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向かい風

作者: 春井 武修


 最近、自分がいつも向かい風に晒されているような気がする。それも、抽象的な、比喩としてのものではなくて、具体的で実際的な向かい風を。


 もちろん風は単に自然現象のうちの一つであって、それ自体はとても大きな地球の営みの些細な象徴として、僕らの前に僕らの言動とは関係なく提示されているに過ぎないのだけれど、ただ運が悪いだけなのか、それともその“大きな自然の営み”の片鱗が僕に対して妙ないたずら心を抱いているのか、僕がひとたび家の外へ出るたびに、初春のまだ冷たい風が顔に垂直の方向から吹き付けてくる。


 僕は今、決して、いわゆる逆風が吹き荒れているような立場にはないのだけれど、この不可思議な現象を大自然の小さないたずらなのだと考えるとすると、どうしても、何か自分の計り知れない大きな営みの中で、自分はいつのまにか逆風のまっただ中に立たされてしまっているのではないかと思ってしまう。これは何かの暗示なのだろうか?


 この現象は、自転車に乗っているときは更に顕著だった。ただでさえ自転車で走っていれば風を前から受けないといけないっていうのに、その上激しい向かい風なのだ。目は開けていられないし、ペダルもかなり重くなる。場合によっては危険なこともある。



  その日も僕は、向かい風を受けながら自転車を走らせていた。行き先は図書館だった。家から図書館まではほとんど一本道で、その上直線に近い道のりだったから、僕は図書館に着くまでの間、ずっと同じ方向から吹き付けてくる風に立ち向かわなければならなかった。


 今年の春は例年以上に花粉の飛散量が多く、その上僕の目は、新しく買った携帯の設定やらに集中していたのもあって疲れていたから、走り出し、風を受けるとすぐにしょぼついて、涙がにじんできた。こんなことなら、マスクやら伊逹メガネやらを装着してこればよかったと後悔したけれど、遅かった。強い風が顔に当たるたびに、僕の目はじわっと潤む。


 涙があふれてこないように、必死で顔をしかめている自分の姿を想像すると、とてもみすぼらしいもにに思えた。だから、僕は誰か歩行者や自転車とすれ違うたびに、顔を背けたり、ちょっと長めの瞬きをしなくてはいけなかった。



 ようやく図書館に着いた頃には、僕の目は真っ赤になっていたんじゃないかと思う。実際に鏡で見てみた訳じゃないけれど、経験的にかなり危険なレベルに達していることは分かった。目を開けていると表面がヒリヒリ痛み、目を閉じると、目蓋の裏に炎症がジンジンと広がるのだ。


 図書館に来たと言うのに、これから本を読めるというような状態では全くなかった。やれやれ、すんなりとはいかない。幸いその図書館は一種の総合娯楽施設みたいな作りになっていて、館内には喫茶店なんかもあったから、そこで水でも頼んで、一休みしてから本を探すことにした。


 図書館の喫茶店は、建物の隅にあって、壁はすべてガラス張りで、悪い表現をすると外から様子が丸見えである。とは言っても、別に図書館の喫茶店で見られては不味いことをすることもほとんどないし、太陽の光が緩やかに店内に差し込んでくるのは、本を読んで(あるいは風に吹かれて)疲れた目には心地が良い。


 僕はこの図書館に来るたびに、ほぼ毎回この喫茶店を訪れていた。図書館の中に飲食所があるというのは、読書好きにはなかなか好都合で、朝から夕方まで、通して本を読み続けることができる。欲を言えば宿泊所があってもいいぐらいだけれど、まあ、そう言うわけにはいかない。


 喫茶店ではいつも通り、気のよさそうな店員のおじいさんがせっせと客のオーダーをとって回っていた。60歳前後のおじいさん。僕はオーダーをする以外に彼と言葉を交わしたことはないが、彼にはとても好感を持つことができた。それは、僕がこの図書館とこの喫茶店を好きだからかもしれない、とも思う。



 喫茶店の中に入ると、空いていた角の席に腰を下ろした。壁にはリサイクル図書と題していくつかの雑誌が置いてあって、「ご自由にお持ち帰り下さい」と書かれていた。けど、どれも「渓流釣り入門」とか、全く興味のない題材の本しかなかったから、僕はそれに目をやるのを止めた。「花粉症対策のいろは」とかなら読んでも良かったんだけど。


 しばらくするとオーダーのおじいさんが僕のところへやってきて、「いらっしゃいませ。注文はお決まりでしょうか」と聞いた。僕は、本当のところまだ何を頼むか考えていなかったのだけれど、とりあえずアイスコーヒーを頼んだ。喫茶店に行くと、なぜかホットじゃなくてアイスばかり頼んでしまう。それはどうしてなんだろう、と、おじいさんがカウンターに注文を知らせに行く後ろ姿を見ながら思った。



 アイスコーヒーはすぐに届いた。まあ、氷を入れてコーヒーを注ぐだけだから、早いのは当然ではある。ただ、僕は注文をしてから品物が届くまでの、まどろみに似た無為な時間が好きだったから、どこかこの素早さに窮屈を覚えた。アイスコーヒーを届けてくれたのは、カウンターの中にいたおばさんで、忙しそうに品物と伝票を置くと、すぐに踵を返してカウンターの中へ戻ってしまった。特に客が多いわけでもないのに、なぜそんなに急ぐのだろうと疑問に思ったけども、それを目の前に置かれたアイスコーヒーに問うわけにもいかず、そのもやもやをシロップと一緒にコーヒーの中へ溶かし込んだ。そんなことよりも今は、眼を回復させなければ。



 ガラスのコップに注がれたアイスコーヒーは、周りの光を静かに屈折させていて、それは見るからに涼しげだった。それは、そよ風に靡く風鈴や、ちょっと目の粗いすだれの次ぐらいに涼しげだった。まだ暑さを嘆くような季節ではないのだけど、“涼しげ”という質感は、僕にとっていつでも癒しを与えてくれるものだ。


 だから僕は、そのコップを持ち上げて、閉じた目蓋に表面をひっつけてみることにした。実際にガラスが目蓋に付くと、それは思ったよりも冷たく、その冷たさが今までの目の痛みを麻痺させた。それと同時に、顔の筋肉が目の周りを中心に、一瞬キュッと締まるのを感じた。


 コップの表面で結露した一玉の露が、僕の皮膚を伝って、右目のまなじりに小さな水たまりを作った。それを感じると、コップを離し、目を閉じたままその水たまりを掬った。その水たまりは僕の指を滑り落ち、机の上に着地して、再び小さな水たまりとなった。


 僕は、その後もしばらくの間、目を閉じ続けていた。冷たさという衝撃によって一瞬真っ白になった視界は、徐々にほどかれ、緩やかに黒みを増していった。それとともに、目の痛みも段階的な消滅を始めた。



 目を閉じたまま、この図書館のことを考えた。


 ここへ来るのはかなり久しぶりだった。前来たのは、去年の夏、夏休みの終わり頃だったのを覚えている。その時はうだるような暑さで、やはり図書館にはいると、最初に喫茶店でアイスコーヒーを注文した。その日何を図書館で読んだのかは、はっきりとは覚えていない。でも、僕は図書館へ行くたびに、たいてい村上春樹のを読んでいたから、多分その日も村上春樹のを読んでたんじゃないかと思う。


 この図書館や喫茶店は、この町の施設の中で一際ひときわ目立つ、とても近代的な建物の中に納められている。上空からこの建物を見ると、平べったい正方形のようになっていて、その四角はバベルの塔を途中でスパッと切り、縮小したような形になっている。壁は多くがぴかぴかに磨かれたガラスで、内側には人工芝が敷かれた中庭もある。


 蔵書の種類も様々だ。小説や専門書、芸術書はもちろん、若者向けの雑誌や、幼児用の絵本なども多く扱われている。



 ある意味では、この図書館は純粋に本を読みたい人のためではなく、委細構わず暇な人を集めて、とりあえず活字に触れさせることが目的の、完全な娯楽施設アミューズメントと言えるかもしれない。もはや図書館は、厳粛な権威を以てして貴重な情報を市民に提供する場ではなくなったようだ。


 小さい子供の泣き声や走り回る音、家事をやり終えてしまった主婦たちのしゃべり声が、あちらこちらから聞こえてくる。それがしないときには、誰かが申し合わせていたずらしているんじゃないかと思うぐらい、腕に抱えた本を地面に落とすドタンと言う音や、踏み台に足をつまずくガタンと言う音が一定間隔で響いてくる。



 僕はふと、古代アレクサンドリアにあったと言われる図書館のことを想像した。


 もちろんその図書館について、僕はほとんど何も(焼失してしまって今は無いぐらいのことしか)知らないけれど、その巨大な図書館の全景は、ありありとイメージすることができた。



 空は限りなくライト・ブルーである。その広大な蒼穹に、一つ二つ、油絵の具で描いたような白い雲が浮かんでいる。天気はそんな風だ。そしてその空に向かって、のっぺりと地面に張り付くように、木造の建物が広がっている。さながら超大なヒトデのような図書館。


 中にはいるとまず、ソクラテスだかアリストテレスだかの、高名な哲学者の石像が出迎えてくれる広間があって、天窓から差し込む光がその石像を輝かせる。その奥へ行けば、人の背丈の何倍もあるような書棚が並んでいて、ところどころ曲芸で使うような長いはしごで上の方の本を取っている人の姿が見える。物音は一つもしない。まるで、そこで発せられる音がすべて本になって、窮屈な棚を更に埋めていくようである。


 気の向くままに奥の方へ進んでいくと、次第に人影がまばらになって、その上光が届きにくくなって、どんどん暗さが増してくる。しまいにはほとんど真っ暗になってしまって、更にその奥に、秘蔵の書物がしまわれている。


 そこまで想像し終わって、どうしてそこは真っ暗なのだろう、と疑問に突き当たった。が、それはすぐに解決した。火事を防ぐために、図書館の中でランプを使うことは厳禁なのだ。そして、書物の劣化を防ぐために、日光も避けなければいけない……



 別に僕は、図書館にそう言った神秘性や厳粛さを求めているわけじゃないし、この娯楽施設的図書館の、開放的な雰囲気は好きだ。だけれど、このとき想像したような、何か物語に満ちた図書館というのも、一種の憧れとして、僕の頭の片隅には存在している。





 結局この日は、目が疲れていたこともあって、読みたかった本を一度に読み切ると言うことはできなかった。しかし、この日読んだ本の中には、いくつか興味深い内容が記されていた。


 「日常を至って日常的に過ごすにあたって、私はとても便宜的に世界を観ることにしている。たとえば地球の自転は、南極と北極にはとっても大きな竹串が刺さっていて、その先っぽをこれまた大きな宇宙人がつまんでいて、地球の表面を炙るために、太陽の周りをクルクル回しているんだと考えている。


 突飛な想像ではあるけれど、仮にそれが本当だとしても嘘だとしても、地球が自転していて、その上太陽の周りを公転していると言う事実を我々は受け入れるしかないのだし、困ることもない。何もない宇宙の真ん中で、ただ地球が回転していると思うよりも適当に理由をつけておいた方が手っ取り早いんじゃないかと思う。


 こういうふうにいろんなことを考えていけば、悩む必要のないことで悩むことはないし、煩わしく思うこともない。少なくとも世界は、もっと単純に、生きやすくなるんじゃないかな」


 

 確かにそれも理にかなった考え方だった。想像の付かないことは、想像の付かないままに、象徴的な何かに置換して放置しておけばいいのだ。そうすれば世界は知っている物と知らない物に二種類にはっきり分かれ、僕は知らない物に一生触れることなく過ごしていく。


 最近の向かい風だって、このごろ自分が吐いているため息が、神秘のトンネルを通って、何十倍かになって跳ね返ってきているのだと思えばなんてことはない。それは全世界の僕へ向けたイタズラから、単なる自業自得の類にランクダウンする。


 しばらくの間、そう言う考えを頭に植え付けていこう、と思った。しばらくの間、は。



  やはり帰り道の風向きは、僕にとって向かい風だった。なぜ数時間の間に、風向が真逆になってしまうのだろう。僕は少し腹立たしさを感じたけれど、すかさずこれは、自分が吐いたため息が、巡り巡って自分の顔にぶつかってきているんだと考えた。そうすることで、この現象も、ある程度は許せそうな気分になった。自分のため息を責めるほど、僕は野暮な人間じゃない。



 家に着く頃には、今まで強く吹き付けていた風は小止みになって、夕焼けの空に浮かんだ雲も、ゆっくりと南に向かって流れていた。

 交差点で赤信号につかまると、僕はその雲に向かって、とりとめもなく口笛を吹いてみた。その音色は、口から放たれていくと、風のない空を二、三度巡ってからどこか遠くへ消えていった。


 僕は、少しすがすがしい気持ちになってから、うむ、と一人頷いて、それから再び、自転車を走らせた。


    僕の吹く口笛は、いつか巡り巡って、僕の背中を押す追風になるのだ。


 




















 


 

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