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永遠のローラ 第Ⅲ部 (5)

 その夜、ティムは何度も寝返りを打ちながら、マグワイア家の財産をすべて我がものとするいい策略はないものかと、暗闇の中でしきりに狡賢い頭を働かせた。

(兄さんは女に弱いからな――それに、あいつが強つくばりの欲張り女に何かの間違いで引っ掛かってしまった場合、財産のおこぼれがまったく回ってこないという可能性だってある。そうだ。考えてみればまったくそのとおりだ。嫁次第によって、兄の財産に対する意識はいくらでも変わってしまうだろう。たとえ今もし、ロカルノン・ホテルの経営権は俺に譲るつもりだと約束したとしても……そうだ。兄さんは女に弱い。だから俺の息のかかった女にあいつを誘惑させ、裏で操ってもらうというのはどうだろう?相手は手練手管で兄さんのことを言いなりにできる女がいい――となると、カレンかブリジットあたりがいいかもしれない。なに、兄さんはあのとおり純朴な人だから、新婚初夜にベッドのシーツが血で染まらなくても、花嫁の純潔を疑ったりはしないだろう。次の朝に女のほうでさめざめと泣けば、それ以上何も追求するような男じゃないさ)

 カレン・アンダーソンとブリジット・コールマンはともに良家の子女であり、マグワイア家とも釣りあいのとれた家柄である上、ふたりともティムの親しいガールフレンドであった。カレンは素晴らしい美貌の持ち主で、男のことを顔や性格によってではなく、何より財産と地位によって選ぶタイプの女であった。ようするに計算高い女狐――ティムは心の中で愛情をこめて彼女の本性をそう見抜いていた。ブリジットのほうはカレンよりも四つ年上の二十八歳で、未婚女性としてはややとうが立っているが、気立ての優しい、なかなか悪くない女だ……そうだ、ブリジットがいいかもしれない、とティムは考えた。カレンは少し強つくで欲の深いところがあるから、結婚後に気が変わって俺に財産などびた一文寄こさない可能性があるが、頭のいいブリジットになら……ロカルノン・ホテルの経営権は弟の俺に渡ってこそ、さらに利益を拡大できると、冷静な判断を下すことができるだろう。そうだ。ブリジットがいい……

 ティムがそこまで考えた時、突然隣の兄の部屋から、ドタンバタンと何者かが暴れる音が響いて来、続いて、大砲の音が轟いてきた。

「ドカン!ドカン!ズドドドド……」

 ティムはベッドの上に跳ね起き、兄の部屋のある壁のほうへ、耳をぴたりとくっつけると、様子を窺った。しーんとしている。だがやはり何かがおかしいと感じたティムは、パジャマの上にガウンを羽織ると、隣の兄の部屋のドアをノックした。

「兄さん、どうかした?」

 室内からは何か呻くような声が洩れ聞こえ、ティムはためらうことなくすぐにドアを開け、部屋の中へ足を踏み入れた。

「兄さん!」

 セシルはベッドの下の床に倒れており、何かぐったりとしたような様子であった。ティムがすぐにナイトテーブルの上にあったランプにマッチで火を点すと――電気が通っているのはまだ、ロカルノンの中心地と、一部の一般住宅のみであったので――額に脂汗をびっしょりと浮かべた、兄の立派な体躯を抱きよせた。

「……なんでもない。本当になんでもないんだ」

 セシルはすぐに自分の力で起き上がると、弟に少し寝呆けただけだと弁解した。しかしいかに利己心の強いティムといえども、流石にこの時ばかりは半分血の繋がった兄のことが心配になった。それで、すぐに細かい彫刻の施されたクルミ材の箪笥やチェストなどを引っかきまわして服の匂いをかぎ、それほど古い衣類特有の匂いがしないのを確かめると、その下着やパジャマなどに着替えるよう兄に言い渡した。

 セシルは全身汗びっしょりで、ティムはすぐ隣で濃紺のフランネルのパジャマを脱ぎ、また下着をとり替えようとしている兄の裸を見て――その引き締まった肉体に、銃創のあとや、鞭で打たれたような痕が縦横に走っているのを見て、自分でも顔が青くなるのを感じた。

「ああ、これか」と、セシルはなんでもないことのように、弟の視線に気づいて笑った。「べつに、大したことはない。収容所をでる時に、サドの施設長にちょっとばかりいじめられたのさ」

 ティムには、兄が何故そんなにも冷静に笑っていることができるのか、理解できなかった。自分がもし同じ傷を受けたとしたら――おそらく女のように泣きわめいていたことだろう。

「……兄さん。明日病院へいってきたほうがいいよ。今、下にいってサラのことを呼んでくる。背中の傷に、自分で軟膏を塗るなんて芸当、いくら兄さんでもできないだろ」

「そりゃまあ、そうだな」と、セシルはなおも愉快そうに笑っていたが、ティムのほうは事態をもっと深刻に受けとめていた。おそらく兄はひどい戦争体験、捕虜収容所での過酷な生活のせいで、精神のほうが少し病んでいるのではないかと、勘の鋭いティムは直感していた。そうだ。ロカルノン・ジャーナルに有名な精神科医の論文の一部が載っているのを読んだことがある。戦争神経症といって、従軍経験のある者がそのあとつらい戦争体験のことを思いだし、精神的な疾患の諸症状に悩まされるという……。

 サラは白髪頭の小柄なメイドで、セシルのことを生まれた時からとても可愛がっていた。だから就寝中のところをティムに叩き起こされても少しも不機嫌になることなく、すぐにセシルお坊っちゃまの二階の寝室へと救急箱を手にして馳せ参じたわけである。

 最初サラはセシルの背中の傷を見て痛々しいと感じ、また涙さえこぼしたのであったが、薬を塗っている途中で「くすぐったいな」などと言ってセシルが笑いだしたので――そのあとはこの老婆自身、いつもの明るい性格になって、セシルの筋骨逞しい背中をほれぼれと眺めやりながら、マグワイア家の主人のことをちょっとばかりからかってやることにした。

「それにしてもお坊っちゃま、勿体ないことですな。この立派な体格を見て失神する娘がいないというのは――自分でもそうお思いになりませんかね?」

「ええ?何を言ってるんだい、サラ」

 セシルは赤くなると、もういいよと言って立ち上がり、ガーゼの張りついた背中の上から、シャツを着ることにした。サラとティムは顔を見合わせると、くすくすと忍び笑いを洩らしている。

「そうだよ、兄さん。サラの言うとおりだ。兄さんはどう思っているか知らないけど、兄さんさえその気になったら――ロカルノンにはマグワイア家の当主の結婚申しこみを断る女なんか、ひとりもいやしないさ」

「そうですよ、お坊っちゃま。もっと自分に自信ってものをお持ちになってくださいまし。そろそろ次の跡とりのことなんかも真剣に考えなければいけないお年ですよ、セシルさまは」

「な、何を言って……」と、セシルは照れたようにどもっていたが、この時だけは不思議と、ティムはイライラしたりムカムカしたりすることはなかった。むしろ生まれて初めて半分血の繋がった兄に対して敬愛の情のようなものが生まれていたといってもいい。

「俺は、結婚には不向きな人間なんだ。跡とりなら、ティムが結婚して作ればいいんだし……ロカルノンホテルも、ティムが大学を卒業したら、正式に継げばいいんだよ。俺は――陸軍省に執務官の空きがあるというので、多分そちらのほうへいくことになると思うんだ。マグワイア家の財産はティムに譲ることにしようと思っているからね」

「まあ、一体なんてことを言いだすんですか、セシルお坊ちゃま!」

 サラは、マクレガー弁護士が昼間、ティムに優しい気持ちから軽々しく財産について口約束しないようセシルに注意しているのを聞いていた――そしてセシルももちろんそのことを覚えてはいたのだが、鞭打たれた背中の傷痕を見たくらいで弟が蒼白な顔をしているのを見ると――彼にしてみればマグワイア家の財産などとるに足りないことであった。

 それよりもむしろ、セシルが欲しいのは目に見える金などではなく、目に見えない、今メイド頭のサラが自分に示してくれたような、暖かい真からの愛情であった。背中の痛みなどセシルにとってはどうでもよかったが、それでも今こうして薬を塗られてみると――そこに母の愛にも似た優しさを感じて、心に空いた空虚な暗い穴が、少しばかり癒されていくような気がした。

「誰がなんと言っても、マグワイア家の当主は、長男のセシル坊ちゃんでございますよ――ねえそうでございましょう、ティム坊っちゃま?」

 ちらと小狡そうにサラが隣のティムのことを鋭い眼差しで見やったので、

「あ、ああ」と、ティムも頷かざるをえなかった。「そうだよ、兄さん。それに、兄さんがマグワイア家を継ぐからには――まずはサラの言うとおり、いいお嫁さんを探さなくちゃ。男はなんといっても女次第だと言うからね――さっきも言ったけど、兄さんが相手なら、結婚したいという女がロカルノンにはそれこそ星の数ほどいるよ」

 セシルは弟におだてられても、ただどこか皮肉な笑みを頬に張りつかせるのみだった。変なところで卑屈になる傾向のあるセシルは、弟の言葉に素直に頷くことも、謙遜することもできかった。結婚はしたいができない――その彼の心のジレンマを、口下手なセシルはうまく言葉で言い表わすことができなかったのである。

「まあ、なんにしても」と、サラがセシルの内気な優しさに溜息を洩らしつつ、救急箱に軟膏やガーゼなどをしまいながら言った。「今日はもう遅いですよ。とにかく眠ることにしましょう。それではわたしはこれで、一旦下がらせていただきますよ」

 三人はめいめい「おやすみ」とか「おやすみなさいまし」と言いながらそれぞれの寝室へと別れ、おのおのの思いを胸にベッドに横たわった。サラは心の中でミレイユに「セシル坊っちゃまは本当に立派に御成長なさいました。捕虜収容所からこうして無事帰ってこれたのも、ミレイユさまが天から見守ってくだすったそのお陰でしょう」というようなことを祈り、ティムは自分の思っていたとおりの言葉をセシルから引きだすことに成功していたにも関わらず――何か心がすっきりとせず、面白くなかった。

(兄さんはロカルノンホテルの経営権を俺にくれると言った――軍人である兄が、一度言った言葉を撤回するとは考えにくいし、おそらく最初からそういうつもりだったのだろう。それなのに俺は、女の手練手管で兄を都合よく操ろうなどと……いいや、カレンやブリジットになど、兄のことを渡してたまるものか。そうだ、兄には社交界の花形、キャロライン・フォードくらいの娘が相手でなければ――だが果たして兄さんに、並みいる崇拝者を押しのけて、彼女のことを奪う勇気があるだろうか?うーん、どうにも考えにくいな。他に適当な娘はといえば……)

 そうしてティムは、ワイス家の三人姉妹のことや、マクニール家のひとり娘、スーザン・マクニール、双子のウッドワード家の娘たちのことなどを思い浮かべつつ、そのまま眠りの底へと落ちていった。

 一方セシルは、スレインレインの激戦の時のことを夢に見、再びうなされていた。砲弾が雨あられと降り注いだあと――そこには片腕や両足を失って呻く、彼の部下たちの姿があった。すぐに衛生兵と軍医が駆けつけ、手当てに当たったが、セシルはすぐにも他の無事だった兵士たちをかき集め、点呼をとり、さらに進軍を続けなくてはならなかった。黙っていてはただいたずらに、相手の標的になるばかりである。

「スウェード軍曹、いるかーっ!?」

 もうもうたる粉塵と砂埃の中で、セシルは叫んだ。彼は塹壕の中で、自分に続いて走ってきた兵士の顔ぶれを見、先ほどまでいたはずの、スウェード軍曹の名前を呼んだ。

「マグワイア大佐、スウェード軍曹いませんっ!」降り注ぐ砲弾の音に負けじと叫ぶ一兵卒の声が聞こえる。彼はすぐに引き返すと、部下の無事を確かめに、再びアルノン川の川岸へ引き返した。

 そしてそれから……。

(やめろ。いっては駄目だ。もうスウェード軍曹は死んでいるんだ。行ったところで何になる。俺はそこで――そうだ川を渡って責めこんできたユーディン軍の兵士に捕まったんだ)

 セシルはそこで目が覚めると、自分が汗びっしょりでベッドから床に転げ落ちていることに気づいた。実はティムが聞いた砲撃の音というのは、セシル自身の口から発されたもので、彼は砲弾を避けるために夢の中で体を反転させていたのであった。そして現実の彼の肉体もまた――ベッドから転がり落ちたというわけなのである。

 セシルは捕虜収容所から祖国へと帰還して以来、毎夜のように戦争の夢を見、そしてうなされた。一度などはロンバルディーの首都、ロルフシリクにほど近い渓谷で、ユーディン軍の奇襲攻撃を受け――親友の少佐を失ったことまでが生々しく、ついきのうのことのように甦ってきた。

 その時セシルとフリード少佐は肩を並べて歩き、斥候が戻ってくるのを待っていたのだ。そこはユーディン軍の要塞からも遠く、幕舎を設営し終えると、兵士はみな気が弛んだようになっていたのは事実であった。セシルもまた、アレン・フリード少佐と彼の婚約者のことなどを話していたのだ。今回の任務を終え、本国へ帰り次第結婚式を挙げるので、是非きてくれと……。

 だがセシルが婚約者のことでアレンのことを軽くからかっていると――一発の銃声が聞こえ、その銃弾は彼のすぐ隣にいたフリード少佐の胸を貫通していた。セシルは反射的に茂みの中へ隠れ伏すと、ユーディン軍の斥候ふたりを相手に、即座に銃を抜いて戦った。フリード少佐を殺した斥候のひとりは倒したものの、もうひとりの兵は打ち損じてしまったため、すぐにも幕舎へ引き返し、場所を移動しなくてはならなかった。いかに親友といえども、少佐の遺体をその時運ぶわけにはいかなかったので――セシルはその後、彼の家族や婚約者に会った時、申し訳なさのあまり、目を合わすことさえつらかったものである。

(そうだ。何故俺はあの時死ななかったのだ。ユーディン軍の斥候も、随分罪なことをする……婚約者のいるアレンではなく、結婚する予定も何もない俺の心臓を打てばよかったものを!)

 毎夜見る夢があまりにリアルで生々しいので、セシルは日を追うごとにやつれ、引き締まった肉体がますます引き締まるような形で痩せ細っていった。マグワイア家の料理長がいくら腕を振るってくれても食欲がなく、その上夜になると――セシルの口からは砲撃の音が飛びだし、その体は砲弾から逃れようとしてベッドから転がり落ちた。

 隣の部屋のティムは、兄がベッドからどさりと音を立てて落ちるたびに目を覚ましたし、兄の口からでる本物の砲撃そっくりの声や、部下に進撃を命じる声によっても叩き起こされた。そのような日々が一週間も続くと――流石にティムも心配になってきて、ドクターストリートの精神科の医師に診てもらってはどうかとセシルに勧めた。だがセシルは自分はまともだと言い張って弟の勧めを頑として退けたので――ティムは今度は、兄の気晴らしにでもなればと思い、社交界のパーティへ出席するよう、兄のことをしきりに誘ったのだったが、この下心のまったくない真心からの誘いにも、セシルは一向に応じる様子がなかった。

 そこでティムはある時とうとう癇癪を起こし、人がこんなに心配してやっているのにと兄のことを詰った。するとセシルは、申し訳ないと素直にあやまり、弟に何故パーティへ出席したくないのか、その理由を打ち明けたのであった。

「うまく説明できるかどうかわからないけど――ティム、俺には結婚するような資格はないんだ。なに、マグワイア家のことなら心配いらないさ。うちにはおまえという立派な跡継ぎがいるからね――その点については俺は何も心配していないよ」

 日がな一日、庭でぼんやり日向ぼっこをしていたり、図書室で難しい哲学の本を読み耽ったりしているセシルのことが、ティムは今では本当に心から心配だった。

「兄さん、兄さんはどう思っているか知らないけど、今の兄さんは少しおかしいよ。べつにまともじゃないとか言っているわけじゃなくね――戦争の追体験をしては自虐的に自分をいじめているように見えるんだ。あの時ああすればよかったとか、こうすればよかったとか、そんなふうに考えてるんじゃないのかい?この間、ロジャー・ボールドウィン博士の書いた論文を渡したけど、読んだ?戦争神経症といって……」

「だったらどうだというんだい、ティム?」と、セシルは突然大佐の顔になると、滅多に見せない厳しい目つきで、弟のことを射抜くように見た。「俺が仮にその戦争神経症であるとして――病院へ通ったからといって、何がどうなるというんだ?何も変わりはしないよ――過去を作り変えることなどどんなに天才的な医者にだって無理だし、俺はこの十字架を背負って一生苦しむんだ。でもそれでいいんだよ。今もユーディンの捕虜収容所には人間扱いされないようなひどい目にあっている人たちがたくさんいるんだ。それに比べたら俺の苦しみなど、ほんのちっぽけなものだ」

 こういう時、ティムは兄のことを父のオーギュストとまったくそっくりだと感じた。あの父にもダイヤモンドの刃にさえ射抜けない岩盤のような頑固さがあり、母のミランダも息子のティムも、使用人の誰もが――一度その岩盤にぶち当たると、すべてを諦めてオーギュストの意見を通すしかなかったものである。

(だがセシルは俺の父ではなく兄だ)とティムは考えた。(それに父よりは遥かに融通がきく――よし、今日はガールフレンドとデートの約束もないし、徹底的に問い詰めて、何故結婚する気がないのか吐かせてやる。もしそれが女性を目の前にすると気後れがしてうまく話せないというような間抜けな理由なら――絶対に来週ある、デザイナーのジェシカ・フラナガン主催のパーティへ、引きずってでも連れていく)

 だがセシルの返答が、昔婚約中の身だった親友の少佐の死に責任を感じてのものであることがわかると、兄に対する昔からのイライラ感とムカムカする気持ちとが一気にティムの心の中で高まり、とうとうそれが爆発した――彼もやはりあの癇癪持ちのオーギュストの息子だったのである。

「いいかげんにしろよ、兄さん!」ティムがテラスで、日傘の下のテーブルを思いきり拳で叩きつけると、セシルだけでなく、庭仕事をしていたメイドたちも驚いて振り返った。

「そのフリード少佐という人が死んだのは兄さんのせいなんかじゃないだろ!それにその……ええとなんだっけ?ミリアム・ジョンソンという女性は今はもう結婚しているよ。母と一緒に結婚式に出席したので覚えてるんだ。それも確か、そのフリード少佐が亡くなってから、そう日が経ってないはずだぜ――大体三か月かそこら。いいかい、兄さん。兄さんは女性を少し偶像視しているようだけれど、女なんてものはみんな……」

 と、そこでティムはメイド頭のサラの目が剣のように突き刺さってくるのを感じ、咳払いをひとつすると、籐の椅子に腰かけ直した。そして小声になって続けた。

「女なんてものはみんな、そう大したことはないんだよ。俺たち男に比べたらね――いい服を着て食べ物にさえ困らなければ、そう頭を悩ませることがないのが女だ。ミリアム・ジョンソンもきっと、少佐がいなくなったので、慌ててかわりを探したんだろうよ。たまたま爵位のあるお貴族さまに求婚されたので、少佐との愛などすっかり忘れ……」

「そんなふうに言ってはいけないよ、ティム」セシルは大佐の顔のまま、難しい表情で続けた。「きっと、ミリアムさんはアレンを亡くしてとても傷ついておられたのだろう。その傷を癒すために爵位ある立派な方と結婚されたのだ。アレンもきっと天国で、ふたりの結婚を祝福していることだろう」

「ああもう兄さん!」と、ティムは気が狂ったように金褐色の豊かな髪をぐしゃぐしゃとかきまわした。「お願いだからどうにかしてくれよ、その偽善的な態度だけは!兄さんはそんなだから病気になったんだ!」

「俺が病気?一体何故……」

 そんなふうに思うんだい、とは最後までティムは兄に言わせはしなかった。

「だからようするに――兄さんは逃げてるんだよ。たとえば――これはあくまでもたとえばだけどね、兄さんはパーティへいきたくないっていう。まあ色々社交辞令的に挨拶したりなんだりしなくてはならないし、目あての女性でもいなければ、パーティになどいったって、大して面白くもないって思う気持ちもわからないではないよ。だけどね、兄さん――こんなことを弟の俺が言うからって、侮辱されたなんて思わないでくれよ。兄さんは女が怖いんだろう?もしも俺の誘ったパーティが、男だけの――あるいは軍人だけが集まるパーティだとかっていうなら、兄さんはためらうことなく一緒にいくと言ったはずだ。前にも言ったけど、兄さんはとても素晴らしい人だよ。セシル・マグワイア大佐がどこそこのパーティにいらしているというだけで、大抵の女は色めき立つだろう。その大佐殿がまだ三十二歳という若さで、独身だというならなおさらだ。しかもマグワイア家の全財産を相続しているんだからね――兄さんにダンスを申しこまれて断るような女はひとりもいないよ」

「ティム、財産のことなら……」と、セシルはまるで図星をさされたというように褐色の肌を微かに赤く染めた。

「いいや、兄さん!俺はもうマグワイア家の財産なんかどうでもいい。ただ兄さんが来週ある、デザイナーのジェシカ・フラナガンの開くパーティへいくか、それともドクターストリートの外れにある、ロジャー・ボールドウィンの精神医学研究所へいくか、どちらかに決めてもらいたい」

 セシルは激昂しているティムに二者択一を迫られ、一晩悩みに悩んだ揚句、結局ロジャー・ボールドウィン博士という頭医者に診てもらうほうを選んだ。確かに自分は女性が怖いのかもしれない――そのことは素直に認めよう。だが結婚相手を物色するためにパーティへいき、たくさんの女性を色眼鏡で見るなど、紳士のセシルには恥かしく思われることであった。そのくらいならいっそのこと――一度病院でインチキくさそうな頭医者に診てもらったほうがまだしもましというものだ。それに、その心理学の権威として有名ななんとかボールドウィン博士が自分に異常なしとの診断を下せば、ティムももうそれ以上は何も言ってこないだろう……セシルはそう考えた。

 ドクターストリートというのは、正確にはロカルノン街の十番通りにある、開業医の病院がずらりと並ぶ通りのことである。内科や外科や眼科、耳鼻咽頭科など、その他結核などの伝染病が専門の病院や総合病院、またロカルノン大学の医学部付属病院もこの通りの中心部にあり、ロジャー・ボールドウィン博士の精神医学研究所も、ドクターストリートの外れに位置していた。

 セシルは黒人の運転手、トマス・マッケンジーの運転する、黒塗りのリムジンに乗って、弟のティムとともに、ボールドウィン博士の開放的な研究所施設を訪れたわけだが、見たところその施設はあまり病院という感じがしなかった。入口に白い円柱が何列にも並び、磨り硝子や色硝子、またステンドグラスなどが窓に張り巡らされ、調和のとれた建築美を誇っている。服装やその雰囲気から察するに、明らかに患者と思われる人々が庭で花壇の手入れをしていたり、畑をいじったり、また一階のロビーにあるカフェテラスのような場所で、話に興じたりしていた。

 ティムは、セシルが本当に病院へいくかどうか心配で、わざわざ大学の講義をさぼってこうして一緒についてきたわけだが、このボールドウィン博士の精神医学研究所を見て、精神病院というものに対する物の見方がかなりのところ変わった。セシルにしてみても、壁にかかる油絵や木版画、大理石の彫刻などを見ているうちに、ここは病院ではなく美術館なのではないかという気がしたくらいである。

 セシルはティムがカウンターのところで受付をしている間、父の遺品のステッキをつきながら、それらの患者の作品をひとつひとつゆっくり見ていった――そしてフィリップ・ガイヤール作<戦争と平和>という絵の前で自然と足を止めていると、後ろから何か得体の知れない影が近づいてくるのを感じて、反射的に振り返った。ここが戦場なら銃を抜いているところだとセシルは思ったが、もじゃもじゃの黒い髭を生やした、眼鏡をかけた大柄なその男は白衣を着ており、どうやら医者のようだとセシルは見てとった。

「いかがですかな、当施設の患者の作品は?」

 正直いってセシルは、その医者らしき男を見た時、もし白衣を着ていなければ、患者と間違っただろうと思った。そのくらいその男は何か異様なオーラを発しており、笑い方にしろその他の表情にしろ、どことなくひどくセシルの癇に障るようなところがあったからだ。

「いえ、俺には絵心なんてまるでないので、美術のことはよくわかりません。学校の授業でもいつも、美術はCかDでしたし……」

「ハハハ、正直な人だ」と、その男――胸に<医学博士 ロジャー・ボールドウィン>とネームのある男はやにで汚れた、黄色い歯を見せて笑った。微かに口から口臭も漂ってきているようだ。「しかしミスター=マグワイア。学校の成績と美術の鑑賞眼とはほとんどなんの関係もありませんよ。あなたはこの絵を見て、一体どんなふうに感じられますかな?」

 その絵はあまりにも抽象的すぎて、はっきりいってセシルには何が描いてあるのかさっぱりわからなかった。白と黒と灰色で、何か人のようなものが倒れたり祈ったりしているように見えるが……地面に流れている赤いものは血なのだろうか?そして背景はまるで割れた鏡のようで……空にかかる黄色い光は月光のように見えるが……しかし、セシルはその光景を確かにどこかで見たことがあると思った。それが一体どこなのかと、記憶の隅に何か引っ掛かるものがあって、この絵の前で足を止めたのかもしれない。

「どう、と言われても……」と、セシルは口ごもった。「よくわかりません。ひどく混乱した精神の状態のようだとしか……」

「この絵は戦争神経症の患者が描いたものなのですよ」ボールドウィン博士は何故か、とても誇らしげだった。「それもあの入学するのが困難な、ロカルノン美術アカデミーを首席で卒業した患者さんのものです。彼はガリューダ戦争で利き腕を失いましてね、今は左腕で絵画に取り組んでいるのですよ」

「そうなんですか。でもこの絵はとても……素人意見ですが、とてもよく描けていると思います。ただ、患者さん自身が精神的にひどくつらいように感じられるのが、見ていて苦しいようにも感じますが……」

「まあ、立ち話もなんですから、わたしの診療室へいきましょう」

 ボールドウィン博士はセシルの肩に手をまわすと、受付にいた女性に軽く手を振っている――ティムはどうやらその若い赤毛の女性と話しこんでいる様子だったので、セシルは何も言わずにそのまま、ボールドウィン博士の案内で診療室へいくことにした。

「セシル・マグワイアさん、と」博士は肘掛椅子に腰かけると、セシルにも革張りの黒いソファに座るよう手で合図した。そして細長い足を組むと、鉛筆でカルテらしきものにセシルの名前を書きこんでいる。

 診療室は博士の書斎も兼ねているようで、壁には古今東西の文学全集や、精神医学に関する分厚い難しそうな本が所狭しと並んでおり、書き物机の上には様々な書類やファイルなどがたくさん積み重なっていた。そしてこの部屋にも一枚の大きな抽象画が壁にかかっていて――セシルはその絵を真っすぐ見つめるような形で、ソファの脇に座るボールドウィン博士と話をした。

「弟さんのお話によると、マグワイアさんはつい最近、ユーディンの捕虜収容所から戻られたばかりとか……こちらへ戻られて、今日でどのくらいたちますか?」

<砂色の髪に青い瞳、筋骨隆々とした立派な体格。身長約六フィート。やぶ睨みだが、なかなか好感の持てる青年である。服装はリンネルの襞飾りのついたワイシャツに、白い麻のスーツ。銀の鷲のついたステッキを手に持っているが、足が悪いわけではなさそうである……>

「大体、今日で一月くらいになるんじゃないでしょうか」

 博士が自分の特徴や服装などを素早くチェックしていることなど何も知らないセシルは、そう素っ気なく答えた。

「弟さんに電話で伺ったところによると、毎晩悪夢にうなされているとか……」

 セシルは溜息を着くと、ソファに深く腰かけ直し、疲れた顔をやや斜めに伏せた――実は今日も少し寝不足だったのである。

「弟は……先生に少し、大袈裟に話をしたのではないでしょうか。確かに戦争の夢は見ますが、ただそれだけです。べつに俺は精神を病んでなどいないし、もし仮に先生の言う……なんでしたっけ?戦争神経症?それであったとしても、俺は自分の力で克服できると思っています」

 ボールドウィン博士は内心、それは大したものだと思ったが、にやりと不敵に笑いそうになるのをこらえて、質問を続けた。

「マグワイアさん。マグワイアさんが実際に病気かどうかというのは、実はそう大したことではありません。弟さんの話によると、あなたは戦争から帰ってきて以来、家の中に閉じこもってばかりいるそうですね。そして食欲もなく、どことなく思い悩んでいるようであり、しかも夜には夢でうなされている……これでは御家族の方が心配なさるのも無理ないのではありませんか?」

「閉じこもってばかりいると言っても……」と、セシルはいつもの人見知りをする癖で、博士のほうにはちらとも視線をくれずに話を続けた。「ついこの間、アナスタシア女王陛下から戦功勲章をいただくために、赤煉瓦広場へいきましたよ。それから他の勲章を授与された兵士たちと一緒に、モルシェヴィキ首相やミネルヴァ陸軍大臣も交えての昼食会に参加したんです。それとロカルノンホテルへ新しいオーナーとして就任するために、役員会に出席しましたし……弟が心配するようなことは何もないと思います」

「アナスタシア戦功勲章!」と博士は飛びあがらんばかりに驚いたといった様子で、姿勢を正している。「凄いですねえ。よほど立派な戦功でも立てないかぎり、女王陛下から直接いただくなんていうことは……すると、大佐からさらに昇進なされたのではないですか?」

「いえ、そういうわけでは……」と、その話は避けたいというように、セシルは控え目に言った。確かにその式典は華々しい立派なものではあったが、ガリューダ戦争において自分は何も戦功など立てていない――セシルはそう感じていた。近いうちに少将へ昇進するだろうとの内示を受けてはいるが、ミネルヴァ大臣に直接嘆願書を渡して今日で一週間になる。それが昇進に差し支えてもセシルは一向構わなかったが、アナスタシア戦功勲章を真に受けるべきなのは――アシモフ・モールヴィのような男なのだと、そう感じていた。

「なんだか、浮かない顔をしてらっしゃいますね?わたしがもし軍人だったら――最高の栄誉だと感じて、誰かれ構わず自慢したいところですが……ところで、お話を伺っているとどうも、マグワイアさんは必要最低限外出されていないような印象を受けるのですが、いかがですか?」

「俺はもともと……そういう人間なんです。昔から人づきあいも苦手で、パーティーへ出席しても大して楽しめないタイプの人間なんですよ。弟はしきりに誘ってはくれるんですが、嫁探しなんて……俺はもともと女性にはあまり興味のない質なもんですから」

「ほほう」と、ボールドウィン博士はいかにも興味深げに何度も頷いている。「女性に興味のない男など、果たしてこの世にいるものでしょうか?もっとも、マグワイアさんが同性愛者だとでもいうのなら、話は別ですがね」

「な、何を言って……」普通ならば失敬な、とでも言って相手を詰ってもいいところであるが、この時セシルはアルファシノク捕虜収容所の施設長、アイヒマンとの胸の悪くなるような男色行為を思いだして、思わず言葉に詰まってしまったのである。

「何故女性に興味がないのですか?弟のティムさんも大変心配しておられましたよ――気晴らしに女性とでもつきあえば、人生が明るく楽しくハッピーになるのに、セシルさんはどうも薪の上に寝たり、苦い肝をなめたりするような人生のほうが好きみたいだって。ようするにですね、セシルさん。わたしが聞きたいのは今あなたが明るく楽しくハッピーに人生をエンジョイできているかどうかということなんですよ。そしてもしそうじゃないなら、その妨げになっているものはなんなのかと、わたしはあなたにお伺いしたいわけです」

「明るく楽しくハッピー……」と、セシルは博士の言葉を反芻した。そしてその言葉の持つ軽薄さを軽蔑した。逆をいうなら今、自分は暗く苦しく不幸だということになるが、セシルにはそれのどこが悪いのかがさっぱりわからなかった。「女性と結婚したくらいで、俺は自分の十字架が軽くなるとは思えません。むしろ自分だけが幸福になるなど……今の俺には考えられないことです」

「おやおや?人間というのは基本的に、幸福になるために生きるものだとわたしなんかは思いますがね。何かセシルさんが幸せになってはいけない理由でもあるのですか?アナスタシア戦功勲章をいただいたほどの人物が口にするような言葉とはとても思えませんね。それに実際に結婚したことがあるわけでもないのに、どうしてわかるんです?もしかしたら一緒に重い十字架を担ってくれる、よき伴侶と巡り会えるかもしれないじゃありませんか――どこかのパーティで、ダンスを踊っている時にでも」

 これはおそらく弟の差し金だろうと、セシルは直感した。どこかの令嬢と結婚でもすれば、暗い戦争の影も薄れて明るく楽しくハッピーになれると、ティムはそう単純に考えているのではないだろうか?だがこの自分、セシル・マグワイアは、むしろ自ら求めて苦しみたいのだ。ミネルヴァ大臣に直接手渡した嘆願書が受理され、無事アシモフ・モールヴィが救出された暁には――再び戦地へと赴いて軍の指揮をとるつもりであった。そして死ぬ。それが今のセシルがもっとも望んでいることだった。

 ボールドウィン博士は、セシルの顔にどこか皮肉げな微笑みが張りついているのを見てとると、おそらく彼の病いは重いだろうと直感した。まだ直接セシルから戦争体験について、また捕虜収容所での生活について何も聞きだしてはいないが、博士はこれまでにたくさんの戦争神経症の患者を見てきた経験から、セシルがこれから物語る話を聞かなくてもある程度想像できたのである。

「こんな半死人のような男と結婚したのでは――花嫁のほうが可哀想ですよ」

 セシルは俯いたままそう言い、話はこれまでだというように立ち上がった。精神医学研究所だかなんだか知らないが、これ以上こんなひげもじゃの男と話をするだけ無駄だと思ったのだ。

「それはつまり……どういうことですか?」

 もう一度ソファに座るよう、手で示しながら、ボールドウィン博士は辛抱強く聞いた。セシルも壁の時計をちらと見やってから、溜息を着いて再び腰かけ直した。ティムが一回の診療につき、大体四十五分か五十分くらいだと言っていたから――あと十五分か二十分の我慢だと思ったのだ。

「俺は……どうやら、四年間の捕虜生活で、すっかり精神のほうが駄目になってしまったみたいなんですよ。だが、精神のほうが駄目になっても、肉体のほうは今こうして生き、心臓のほうも力強く脈打っている。その矛盾と格闘しているような男が……果たして女性と結婚して、相手を幸福にできると思いますか?」

「ううむ」と、珍しく博士はうなった。そしてもじゃもじゃの髭を何度も撫でながら、暫らくの間瞑想するように目を閉じている。

「ではセシルさんは一生の間、結婚なさらないおつもりなんですか?」

「一生……」と、セシルは呟いた。それは一体、どのくらいの長さのことをいうのであろうか?今セシルは自分がそう長生きできるとは感じていなかった。マグワイア家の財産を正式にティムに譲るまで、あと四年はかかるだろうか。それまで陸軍省の執務官として働き、財産をすべてティムに譲ってから再び戦場へ戻る――ということは、あと少なくとも四年くらいは最低でも生きなくてはいけないわけだ。わからない、とセシルは思った。その間に運命の女性とのめくるめく恋愛が展開されるだなどとは――そのような経験がないだけに、そのようなことはこれからだってありえだろうとしか思えなかった。

「先ほどセシルさんが眺めていた絵……あの絵を描いたガイヤール氏も、一時期自暴自棄になって婚約者との婚約を一方的に破棄しましたが、今では文通しながら少しずつ関係を修復されましたよ。彼も最初はこう言っていたものです。『片端の男が果たして、愛する女を幸福にできるだろうか?』……セシルさん、我々人間には明日のことなどまるきり予測できませんよ。それと同じように、やりたくないとか面倒くさいと思っていたことをいざ実行に移してみるとそれほどのこともなかったということだって大いにありえます。もちろんわたしはあなたに無理をして行きたくもないパーティへ行けなどと言っているわけではありません。ただあなたがあまりにも――責任感によってのみ行動しようとしているように見えるので、もう少し人生を楽しんだとしても罰はあたらないだろうという話をしているだけです。でなければ、一体なんのためのアナスタシア戦功勲章ですか?一体なんのためにあなたはマグワイア家の財産を相続されたのですか?そこのところをもう少し考えてみてください。そして来週、セシルさんがわたしの言ったことについて考えたことをお話してください……では、今日はこのくらいにしておきましょうか」

 セシルはむっつりと押し黙ったまま、ボールドウィン博士になんの挨拶をすることもなく診療室をでた。リノリウム張りの床をかつかつ靴音を響かせながら歩いていき、受付の椅子の並んでいるところまで戻ると、そこで雑誌を読んでいたティムの隣に座った。

「兄さん、どうだった?」

 精神分析というものがいまひとつどういうものかわからないティムは、少しばかり好奇心に目を輝かせながらそう聞いた。

「どうだったも何も……」イライラしたようにセシルは言った。「悪いがティム、俺はもう二度とあの博士にはお会いしたくないよ。もっと人生を楽しめだって?あの男は戦争というのがどういうものか、まるきりわかっちゃいないんだ――俺が今こうしてぬくぬくとくだらない精神分析なんてものを受けている間にも、海を渡った向こうの大陸では駐留軍が気を張りつめて警護にあたっているんだぞ。それなのに大佐の俺が、くだらぬパーティなんかに現つを抜かしていられるとでも思っているのか」

 ティムは初めて兄の本心を聞いたような気がして、精神分析というものにはどうやら確かに効果があるようだと感じた。それで受付の女性に名字を呼ばれると、兄に聞こえぬようこそこそ話をし、来週の月曜日に再び診療の予約を入れた。

 ティムにもよくはわからないのだが、兄はどうやら捕虜収容所にひとりの同国人を残してきたことに対して、非常に罪悪感を感じているらしいということだけは知っていた。そして兄があの華々しくも輝かしい勲章授与の式典で、アナスタシア女王陛下に直接戦功勲章を授けてもらったあと――昼食会で、ミネルヴァ陸軍大臣にその男を救出するための嘆願書を手渡したということも聞いている。彼だけでなく、他の収容所にも同じような境遇の人間が多数いるはずなので調べてほしいと――またそのために陸軍省の執務官として働きたいとも訴えたらしい。それ以来この一週間というもの、セシルは居間にある電話の前を落ち着かなげにそわそわ歩きまわってばかりいる。そして弟のティムはそんな兄の精神状態が心配でたまらないのだった。






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