永遠のローラ 第Ⅲ部 (3)
セシルが次にまわされたのは、収容所の四方をとり囲む黒い森から、杉や松、樅の樹などを切り倒して運ぶという仕事であった。最初は山師と呼ばれる男について、樹木の切り倒し方――斧を入れる方向やうまく自分が思っている方向に倒す方法などを教わったのであるが、たかが樹を切り倒すだけと侮るなかれ、これがなかなかに難しく、セシルは他の仲間の足を引っ張っているのではないかと、心苦しくなることがたびたびだった。
夜明けから日が暮れるまで、それぞれ六人がひとつの組になって森中を歩きまわり、樹木を切っては荷台に運ぶ……一日にどのくらいの量を伐採するかはきちんと決められているので、何がどうあろうとそのノルマをこなさなくてはならない。ノルマに到達できなかった班には当然罰則があり、配給や薪を減らされたり、ひどい時には石壁の塔にある独居房へ入れさせられたりすることもあるらしい。
だがここでもセシルは不思議と、囚人仲間たちに好かれて、つらい労働のさなかにあっても、彼の心はさほど――施設長のアイヒマンが期待していたほどには――荒んだりすることはなかった。
アルファシノク強制収容所には、高い石塀もなければ、有刺鉄線がそのまわりをぐるりと囲んでいるこということもなく、周囲に広がるこの黒い森こそが、天然の塀の役割を果たしていた。セシルは班のリーダーである山師のコンラッドに、脱走しようと思ったことはないのかと、一度訊ねてみたことがあるが、そんなことをすれば森の中でのたれ死ぬのが関の山だという話だった。
「それに、森を抜けた向こうには検問所がいくつもあるし――実際脱走を企てて捕まった奴がどんな目にあうか……目玉を抉られて塔の上にさらし首だ。それも、小屋の中のひとりがそういう勝手な真似をすりゃあ、他の五人も運命共同体なんだからな――誰も、あの冷血施設長に刃向かうなんてことはできんよ」
コンラッドは強制収容所へきて今年で二十年になるという。山師の能力を高く買われている彼は、アイザックの数少ないお気にいりのひとりで、時には石の塔のディナーに招待されることもあるらしい。しかも彼らの班は特別待遇を受けており、配給の量も内容もとても充実していた。それでセシルはアイヒマンが何故自分を元のままの丸太小屋にいさせたのかがよく理解できた。だがコンラッドの班の連中はみな、物覚えもよく、真面目によく働くセシルのことを好いたので――こっそり彼にじゃがいもやら塩漬けの豚肉やら、時には焼き鳥や焼き豚、ラム酒といったものまで渡し、くれぐれもユーディンの犬どもに嗅ぎつけられないよう厳重注意した。
セシルはそれらの御馳走を、こっそり自分の丸太小屋へと持ち帰り、仲間みんなで分けて楽しく食べあった。もちろんこのことが囚人の誰かに知れると、嫉妬心から密告されるのはまず間違いなかったので――アシモフたちは慎重の上にも慎重に、それらの御馳走を食べ、証拠が残ったりしないよう、神経質なくらい気を配った。
そうして秋になり、凍てつく冬がきて、春が巡り、また夏になった。セシルもアシモフもエディンも、ラナクもバーナムもシフォルもケイディンもなんとか一年を生きのびたが――大抵の丸太小屋の別のグループからは、ほとんどひとりかふたりくらいの割合で、死者がでていた。脱走を計画していたとの容疑をかけられ、見せしめに射殺された者、あるいは病気になってもろくな看病を受けられず、作業中に倒れて死んだ者……あるいは栄養失調で亡くなった者もいるし、冬には凍死した者だっていた。
セシルがいつでも気になるのは、戦争の状況が今どうなっているか、ということであった。だが彼の記憶に残っている地図によれば――ラルファバードやミスチル河畔といった地点は、もっとも囚人の扱いがひどいとして、赤い二重丸がついていたが、アルファシノクという強制収容所は、その名前さえタリス軍には知られていない。そのことを思うとセシルはたびたび真夜中に絶望しそうになったが、それでも生きるしかないのだと自分に必死に言い聞かせて、毎日の生活をなんとか凌いで生きた。
それからさらに三年がたち、セシルがアルファシノク強制収容所へきて丸四年が経過した頃――ある意味で、彼の上に奇跡が起こった。その二年前に戦争が終結し、ユーディン軍と連合国軍との間に、和平条約が締結されたのである。その結果、ラルファバードとミスチル河畔にあった強制収容所は無血で囚人が解放されることになったし、ユーディン軍はこのふたつの地点だけをロンバルディー政府に無償で返還することを約束した。だが他の収容所施設に関しては――人道上問題がないかどうかの視察を受け入れると約束するに留まった。ユーディン軍にしてみれば、これでもかなり譲歩したほうで、いわば連合国軍側の面子を慮ってやった、というような形での和平合意であった。事実、あのまま戦争を続けていれば、連合国軍側はさらに戦争被害を拡大し、いたずらに戦死者を増やすばかりであったろう。和平が締結した時点で連合国軍側にできる最大のことは、これからもロンバルディーに軍を駐屯させて、これ以上のユーディン軍の侵略行為をなるべく最小限に食い止めるということだけだったに違いない。近いうちにまた小競り合いが起きることは必死であるように予想される、まさしく玉虫色の決着であった。
だが、戦争がとりあえず一旦鎮静化すると、次に問題となったのが連合国軍側のおびただしい数の捕虜のことであった。各国の陸軍・海軍で捕虜となったとおぼしき兵員の名簿が作成され、そこに名前のある者は即刻釈放するよう連合国軍側はユーディン軍に求めた。
当然ながら、そこにはセシル・マグワイア大佐の名前も記載されており――特に重要人物として、名簿の上位のほうにランクされていた。
アルファシノク強制収容所は僻地の寒村にあったが、そこの施設長であるアイザック・ハインリヒ・アイヒマンの元にも、その名簿はまわされてきた。そして彼はセシル・マグワイアの名前をそこに見出すと、舌打ちするどころか――にやりと不敵な笑みを浮かべたのであった。
「お呼びでしょうか、アイヒマン施設長殿」
石壁の塔の最上部にある部屋へ、初めて通されたその日、セシルは軍隊式に敬礼しながらアイザックにそう挨拶した。その敬礼は確かに一部の隙もない、陸軍の教官が生徒に模範を示すが如き立派さであったが、それでもどこかそれ故にこそ――滑稽で、おどけて見え、相手を小馬鹿にしているようであった。
「ほうほう」と、アイザックはセシルのその敬礼を頭のてっぺんから靴の爪先まで眺め、最後には彼の灰色の瞳の中を奥まで見通すようにぐっと覗きこんでいた。「なかなか懲りないようですね、あなたも。だがそんな態度をとっていられるのも、今のうちだけですよ」
「ハッ、恐縮であります。上官殿」
もはやセシルにとって恐れるものなど何もなかった――殺したいなら殺せ、というような気持ちしかない。
「まあ、いいでしょう」
アイザックは書類の積まれたマホガニー製の机に向き直ると、そこから一枚の重要書類をとりだし、セシルの鼻先に突きつけた。
「これが一体なんだかわかりますか?」
ずらりと名前が並ぶその右側に、伍長だの軍曹だのと軍の階級が記されているのを見て、セシルはもしやと、その時初めて顔が青くなった。
「ようやく馬鹿なあなたにも、事の次第が飲みこめたようですね。そうですよ――これは強制収容所にいる連合国軍側の捕虜の名簿です。我らユーディン軍としても、なるべく正確な情報とともに、いつ誰がどこの収容所に何年いるのか、あるいは死んだのなら何が原因で何月何日に亡くなったというようなことを調べてあちらに報告しなくてはなりません。ほらここに、あなたの名前もちゃんと載っていますよ」
さあ、喜ぶがいいというように、アイザックは硬直したように敬礼の姿勢をとり続けているセシルの目の前に、その紙切れをひらひらさせた。
「……そこに、アシモフ・モールヴィの名前はありますか?」
自分は曲がりなりにも大佐だ、との意識と誇りが、その時セシルの心に再び思いだされた。自分がもしただの一兵卒や伍長、軍曹クラスなら――ろくに調べもせずに死亡したとすることもできるだろう。だが見たところ、その名簿のリストには、どうやら重要人物順に名前が記載されている節がある。いかにアイヒマンといえども偽りの報告書を軍の上層部に提出できるとは、セシルには思えなかった。しかし、何年も前にシオン人解放軍に加わり、いわば正規の軍の規律に刃向かったともいえるアシモフの名は、そこにあるのだろうか?
「お優しいことですね、大佐殿は」アイザックは石造りの暖炉の前にあるソファに腰かけると、その長い足を高々と組んだ。「それより今は御自分のことを心配なさったらいかがですか?すべてはわたしの胸一存だということを、忘れてもらっては困ります。わたしがあなたをここから生きて返すとでも、本当に考えているのなら、あなたも大したお人好しだ」
セシルはごくりと生唾を飲みこむと、敬礼の姿勢を崩した。アイザックの言うとおりだった。確かに報告書に生きているのに死亡と書き記すことは、軍人のはしくれである彼にはできないことであろう。だが、報告書と事実とを一致させるために――今すぐにここでセシルを殺すことのできる権限が、アイザックには与えられているのだ。
「ほうほう」と、アイザックは髭の剃り具合を確かめるように、顎のあたりを撫でた――いやらしくにやりと笑いながら。「どうやらあなたにも、事の重大さがようやくわかってきたみたいですね。ここであなたがもし――わたしに向かって這いつくばって縋って頼むなら、いいでしょう、喜んでわたしはあなたのことを釈放してあげますよ。どうですか?そういう気持ちがあなたにはありますか?」
セシルはアイザックの前に膝を折った。そして羊の毛でできた敷物の上に、鼻をすりつけんばかりにして懇願した。
「……お願いします。だしてください、俺をここから」
「ハッハッハッハッ!」と、アイザックは哄笑し、いかにもセシルの這いつくばるその姿が見たかったのだと言わんばかりに、冷酷な蛇を思わせる瞳で、彼のことを見下ろしている。
「よろしい。いいでしょう、もちろんこの地獄からあなたのことを解放してあげますよ――ただそのかわり、ひとつだけ条件があります。その条件とは……」
セシルは屈辱に顔を歪めながら、額を床にすりつけたままの格好で、アイザックの次の言葉を待った。もしそれが仲間を裏切るような行為であったとしたら――自分は一生ここから出ていく機会を失うことになるだろうと、そう思いながら。
「一晩、わたしに奴隷として仕えることですよ。それでいかがですか?」
一瞬、セシルは言われた言葉の意味がわからなくて、身体を硬直させた。そして以前、エディンが言っていた、美少年云々の話を思いだして――体の底から熱が、頭のてっぺんにまで、一気に上ってくるのを感じた。
「この条件が不満ですか?だったらいいのですよ、報告書にはあなたは死亡と記載され、本国の戦没者記念碑に生きているあなたの名前が刻みこまれるだけの話ですからね――わたしは南京虫が刺したほどにも、良心の呵責を覚えることはありませんよ」
さあどうする?というような、アイザックの意地の悪いにやにや笑いを見上げて、すぐにセシルは頭を垂れた。アイザックのいう奴隷というのが、性の奴隷であることは明白であったが、それでも――セシルはもしかしたら他の意味での奴隷かもしれないと、無理矢理そこに希望の光を見出そうとした。
「では早速今晩、身綺麗にしてわたしの部屋までいらっしゃい。たっぷり可愛がってあげますよ――あなたが本国へ帰ったあとも、女になど見向きもできないくらいね」
(……この、変態野郎ッ!)
セシルは殴りかかりたい衝動をなんとかぎりぎりのところで堪え、卑屈に歪んだ顔つきのまま、施設長の執務室を辞去した。そしてアイヒマン施設長の腰巾着のひとり――彼はセシルがこのアルファシノク捕虜収容所に初めてやってきた時、セシルのことを拷問部屋へ連れてきた、背の高いほうの兵士であった――に、囚人の使用する大浴場へ引っ張っていかれ、ゆっくり時間をかけて耳の裏まで綺麗にするようにと、気味の悪いことを指示された(真面目くさった顔つきで、さもそれがもっとも重要であるというような物言いであったため、余計にセシルにはそれが気味悪く感じられた)。
囚人は週に一度の入浴が義務づけられているが、シャワーの使える時間はおのおのたったの五分であった。ずらりと一列に並ばされ、ひとりが終わるとまたひとりといった具合に、見張りの兵にすぐ脇で指示されるのだ。そしてセシルはこの時、思う存分石鹸を使い、耳の裏から足の裏まで綺麗にし、また金玉に溜まった垢にいたるまで、ごしごし洗い落とした――それは何もアイヒマン施設長のためではなく、以前からそこに痒みがあったためであった。だがセシルは自分の体を生物的な欲求からゆっくり時間をかけて洗っているうちに、なんだか自分が男娼であるような気持ちになってきて、胸が悪くなるのを感じた。
(そういえばあの野郎、俺たちが入浴する時には服を脱いで一列に並ぶのを必ず横でじろじろ見てやがったっけ――てっきりそれは屈辱的な思いを与えるためだとばかり思っていたが、まさか本当にそういう趣味だったとはな……)
この年になるまで一度も女を抱いたこともなければ、キスさえしたことのない自分の初体験があの憎むべき蛇のようなアイヒマン施設長とは――確かに自分は本国へ帰ってからも、女には見向きもできないのではなく、見向きもされないだろうと、セシルは卑屈な笑みを頬に浮かべた。
どんなに屈辱的な嫌なことでも、時間の経過とともに過ぎ去る――セシルは軍人になってから、そのことを嫌というほど学んできたつもりであったが、やはり例外というものはある。その夜、セシル・マグワイア大佐が、あの蛇のように冷酷なアイザック・アイヒマンにどのような愛撫と拷問を加えられたかについては、大佐の名誉と誇りのためにあえて言及は避けたいと思うが、マグワイア大佐がその夜を境に男色行為に目覚めたというようなことは一切なかったとだけは言えるだろう。むしろマグワイア大佐は――やはり自分は異性愛者なのだと、生まれて初めて女性の肉体を欲しいと、その夜を境に思いを巡らせるようにさえなったようである。そしてアイヒマンが約束どおりセシルのことを釈放するため、軍法規律にのっとって彼をデューカイヴスの街まで護送すると――彼の身柄はそこで、タリス軍の准将の手に引き渡され、セシルはナザムナセル准将と、涙の再会を果たすことができた。
セシルは他の何百人といる帰還兵たちとともに、軍用列車でカルヴィン港まで移動する途中、准将に捕虜生活のことや、そこにまだ元タリス軍の捕虜がいること、自分は本国へ帰り次第、陸軍省に嘆願書を提出して、まだ残っている捕虜の安否について引き続き調査するようミネルヴァ陸軍大臣に直接お願いするつもりだ……といったようなことを、熱に浮かされたように語った。
「ふうむ。それではこうしてはどうかね?ロカルノンの陸軍省に、しかるべきポストをわたしが君のために用意するというのは?」
ナザムナセル准将は立派な鉄灰色の口髭を撫でながら、思案するように隣の座席のセシルのことをちらと見た。彼は今四十八歳で、准将になったのがつい昨年のことであり、それまではセシルと同じ大佐だったのである。そして彼が大佐になったのは、ようやく四十を過ぎてからのことであったので――陰性植物のように辛気くさい顔つきをしたナザムナセル准将は、この若き大佐殿に、非常に面白くないものを感じていた。
(陸軍省に嘆願書など提出して、英雄にでもなるつもりなのか、この若造は?まあ、いいさ――とりあえずこの場は体裁をとり繕っておいて、本国へ帰ったあとのことは、自分でなんとでもするがいい)
嫉妬心の非常に強い准将殿の本心を見抜けなかったセシルは、カルヴィン港から海軍の戦艦――クロイツネイル号に乗船して大洋を渡る時も、心は希望に燃え立っていた。そして実際に本国へ降り立ってみると、准将の約束したしかるべきポストなどという地位はまったくなく、彼は孤軍奮闘する形で、まだ強制収容所にいるアシモフのことを救出すべく活動することを強いられた。