永遠のローラ 第Ⅲ部 (4)
戦艦クロイツネイル号がダヴェンポート港に入港すると、そこは帰還兵を待ちわびた家族や、迎えの軍隊の群れなどでごった返していた。誰もがみな瞳に再会の嬉し涙を浮かべ、兵士たちと抱擁やキスを交わしていたが――セシルのことを歓迎したのは軍隊の仲間以外では、いかめしい顔つきをした年寄りの弁護士がひとりきりだけだった。
歓迎の式典やパレードが終わり、めいめい車や列車、馬車などで一旦帰郷するという段になると、セシルの胸にどっと虚しいような悲しみが押し寄せてきた。それは何も父が死んだと山羊髭を生やしたマグワイア家の顧問弁護士が告げたからではなく――他の兵士たちに比べ、自分の身の上があまりに惨めだからであった。義理の母や弟に、せめて形だけでも迎えにきてほしかったとさえ、セシルは砂漠のように虚しい心の中で考えた。
「父が俺に遺産を……?」
黒塗りのリムジンの後部席で、ロカルノンに帰るまでの道中、マクレガー弁護士とセシルは懇話した。
「ええ、さようでございます。晩年、お父上は脳出血で半身が麻痺なされまして、以前にもまして人が難しゅうなったのでございます。そこで奥様のミランダさまは、旦那さまを郊外にあるロンシュタットの老人村というところにお入れになったのです……旦那さまはそのことに対して非常に憤慨なさいまして、死の間際に御遺言を書き直されたのでございますよ。旦那さまの死後、わたしが遺言状を読みあげた時の、ミランダさまのお顔といったら……いや、失礼」
隣でマクレガー弁護士がふさふさした白髪頭を震わせて笑いだすのを見て、セシルも思わず笑った。大体のところはまあ、想像がつく――たとえその場に居合わせなかったとしても。
「えーっ、オッホン」と、ひとつ咳払いをしてから、ケヴィン・マクレガー弁護士は続けた。「遺言状の内容は大まかに言ってこういうものです。長男であるセシルさまにロカルノン・ホテルの経営権及びそれに不随する財産、その他自宅の土地家屋の権利などをすべて移譲すると――いかがなさいますか?セシルお坊ちゃま」
セシルの母が生きていた頃からマグワイア家の顧問弁護士をしているマクレガーは、セシルのことを小さな頃からずっと「お坊っちゃま」と呼んでいた。運転手のトマス・マッケンジーもまた、セシルの小さな頃からマグワイア家で働いていたので――先ほどからずっと、後部席の会話に聞き耳を立てていた。彼らはふたりとも、自分たちの以前の御主人が最後の最後で懸命な判断を下してくれたことに、心から感謝していたのである。
「そうだな――今はまだ、よくわからないよ。軍人のこの俺に、ホテルの経営なんてまず無理だろうからね。せめてロカルノンホテルの経営権くらいは、弟のティムに譲ってやりたいものだが」
兄のセシルと弟のティムでは、まさに水と油といってもいいほどの性格の違いがあった。セシルは自分の戦功十字勲章を自慢したいなどと思ったことは一度もないが、弟のティムがもしそれを持っていたとしたら――周囲の人間にすすんで戦時の苦労話などを聞かせたに違いない。また女性のことに関しても、セシルが奥手なのに対して、ティムはまるきりその逆であった。彼はまだ十八歳であったが、その年の若者にしては随分多くの女性を泣かせており、母親でさえ先が思いやられると思っていたくらいなのである。
「そうですね、お坊っちゃま。今日はお疲れでしょうから、まずはゆっくりお休みなさいまし。ロカルノン・ホテルから取り寄せた食材で、料理長が腕を振るって美味しいお料理を用意しておりますからね。それから柔らかいお布団でぐっすり眠られるのがよろしいかと思いますよ」
「ああ、そうだな」
セシルは欠伸をかみ殺しながら頷いた――ロカルノンのウエストストリートの外れにある屋敷は、今は自分のものなのだ。もちろん彼の義理の母ミランダも義弟のティムも、以前と同じくそこに住んでいたが、ふたりはセシルが戦争で死んでいるようにとこれまでずっと祈っていたような人種であった。ふたりはセシルが無事捕虜収容所で生きているとの電報を陸軍省から受けとると、ミランダはショックのあまり寝こみ、ティムのほうは神に対して悪態をつかんばかりであった。
セシルにとってそのウエストストリートにあるマグワイア邸は、陸軍に入隊してからというもの、滅多に寄りついたことのない、懐かしい屋敷であった。樅の樹や楡の樹やアカシアの樹、ナナカマドなどに囲まれた、白塗りのその邸宅は、父のオーギュストがセシルの母ミレイユと結婚した時に建てたもので、部屋の数は全部で四十室以上あった。
ミランダは車寄せにリムジンが停まると、家のポーチからでてきて、セシルに対して早速とばかり一芝居打ち、厚顔にも瞳に涙さえ浮かべながらこう言い放ったものである。
「ああ、セシルさん!ようやくお帰りになったのね――なんとまあよかったこと。ご無事で何よりですわ。迎えにいけなくてごめんなさいね、わたしその――オーギュストが亡くなってからというもの、あまり具合のかげんがよくないんですの」
「構いませんよ、お義母さん」と、セシルは小柄なマグワイア夫人の抱擁を受けとめながら言った。彼女とセシルの父オーギュストとは二十も年が離れていたので――彼女はまだ今年四十歳を迎えたばかりであった。奇妙な話だが、ミランダとセシルが結婚したとしても、年齢的にはそうおかしくはなかったであろう。
「それより、具合が悪いのなら、どうか横になっていてください。今日は流石に俺も疲れました――故郷の土を再び踏めたのは、これ以上もない喜びですが。夕食をとったそのあとは、すぐに休ませていただきたいと思っているので、積もる話はまた明日にでも」
そう言ってセシルは義母の手に儀礼的に接吻すると、屋敷のメイドや給仕係、料理長などに歓迎されながら、広い食堂に用意された御馳走の数々を堪能し、そのあとは二階の自室に引きこもった。
マグワイア家に古くから仕える使用人たちは、自分たちの主人の帰還を心から喜び祝った――カーキ色の軍服を着て、胸の上に数えきれないほどのバッジをつけたセシルは、とても堂々としていて、立派で、素敵だった。これまで自分の息子以上にセシルのことを気にかけたことのないミランダでさえ――自分の息子がもしセシルのようであったならと思ったくらいである。
だが誰が見ても、セシルが普通の人間以上の苦労――戦地での想像を絶するような恐ろしい体験を経て、その犠牲の上に戦功を讃えるバッジが輝いているのだと思ったし、そのことは一目瞭然でもあった。何故ならセシルは三十二歳にしては顔に深く皺が刻みこまれており、ふと笑った瞬間に見られる目尻のカラスの足跡や、口元の皺は――今回の戦争に出征する前の彼を知っている者の目に、何か痛々しいものを感じさせた。それに体のほうも、以前のように逞しくはあるのだが、どこか痩せた印象であった。
セシルは家長として家の使用人たちになるべく愉快に振るまいながらも、それでもやはり心の中は罪悪感で締めつけられていた――牡蛎のスープに焼きたてのビスケット、詰めものをした子豚の丸焼きにマッシュポテト……セシルは料理長の料理の腕前をしきりに褒め讃えながら、時々誰にも気づかれないように、そっとナプキンで目尻の涙を拭った。強制収容所にいた頃の惨めな食生活が思いだされたというわけではなく――今もあそこでは自分の仲間たちがひどい労働のあとに粗末なものを食べているのだと思うと……泣けてきて仕方なかったのである。
ミランダはその日の夜も、そのあともずっと、かげんがあまりよくないのですと言っては、セシルと食事をともにするのを避けた。何故なら、食事時に財産のことなどを切りだされて、もはや自分たち母子にはここにいる権利はないというようなことを仄めかされるのが怖かったのである。だがセシルには義母が父のオーギュストの面倒を最後まで見なかったと言って責めるつもりは毛頭なかった。健康な時でさえ頑固で横柄な専制君主のようだったあの父が、半身不随になってさらに輪をかけて気難しい性格になったというのだから――義母だけでなく、屋敷の使用人たちのためにも父は、ロンシュタットの老人村へいってよかったのだと、彼は息子としてそう納得していた。
だが女性に対しては特に口下手な彼は、直接ミランダに聞かれでもしないかぎり、あれはあれでよかったのです、というようなことを自分からすすんで言うことはできなかったし、また今の段階では財産を義母と義弟のティムとにいくらくらい分けるつもりでいるといったような軽弾みなことも言えなかったので――セシルはとりあえず、自分が義母に悪感情を抱いていないこと、財産のことは今後どうなるかわからないが、それでも悪いようにはしないつもりでいるということを伝えるために、庭から花を摘んできてはかげんの悪い義母の部屋へ飾るようにとメイドたちに言いつけた。
ミランダにそうしたセシルの不器用な優しさは確かに伝わったが――それ故になお一層彼女の心は惨めであった。彼女は自分の息子だけが生き甲斐といったようなタイプの女で、あまりに過保護に甘やかして息子のティムを育てたために、彼は今彼女がどうすることもできないほど、我侭放題に成長していた。
(ああ、あの子にもしセシルさんの十分の一でも、優しい気持ちがあったなら……)と、花瓶に活けられた淡紅色の薔薇の香りを嗅ぎながら、ミランダは今なお美しく若々しい顔の表情を曇らせた。
(母親のことをもう少し思いやってくれるでしょうに……)
ティム・マグワイアは今、ロカルノン大学の経済学部に在籍しており、街の中央通りにある大学まで、毎日自分の運転する車で通っていた。セシルが捕虜収容所から無事解放されて帰ってくるというその日も、彼は夜遅くまで友人たちとミュージックホールで遊んでいたのであった。
ティムはほんの時たま家に帰ってきては、誰からも尊敬の眼差しで見られるこの義兄のことが大嫌いであった。嫌いな理由はうまく説明できないが、半分血が繋がっているとはいえ、とにかく馬が合わないとしか言いようがない。ティムは時々(俺たちって、本当に兄弟なのか?)と疑問に思うほど、自分たちは容姿も性格も似ていないと感じるのだった。
ティムは母親譲りの、金褐色の髪に青い瞳をしていて、その細面はなるほど、本人が自惚れているだけのことはあって、なかなかにハンサムだった。彼は自分の着るものにも身だしなみにも拘るといったタイプの洒落男で、ティムの目からしてみれば、義兄のセシルは、見るからにやぼったく、今ロカルノンの若者の間で流行っている言葉を使うなら、兄のセシルはとてもダサいとでもいうことになろうか。
セシルの何が嫌いといって、ティムはセシルの顔も性格も仕種も話の仕方もその声も、何もかもが大嫌いだった。まず顔――不細工というわけではないにしろ、やぶ睨みで、いかにも女性にもてなさそうな容貌をしている。そして実際年ごろの女性を前にした時の、兄のまごついた態度といったら!幾度も戦場に赴いて銃を撃ち放し、敵兵を何人も死に追いやったり捕虜にしてきたであろう男が、何故こと女のことになると、こうまで臆病なのであろうか?ティムは社交界の大抵の女性が、兄の容貌についてはあまり問題にしないであろうことを知っていた――彼女たちが見るのは軍服に包まれた勇壮な将校であり、その胸元に輝く色とりどりの階級を示したバッジなのだ。それなのに兄のセシルときたら、壁の花のような女性にばかり義理堅くダンスを申し込み、パーティが終わり次第そそくさと帰ってしまうのだから――ティムにしてみれば「我が兄ながら情けない」と思えて仕方ないのだった。
(たぶん兄さんは、特定の女性にキスはおろか、それ以上の行為を迫ったことなど一度もないに違いない。『もしよかったら、踊っていただけませんか』だって?それも断られたら恥かしさのあまり死にそうだというような声で、おどおどしながら女にダンスを申しこむんだからな――見ていて本当にイライラする。男なら――ことに軍人なら、俺と踊らなければ後悔するぞくらいの気持ちで、もっと強引に誘えばいいのだ。あれがプレイボーイのこの俺の兄とは、まったくかえすがえすも情けない)
その他、のろのろした食事の仕方や、人と――とりわけ女性と――目が合った時に兄が見せるそわそわした態度など、ティムはセシルと同じ空間で一緒に空気を吸っているのが我慢ならないと感じることが度々あった。しかも、今ではその兄が父の遺言により、マグワイア家の家長の座におさまることになってしまったのだ!ティムはセシルに、父のオーギュストが小さな頃から自分の財産はすべておまえのものだと繰り返し言い聞かせてきたこと、また自分としてもすっかりそのつもりで、一生懸命勉学に励み、ロカルノン大学の経済学部に進学したことなどを話すつもりであった。本当は音楽大学でヴァイオリンを学びたかったにも関わらず――その道を断念して父の意向に添おうと大して興味を惹かれているわけでもない経済学部を選んだのだということも、さりげなく強調することを忘れないつもりであった。
ティムはセシルの性格といったものをよく知り抜いているつもりであった――彼は母や自分が何かを強く懇願したりすれば、いやと言えない性格をしている。それであればこそあの偏屈な父はセシルに財産のすべてを残したのであろう。
(チッ!死んだあとまで面倒を残してくれたもんだぜ、あのジジイも)
赤のロードスターから降りると、彼は車をガレージに入れておくよう運転手のトマスにぞんざいに言いつけた。そしてメイドたちに愛想よく、
「兄さんは二階の自分の部屋にいるのかい?」
などと聞きながら、いかにも半分血の繋がった兄の帰郷が嬉しいといったような軽やかな足どりで、赤いカーペットの上を二階へ上がっていった。
彼はおそらく、音楽大学へ進むよりも、また退屈な経済学部になど進学するよりも、演劇の道に進むべきだったのであろう。生来がお人好しなセシルには、ティムの性格の二面性といったものや彼が自分に接する時に内に隠した嫌悪感といったものをまったく見抜くことができなかった――また、それだけティムの演技が完璧であったともいえるのだが。
「やあ、兄さん。とても嬉しいよ。無事に戻ってくれて――本当はダヴェンポート港まで迎えにいきたかったんだけどね、何しろどうしても抜けられない講義がひとつあって……サマセット教授の講義をあとひとつ休んだら、落第が決定なんだ」
ティムは彼がよく使う手――悪戯っぽくウィンクしながら嘘をつく、という手段を講じたわけだが、セシルのほうではそれをまったく真に受けていた。
「べつに、構うことないさ。それより、大学入学おめでとう。メイドのサラから聞いたよ。成績のほうはいつもオールAだってね。ジュニアスクールを落第すれすれの成績で卒業した俺とは、まさに雲泥の差だ」
古くからいるメイドのサラがそのあと、成績のほうはオールAでも、お坊っちゃまの普段の行状のほうはDマイナスですよ、と言ったのを、セシルはわざと端折った。彼は自分より頭のいい人間に対して、ほとんど無条件といっていい尊敬を感じるタイプの人間であったから。
「なに、兄さんが立てた勲功に比べたら、大学の成績なんて問題にならないよ。それより――母さんと、ふたりでずっと心配してたんだよ。兄さんが無事でありますようにって、母さんなんかは毎日イエスさまにお祈りしていたくらいだ」
ティムはセシルと嫌悪感をこらえて軽く兄弟の抱擁を交わすと、部屋の隅にあるベッドの端に腰かけて、早速とばかりマグワイア家の財産の話をすることにした。
「ところで兄さん、マクレガー弁護士からもうお聞き及びのことと思うけど、これから家の財産をどう分配するつもりなんだい?」
お人好しのセシルは、彼の戦場でのつらく苦しかった経験になどまるで言及せず、即座に財産の話に移った弟のことを、さして不躾とは感じなかった。セシルは自分の惨めな捕虜生活のことなど、誰も聞きたがらないであろうと思っていたし、義母や弟にしてみれば自分の胸一存で将来がどうとでも変わってしまうのであるから――自分の本心をまず知りたいと思うのは、当然のことのように感じられたのである。
「その、俺は……」と、セシルはティムが見ていていつもムカムカする、人をおもねる眼差しになって告げた。「父が財産の全部を俺に残したと聞いて、まだびっくりしてるんだ。あまり実感がわかないというか……だってそうだろう?父さんはティムの小さな頃から、自分の財産はすべておまえのものだと言って育てたんだからな。それを、病気になって老人村へやったらからといって、その面当てに全然財産など残す気のなかった俺に継がせるだなんて、父さんはきっと晩年、少し頭の働きのほうも鈍くなっていたんじゃないだろうか。俺としてはただ、莫大な財産を前に途方に暮れるのみだよ。ただわかってほしいんだが、俺はティムにも義母さんにも、財産が滞りなくいきわたるようにしたいと思ってるんだ。だから何も心配せず、ティムは大学で勉学に励むといい」
軍服から部屋着に着替えた兄が、壁にかかっているカーキ色の軍服を真っすぐ見つめながらそう語るのを、イライラしながらティムは聞いていた。
(滞りなくいきわたる?どうでもいいが、随分曖昧な表現だ。俺が今ここではっきり聞きたいのは、ロカルノン・ホテルの経営権を将来俺に譲る気があるのかどうかということなのに……まあ、いいさ。とりあえず兄貴も今日は帰ってきたばかりだからな。近いうちに何かの話のついでみたいに、そのことをさりげなく聞いてみることにしよう)
ティムはその日はそれ以上財産については何も聞かず、ただ兄に聞かれるがまま、大学生活のことや今つきあっているガールフレンドのことなんかを話し、切りのいいところでさっさと隣の自分の寝室へ引き上げることにした。ティムにしてみれば、兄のセシルは老いた羊のように感じられる存在で、彼の目がカーキ色の軍服に注がれるたび、自分の戦功をさも褒めてくれと言っているような気がして、イライラしたのだ。ティムの分類によれば、セシルは独創性のない凡人で、軍隊の上から四角四面に押さえつけるやり方にまったく苦痛を感じないからこそ、これだけ出世したのだろうとしか思えなかった。だがその従順な羊も流石に精神的に老い、彼がもう一度戦争に出征するとは、ティムにさえとても思えないくらいであった。何より父の残してくれたあの莫大な財産があるのだから――再び敵軍の捕虜となるような恐ろしい屈辱的な体験はしなくてすむのだし、ティムはただセシルがそんな手腕も才覚もないのに、事業に本格的に乗りだすようなことがなければいいがと祈るのみだった。