永遠のローラ 第Ⅲ部 (2)
ユーディン軍の兵士はみな、強い鋼のような意志と実行力、また優れた統率能力を持っており、それ故に恐ろしく残忍で、上官の命じたことには絶対服従であった。ラヴィニアとタリス、セラルディン、オーデルワイス、ネイブルシュタット、エルキュサスといった連合国軍が何度和解の申請をし、シオン人を捕虜収容所から解放するよう説得を重ねても――時の皇帝カイザルヴェヌスⅣ世はそれを承知しなかった。何故ならゼノン人とシオン人の間には有史以来戦ってきたといってもよいほどの長い歴史があり、ゼノン人の宗教ではシオン人だけはこの地上から抹殺せねばならないとの神の教えが教典にあり、またシオン人のほうの宗教でもゼノン人は聖絶すべしと聖典にあったので、このふたつの民族は土地を巡ってそれこそ血みどころ争いを長く続けてきたのであった。
そしてとうとう――ラヴィニアとタリス軍のアルノンソワイユ上陸作戦を皮切りに、以後二年間続く連合国軍とユーディン軍との決死の戦いが、その火蓋を切って落としたというわけなのである。
ラヴィニア軍とタリス軍はまず、ガリューダ半島を制圧するために、アルノン川沿いに陸軍基地を設置した。第一陸軍本部と、二棟の兵舎病院を建設し、以前はロンバディーの土地であったガリューダ半島を奪還するのがラヴィニア・タリス軍の目標であった。しかし、アルノン川の向こう岸にあるユーディン軍基地を破壊するための進軍で、おびただしい負傷者がでたばかりでなく、五百名以上の兵士がコレラにかかって命を落とした。
セシルもまたゲッティンバーグ将軍の麾下で多くの部下を失いながらも進軍を続け、奇襲作戦によってユーディン軍を辛くも敗走させることに成功したものの――続くスレインレインの激戦で、セシルは敵軍に捕虜として捕えられることになってしまった。ここからが、彼がかつて味わったこともない、不幸で惨めな、地獄の捕虜収容所での生活のはじまりであった。
セシルは部下数名とともにユーディンの兵士に捕えられたわけだが、ゼノス語に通じていたセシル以外の部下はなんの役にも立たないとして、即刻彼の目の前で射殺された。
そしてセシルはひとりだけユーディン軍の上官の判断で命を救われたわけだが――おそらくその場で部下とともに射殺されていたほうが、セシルにとってはよほど幸せであったに違いない。
セシルは捕虜として軍用列車でデューカイヴスという町まで移送されると、そこで略式のユーディン軍の裁判を受けることになった。セシルはゼノス語に通じていたばかりにスパイの嫌疑をかけられ、当然ながら有罪としてアルファシノクという寒村のそばにある捕虜収容所へ送られることとなった。
そして捕虜収容所での屈辱的な身体検査が終わると、下半身に下着を一枚着けたままの格好で、拷問部屋へと入らされることになったのである。スパイ容疑をかけられてここへ送られた者はみな、この<通過儀礼>を受けなければならないらしいが、中には発狂して、二度と正気に戻らなかった者もいるという、その拷問とは……。
セシルはまるで感情といったものの感じられない、青白い顔をしたユーディン軍の兵士ふたりに脇を捕まえられた格好で、石造りのひんやりとした部屋に入らされた。そのふたりの青灰色の軍服を着た兵士ふたりは、木製の、朽ちかけたような椅子にセシルを座らせると、彼の両手・両足をがっしりとその椅子に縛りつけ、すぐに部屋をでていった――重い樫材の扉が閉まると、ガチャリと鍵のかかる、重厚な音がセシルの耳に響いた。
セシルはてっきりこれから、ふたりの冷酷な兵士によって殴る蹴るの暴行を加えられるか、鞭打たれるといったような種類の拷問を想像して、無意識のうちにも奥歯を食いしばっていたのであるが――それから暫くしても誰もこず、滑稽にも裸で椅子に縛られた格好のまま、これから一体どのような拷問を与えられるのかと、心臓の心搏数が上がるのを感じていた。
そしてさらに時間が経ち、セシルがもはやこのまま何も起こらないのではないかとすら思いかけた頃――部屋の隅からざわざわと、何やら不気味な物体の気配がしてきた。<彼ら>はゆっくりじっくり時間をかけるようにセシルの足許まで到達すると――まるで山でも登頂しようとするかのように、セシルの体を這い上がってきた。
「うわああああああっ!」
ガターン、と椅子の引っくり返る音と悲鳴とが聞こえると、拷問部屋の外で見張りをしていたふたりの兵士は顔を見合わせ、にやりと笑った。そして背の高いほうの兵士が、ゼノス語でこう言った。
「どうやら、始まったみたいだな」
セシルの体を這い上ってきたのは無数のムカデと南京虫であった。セシルはこれまで軍人として敵兵の前で恥となるような行為を一度もしたことがなかったが、それでももし目の前にユーディン軍の将校がいたとすれば、恥も外聞もなく、助けてくれ!と泣き叫んだことであろう。南京虫とムカデが体中を這いつくばり、とうとう彼の顔にまで張りついた時――セシルは失神して意識を失った。
一体何時間そうして意識を失っていたのかはわからないが、バケツ一杯の冷たい水を浴びせかけられてセシルが目を覚ました時――あの無数のムカデと南京虫は、まるで彼の幻覚だったとでもいうように、雲散霧消していた。
「ご機嫌いかがかな?タリス軍の大佐殿」
セシルに水を浴びせたのは先ほど彼をこの拷問部屋に連れてきた兵士のひとりだったが、その横に、セシルが今初めて会う、アルファシノク捕虜収容所の施設長、アイザック・ハインリヒ・アイヒマンが立っていた。
彼は六フィート二インチあるセシルよりも背が高く、いかにも堂々とした恰幅のいい男であった。短く刈り上げた金の髪に、冷たいアイス・ブルーの瞳……顔は大理石のように白く、髭を剃ったあとだけが少しばかり青かった。年はおそらく三十半ばといったところであったろう。
アイザックは軍靴をかつかつ鳴らしてセシルの元までやってくると、ぐいと彼の顎を強い力で引っ掴んでセシルのことを持ち上げるようにして立たせた。
「ほほう。まだまだ全然正気と見える。ものによってはね、たったの一度で発狂してしまうこともあるのだが……流石は大佐殿ですな。そこいらの一兵卒とは訳が違う」
アイザックはセシルに接吻するかのように顔を近づけ、彼の灰色の瞳の中に生きる希望がまだ残っているのを見てとると、いかにも忌々しい、といったようにセシルの裸の体を冷たい石壁に叩きつけた。
「作業服を用意してやれ!今日はこれから日が暮れるまで、製材所で働かせろ!」
セシルはふたりの兵士に付き添われるような格好で、これから自分の住居となる小さな丸太小屋の並ぶ場所へと連れていかれた。
中は火の気がなくて寒く、六人ほどの身汚い男たちが、互いに体を寄せあうように、何か薫製のようなものをしゃぶっている。そして兵士のひとりが「新入りだ」と言ってセシルのことを紹介し、午後からの作業に一緒に連れていくよう指示した。
六人の男たちはみな同様に不精髭を生やし、生きる希望のない、絶望した暗い眼差しをしていた。新しい人間が自分たちと同じ地獄へやってきたことには特別興味がないらしく、くちゃくちゃ言いながらやイカの薫製をゆっくり味わうように噛っていた。
「よう、新入り」午後の作業開始のサイレンが鳴り始めると、この小屋のリーダーらしい背の低い男が、セシルに声をかけた。「ここから逃げようなんて夢ゆめ考えるんじゃねえぞ。おまえがもしいなくなったら、連帯責任とかいうやつで、同じ小屋の人間は全員、見せしめに射殺されるんだからよ」
その男のゼノス語には、微妙に訛りのようなものがあった――セシルは彼がどこの出身なのかを知りたいように思ったが、その時はまだ誰とも口さえ聞く気力がなく、ただ黙って頷くのみだった。
その日の午後、セシルは与えられた製材所の仕事を黙々とこなした。木挽き台の上に松の樹や樅の樹、杉の樹などの大木を仲間と協力しながら乗せ、指定された規格のとおりに、ノコギリで切断していく――その作業は実に単調なもので、軍人として体を鍛えられていたセシルは、六時間休みなしでその仕事を続けても、少しもへばることがなかった。
「今日はまだ序の口さ」
他の男たち全員が疲れきったような様子でいるのに対して、セシルがまだ働けそうなのを見てとると、小男のアシモフは何故か、負け惜しみを言うように、セシルに皮肉げな微笑みを投げかけていた。
丸太小屋に戻ると、それぞれの小屋に配給された食糧で食事を作らなければならなかったが、その配給は週にたったの一度で、小麦や米がほんの少しと、豆やとうもろこしの罐詰、乾パン、イカの薫製などであった。セシルが初めて製材所で働いたその日は、ちょうど配給のある曜日だったわけだが、丸太小屋の入口に置かれた袋の中身を見たセシルはてっきり、それが今日一日分の食糧に違いないと思った。
「驚くんじゃないぜ、新入り」アシモフは袋の中身をのぞきこんでいるセシルに向かって言った。「それが今日から一週間分の食糧だ。泣いても喚いても来週まで米一粒配給されねえからな。大切にしなきゃなんないぜ――餓死しないためにな」
「だがこれじゃあとても、七人分には到底……」
背の高いがっしりとした体格の男が、セシルのことを羽交い締めにするように、後ろから逞しい腕で突然彼のことを押さえつけた。すぐにアシモフが配給の袋をセシルの手から奪いとる。
「なあに、心配しなさんな。おめえさんが新入りだからって、何も与えねえような真似はこちとらしはせんよ。小麦粉も米も薄めて薄めてスープにして、一週間なんとかやりすごすっきゃねえ。豆ととうもろこしはきっちり七等分。それとイカの薫製もな」
その夜の食事ほど、惨めでまずいものをセシルは長い軍隊生活の中でさえ、食べたことがなかった。それは彼が小さな頃から大嫌いだったポリッジとさえ呼べない代物だった。底のほうに沈んでいるほんのちょっぴりの米をなんとかブリキのスプーンで掬って食べ、あとはなんの味もしない湯を啜っているようなものであった。せめて塩だけでもあれば――いや、贅沢を言うことが許されるなら、ほんの少しの野菜と塩づけの豚肉がそこに入っていたら、ここの囚人たちにとってはおそらく、それが何よりの御馳走だったろう。
食事の間中、誰もみな無言だった。まるで言葉を喋ることによって、体力が消耗するのを避けようとするかのようであった。そして食事が終わり次第すぐに就寝――何故なら暖炉にくべる薪も配給制だったわけだが、あれだけ木材がありながら、そう多く配給されるわけではなかったからだ。
セシルは狭い部屋の隅に陣どると、襤褸布のような毛布にくるまって眠った。今はまだ八月だというのに、真夜中になると薄ら寒さによって目が覚めた。これから秋になりやがて冬になったとしたら――一体どうなることだろうと、セシルは身震いしながら再び眠りに落ちた。
「てめえ、俺の食糧をどこにやりやがった!」
薄い緑色の作業服姿の男たちが、夜明けとともにずらりと並んで製材所に向かう途中、隊列を乱すようにその喧嘩は起きた。セシルの作業服には<67>の数字が縫いつけられていたが、その喧嘩をはじめたふたり――99番と104番――は、見張りの兵士に見咎められ、銃剣で殴られていた。セシルは思わず後ろのほうで起きたその騒ぎを振り返り、じっと眺めていたが、
「気にするんじゃねえよ」と、アシモフに石作りの塔のてっぺんを見るように、注意された。「配給のあった次の日には大抵、今みたいな喧嘩が起こるのさ。相手の腹の中に入っちまったあとじゃあ――吐かせて取り返すってわけにもいかねえから、ああやって騒ぎになる……あいつらみたいに殴られただけですみゃあいいが、すぐに銃をぶっ放されてオダブツっていうこともあるからな。おまえも気ィつけるこった」
アシモフが視線をやった石作りの塔の見張り台には――アイザックの姿があった。髭を剃り落として身綺麗にしている施設長は、鞭を手にしながら囚人の隊列を眺め、薄ら笑いを浮かべている。
(あれは、楽しんでいる目だ)と、セシルはアイザックと目を合わせないようにしながら思った。(あいつはきっと、俺たちが何かをやらかして刑罰を受けるのを――楽しんでいるに違いない。そしてそのために、喧嘩が起きても仕方ないような状況をわざわざ作っているんじゃないのか?)
その日、夜明けとともに作業が始まり、八時頃になると、きのうセシルのことを拷問部屋に連れていった兵士のひとりが、セシルのことを――正確には67番のことを――呼びにきた。
「アイヒマン施設長がお呼びだ」
そう青白い顔をした背の高い将校が告げると、何故か作業中の囚人たちはみな、羨ましそうな顔をした。作業を開始してから四時間――休憩になるまであとさらに四時間もある。そして午後からはまた休みなしで日が暮れるまで、約八時間ぶっとおしで働き続けねばならないのだ。
だがセシルは決して、親切な施設長に呼びだされて、幸運にも少しばかり作業を休めたというわけではまったくない。彼は再びあの身の毛もよだつような拷問部屋に連れていかれ、裸のまま椅子にくくりつけられ、虫責めにされた揚句失神していた。
「おい、起きろ!」
兵士のひとり――背の高いほうではなく、低いほう――に水を浴びせられると、セシルは目を覚ました。すぐ目の前にアイヒマン施設長の黒い軍靴の先があった。彼はきのうと同じく、絞め殺すような勢いでセシルのことを立ち上がらせると、呻いている彼の灰色の瞳の中を覗きこんだ。
「ほうほう」と、彼はいかにも興味深いものを見たといったように、にやりと笑っている。「まだまだいけるようですねえ、大佐殿は。まあそう簡単に絶望されては、わたしとしてもつまりませんから、せめてもう暫くの間、楽しませてもらいましょうか」
最後にアイザックは、足許に一匹いたムカデをセシルの腹のあたりに放って寄こした――「ひっ!」と思わずセシルが鋭く叫んで身をよじると、
「アッハッハッハッ!」
さも楽しいものでも見たといったように高笑いし、その場を去っていった。
(……この、嗜虐趣味の変態野郎!)
そうセシルは心の中で叫んだが、アイザックに対する強い憎しみと怒り――その炎のような感情が胸のうちにたぎっているだけでも、彼の精神力は大したものであったといわねばならない。普通なら、完全に恐怖に心を支配され、相手に逆らおうという気力さえ失っているはずであろうから。
セシルが再び製材所へ戻って作業を開始すると、すぐに正午を報せるサイレンが鳴り響いた。彼と同じ小屋の仲間たちは、セシルが少し生気を失ったようなぼんやりした顔をしているとは感じたものの、作業を三時間以上も休めて羨ましいと、内心ではそう思っていた。
アシモフ以外の他の同室の五人の男たちは、セシルがてっきりタリス軍内部に関する情報の取り調べを受けているに違いないと思っていたのである。だがアシモフだけは――セシルが施設長に呼ばれてさらに二日、三日と時が経過するにつれ、セシルの顔からだんだんと生気が失われ、一度など休憩時間中に吐瀉しているのを見て、
(こいつはきっと、何か拷問にでもかけられているに違いない)と鋭く見抜くようになった。それで、その後一週間がたち、セシルが石壁の灰色の塔に呼ばれなくなると――一体施設長はおまえに何をしたのかと、夕食時に彼を問いつめた。
「きっと何か大事な軍の機密を握っていると思われたんだろ?それで拷問にかけられてゲロっちまったから、塔のほうには呼ばれなくなった――そうなんだろ?馬鹿だなあ、おまえ。結局最後には吐いちまうんなら、すぐにしゃべっちまえばよかったのに。あの変態野郎のこったから、鞭を振りふりチーパッパッてなくらいじゃ、済まなかっただろ?」
「ああ」と、頷きながら、セシルは思わず苦笑した。この一週間は本当に地獄だった――しかもだんだん気を失うまでにかかる時間が長くなり、最後には放尿するという失態まで演じてしまった。だがセシルのそんな不様な様子にアイザックはようやく満足したのか、あれ以来、塔の拷問部屋には呼ばれなくなったのだ。
「もし、振るわれた暴力が単に肉体的なものだったとしたら――俺はたぶん耐えられたと思うんだ。殴るとか蹴るとか、顔を火で焼かれるとか、そんなことなら」
六人の囚人たちは、暖炉のまわりに半円形を描くようにめいめい腰かけながら、味のしないスープをすすりつつ、セシルの話に耳を傾けている。
「するってえと、一体なにをされたんだい?」
これまで、セシルと一度も言葉を交わしたことのない、ラナクという名前の男が聞いた。年の頃はセシルと同じくらいであったろうか、どんぐりのような緑色の瞳をした、褐色の肌の男で、彼はてっきりセシルがアイザックに気に入られて、短時間作業を免除されているものとばかり思っていたのだ。
「身の毛もよだつっていうのは、ああいうのを言うんだろうな」セシルは久しぶりに人間らしい会話ができそうな雰囲気に、なんとはなしに喜びを感じてにやりと笑った。「あの野郎は変態だな――それも正真正銘の。俺は何も軍の機密について拷問を受けてたってわけじゃないぜ。ただ奴さんの嗜虐趣味を満足させるためだけに、素っ裸で石造りの暗い部屋に放りこまれて、南京虫だのムカデだのと格闘してたってわけさ。最後には俺がしょんべん漏らしちまったもんで、奴さんはさぞ満足なさったのだろうよ――何しろそれから拷問部屋へは招待されなくなったからな」
六人の男たちはぎょっとしたように顔を見合わせ、それから笑ったほうがいいのか悪いのかと迷ったあとで、やはりアシモフに続くようにして笑った。
「そいつあ、てえへんだったな。おりゃあよう、てっきりおめえがあの施設長殿に可愛がられているのかと思ったぜ――時々色の白い美少年なんかが何かの間違いでやってくると、すぐにあいつの餌食さ。ムカデの相手と変態のチンポコしゃぶるのとどっちがいいかっていえば、なんともいえねえけどよ」
ガッハッハッハッと、背の高い、がっしりとした体格の、いかにも熊男といった風貌の男が笑った。残りの五人はすぐにしーっと、口に人差し指を立てている。
「静かにしろよ、エディン。見張りの兵に聞き咎められたら大変だぜ。ここからは施設長の名前はだすな。こっそりチクられでもしたら、もっとキツい仕事のほうにまわされるか――下手すりゃあ鉱床のあるラルファバードかミスチル河畔の油田に送られて、二年か三年でオダブツだろうよ」
「ラルファバード?ミスチル河畔?」と、セシルは頭に地図を描きながらアシモフに聞き返した。ふたつとも元はロンバルディーの土地で、今は強制収容所のある場所として、連合国軍が真っ先に攻略したいと考えているところだ。
「バーナム。おまえが説明してやりな。こいつはラルファバードからこっちにまわされてきたんだ――たまたま運よくな」
バーナムというのは、白髪頭で灰色の瞳をした、右目に傷のある、死んだような顔をした男だった。あとからセシルが聞いたところによると、三十二歳ということだったが、どう見てもその容貌は四十歳を越えているようにしか見えなかった。
「俺っちはつまんねえ盗みで捕まったのよ」と、バーナムは男とは思えない、甲高い声で話しはじめた。「ただ父親はゼノン人でも、母親がシオン人だったから――そうびっくりしなさんな。宗教を越えた恋愛というのもあるんだからよ。それで取り調べの結果、すぐに収容所いきが決まったってわけだ。ラルファバードは地獄だぜえ。あすこに比べたらここなんか、まだしも天国ってとこだ。ほとんど飲まず食わずで働かされてよ、暗い穴蔵で来る日も来る日も銀やコバルトやニッケルを掘って……大抵の奴はすぐに肺炎かなんかになって死んだ。あすこじゃあ囚人はほとんど使い捨ても同然でな、むしろ早いとこ死んだほうが苦しみも短くていいってもんだったぜ」
「そうだぜ、セシル」と、アシモフが初めて彼のことを名前で呼んだ。「おまえはどう思ってっか知らねえが、いくらしみったれてようと、食糧が与えられるだけでも、まだここはいいほうなんだぜ。ミスチル油田なんか、もっとひどいぜえ。油田開発だかなんだか知らねえが、毎日が危険と隣合わせで、次から次へとバタバタ人が死んでいくんだ。ここも確かに仕事はキツいが、それでもまだ人権ってものが尊重されてるんだからな」
「じゃあ、アシモフは何を……?」と、セシルが聞くと、他の五人の目が一気に彼に集中した。他の者もアシモフがミスチル油田にいたことは知っていたが、それ以上のことは何も教えてもらっていなかったからである。
「俺は……あんたと同じタリス人だ。五年前にシオン人解放軍に加わって、ミスチル油田送りになった。まあ、よほどのことでもなけりゃあ、一生ここからはでていけないだろうよ――連合国軍がいくら頑張っても、ここまで救いの手がやってくるとは、とても思えねえからな」
その時誰もがしーんとなって、黙って話を聞いていたシフォルとケイディルがふたりとも、ほぼ同時に毛布にくるまって眠りはじめた。とても疲れていたのだろう。一同は暖炉の火を消すと、それぞれいつもの自分の場所へ横になって、すぐさま深い眠りの底へと落ちていった。
「シフォルとケイディルはシオン人で、べつに何か悪いことをしたってわけでもなんでもねえのに、ただシオン人ってだけで収容所送りになったのさ。同じ村の出身だとかで、仲がいいが、まあふたりともあんまり口を聞かねえな。エディンもラナクもバーナムも、普段はあんなにしゃべったりはしない――毎日十六時間も働かされれば、そりゃあ誰だって無口にもなるさ。それにあいつらがこんなことを言っていたとか、他の小屋の連中が兵士の誰かに密告するとも限らないからな――ここでの楽しみといえばよ、兵士に仲間のことをチクって煙草を数本もらうとか、食糧のおこぼれに与るとか、そんなことくれえしかねえから、セシル、おまえさんも自分の口には気をつけるに越したこたあねえぜ」
アシモフは、セシルのタリス軍での階級が大佐であることを知ると、自分はしがない少尉だとか言いだして、彼に一目置くようになった。シオン人解放軍というのは、ラヴィニアとタリス軍の中立の立場を越えて、シオン人をユーディン軍の虐殺から救おう、いや救うべきだとする軍隊の中で分裂してできた組織である。セシルは解放軍に加わりはしなかったが、加わりたいと思う気持ちは一時期確かにあった――当時連合国軍の動きは今以上に鈍く、現地の凄惨さを知る者は誰も、軍の上層部の融通のきかなさに、腹立ちと苛立ちを覚えたものである。
セシルは拷問部屋へ呼ばれなくなって暫くすると、石造りの塔の前を横切る時、わざとにやにや笑いを浮かべて歩くようになった。もちろん、アイザックとは目を合わせないようにそうしていたのであるが、すぐ隣にいたアシモフは監視塔の上部にいるアイザックが憤怒の表情を浮かべているのを見て、思わずセシルのことを肘で突っついていた。
「おい、よせよ」とアシモフは小声で囁いた。「またあいつに睨まれると、拷問部屋いきだぞ」
「そうかもしれない」と、セシルもまた小さな声で言った。「でもこれは俺にとって、ほんのささやかばかりのレジスタンスなのさ」
セシルは作業中も時折このにやにや笑いを浮かべながら材木を切る仕事を続けた。これで口笛でも吹こうものなら、見張りの兵士に銃剣で殴りつけられたことであろうが、彼は見張りの兵が自分のほうに目を向けると、すぐさまいつもの無表情に戻った。
最初のうち、このにやにや笑いを浮かべているのはセシルひとりだけであったが、この静かなるレジスタンスは、次第に周囲に浸透していくようになった。せえの、でと松の樹や樅の樹、杉の樹などを木挽き台に乗せる時など、みな一瞬目を合わせてにやりと笑った。
セシルはべつに誰にもこのレジスタンスについて説明しなかったし、誰も彼に何故いつもにやにやしているのかと聞く者もなかった。ただ囚人はみな、言葉もなく(そういうことか)とおのおの心の中で了解したのである。
セシルの考えというのはようするに、こういうものであった――彼はこれまで行軍の途中でこれでもかというくらいうんざりさせられた経験を持っていたが、とにかく自分に与えられた任務を遂行するために、最善を尽くす努力をしてきた。晴れていようが雨が降っていようが幕舎を設営しなければならないという時、心の中で文句を言っている暇があったら、さっさとその仕事を成し遂げてしまうのみである。銃剣突撃という時にも、勇気をもって戦わねばならぬなら、不様なところなど少しも見せずに勇猛果敢に戦うのみ――彼は自分の心が不平不満を言うのを許すことなく、これまでたくさんの兵の命を預かる上官として、恥じるところなく振るまってきたつもりであった。
ようするに、陽気に仕事をしようが、暗澹たる気持ちで材木を挽こうが、なさねばならぬ仕事の量は同一である。それならば――私語は許されぬにしても、仲間同士で呼吸をあわせて、せめても和やかに一日一日の任務を遂行しようじゃないかというわけだ。
見張りの兵士のほうで、時々「おまえら何を笑っている!」と怒鳴ったり、「ぶったるんでいるぞ!」と銃剣で囚人のひとりが殴られたあと、仕事の量を増やされるということもあったが――それでも誰もみな、このにやにや笑いをやめなかった。
むしろ兵士たちのその反応が面白いくらいであった。囚人たちも殴られたあとで「俺の顔は生まれつきこういう顔なんです。許してください」と言ったり、殴られて口から血が滲んでいても、さらににやにや笑いを続けたりした。
セシル自身も、他のどの囚人も、このにやにや笑いがどういう結果になるのかはわからなかった。ただにやにや笑うことによっていつも偉ぶっている見張りの兵に不快感を起こさせるのが快感だという、ただそれだけだった。
しかし、二週間ほどそんな日々が続いたあとで――やはり施設長のアイヒマンの耳にこのことが伝わると、セシルは製材所から別の作業場へと異動することが決まった。ただ使用する丸太小屋はこれまでと同じだったので、セシルはとりあえずほっと安堵した。そして製材所からセシルの姿がなくなると、自然、囚人たちの間からはにやにや笑いが消えた――それ以上何かしたなら、見せしめに誰かが犠牲になるであろうとは、動物的な勘のある者になら誰にでも、すぐにわかることだったからである。




