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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。

たいようの色

作者: まよなか
掲載日:2026/06/23

「ねぇ、ちょっと大丈夫?」

揺られる世界に目が覚めた。

ぐらん、と視界が歪んで、開いた視界の片側が赤く染まっている。

「…え」

「ねえ、血が出てるって」

低く、焦った声が間近に落ちて、両の手首をぐるりと掴む熱。ひとの体温に触れたのはどれくらいぶりだろうかと感動に似た感慨が湧き上がった。

さら、と前髪があげられる感覚。

ぼやけた視界の半分はメガネをしていないからで、赤く滲む視界の理由はずきりと痛む眉の上。

投げつけられた硝子が割れて飛び散った破片に当たったのだろう。そんなことにも気付かずに飛び出して、どこをどう歩いたのか見覚えのない公園のベンチに膝を抱えて座り、見覚えのない湖をぼんやりと眺めていたところで記憶は途切れている。

「ねぇって、聞いてる?大丈夫?」

ゆさゆさと肩を揺らされてぽたりと血液が垂れた。その雫が目に入って顔を顰めた僕を、向き合う彼は慌てた様子で僕の頬を掴み、覗き込む。

「痛い?…よね、ごめんいまハンカチもなにもなくて」

焦った声が震えていて、無性に泣きたくなった。

こんな見ず知らずの人間に、しかも顔の半面を血に濡らしたような不審者にむけられるには、あまりに優しい心配。

「ありがとう、大丈夫です」

頬をつつむ彼の手首をとって、離した。弱い視力ではそこにあるはずの彼の顔はわからない。

穏やかで人の良さそうな声と、視界の端ににじむ金色の髪。風でふわふわと揺れているんだろう、木漏れ日のように翻る。

今そこに、まさしく湖にうつる沈んでいく夕日のように柔らかく、僕の目の前にある光。

「お兄さん」

「うん?」

思わず問いかけて、答えた彼の髪先が揺れた。

金色が綺麗で無意識に指を伸ばしかけて、やめる。

血に濡れた僕が触ったら汚してしまいそうで、あまりにも、尊くて。

たったひとり、朽ち果てたベンチにうずくまる僕に躊躇わず触れて、大丈夫かと声をかけてくれた人。

それだけで、苦しいだけだった心の一部が満たされた気がした。

「ありがとう、僕を見つけてくれて」

片隅に捨てられても仕方ないような僕が、そうっと掬い上げられた心持ちで、ただ、嬉しかった。

もちあわせるものは、感謝の心だけ。

それでも、伝わればいい。

赤く歪んだ視界で、必死に目を凝らして金色をみた。真っ直ぐ、目に焼き付けるように。

ほう、と目の前の彼が息をついた気配がして、ぐ、と肩を掴まれる。そうして、一度、二度、と撫でてくれた。

「薬買ってくるから、ここにいてね」

がたん、と音をたてて立ち上がった彼を見上げる。ぼんやりとした視界でもすごく背が高い。見上げた金色が遠くなって、なぜだか寂しくなった。

「ここにいて、寝ないで、動かないで」

端的に告げる彼に笑った。

「お願いだから、死なないでよ」

悲壮な声だった。

見ず知らずの相手に向けるには、真摯で強い。

答えを返す間もなく彼が立ち去るのが音で分かった。遠ざかって行く姿をぼうと眺める。

揺れる金色。太陽の色。

このまま沈んでいく夕日みたいに、ずっと眺めていたいと思った。




ざあ、と風が舞う音に時刻を知らせるサイレンが混じる。

「帰らないと」

夕闇に落ちていきそうな赤く赤く肥大した太陽。

先程の彼が纏っていた太陽の色とは似つかない、不吉な血の色。

そろそろ夜の仕事に向かう母を起こして、食事を食べさせて、送り出す時間だ。

待っててと言ってくれていた彼。

待てなくてごめんなさい、と心の中で謝った。

もしかしたらここに帰ってこないかもしれないと思った心の奥で、それでもきっとあの人は戻ってきてくれる。何故か、素直にそう信じられた。

だからこそ、もう一度謝る。

僕の人生に通り過ぎるには勿体無いほどの、とても素敵なひと。

もう一度あの光の髪をみたかったなと思って、瞳を閉じた。




僕の母は、可哀想な人だ。

惚れ抜いた父に先立たれ、心を病んでしまった。

忘形見の僕に最愛の人の面影を探しても、不幸なことに自分に生きうつしの息子。

どこを見ても、何を探しても、夫の造作のかけらすら見つけられない息子を愛せなくなっても、きっと仕方がない。

それでも子供を育てるのには金がいる。

母はその美貌を金に変えることにきめて、ひっきりなしに男が家を出入りするようになった。最愛の人をなくした穴を埋めるようなその行為を、息を潜めてみつめる僕と、それを嗤う母。

あの家はいつも、どこか甘ったるく重苦しい湿度に満ちている。


「…朔、その傷どうした」

テーブルに手をついて、さらりとかき上げられた前髪に顔を顰めた。突然の光が目を焼く。

「こけた」

「そんなわけあるか」

呆れ返った声で陽太が告げるけれど、その顔は真顔だ。

「おばさん?」

「…酔ってて、硝子が割れた」

「あの人が酔ってない時なんてあるのか」

「寝てる時くらい?」

笑ってみたけれど、こんなことでは陽太は緩まなかった。更に顔と空気とを凍らせて、向き合う彼がにじり寄る。

「ほんとに、うちにこいって。うちの親もずっとそう言ってるんだし」

「うん。ありがとう」

「ほんとに」

お世辞にも生活環境のよくない僕を心配する友人は、いつもこうやって僕を彼の自宅へと誘ってくれる。彼のご両親も会うたびに何かと良くしてくれた。その誘いを有り難く受けてもいいのかもしれない。

大学だけは出たくて必死に働いて学費を納めている。そこに母の世話と、勉強。確かに日々疲弊しているのは確かだ。家にいると、男が出入りして反吐が出る行為をしているか、酒を飲んで暴れているかのどちらかで、母と顔を合わすことが苦痛ではない時などなかった。


けれど、と思うのだ。

昨日、勉強する僕の背後に忍び寄って、ひそりと抱き寄せた母の細い腕。

「………どうして」

ぼたり、とノートに雫がおちた。母の涙だ。

どうして、ともう一度震える女の声がした。

「どうして死んでしまったの」

母にそっくりな僕は、その体型だけは父に似てしまったらしい。夢現のまま、僕を父と勘違いした母が、女とは思えないほどの力で僕を振り向かせる。

「………どうしてアンタだけ、あの人の血が流れてるのよ」

鬼の形相で僕の顔を鷲掴んで、母は泣いていた。

「私だって、あの人の一部が欲しかった。あの人がいないならあの人になりたかった。どうして、どうして…!」

そのまんま崩れ落ちた母を、言葉なく見つめる。

「ずるい…!」

静かに絶叫する母を、どうしてやればよかった?

項垂れて号泣する母が、手繰り寄せたウィスキーの瓶。そのまま煽って、涙に濡れたまま憎悪の瞳で僕をみた。

ゆら、と幽鬼のように立ち上がった母を椅子に座ったまんま見上げる。

「朔」

「……なに、母さん」

がしゃん、と瓶が割れた。床に叩きつけられて飛び跳ねた硝子片が顔にあたる。皮膚が切れた熱さがあった。けれど、痛みなど感じない。もうずっと、心が麻痺している。

じわり、と視界が赤く滲んでいく世界で、ぽつりと母が呟いた。

「こんな母親でごめんね」

「……大丈夫だよ」

そう言う以外に、なにがあっただろう。

この可哀想な人に。

最愛の人に旅立たれて僕までも離れてしまったら、きっとこの人はもうもたない。

そう思えばこの場所から離れることなんて、出来なかった。



「……昨日、綺麗な人に会った」

唐突に話題をかえた僕に、陽太が眉を顰めた。

「息抜きにベンチで昼寝してたら」

「昼寝」

そんな言い訳、きっと陽太はお見通しで、けれどそこをあえて突かない優しさに甘えた。

「この傷、血が出てたみたいで大丈夫か?!って血相変えて」

「そりゃそうだ」

「…優しいひとだったよ」

「……」

「天使みたいだった」

きっともう会えない。

「あのさ、ずっと渡そう渡そうと思ってたんだけど」

そう告げて、陽太がテーブルに差し出したカラフルなパッケージの、おもちゃ。

「なにこれ?」

「キッズケータイみたいな」

「はあ」

チープなピンク色の丸っこいそのおもちゃは、確かに掌サイズの電話の形をしている。

「何かあった時、すぐ電話しろって言っても朔目が悪いし」

「昨日はたまたまコンタクトもメガネもしてなかっただけ」

「…一瞬一秒を争う時に、僕の番号をアドレスから探してなんて、やってられないだろうから」

深刻な声に黙り込む。

母の腕力なら自分でどうとでも出来る。ただ、母のただれた恋人たちが手を上げることも少なくはない。そんな時に数日大学を休んだ僕を心配した陽太が、あざだらけの身体を見て激昂して警察に駆け込もうとしたことを、いまだに鮮明に覚えている。

「1のボタンに僕の番号が短縮で登録されてる。通話はそんなに出来ないけど、その代わりに位置情報が僕の所に届くから」

「…今時の子供はハイテクなんだねぇ」

「朔が手のかかる子供だって自覚してね」

呆れた声の陽太に視線を向ける。

真正面からじっと見つめる瞳が、お願いだから、と告げていた。

「朔はおばさんの人生の付属品じゃない。頼むから、朔自身の人生を生きろ」

「ありがとう」

これまでにも何度も言葉を変えて告げられた意味を、心の奥に置く。

あまりにも薄っぺらい僕の物語に、意味を持たせろと必死になってくれる友人。

「陽太がいたね、僕の物語の登場人物には」

「主要キャラクターでよろしく」

「そうだねぇ」

ふざけて笑う、こんな時間もある。

悪いだけでは日々は終わらない。

先が見えない暗闇でも、確かに進んでいける。

昨日みつけた太陽の光ほど、眩くはなくても。

あのやさしい残火で、まだ、生きていける気がした。





この世は理不尽だ。

体感するその感情はこの先何があっても覆せないほどに根深い。

この世にもし神様がいるのなら、こんな理不尽を許すのかと笑ってしまう。

でも、それでも生きていけるのは、朝が来て夜が来る。太陽は誰にも平等に時を刻むから。

神様を信じられなくても、陽の光をありがたいと思える。今日もまた、生き延びた、と。


この日は、特に母が不安定だった。

仕事前にも関わらず酒を飲み、涙する。壁にかかったカレンダーをみて、ああと嘆息した。

父が、死んだ日か。

彼女の神様が消えた日。

音もなく、母に近づく。僕の足音に顔を上げた母が、僕の顔をみて美しい瞳を歪めた。

「……朔」

父がつけた、名前を呼んだ。

「名前も、その血も、わたしにはないのに」

「……そうだね」

あなたは、父の血を受け継いだ子供ではないから。そう、言ってしまいたくなるのを堪えた。

「どうして」

泣きながら床を引っ掻く爪の音に、眉を顰める。醜悪な光景を、これまでもこれからも、どれだけ見つめていけばいいんだろう。

「どうして、わたしを連れて行ってくれないの」

夢見るように、憎むように、母は父を求める。

ひとり残された自分を憐れんで。

きっと母は、父が死んだその時あとを追いたかった。この人は躊躇うことなくそう出来る人だ。

けれど、不幸なことに僕がいてしまった。

幼い子供を置いてはいけない理性が働いてしまったことが、彼女にとっては不幸なことでしかないと理解している。

「……母さん、あげようか」

でもそれが、愛に狂ったこの人の、精一杯の母性だと知っているから。

僕は母を見捨てられない。

「僕の血をあげる」

音もなく机から取り出したカッターナイフ。握ったそれで、左腕を刺した。

鋭い痛みが神経を伝って、指先が跳ねる。ざしゅ、と刃を滑らせると真っ赤な血液が一本の線になって盛り上がった。

視界が滲む。痛みではない。苦しみでもない。ただ、やるせなかった。

「僕の身体中の父さんの血、あげるから」

そうすればもう、貴女は自由になれるのかな。

ここまで生かしてしまってごめん、と実の親に思うべきではない感情が浮かんだ。

「…朔」

震える母が呆然と僕を見上げた。

錯乱して濁っていた瞳が、ほんの少し澄んだ。理性の色をしている。

「いや….やめて、いや…」

理性の色が、次第に恐怖にのまれて、白い指先が豊かな黒髪をかき乱した。

いや、と消え入りそうな音で絶叫して、ふつりと意識を飛ばす。そのまま倒れ込んだ母を見送って、深くため息をついた。夢の中が、母の安寧ならそれでいい。ほんの少しでも安らげるなら。

ぼた、ぽた、と腕を伝って血液が床を汚した。

「……血って、跡になるのかな」

しゃがみ込んで、重なって広がる赤い輪を見つめる。

もうひとつ、深い息をついて雑巾を探しに行こうと立ち上がった時、望まない来訪者が現れた。


そこからは、あまり思い出したくはない。

母の恋人のひとりが、なにかわけのわからないことを喚いて、淀んだ視線で僕をみた。

「母親に似て綺麗な顔をしてるよな」

そんなことを、きっと言っていた。

争うまもなく押し倒されて、血を流したままの左手でのしかかる男を引き剥がそうとする。けれど、激痛と恐怖で体が動いてくれない。

生ぬるいものが胸元を這った。男の舌だと思い至った瞬間に吐き気がした。

震える手が、ジーンズの後ろポケットに入ったままの、陽太から渡されたおもちゃの携帯を取ろうとして、止まった。

もし、彼が間に合わなかったら?

慌てて駆けつけてくれた彼が見る光景が、すでに汚されてしまった僕だったら?

きっと陽太は後悔する。自分が間に合わなかったせいだと、ずっと悔やんでしまう。

そんなことは絶対にさせたくなかった。

自分のせいで、誰かが苦しむのはもう懲り懲りだ。

もう、僕が誰かの人生の悲しい出来事になるのは嫌だった。

理不尽だらけの、この世界で、陽太だけは確かに救いだった。優しさだった。希望だった。

ポケットへと向けていた右手が、床を這う。

指先に当たった硬質の物体を握り込んだ。

チキ、と指を滑らせて伸ばした刃に、男は気づかない。

唐突に現れたのは、絶望だった。

もう、いい。

この先の未来に、何が待ってるかなんてもう何も見えない。どくどくと、腕からは血が流れている。命が流れ出ている。ならばもう、一緒じゃないか。

この男に汚される前に、終わろう。

そう思って、そっと首筋にあてて瞳を閉じる。

陽太ごめん。

それだけを口の中で呟いて、最後に眺める世界はどんなもんだろうかと視界を開けた。

外は夕闇。

暗い室内に、カーテンの隙間から夕焼が伸びていた。赤く、オーロラのように天井に映し出されたその色を瞳におさめて、息が止まった。


『死なないでよ』


あの時、あの人が言った言葉が、心に突き刺さる。

ひゅ、と喉がなった。

きっと意味なんてない。その場で吐き出された、たった一つの言葉。

それでも、今この時になって、こんなにも胸をうつ。

あの太陽の色をした、きれいなひと。

もう一度会えるなら会いたいと思っていたひと。


「たいよう」


ぽつり、呟いた。

カッターナイフを握った手が震える。

そのまま、突き刺す対象を迷うように揺れて、下唇を噛み締めた。

胸元で蠢く男の黒い頭。その下にある、ごつい肩。

そこでいい。殺さない。ただ、逃げる隙をつくるだけの痛みがあればいい。

それだけを思って、無我夢中でカッターを振りかぶった。


痛みに絶叫して跳ね起きた男を蹴り上げる。

そのまま、走った。何も持たず、乱れた服をなおすこともできず、ただひたすらに走った。

道路に落ちる赤い陽が、長い影をつくる。

息を止めて、心臓が破裂するほど必死に駆け抜けた先に、あの日の湖があった。

そこでようやく足をとめて、肩で息をする。

あの時のように、大きく膨らんだ夕日がいまにも湖に沈まんと、ゆらりと湖面で揺れていた。

足が震える。

朽ち果てたベンチに腰を下ろして、息をついた。


「……いた!」


跳ね上がった声と共に、足元に黒い影がおちる。

ぼう、と見上げると、夕日に照らされてすこし赤みがかった金色の光。


「ここにいてねって、言ったのに」

そう言って隣に腰掛けたあの日の彼が、がさがさと紙袋を漁る。どこかくたりと薄汚れた袋は新しいものではなくて。

「……なんでいつも、血を流してるのかなぁ」

泣きそうに歪んだ声が、冷たい指先が、僕の肩を包んだ。

「ここにあるから、薬。だからもう、大丈夫だからね」

袋の中から取り出した治療用品を手に、眉を歪めて苦しそうに微笑む、ほんの少し垂れ気味の瞳。

はっきりと目にした端正な顔に息を呑んだ。

そっと、壊れ物に触れるようにあたる彼の熱。

流れる血を拭って、抑えて、薬をあてる。

真摯な、いたわり。

「どうして?」

呆然と問いかけた僕を見ることなく、真剣な眼差しは傷口に注がれている。

「あの日からちょうど一週間。君は火曜日に血を流すの?それとも、毎日?」

「……」

「待っててって言ったのに」

「ごめんなさい…」

「うん」

怒ったような声に、口を閉ざした。

くたびれた紙袋。きっと、あの日買ってくれたもの。僕がここを去った後に戻ってきた彼がみたのは、きっと沈んだ夕日だけだった。

「まってて、くれたの」

「うん」

「今日?」

「……毎日」

顔を上げた彼が、困ったように笑った。

「ちゃんと、手当してるかなって、待ってたよ」

あれから、一週間。

きっと彼は嘘をつかない。

何も知らないくせに、そう素直に思えた。

毎日、紙袋を手にきっとここに来ていた。そのくたびれた袋が何よりの証拠だ。

「……お兄さん」

「うん」

「名前教えて」

「葵」

「天使じゃないんだ」

僕の言葉に目を丸くした後、呆れたように細める。そうすると、ほんの少し幼くみえた。

「あの時、俺のことが天使に見えてたならほんとに危なかったんだよ。生きてて、よかった」

最後は、吐息に混ざるようにして落ちた。

本当に、心からそう思ってくれている温度だった。

「あのとき、死なないでって言ってくれたでしょ」

「うん」

「だから、ぼく、きっといまいきてる」

突き刺した生々しい感触が、今になって手に蘇る。ぼた、と膝に雫がおちた。

ぼた、ぼた、と止まることない涙が視界を閉ざす。何も見えない。ようやくクリアに見えていた彼の綺麗な顔も、あの、光そのものみたいな髪も。

閉ざされた世界のなかで、光を求めるように手を伸ばす。歪んで、何も見えない。けれど、その手を掴む確かな熱。

「……もう、大丈夫だよ」

握られた手が引き寄せられて、ぽすん、と暖かい体温に包まれた。ふわりと爽やかな香りがする。母の甘ったるい香水じゃない、海のような優しい香。

涙がとまらない。何か言いたいのに、嗚咽に変わる。汚しちゃだめだ、と彼の胸から離れようとするのにしっかりと引き寄せられた腕から逃れられない。

せめて、見せてほしい。

もがいて、顔だけを胸元から引き上げる。

ほんの少しだけ楽になった呼吸で、必死に壊れた涙腺を宥めた。

歪んだままで、それでも色だけは認識できるようになった視界で、じっと見つめる。

風に揺れる金色の髪。眉を落として、心配そうに見つめる優しい人。

「……ぼくの、たいよう」

誰にも平等な太陽が、確かにあの時、僕だけに光をくれた。

柔らかく朝靄を押し上げるような朝日、宵闇を引き寄せる穏やかな夕日。

恐怖に震える夜じゃない、安らかな休息を誘ってくれる優しい夜を、導いてくるように。

あの日の貴方だけが、あの日からの僕を救ってくれていた。

言葉にできない想いを、必死に瞳にこめる。震える唇は嗚咽しかこぼさないから。

向き合う彼の瞳の奥が、深く、静かに色を深める。きっと伝わった。そう、どこかで理解して、ふつりと意識が閉じた。

「ずっと探してた。……もう大丈夫だよ」

深い労りの声に、またひとつ、ぽろりと涙が溢れる。もう、大丈夫。そう思って、僕はすべてを手放した。





目を開けたら知らない世界だった。

間新しい白い天井と知らない部屋の匂い。

ぼんやりと瞬きをして、息を吐いた。吸い込んだ酸素が身体の端まで行き渡る。

「おきた?」

暗い部屋に一筋光が差し込んで、黒い影に再び翳る。

深く低い声は、労りしか含まない優しい音。

「……天国?」

「随分庶民的な天国だなあ」

熱はないね、と寝転んだままの僕の額に冷たい手が置かれた。みじろぎするとぎしりと身体が痛む。あの時、争った時に痛めた節々が今になって悲鳴を上げていた。

「腕の切り傷は消毒したけど……どうする?」

「?」

「シャワーあびる?」

「……あびたい」

男に襲われた汚れた身体を思い出して吐き気が込み上げた。そんな事実を知らないはずなのに、向き合うこの人は全てをお見通しみたいにしてこちらを伺う。

「下着は買ってるよ。服は…とりあえず俺のきといて」

「いつのまに」

手渡された真新しい一式にぽかんと見上げる。

「寝てる間にコンビニね。歯ブラシもあるよ」

何故か嬉しそうに手に持ったピンク色の歯ブラシを揺らす。

「なんでピンク?」

「似合いそうだから」

「……好きだけど」

「うん」

そうだと思った、なんて言いたげに瞳が細まる。何も知らないくせに。何も知らないのに。何も知らないまま全部を許されている気がした。そしてそれが、とても心地よかった。


暖かいシャワー。新しい下着。大きなスウェット。

ぶかりとした袖を何度か折り曲げてリビングに戻った僕を、彼は眩しいように見つめた。

「君も背が高いけど、それより…細いね」

「太れないの」

「よしよし。太らせてあげよう」

この座って、とダイニングテーブルの椅子をひく。素直に座った前に、湯気のたった卵粥。

「お腹減ってる?」

「…あんまり」

「じゃあ食べなくていいよ。俺が食べるの付き合って」

向かいに座った彼が丁寧に「いただきます」をして、僕の二倍はある粥に手をつけた。

「おいしい」

うん、と頷いてスプーンを進める彼を見つめて、きゅう、とお腹が鳴った。こんな健全な空腹を感じたのは久しぶりだ。

「…いただきます」

手を合わせた僕に彼は何も言わず、ただ笑みを深める。そうして黙って手を動かすだけの沈黙が続いた。苦しくない、穏やかな静けさ。息を潜めるわけでもない。淀んだ空気を払拭するために言葉を発するわけでもない。ただ、気楽にここにいていい沈黙が、暖かい粥のようにじわりと手足の先から染み渡る。

「美味しいね」

「うん…美味しい」

何も聞かない彼は、ただ向かいに僕がいるのを時折確認するようにこちらをみて、絡んだ視線に微笑む。少しずつスプーンを沈める僕の指から、腕を伝って彼の視線が僕の顔を見つめるのが分かった。それに気づかないふりで、黙々と口に運ぶ。すくって、口に含んで、咀嚼する。当たり前の食事がこんなに緊張することがあっただろうか。

こんなに、食事が豊かなものだと思ったことがあっただろうか。

「ごちそうさまでした」

スプーンを置いて、手を合わせる。

空になった器をみて、彼は嬉しそうに笑った。


「ねよっか」

ソファで膝を抱えぼうっとしていた僕の肩に、後ろからぬくもりが触れた。

いつのまにかシャワーを済ませたらしい彼が、太陽色の髪の毛をタオルでかき混ぜながら背後に立っている。

いこ、と手を引かれて、目覚めた時に天国だと思ったベッドへと連れていかれる。ぽすん、と肩を押されると自然と座り込んで、柔らかいスプリングが揺れた。

「横になって」

「うん」

首元までしっかりブランケットを引き上げられて、僕の枕元に彼が腰掛ける。ぎし、と身体が沈んだ。揺れる視界。暗闇に淡くひかる金色。届かないのが寂しくて、怖くて、無意識に手を伸ばした。伸ばした指を、しっかりと包む大きな掌。

「ここにいるよ」

握った僕の手を、そのまま彼は自身の頬に沿わせた。なめらかな温もりが掌から伝わる。

「……ぼくは、」

「うん」

「人を傷つけた」

「うん」

「血が、でてた」

「きみも、血が出てた。あの日も、今日も」

ぐ、と握る彼の手の力が強くなる。

「きみが、傷ついてた。俺はそれを知ってる。あの日も、今日も」

怒りを隠さない声に、ぐ、と喉が詰まった。苦しい。痛い。つらい。…つらかった。叫びたかった。誰か、助けてと。

ぼろり、ぼろりと涙が流れる。それと同じようにぼろりぼろりと支離滅裂に吐き出した。母のこと、男のこと、今日のこと、自分のこと。

最後には嗚咽しか漏れなくなって、気付いたら彼の首筋に縋り付いていた。ぎゅう、と抱きしめられる背中が痛い。痛くて、嬉しい。

「色々、言いたいことはあるよ。君が気に病むなら警察に行けばいい。着いていくから。普通に正当防衛だから、なんの心配もいらない」

ひく、と喉が震える。何も答えられない。嗚咽が漏れるたびに、背骨が軋む。息が苦しいほどに、抱きしめられる。

「でもそんなことじゃなくて、ほんとに……ほんとに、よく生きててくれた。よく逃げてくれた」

頑張ったね、と耳元で囁かれた声が震えていた気がした。

「どうして、」

どうして僕にこんなに優しくしてくれるの。

聞きたかった言葉は音にならなかったけれど、確かに伝わった。

「あの時、君が言ったよ。見つけてくれてありがとうって。だから、もし君が誰かに見つけて欲しいと思ってるなら、見つけるのは俺なんだって思っただけ」

それで、毎日、一週間、探してくれたの。

そんなの、そんなバカな話あるかって言ってしまいたいのに、出来ない。だってそれが真実だって分かるから。この抱きしめる力強さと体温が信じさせる。信じさせてくれる。

本当は、嘘でもよかった。ぼくが、そう思えたことがきっと奇跡だ。

「君が決めたらいいよ。ここで、俺にぷくぷくに太らされるか、元の場所に戻ってまた毎日俺に薬袋を持たせてうろうろさせるか」

「なにそれ…」

「きみは目を離すといつだって血まみれだから。そんなの普通にやでしょ。普通に嫌だから、俺は毎日薬が手放せない」

抱きしめる手を緩めないままで、彼が僕の肩に顎を置いた。ぐりぐりと痛めつけるように、押し付ける。

「……ここにいていいの」

「いいよ」

「ぼくは、血まみれだよ」

刃を刺した感触、肉に沈んだ感覚が消えない。僕は確かに人を傷つけた。この掌は血に汚れていた。

その言葉に、彼は静かに背中をひと撫でして身体を離す。僕の右手を取って、もう一度頬に当てた。

「みて」

当てた僕の掌を離して、自分の頬を見せる。

「どこが汚れてるの?」

「そういうことじゃ、なくて」

「そういうことだよ」

揺れた僕の言葉を叱るように、強めた彼の声。

「なんにも汚れてない。少なくとも俺には何も見えない。…その、腕の傷の方が痛いよ」

シャワーの後にまた新しく巻かれた真っ白いガーゼ。清潔なその白を、どこか感慨深くみた。これまでの生活にあまりなかったもの。

「額も腕も、きみの身体から血が流れないならそれでいい」

それだけでいい、と重ねた言葉が深く温度をもって部屋に落ちた。

「ね、俺が見つけたんだよ」

「うん」

「だから、俺のところにいなよ」

「……捨て猫みたい」

「そうだね、それくらいがいいならそれでもいいよ」

見つけられたから、ここにいる。

それくらいの簡単な話だよと彼は言う。

誰かの人生の付属品みたいなこれまでの生き方だった。それを、わざわざ探して、見つけて、ここにおいでと自分の物語の登場人物にするみたいに。

たったそれだけのこと、と気軽に笑って動く彼のその全てが僕にとってどれほど大きなことか知らないんだろう。

暖かいシャワーも、新しい下着も、差し出された卵粥も。

言葉にならなくて、その代わりにまた涙が溢れる。恥ずかしくて、彼の肩に額を押し付けた。溢れる涙が彼の服を汚しても、きっと文句ひとつ言わないことを知ってる。この短い時間で思い知らされた。

「…元気になったら何が食べたい?」

「……」

「肉?お寿司?ラーメン?」

「ぜんぶすき」

「いいね。全部いこう」

「でも、」

「うん?」

何?と身体を離そうとする彼の背中を、きゅ、と掴んだ。このまま、体温を添わせたまま。このままがいい。言わなくても、きっと伝わる。

ぽん、ぽん、と僕の背中を宥めるように叩く掌。ほら、伝わった。

「ワガママ言ってもいいなら」

「いいよ」

「また、あの卵粥が食べたい。…ここで」

この場所に、いてもいいなら。

お願い、と祈るように背中に縋り付く手を強めた。

「いつでも、作ってあげる」

離すよ、と小さく呟いた彼に頷いて、しがみついた力を抜く。暗闇の中、目を凝らさないと瞳が見つけられないから。じ、とその瞳を覗き込める距離まで近づいた。

「きみの名前は?」

「朔」

さく、と何度か口の中で呟いて、彼が瞳を緩ませる。細まったその奥に、柔らかい感情が浮かんでいた。

「朔」

「はい」

「朔」

「はい。…葵さん」

僕の名前を呼ぶたびに嬉しそうに微笑む葵さんに、僕も笑う。

見つけてくれてありがとうと言った僕を、たったその一言のために、本当に見つけてくれたひと。

壊れた涙腺がまた視界を歪ませる。

淡いきんいろが歪む。

「朔は泣き虫だね」

「だって、」

「いいよ。いっぱい泣いていっぱい食べていっぱい寝て、いっぱい笑おう」

ここにいるからね、と、また優しいハグを。

広い背中に腕を回して、ひたすらに泣いた。目が溶けるんじゃないかと思うほど、喉が枯れるほど、泣き疲れてそのまま眠ってしまうまで。

眠りにつく前にみたのは、やっぱり柔らかい彼の金色の髪の毛。

あの日みつけた、太陽のいろ。


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