からすれば、過去のことだからと分かっていても良い気はしないだろうさ。おまえの場合、節度も節操もないし。自分の男が最近までヒモみたいな生活をしていたと知ったら嫌だろう」
自業自得だ。
ばっさり切り捨てた九曜の前で、海は納得がいかないと眉間に皺を寄せている。
「それならもっと前に盛られていてもおかしくない」
「は?」
理解できないと声を上げた九曜に、海はこんこんと説明する。
出会ってからの二人のやり取りを。
その惚気だがなんだかよくわからない話を根気よく聞いていた九曜は、聞き終わった後、疲れた顔でソファにぐったりと身を預けた。
「おまえ、それは――」
ストーカーと同じだ、と言い掛けて、これまた口を噤む。
桂の方が海をどう思っているか、正確な所は分からない。だが、海の暴挙に対する報復はしっかり行っているようだし、それでも相手をしているようなのだから、完全に嫌ってはいないのだろう。
まあ、この男は昔から妙に憎めない所がある。性根は悪くない。どちらかと言えば、自分に正直なだけけだ。
「何だ?」
やはりわかっていない海は、黙った九曜に言葉の続きを促す。
「薬師殿が大切なのだろう? それなら、もう少し繊細な女心の機微を理解する努力をしろ」
九曜に言える忠告はそれしかなかった。
ここはもう、桂に人身御供になってもらうしかない。
海に惚れられたのが運の尽きだ。
あの瞳を見てしまったら、それに映し出される感情を知ってしまったら。己の身が可愛い九曜としては、海に望みが薄そうだから諦めろとは言えない。
そんな言葉で諦められるような類いの感情ではないだろうが、海の場合、その度が過ぎる。恋情に狂ったウイの一族など、公害以外の何者でもない。下手をすれば、己が長年を掛けて育ててきたこの街が一瞬で無くなるはずだ。
九曜の言葉が腑に落ちないようで唸っている海に、彼は再度忠告する。
「普段の女たらしで、すけこましなおまえはどこに行った? 外見は男に見えるが、薬師殿は女だ。本気で欲しいのなら、たらし込め」
「その言い方はわしに対して酷くないか? わしはただ、伴侶殿の心からの笑顔を一番近くで見ていたいだけだ。それに伴侶殿は美人だぞ」
憮然とした表情で海はそう告げたが、九曜からすればその発言は度肝を抜かれるものだった。口の中に酒が入っていなくてよかったと心底思う。先程の二の舞はさすがに苦しい。
思わず手からすり抜けそうになったグラスをテーブルに置き、九曜は叫ぶ。
「なんだ、それは! おまえは純情乙女か? 本当に節操なしなおまえの台詞か!?」
桂が美人という言葉を否定するわけではない。彼女の造作はそれなりに整っているし、女にしては背が高いとはいえ、スラリとした肢体はしなやかで美しいとも言える。
ただ、そこには当然の如く、凛々しいとか勇ましいという言葉がなぜかつく。
桂自身も女と気づかれないように気を付けているだろうから、そのせいかもしれない。だが、不思議に思えるほど、彼女からは女を匂わすようなものが何もないのだ。外見からも、雰囲気からも。
「……本気で酷い。伴侶殿につれなくされて傷心なわしの想いを、純情をそこまで否定せずともいいではないか」
どうやら怒らすよりも、へこましたらしい。
身体を縮こめた海はテーブルの上に指でのの字を書き始め、その異様な姿に九曜が顔を引きつらせる。
「おまえ本当に海か? 中身だけどっかの誰かと入れ代わってないか!?」
この街で海が過去に巻き起こした、傍迷惑な逸話の数々を知っている九曜は、あまりのへたれ具合にそう叫ばずにはいられなかった。
これにて「城塞都市の中枢」は終了。




