09.囚われの人魚 その肆
そこでようやく海が桂を見た。
「何がもういい、なんだ? わしはまだ、この男には何もしてないぞ」
その声も表情も不服だと告げている。
「そうだとしても、だ。もうこの男に何かできるとは思えない」
二人が会話する間も、テスはひたすら同じ言葉を繰り返していた。
「それに――この男が壊れてしまえば、この男のセイレーンが悲しむ」
もっと早く二人の間に割り入るべきだったのかもしれない。もう、テスは壊れてしまったのかもしれない。だが、彼を裁く権利があるのは自分達ではない。彼に長年、囚われていたセイレーンだけだ。
「碧い海原に還る時期が訪れているというのなら。彼女がセイレーンならば、男の魂を胸に抱いて還ればそれで良い」
たとえ生きている時は報われなかったとしても、永遠にその魂を自分の物にできるなら、それはそれで幸せなはずだ。たぶん、彼女はそれを望む。
恋しい男を海原へと誘う、その意味。
恋しいからこそ、どうしてもとその男を望み、果たせぬのならと殺すのだ。
そして、愛した男の物言わぬ魂をその胸に抱いて、セイレーンは微笑む。
すべてはその激しく深い想い故に――。
桂の考えを悟ったらしい海が、いまだに許しを請うテスを一瞥した。すると、テスの身体から力が抜け、糸が切れた人形のようにその場で転がる。
「わしは非常に消化不良だ」
こちらを見て不服そうにしていても、海は桂の望みを優先した。そのことに礼を言おうと口を開きかけ、
「ぁっ」
扉の開く不愉快な音がして、唯一の出入口から姿を見せた、桂をここまで誘拐してきた男の存在に小さな声を上げる。
同じく気づいたらしい海の顔が、それはもううれしそうに綻んだ。
「おお。まだ、残っていたか。しかも、伴侶殿に触れ、あまつさえ手荒に扱った奴とは、わしも幸運だな」
中肉中背で特徴のない顔をした男からすれば、それは人生最大の不幸と言えただろう。
海の消化不良の矛先はすべてその男に向けられ、桂は術で攻撃しなくとも、苦しみのどん底へと突き落とすことができるのだと、その姿を見て悟った。
確かにそれは生き地獄。そのフルコースと宣言できる代物だった。
その場の後始末を終え、桂は帰途につく。その横を当然のように海が歩いていた。
「なあ、変態。おまえは何だ?」
月が照らす夜道を進みながら、以前にも問い、はぐらかされた言葉を口にする。
「伴侶殿。そろそろ変態呼ばわりは止めてくれないか?」
苦笑混じりの声で別のことを告げられ、桂は憮然とした。
「ここにきて、まだはぐらかすのか?」
「……この街には、若気の至りの面影が色濃く残っているからな。なかなか正直に告げるには面映ゆいのだよ」
若気の至り?
テスの異様な態度からも、海の言葉からも、過去に彼らが知り合っていたことは分かった。そして、その出会いが豪商テスと呼ばれ、中枢の者達にも一目置かれる存在だった男を、あれほど小さく惨めにさせてしまうほどの出来事だったということも。
だが、その内容はあの会話の中からではよく分からなかった。
そもそもこの男はいくつだ?
テスは普通の人間だ。それが洟垂れ小僧だった時から、最低でもこの男は生きていることになる。人間ではないと言っていたから、いまだ外見が人間年齢に換算すれば二十代後半から三十代前半に見えてもおかしくはない。
桂だって長命種に属しているから、外見と年齢が合致しない。外見年齢は人間年齢に換算すれば二十代半ばなのだ。
「変態。おまえいくつだ?」
「何? スリーサイズ? そ、れ、は……」
急に辺りを取り巻いた冷気に、海はアハハと誤魔化し笑いを浮かべる。
「真面目に答えろ」
据わった目で海を睨みつけ立ち止まった桂に、彼もまたその場で立ち止まり、その顔に困ったような表情を浮かべた。
「……伴侶殿はいくつになる?」
「女子に年齢を問うとは、いい度胸だな」
フフフッと笑った桂から、海は顔をそらす。
「伴侶殿が教えてくれたら、わしも答える」
どうやら海は年齢を告げたくないらしい。遠回しな拒絶に、桂は意地悪く笑った。
「私は先月、二百十三歳になったばかりだ。ほれ、言ったぞ。おまえも答えろ」
初めにああは言ったが、桂に年齢を告げることに対しての忌避感はない。ちなみに、セイレーンの平均寿命は六百歳だ。
海は桂の答えにう~むと唸った後。彼女の耳元に唇を寄せ、渋々と小さな声で問いの答えを告げる。
桂は目を丸くし、呆れたように海を見た。その視線の先では、海が気まずそうに地面を小さく蹴っていた。
「爺、だな。若作りするにも程がある」
その呟きに、海の肩がビクリと震える。彼は恐る恐るといった様子で桂を見ると、よよよと顔を両手で覆い、シクシクと泣き真似を始めた。
「酷い、伴侶殿。外見が歳を取らないのは、種族の特性で仕方ないんだよ」
ぼそぼそと言い訳がましく反論し、
「だから、言いたくなかったのにィ~」
子供のように叫び、一瞬、非難するように桂を見てから海は走り去った。その瞳がわずかに濡れて見えたのは、月光が見せた幻だと思いたい。
その場に一人残された桂は、男心は複雑なのか? と首を傾げる。
得体の知れない男は、やはり得体の知れない男だった。今日の出来事で謎が余計に増えた気さえする。
ただ、年齢を聞いて海の種族だけは確定した。
初めにふと浮かんですぐに全否定した、そのまま全否定しておきたかった、人外の者の頂点に立つウイの一族。
謎の多い種族ではあるが、彼らは不老長命で、長命種の中でも飛び抜けて長生きだと言われている。海の告げた年齢に達するには、その一族でなければ不可能なのだ。だが――。
「長生きしているわりには大人気ない」
外見云々ではなく、あの男の場合、中身が成長していない気がする。
海の走り去った方角を見て、桂はクスリと小さく笑うのだった。
これにて「囚われの人魚」は終了。




