12.女たらしの実態 その参
店内に残された女将と胡蝶は顔を見合わせ、同時にため息をつく。
「本当に掴めない御仁だねぇ」
「旦那ったら、何やったのかしら?」
呟いて、またため息。
「胡蝶。わかっていると思うけど――」
「他人の事情に深入りはしませんよ。特にあの旦那は危険な香りがしますから」
この街で生きていくために、その手の判断は命取りになる。判断するためにも確かに情報は必要だが、自衛をするならば、まずは他人の事情には首を突っ込まないことだった。
妓楼には色々な者が訪れる。ここは一夜の夢を売る場所だ。口が軽くなる御仁も多く、だからこそ情報も集まる。
だが、海は口が軽いようでいて、自分のことはほとんど話さなかった。どこの誰で、どんな種族で、どんな仕事をしているのかなど。すべて不明。妓女達の誘導を知ってか知らずかのらりくらりとかわし、彼女達から逆に情報を引き出していた節すらあったのだ。
それは言葉巧みに行われ、そのことに気づいた妓女は胡蝶を含め、ほんの数人だろう。
「薬師殿も本当に困った御方に見込まれてしまったこと」
そう呟き、けれど、と胡蝶は思う。
あの瞳は本気だった。
女たらしだけれど、最高の夢を見させてくれる極上の男。
そんな男にあんな風に望まれるなら――。
「女としては、幸せかもしれないねぇ」
女将が胡蝶の考えを口にして笑った。
過去はどうであれ、これからの海はその言葉通り、桂一筋で生きていくのだろう。
翠玉の瞳の奥に隠された想いに、その想いを向けられる桂に、同情とほんの少しの嫉妬を覚えながら、胡蝶もまたその顔に笑みを浮かべたのだった。
あの後、自分の店に戻った桂だったが、すぐに店を開ける気にはならず、閉めたまま続きの家の居間でお茶を飲んでいた。
すると、そこに性懲りもなく海が現れ、彼女の隣へと腰掛ける。二人の間に距離が開いているのは、桂への気遣いゆえか、警戒ゆえか。
それは分からないが、桂はふと思い立ってキッチンへと移動し、新たなお茶を入れて海の前に湯飲みを置いた。
それに目を丸くした海は、一瞬後には満面の笑みを浮かべてそれに手を伸ばす。
「伴侶殿が茶を入れてくれるとは、初めてのことではないか」
なんの疑いもなく飲み干された茶に、桂は笑みを浮かべた。その笑みに何かを感じたらしい海が、ウロウロと視線を彷徨わせて狼狽する。
「は、伴侶殿。このお茶は普通のお茶、か?」
味にも匂いにも違和感はなかった。飲み干した後も、身体に変化はないように思える。だが、それなら桂が浮かべるこの、してやったりとでも言いたげな笑みはなんなのか。
「元は普通のお茶だ」
「元は?」
妙な言い回しに、海は恐る恐る問い掛ける。
「そう。元は。おまえのために不能になる薬を作ってやった」
「……それは、この中に?」
「入れたに決まっているだろう。物は無味無臭無着色。その上、水溶性だ」
それでは入っていたとしても、気づかない可能性の方が高い。
ストンと海の手から空になった湯飲みが滑り落ちる。幸いテーブルの上に落ちたため、高さもあまりなく、湯飲みが割れることはなかった。
海が愕然としながら、絶望的な表情で桂を見る。
「効能期間は一生涯」
顔面蒼白になった海に、桂が言葉を続ける。
「と、言いたい所だが、せいぜい一カ月程度しか保たない。おまえにとっては、朗報か?」
「……酷過ぎる、伴侶殿」
それでもこの世の終わりのように、ぐったりとソファにもたれかかって海は項垂れた。
「浮気は、してないのだろう?」
意味ありげに桂が問い掛ければ、海がガバリと起き上がり、彼女の両手を手に取って握り締めた。
「してない。伴侶殿一筋だ。……でも、やっぱり酷い。わしはいつだって伴侶殿を抱き……ヒィハイ」
やんわりと手を外され、海の方に伸びた彼女の手が彼の頬をつねり上げる。
「少しは自重して反省しろ、変態」
冷たく吐き捨て、片付けるために二人分の空になった湯飲みを持った桂に、海は声を掛ける。
「今度お茶を入れてくれる時には、できれば余分な物は抜きで入れて欲しいな。美味しかったよ、伴侶殿。ごちそうさま」
懲りた様子も反省した様子もなく、いつものように笑う海を目にした桂は目を伏せ、消え入りそうなほど小さく呟く。
「なんでおまえは――私、なんだ?」
聞こえなくていい。答えなどいらない。その問いは、桂にとって一時の気の迷いだった。
そそくさとキッチンで洗い物を始めた彼女の背に向かって、海は告げる。
「一目惚れ、なんだよ。あの時、追われている伴侶殿を目にして、こう、守りたい、というか、抱き締めたいというか。そんな衝動に駆られて――わしの隣で幸せに笑う、伴侶殿が見たいと。そうなれば幸せだろうなと思ったんだ。そのためなら何だってしてやろうって。わしは伴侶殿の、心から笑う姿が見たいのだよ。伴侶殿の一番近くで」
望みはそれだけだと。けれど、それはとても贅沢な願いだと、海は笑う。愛おしいと想う心を隠すことなく、その笑みに乗せて。背を向けたまま、こちらを見ようともしない桂の姿を見つめる。
「伴侶殿。わしの何を否定してもいい。怒っても詰っても。殴ろうとも蹴ろうとも。薬を用いたとしても。だが、お願いだから――わしの伴侶殿を愛しいと思う気持ちだけは、否定しないでくれ」
桂は海の声を聞きながら、ひたすら意識して手を動かしていた。
不自然にならないように、動揺を気取られないように。ただそれだけを考えて洗い物を続ける。
やさしく、穏やかに。桂の心を宥めるように紡がれる言葉に、その甘い囁きに、彼女は必死で抗う。
流されてしまえば良いと、心の片隅で誰かが呟く。だが、また同じことを繰り返すのか、と呟く声も聞こえていた。
信じれば裏切られる。
誰かを愛しいと思う、その感情ほど移ろいやすいものはない。
海の気配がその場から消えるまで、桂は振り向くことができなかった。その琥珀色の瞳は、彼女の中でせめぎ合う感情を示すようにユラユラと揺れ動いていた。
これにて「女たらしの実態」は終了。




