拓海の恋 10
高校一年が始まる前の春休み。祖父母の家から父と住むために引っ越しをした。一緒に住めることになって父はうれしそうだった。母の死後、時々ご飯を一緒に食べたり、週末を一緒に過ごしたりすることはあったものの、3年間一緒に住んでいなかったブランクは大きい。
少しづつ、二人で生活するリズムを見つけていくしかないのだろうと考えていた。初めは二人とも遠慮があって気を使っていたけれど、小さなことでちょっとイラっとしたりすることが度重なり、喧嘩にもなった。3年間一人暮らしをしていたのだから自分の子供とはいえ自分以外の人間が家にいることに戸惑うのも仕方ないかな、と。
お隣に引っ越してきた岡本さんと時々近所のスーパーで顔を合わせることがあり、そこから引きずられるように家に招待されて夕食を食べることになった。遠慮をしても、押し切られる。自分が迷惑をかけているのでなく、岡本さんが僕に迷惑をかけているという雰囲気に持って行かれて、気を遣わず済むようにしてくれた。
最初は岡本さん家族の話を聞くだけだったけれど、少しづつ自分のことも話すようになり、高校のことを話すうちに桐子も僕と同じ高校を受験したいという事を知った。自分が使った参考書や問題集などを渡したしアドバイスもした。
ある日のこと、岡本家で卵焼きににらが入っているものを食べて、母の料理を思い出した。小学生だった僕は少しばかり苦手に感じて”にら”という名前と味を覚えたこと。高校生になった今、食べたらおいしいと感じて、今だったらちゃんと美味しいとほめてあげられたのに、とあまり考えることなく口に出したことがある。突然席を立った桐子ちゃんの気配にふと顔を上げると、向かいに座っていたおじさんが小さな『グェ、グェッ』と喉から漏れてくる音を必死に押し殺すようにしてダラダラと涙を流していた。
戻ってきた桐子ちゃんの手にはタオルが2枚握られていて、それをおじさんにそっと渡していた。その様子を見ていて、最初は少し笑ってしまったけれど、笑いが涙に変わって、僕も泣いた。母が亡くなってからその時初めて人前で泣いたのだと思う。体力を奪われるくらい、泣いた。おじさんが持っていた2枚目のタオルをそっと渡してくれた。おじさんはもちろんのこと、おばさんも桐子ちゃんも泣いた。そして、父も祖父母も僕の前で母の話を避けていたことに気が付いた。
その次の日、祖父母を訪問した。二人が構わないなら、母の子どもの頃の写真を見せて欲しいと頼み、それを期に母の話をたくさん聞いて、僕も祖父母に母との思い出を話すようになった。子どもの頃、高校、社会人になってから。僕が生まれる前の母のことをたくさん聞いた。僕が赤ちゃんの頃の話。僕の知らない母。父とも母の話をするようになり、二人が付き合いだした頃や結婚当初の話などを聞くことが出来た。父も祖父母も皆がどうするのが正解なのかわからず、母の思い出を小さな箱の中に入れて、見えるけれど手の届かない少しだけ高い棚にしまっていたんだと思う。そこにある事が分かっていて誰かが取り出してくれるのを待っていたのかもしれない。
それからどれくらい経ったのかよく覚えていないけれど、岡本家の食事に父と一緒に行ったときに出た唐揚げの匂いがなぜか懐かしかった。父が
「この匂いだよ。同じだ。ありがとう。」
と桐子ちゃんにお礼を言った。桐子ちゃんははにかんだように笑って、
「味も同じだといいんですけど。」
一口食べて、あ、お母さんの味だ、と。びっくりして、父を見たら
「お父さんが好きなエスニック唐揚げ。お前も好きだっただろ。お母さんが試行錯誤して作ってくれたやつなんだ。お母さん、レシピを残すことがほとんどなかったけど、これはお父さんがすごく気に入ったから、同じのが作れるようにってメモに残してくれてたんだ。」
これ、僕も好きで頻繁に作ってもらった覚えがある。
「桐子ちゃんが私も拓海も好きなもので陽子が作ってくれたもののレシピがあれば作ってみたいって言ってくれたから。」
その日はあとのことを覚えていない。父も僕も目じりを少し赤くしながら、遠慮することなく唐揚げを食べつくした。
この日、ぼくは恋に落ちたんだと思う。積み重ね、前触れはあったけれど、自分の中で完全に形を作ったのはこの日だったと断言できる。




