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永遠のローラ 第Ⅲ部 (6)

「兄さんはさ、これはこれ、それはそれっていうふうに、考えを切り換えられないの?」

 ウエストストリートの自宅に帰る途中、車が渋滞にはまりこんでしまった時、ティムは何気なく兄にそう訊いた。

「それは一体どういう意味だい?」

 すぐ隣で野菜を荷台いっぱいに積んだ馬車に乗った男が、混雑に対して悪態をついているのが聞こえる――「畜生!俺はこの食材を三時までにキングクラウンホテルまで届けなきゃならないんだぞ!」

 あたりは似たような罵詈雑言とプップーとかビッビーというクラクションで溢れかえっている。セシルが窓から顔をだすと、藍色の制服を着たパトロールマンが笛を鳴らして右へいけだの左にいけだのと渋滞解消のために忙しく立ち働いているのが見える――観光客にはロカルノン名物のひとつと思われているらしいが、毎日この道を通らざるをえない者にとっては、まったくもって厄介以外の何ものでもない。

 運転手のトマス・マッケンジーは、ライオネル交通のバスと水色のフォード車の間に割りこむと、さらに二輪馬車と黒塗りの箱馬車の間を擦り抜けて――脇道へと入りこんだ。何故車体の長いリムジンにそんな芸当ができるかといえば、理由は簡単である。黒塗りのリムジンといえば、貴族かそれと同じくらいの高い社会的階級を表しているので――この車が通りかかる時には誰もみな、無条件で道を譲るのだ。もしかしたらお忍びでやってきた、女王陛下のお車かもしれないではないか。

「やれやれ凄い渋滞だな。家に帰るまで一体何時間かかることかと思ったけど――トマスの運転の腕前は大したものだね」

 セシルが運転席のほうにそう声をかけると、トマスは帽子をとって、「ありがとうごぜえます、坊っちゃん」と嗄れ声で言った。

「兄さん、誤魔化さないでくれよ」車が下町のほうに差しかかった時、ティムは腕組みをして不機嫌そうに、もう一度セシルを問いつめた。「俺が言ってるのはようするに――嘆願書は嘆願書、週末のパーティはパーティ、そういうふうに気持ちを切り換えられないのかっていうこと。俺はボールドウィン博士の意見に賛成だな。兄さんがいくらそわそわして陸軍省から電話がかかってくるのを待っているにしても――電話ってもんはね、鳴る時には鳴るし、鳴らない時には鳴らないものなんだ。その待ち時間を有効に生かせってこと。俺の言ってることわかる?」

「ああ、まあ大体はな」と、セシルは溜息を着きながらしぶしぶ認めた。「でもおまえは俺と約束したじゃないか。ボールドウィン博士の精神医学研究所へいけば、パーティになど出席しなくてもいいって――あれは嘘だったのか?」

「嘘じゃないよ。そのかわり来週の月曜日にもまた、あそこへいくって約束してくれなきゃ駄目だ。そしたら俺は週末には、ガールフレンドとふたりだけでウッドワード家の双子の誕生パーティへいくさ」

 セシルは暫くの間黙ったままでいたが、マグワイア邸の車寄せにリムジンが停まった時――「ティムの言いたいことはよくわかった。俺も、おまえと約束したことは忠実に守ろう」と弟に返事をした。そしてティムは、兄をうまく操縦しようと思ったら、義務と責任感に訴えるのが一番なのだとこの時感じ、それ以来、セシルのことをどうにか義務と責任感によってパーティへ引っ張りだすいい方法はないものかと頭を悩ませた。


「ほほう。それはまた、随分と御高尚なお考えですな」ボールドウィン博士はセシルが義務と責任感によって淡々と自分の戦争体験や捕虜での生活、また今現在のことを話すのを一通り聞いて――最後にもじゃひげを撫でながら、そう結論づけた。

「婚約中の部下を死なせてしまったから結婚できないとか、今もロンバルディア大陸ではたくさんの兵士が命を張って国境を守っている、だからパーティなんていう軽薄な集まりになど出席する気になれないというわけですな。では一体わたしやあなたの弟のティムさんはどういうことになるんでしょうねえ。申し訳ないが、わたしは反戦論者でして、息子が海軍へ入隊すると言った時には殴りあいの喧嘩をしてやめさせました。確かにシオン人のことは気の毒だとは思いますよ――でもそのために自分の息子をむざむざ危険な目にあわせたくはない。そんな息子も今では大学に進学して、初めてできたガールフレンドと毎週のようにあちこちのパーティへ出席しては青春を謳歌しています。セシルさんの弟のティムさんだって――わたしの息子と似たようなものでしょう。そうしょっちゅう戦争のことばかり考えていたのでは、息が詰まってしまいますよ。セシルさんも週末くらいは息抜きに、パーティじゃなくてもクリケットとかテニスとか、何かスポーツをするくらいのことは、ご自分に許してもいいんじゃありませんか?」

「俺は……べつに、民間人が何をどう考えようと、どんなふうに週末を過ごそうと、そんなことは自由だと思っています。ただ俺は軍人なんです。軍人が戦争のことや、戦地の同胞のことを考えるのは当然のことです」

 ボールドウィン博士はカルテにさらさらと万年筆を走らせ、セシルの言った言葉を書き留めている。そして前のページを何枚かめくってセシルの話したことを確認してから、再び会話を再開した。

「つまり、ようするにセシルさんは……自分ひとりの力でできる限り世界を変える努力をしたい、あるいはそうすべきだというわけですね?全世界の戦争という不幸を背負いこみ、十字架上で死んだイエスのように己を犠牲にすべきだと。しかしどうなんでしょうねえ。イエス=キリストは神の子だったかもしれないが、我々はただの凡人ですよ。そんなふうに考えるのは……少しばかり傲慢なのではありませんか?」

「俺が……傲慢だって?」

 セシルはステッキの銀の鷲のあたりをぎゅっと握りしめた。弟のティムと約束したことだからと思い、黙って聞いていれば……何故こんな不潔な男が精神心理学の第一人者なのかと、セシルは不思議でならなかった。

「俺はべつに、イエス=キリストと自分を同一視するつもりはありませんよ。自分のことを救世主だとも英雄だとも思わない。ただ俺は自分にできるだけのことをしながら山登りをしているだけだ――そしてそれが俺にとっての人生なんだ」

「なるほどね」博士はセシルの言葉をカルテに書き留めながら、溜息を着いた。「そうしてひとつの山を登頂したらまた次の山……というように、死ぬまで続くわけですね。ところでセシルさん、再来週から陸軍省に執務官として着任されるそうですが、おやめになっておいたほうがいいと思います。これはわたしの医者としての忠告であり、また命令です」

「なんだって!?」セシルは我慢しきれなくなって、ステッキを握る手がぶるぶると震えた。「そんなことは絶対にできない――あんたがどう言おうと俺は、陸軍省に勤めてやるからな。そうしなければアシモフは決して救われることはないだろう。その他の収容所施設にいる者も決して釈放されない――俺はあんたの言うことなど絶対に聞かないし、もう二度とここへも来ない。仕事のほうが忙しくなるだろうからな」

「待ってください、セシルさん」と、ソファから立ち上がった彼の背中に、ボールドウィン博士は言葉を投げた。「わたしが言っているのはこういうことです――今のあなたの精神状態では、仕事に支障がでるだろうと言っているのです。むしろ信頼できるお仲間にそのことは一切まかせて、その問題が解決するまでの間、あなたは何もせずに治療に専念することです。今日から薬を処方しますよ――そうすれば、あなたが夜戦争中のことを夢に見ることも、いずれはなくなると思いますからね」

 セシルはよほど、「くそっ!」と悪態をついて、ステッキで物を叩き壊したいような衝動に駆られたが、ぎりぎりのところで堪えた。それでもボールドウィン博士のひげもじゃの黄色い顔を見たなら、自分でもどうなるかわからないと思い、そのまま何も言わずに黙って診療室をでていった。


 結局、セシルはその日を境にボールドウィン博士の精神医学研究所へは通わなくなり――当然薬も飲まなければ、陸軍省に事務官として勤めるのを断念することもなかった。

 だがしかし、ボールドウィン博士が指摘していたとおり、セシルは勤務中に何度か発作を起こして倒れ――医務室に運ばれるのが日常化すると、上官から少しの間休養をとるよう言い渡された。サムルワイス陸軍副司令官は自分の執務室にセシルのことを呼ぶと、諭すような口調で彼にこう言い聞かせたのである。

「マグワイア大佐のいた、ユーディンのアルファシノク捕虜収容所だが、向こうはそんな場所はないと言ってきているのだよ。君にしても、いた場所がデューカイヴスということになっているね。そこで捕虜としてはそう悪くない待遇で働かされていたということになっている……こちらとしてはただ、マグワイア大佐の命が助かればとの思いから、相手方の資料の差異にはいちいち文句をつけていられなかったのでね――君の言っていたシオン人解放軍のアシモフ・モールヴィにしても、死亡したということになっている。軍としてはもうこれ以上どうしようも……」

「いえ、サムルワイス副司令官」と、真っ白な陸軍省の内勤者の軍服を着たセシルは、姿勢正しく自分の上官を見上げて言った。「アシモフが死んだと書かれたミスチル河畔の油田というのは、彼がアルファシノク捕虜収容所に移ってくる前にいた場所なんです。それに死亡年月日にしても、大体彼が施設を移動した頃と一致します。何故なのかはよくわかりませんが、ユーディン軍はあそこに収容所施設があることを隠したいのではないでしょうか。しかし、俺自身が生き証人です。俺が実際にあそこにいたということをユーディン軍が……」

「いや、だからさっきも言ったように」サムルワイス副司令官はセシルの熱弁を遮ると、困り顔になって銀灰色の髭を撫でた。「マグワイア大佐、大佐はアルファシノク捕虜収容所にはいなかったということになっとるのだよ。君はデューカイヴスで略式の軍法会議にかけられ、そのままそこの捕虜収容所で四年ほど過ごし、軽い労働義務を負わされただけということになっている。我々タリス軍としては、その書類にすでに決済の判を捺して向こうに渡してしまったのだ。それを今さら覆すとなると……」

 ああ、またこのパターンだとセシルは思い、もうそれ以上何も言えなくなった。そして軍人として上官の命令に逆らうことのできなかったセシルは、暫くの間休暇をとり、ボールドウィン博士がロンシュタットに持つ保養地で、療養生活を送ることを余儀なくされた。セシルが捕虜の名簿を調べ、ゼノス語で書類を書き、上官の承認の印をもらい、しつこくユーディン軍の陸軍本部に送りつけている間――彼の戦争神経症はますますひどくなり、今では夜だけでなく、昼間でも、突然体が震えだして止まらなくなったり、時には何かの拍子に引きつけさえ起こして倒れることがあったからである。

 ティムは、セシルが金輪際ボールドウィン博士の精神医学施設にはいかないと言いだした時、すぐに博士に電話をかけ、どうしたらよいかと相談していた。すると博士は放っておけばいずれ、嫌でも自分の元に通わざるをえなくなるだろうと何故か楽しげな調子で受話器ごしに語ったのである。もちろんそれはあくまで電話の声音がそうだったというだけのことで、ボールドウィン博士が患者に対して何か優越感のようなものを持っていたとは言い難いが――ティム自身もその時初めて、セシルが博士の精神医学施設から帰ってくると何故あんなにも不機嫌なのかが理解できるような気がした。

 セシルは同僚たちや部下にくれぐれもアシモフのことを頼むと言い置いてから、陸軍省内勤者の白い軍服を脱ぎ、弟のしつこい説得によって嫌々ながらもう一度、ボールドウィン博士の精神医学研究所へ通いはじめた。

 博士はだから言わんこっちゃないというようなことは何ひとつ言いはしなかったが、そのかわりこれからは自分の指示に必ず従ってくださいと、居丈高に命じた。

「まずは必ず薬を飲んでください――俺は自分の精神力と気合いで直してみせる、などと言わずにね。それとロンシュタットの保養地はとてもいいところですよ。わたしはセシルさんが嫌なら、無理にそちらへいけなどと言うつもりはありませんが、もし気が向いたらいつでもそちらを利用してくださって構いませんよ」

 その後、セシルは薬を飲んでボールドウィン博士の精神医学施設に通っているうちに、食事中に突然手が震えることも、引きつけを起こして倒れる回数も目に見えて減っていったことがわかると――博士のことを嫌な奴だと思う気持ちに変わりはなかったが、それでも彼を精神医学の第一人者としてしぶしぶながらも認めざるをえなかった。

 だが自宅で療養を続けて、半年くらいで手の震えや引きつけといった症状がだんだん少なくなっていったのはよかったものの、そうした症状はそのあと、別の形でセシルの心をひどく苦しめるようになった。セシルはマグワイア家の当主として、またロカルノンホテルのオーナーとして、事業絡みで様々な方面の人間とのつきあいを大切にしなければならなかったし、オーギュストの仕事も引き継がねばならなかった。いくらそれがティムが大学を卒業するまでの間とはいえ――彼の両肩にはたくさんの従業員や使用人たちの生活がかかっていたし、実際セシルはお飾りの社長ではなく、自分がしなければならないと感じることはなんでも、積極的にやっていたのである。

 ホテルの四季を通しての利用状況を調べたり、不意打ちでレストランで食事をしては、味やサーヴィスはどうかといったことを自分の目と舌で確かめたり、一度などはセシル自らメイドたちに混じって部屋の掃除やベッドカバーの交換などを行なったことさえある。

 しかし、ロカルノンホテルのほうは信頼できるベテランの支配人に任せておくとしても、政財界の著名人と懇意にしておかなければならないという義務は、セシルにとってなかなかにつらいものであった。弟のティムは兄の義務と責任感に訴えかけて、とうとうセシルをパーティへ引っ張りだすことに成功していたが――そのために彼がどんなに苦しい思いをしているかを、まったく見抜くことができなかった。やろうと思えば兄さんも、なかなかできるんじゃないかとしか彼は思わなかったのである。

 まず、セシル自身が新しいマグワイア家の当主として、またロカルノンホテルのオーナーとして、お披露目の意味も兼ねて、パーティをホテルの大広間で開催せねばならなかったわけだが――セシルはもしかしたらスピーチの途中で緊張のあまり引きつけを起こして倒れるかもしれないと、不安でたまらなかった。それに食事の途中で滑稽なくらい手足に震えがくるかもしれないし――もしそんなことにでもなったら、招待された客はみんな、このパーティのことを一生忘れることなく、あらゆる場面で引きあいにだしては自分のことをせせら笑うだろう……そう想像しただけでもセシルはたまらなかった。

 だがパーティにはロカルノンの名士や貴族の子息や令嬢など、三百名以上が集まり――セシルはスピーチでとちることもなければ、乾杯の音頭をとっている時に体が震えだすこともなく、ダンスの途中で緊張のあまり引きつけを起こして倒れるということもなかったし、翌日のロカルノン・ジャーナルには、新しいマグワイア家の当主としてのセシルの姿が、その華々しい経歴とともに大きな写真付きで第一面に記事として掲載されていた。

 その新聞を見ながらもっとも得意そうにしたのは女中頭のサラで、サラは新聞を切り抜きながら、

「お坊っちゃま、この度のパーティではさぞかしおもてになったことでございましょうね。どなたか、お目にかなった女性はいらっしゃいましたか?」

 と、タイターニア・クロニクル紙を読んでいるセシルに問いかけた。

「いや、べつに」とセシルは素っ気なく答え、ロンバルディーの不安定な政局を報じている記事を熱心に読んでいた。

「何を言ってるんだい、兄さん。社交界の花形のキャロライン・フォードと、ずっと踊ってばかりいたくせに」

 セシルの隣のソファで経済学の本を読んでいたティムは、自分の兄は頭がおかしいのではないかというような口調で、呆れたように言った。

「サラ、兄さんはきのう、マグワイア家の主人として、実に立派だったよ。スピーチの途中で、兄さんが戦災孤児のための募金に協力してくださるよう呼びかけると、多くの婦人が涙を流してね――思った以上に多額な寄付が集まったし、大体の人は兄さんに好感を持ったみたいだ。そして何より愉快だったのが、兄さんがダンスの相手としてキャロラインをひとり占めにしていたということさ。彼女の崇拝者たちはみな、木偶の坊のように突っ立っているばかりだったよ――どのパーティでも、今まで彼女は一度だって今回のようなことはしたことがないんだぜ」

「だってそれは彼女が……」と言いかけて、セシルは口を噤んだ。どのような場合にも婦人に恥をかかせてはいけないとの配慮ゆえだった。

「わかってるよ。あんなふうにじっと見つめられたら、誰だってダンスの申しこみをしないわけにはいかないものな。キャロラインは今、ロカルノン大学の法学部にいるんだけど、卒業するまでは誰とも結婚する気がないらしいよ。でも兄さんとはどうかな。今年婚約して、三年後に彼女が大学を卒業するまで待つとか……」

「おい、よしてくれよ」と、セシルは新聞から顔を上げると、まごついたように言った。「彼女とはべつに何も――特にこれといったようなことは話してないよ。ただ戦争のことと、彼女の大学生活のことなんかを、社交辞令的にしゃべっただけだ。崇拝者の顔ぶれがいつも同じなので――たまには別の相手と踊ってみたかったんだろ、たぶん」

 キャロラインは常に、自分の崇拝者たちのほうへ目を配るのを忘れなかった。彼女はブロンドに青い瞳をした背の高い美女で、近ごろ流行の胸ぐりの大きく開いた薄いピンクのドレスを着ていて――セシルは彼女の胸の谷間に心臓の鼓動が早くなるようなこともなく、とにかくダンスの一曲一曲が試練であった。引きつけを起こして倒れるような無様な真似だけはどうしても避けたかったので、セシルはなんでもないような涼しい顔をしながらも、曲がひとつ終わるたびごとに脇の下がぐっしょりと濡れるのを感じていた。

 それにキャロラインは確かに美しかったけれども、セシルの好みのタイプではまったくなかったし、彼女がいつも別の崇拝者のほうに視線を送っているため、単に本命の誰かを焼かせたいのだろうとしかセシルは考えなかった。しかし、鈍いセシルは気づかなかったかもしれないが、キャロラインが視線を送っていたのは何も男たちばかりにではない。彼女はきのうのパーティでマグワイア家の当主をひとり占めにし――随分多くの若い女性の心をもやきもきさせたのであった。

 セシルにしてみれば、これで当分パーティになど出席しなくてもいいだろうとほっと胸を撫でおろしたのであるが、だが社交界のほうでは彼のことを放っておいてはくれなかった。

 この新しいマグワイア家の当主に、是非とも自分の主催するパーティにきてほしいと、引きもきらずほとんど毎日のように招待状が届いたのだ。ティムはその数を見て口笛を鳴らし、サラは郵便物をセシルの書斎まで届けるたびに、「また招待状が届いてますよ、お坊っちゃま」と、セシルの気が重くなることを嬉しげに告げた。

 セシルもまた、最初のうちは義理堅い気持ちからそれらの招待を受けていたのであるが――次第に疲労ばかりが募り、毎週週末がやってくるのが空恐ろしいくらいであった。今回は無事なんとか恥も見ることなくやり遂げることができたものの、次のワイス家のパーティではどうであろうか?翌々週のマクニール家のパーティでは……セシルは三か月ほどもそのような日々が続いたある日、ほとんどパーティ恐怖症のようなものにかかり、ボールドウィン博士に助けを求めた。

「じゃあセシルさんは、パーティに出席してもちっとも楽しくないっていうことですか?」

 何度もしつこいくらいそう言っているのに、とセシルは恨みがましい気持ちで博士のことを睨むように見た。

「ですがねえ、セシルさん」と、ボールドウィン博士は笑いたいのを噛み殺しながら助言した。「パーティには楽しい部分と面倒で退屈な部分とが基本的に共存してるものなんじゃありませんか?身だしなみをきちんと整えたり、食事のマナーを守ったり、そういうのが苦痛だというのは患者さんの中でセシルさん以外にも結構たくさんいらっしゃいますよ。でも女性とダンスをするのが楽しいから、それ以外のことには目を瞑るとか、誰でもそんなものなんじゃありませんか?実際楽しそうに見えて、セシルさんのように楽しいように見せかけているだけという人も意外に多くいると思いますよ。それにセシルさんの場合、これまでパーティで何か失態をやらかしたというわけでもなく……」

「だから余計、恐いんじゃないですか」と、セシルはむっつりとした顔のまま、博士に本心を打ちあけた。「次のパーティはどうだろう、そのまた次のパーティでは今度こそ何かみっともない醜態を晒すかもしれない……博士、今俺には博士が以前言われていたことがよくわかる気がします。ひとつの山を登頂したらまた次の山……死ぬまでそれが続くんです。俺はもうこんなのには耐えられません」

 忍耐強いはずの大佐の灰色の瞳に、うっすらと涙が滲んでいるのを見てとると、ボールドウィン博士は「今回成功したなら、次もまた成功するだろうと、それを自信に変えてはいかがですか?」と、定石のようなことを言う気になれなくなった。それで、

「じゃあ、ロンシュタットの保養地に暫く入られてはいかがですか?」

 セシルにそう、逃げ道を示した。一旦退却して力を蓄え、そして再び進撃すればいいと、ボールドウィン博士はそんなふうに考えていたのである。

「あそこなら、誰もあなたにパーティへ出席するよう迫ってはきませんよ。理由は……そうですねえ。戦争体験がぶり返してきて、暫くの間療養生活を送ることになったとでもおっしゃれば、大抵の人は納得すると思いますよ。事実その通りでもあるわけですし……まあ逆に婦人たちは「なんてお可哀想なんでしょう!」と、セシルさんに対して余計な同情をするかもしれませんがね。それでよければいかがです?」

「……はい。そうしようと思います」

 セシルは自分でも驚くくらい、博士に対してそう素直に頷いていた。何より、これでほとんど毎週末にあるパーティの恐怖から解放されるのだ。そのことが嬉しくて仕方なかった。

 こうしてセシルはロカルノンの郊外にある、ロンシュタットの保養地で過ごすことになり、それ以来、見舞いの手紙や恋文が自宅のほうに殺到した。ティムはそうした手紙をよく検分し、没落貴族のアイゼルワルド家や近ごろ株の投資で失敗したというポー財閥からの見舞いの手紙など、あるいはいかにも金目当てといった令嬢の恋文などは除外して、セシルがつきあうにいいと思われるロカルノンの貴族や名士、新興成金などの社交辞令的な手紙をロンシュタットの保養所にいるセシルの元まで届けにいった。

 その中にはキャロライン・フォードからの手紙もあり、ティムは内心これで内気な兄貴がキャロラインと文通でもして、恋仲になってくれればいいが……と期待した。

 しかし、セシルは義理堅くそれらの手紙の一通一通に丁寧な返書をしたためたものの、そのうちのどれもがいかにも社交辞令的な文面で、セシルは貴族の令嬢が恋心を仄めかすような手紙を送ってきていても、大体どれも似たような文章を綴ってすませていた――キャロライン・フォードに対してさえそうであった。

 ボールドウィン博士からパーティ恐怖症と聞かされた時、思わずティムは吹きだしてしまったのだが、セシルの病気は彼らが思っているよりも遥かに重症であった。セシルは彼がダンスを踊ったどの女性に交際を申しこむにせよ、彼女たちのうちの誰かと結婚でもしようものなら、このパーティ地獄が一生続くのだと思い、それくらいならいっそのこと、一生独身でいたほうがいいとさえ思いつめていたのであった。

「まあ、少しロンシュタットに避難していれば、そのうち自然によくなると思いますよ」

 ボールドウィン博士はティムに電話でそう語ったが、結局のところパーティ恐怖症に関しては、その後セシルはほとんどよくならなかったといってよい。ただ戦争神経症に関していえば、保養地で一年ほど過ごすうちに――彼は大分よくなった。

 今でも時々、セシルは戦争の夢にうなされては、夜中にベッドから転げ落ちたし、銃撃の音やときの声などによって隣室の患者を驚かせたりはしたが、それでも食事中に手足が突然震えだしたり、また引きつけを起こして倒れるというようなことはその頃にはほとんどなくなっていた。

 セシルが何よりもっともよくなったのは、ボールドウィン博士に自分の戦地での恐怖体験を語ったからではなく――実際、彼はアルファシノク捕虜収容所の拷問部屋であったことや、アイヒマンから受けた屈辱的な性行為などについては最後まで何も語らなかった――また薬のお陰でもなく――確かに薬は体の震えなどを抑えるのに効果があったようだとは、セシル自身認めるものの――ロンシュタットの保養地にいた、自分と同じように何がしかの精神的疾患を持つ患者たちの存在が、何よりセシルの心を救ったのだった。

 毎日命懸けでカンバスに向かい、魂をぶつけるように鬼気迫る様子で絵を描いているフィリップ・ガイヤールや、その他幻聴や幻覚、妄想に脅かされている患者、夢遊病者、徘徊老人、鬱病患者、アルコール中毒の者などなど……セシルは彼らと一部分生活をともにしていて、この残酷な世界でつらいのは何も自分だけではないのだと痛感したのである。中でもとりわけセシルが施設内で仲良くなったのは、彼と同じ戦争神経症を患う絵描きのフィリップ・ガイヤールで、一度などは施設の規則を破って町の居酒屋まで飲みにいき、夜遅くまで互いの戦争での体験を語りあったものである。

 フィリップはやがてロカルノンでもっとも権威のある美術展で一席をとり、その頃には一度は婚約を破棄したメイベル・ワズワースとも再び婚約し直し、彼女と新しい人生、新しい生活を送るために、保養所からでていくことになった。そして彼のいなくなったあと、心の中にぽっかりと空虚な穴の開いたセシルもまた――ロンシュタットをあとにし、ロカルノンのウエストストリートにあるマグワイア邸へと戻ることにしたのであった。

 それはセシルがアルファシノク捕虜収容所から生還を果たした、三年後の冬のことだった。






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