出会い
朝、リディアは母とわずかな食事をとると、すぐに水汲み用の桶を両手に一人森へと向かっていた。
早く用を済ませ、老婆に会いに行くために。
昨晩からあの話の続きが気になって仕方がなかったのだ。
リディアが街を抜ける途中、数名の兵士たちとすれ違った。
「聞いたか、昨日も近くで狼が出たんだと」
「本当か!まさか、街の中まで入って来ないよな」
「まぁ、あいつらが襲ってきたとしてもこの剣で斬り刻んでやるけどな」
若い兵士たちは、その武器を振り回しそんな話をしていた。
彼ら兵士は、街から出ようとしない限り住人に危害を加えることはない。街中で会ったとしても大人しくしていれば平気なのだ。
シャンテの街から出るルートは北門と、港への出入り口。
どちらも武装したカルディア兵が厳しく見張っており、そこへ近づこうというものなら躊躇いなくその武器を突きつけられる。
東は高い壁に覆われていて、その先は切り立った崖に広い海が広がるばかりで逃げ場などない。
そして最後の1つが西の森。しかしこの森はとても深く険しい上に、多くの獣が住みついている。この街から逃げようと森の奥深くに分け入ってしまえば、獣に襲われ命を落とす、もしくは道に迷い凍死または餓死するか…生きて抜け出た者はいないと聞く。
兵士たちもそれをよく知っているため、森へ向かう住人を捕えようとはしない。
まるで自ら死にに行くのをあざ笑うようにして、遠くから眺めるばかりなのである。
リディアはそんな兵士たちを遠目に、桶を抱えた手で草木を分けながら森の中へと進んでいった。
森へ入り泉を目指すリディアは狼について思い返していた。
──狼。
昔、守り神として人々に崇められた存在。
でもそれは人間を食べてしまうという恐ろしい獣にも違いないのだ。けれどおばあさまが言ってた。狼には傷一つ付けてはならない、昔からの決まりだと。
武器を持たない私の身を守るのは唯一つ、おばあさまがくれたこの狼牙の首飾りだけ。
狼に出会わないうちに早く水を汲んで戻ろうと、急いで泉へと向かうのだが…さっきまでわずかな木漏れ日が散っていた森の中は急に薄暗くなっていく。
「どうしよう、雨がくるのかしら」
リディアは空を見上げた。
普段森へ入る前には雲の動きをしっかりと読むよう教えられていたリディアだったが、今日はそれをすっかり忘れてしまっていたのだ。
遠くの空で雷が小さく唸り声を上げているのが聞こえたかと思った時にはもう遅かった。リディアを激しい雨が襲い始めたのだ。
リディアは急いで近くの大きな木の下に逃げ込む。
大丈夫、ここなら雨に濡れなくて済みそうだ。
そう思い、ほっと息をついたのもつかの間、けたたましい音とともに一筋の雷光が空から一直線に目の前に立っていた大木に降りかかった。
突然の事にリディアは驚いてその場に崩れ落ちてしまったのだが、ここでじっとしているわけにもいかなかった。
激しい稲妻に打たれた大木はその太い枝も垂れ下がり、そこから濛々と煙が上がっている。
またすぐに雷が襲ってくるかもしれない。
リディアは逃げ場を探すように辺りを見回した。
「あれは…」
その視線の先には、生い茂る木々に隠れるようにしていた岩山に大きな穴がぽっかりと口を開いていた。
「寒い…」
岩山の穴へと非難したリディアは、その冷たい空気に身を震わせる。声の響きからすると奥深いようだったがその先は真っ暗で見てとることはできない。
リディアはわずかに外からの明かりが届く壁際の場所に身体を小さくするようにして座り込んだ。
外からは相変わらず雨音が続き、時折激しい雷の音がその洞窟の中にまで響きわたっている。
「雨、止まないかな」
濡れた服は、その肌から体温を容赦なく奪っていくようだった。
最初のうちは冷え切った手を擦り合わせ息を吹きかけたりし、なんとか体温を保とうとしていたリディアだったが、次第にその動作もするのにも疲れ、湿った冷たい壁に寄り掛かった。
いったいどのくらいの時間が経ったのだろう。
次第に雨の音も止み、洞窟の中に入る光りがすこしだけ強くなった気がした。
壁に手をつきながら重い体を起こしかけた時、リディアはその背後でかすかな物音がしたのに気づく。
ゆっくりとリディアは振り返った──。
そこには薄茶色の毛並をした犬に似た動物が、ギラギラと目を光らせ警戒した様子でこちらへ向き唸っているではないか。
リディアは、はっと息を飲む。
それは今にも飛びかかってきそうな勢いで、口からは鋭い牙をむき出しにしていた。
「あの牙は・・狼?」
リディアが言葉を発した瞬間、ついにその獣はリディアにその牙を向け駆け出す。
悲鳴を上げることもできなかった。もう駄目だと覚悟した…
その時、奥の岩陰から白い何かがこちらへ向かい、ものすごい勢いで飛び出してくるのがリディアの目に映った。
それは今目の前で自分に襲いかかろうとせん獣よりももっともっと大きなものだったが、同じ犬のような形をしたその身体は真っ白な毛で覆われていた。
そしてリディアの目線より高く身軽に跳んだかと思うと、その太い4本の足を力強く地に着け目の前に立った。
絶対絶命。
しかしリディアはそんな危機にも関わらず、その美しい姿に目を奪われてしまっていた。
さっきまでの雨ぶ濡れたのだろうか…その真っ白な毛は小さな粒状の水がキラキラと光り銀色に輝く。そして、監視するかのようにリディアを見る金色のその瞳は、大きく吊りあがっているものの澄んでいてどこか優しい感じがした。
リディアはその金色の瞳に吸い込まれるかのようにしてその目を見つめ返す。
すると、その美しい姿をした狼は、長く突き出た鼻先で匂いを嗅ぐよう小さく動かしたかと思うと、くるりと向きを変え、彼女を守るようにして立ちふさがると、まるで地響きが鳴るような低い声で小さく唸り声をあげた。
その瞬間、さっきまでリディアに向かい牙を剥いていたもう一匹の狼は、勢いを緩めその場に立ち止まると諦めたかのようにして外へと走り出していったのだ。
その狼の気配が遠くなるのを確認すると、白い狼は足をふらつかせ、倒れるようにしてその場に寝そべった。
その様子を見たリディアは、狼に近づく。
リディアにはもう恐怖心はなかった。目の前のこの真っ白な狼は恐怖さえも忘れるほどに美しく、しかも危機から自分の身を守ってくれたのだから。
そんな時、リディアはふと首飾りの存在を思い出す。
突然の事でお守りのこともすっかりと忘れていた。
でも、今は必要ないと思った。この首飾りを狼は恐れると、老婆が言っていたからだ。
この白い狼を怖がらせたくはないと思ったのだ。
リディアは少しずつ狼にそっと近づくと、右前足に紅く血が滲んでいるのを見つけた。
「怪我をしているの?」
狼は息を荒くし、睨むような鋭い目つきでリディアを見た。
しかしそれは、牙を剥くでもなく、大人しく彼女の出方をうかがっているようだった。
リディアはその足にそっと触れる。
狼は一瞬、唸り声とともにその牙の先を見せたがすぐに顎を地面につけ口を閉じた。
赤く染まった毛の中心部分に、短く折れた枝のようなものが深くまで刺さっているのを見つけた。その傷は古く最近のものではなかった。おそらくもう大分前からそこに刺さったままになっていたのだろう。
「私を助けたせいで傷が開いてしまったのね…」
リディアは狼に少し待つように言って、持ってきた桶を抱え雨が止んだ森へと出た。
狼の元へ戻ったリディアの手には水がいっぱいに入った桶と、痛み止めになるというオーギリ葉が握られていた。
「少し痛いかもしれないけど、どうか許してね」
そう狼に言うと、リディアはその足をしっかりと掴み、刺さった枝をぐぐっと引き抜いた。
狼は痛そうに表情をゆがめて見せたが、暴れ出したりはしなかった。体も動かさず、静かにリディアに身を任せているようでもあった。
リディアは血で汚れていた足と傷口を、桶に汲んできた水で丁寧にに洗い流していく。それからオーギリの葉を自分の手の上で揉んですり潰すと、その傷口へ塗りこんだ。
「…あとは」
そう言ったリディアは自分のスカートの裾を握り、口に咥えた。そしてその犬歯と手を使いビリビリとその生地を裂くと、布切れとなったそれを包帯代わりに巻きつけた。
これで大丈夫と、リディアはしばらくその大きな頭と体を優しく撫でてやった。
それが二人…いや、一人と一匹の初めての出逢いだった。