幕間~エメリン・ゴールディの死~【3】
八月も末の夏の終わり頃、エメリンは泣きながらウィルバー家の別荘から帰ってきた。ロレインに説得されたロルカが、彼女に手切れ金とともに、別れを切りだしたためである。
「彼の心変わりはすべて、あの冷たいお姉さんのせいよ!」
テーブルの上で泣きじゃくるエメリンを見ても、マイクはあまり同情しなかった。だが同情しているふりを装いながら、優しく彼女に慰めの言葉をかけた。
「ふん!あんたなんて――どうせこうなってよかったと思ってるんでしょ?だけどあたしは――絶対にあんたとだけは結婚なんかしませんからね!それより、あの女がロカルノンへいってしまう前に――何か一言ぎゃふんと言わせる方法を考えつかなくっちゃ。あたしにはわかってるのよ――あの女は用意周到に網を張った、黒い毒蜘蛛みたいな女なのよ。弟のロルカには優しい貴婦人のような顔をしてるけどね」
エメリンがミス=ウィルバーのことを黒蜘蛛に例えているのを聞いて、マイクは一瞬どきりとした。やはり彼女も同じように感じたのだ――ミス=ウィルバーは日曜日に教会で献金をする時などは、うっすらと上品な微笑みすら浮かべて、まわってきた献金箱に多額のお金を寄付するのであったが――彼女の本性は決して、あんな生易しいものではない。
「エメリン、もしあの女が邪魔なら――俺があの女のことを、あの可哀想な狆ころみたいにしてやるよ」
マイクは半分、それを冗談で言ったのであったが――もう半分は本気であった。もうマイクはエメリンを待ち続けることに、すっかり疲れきってしまっていた。きっといつかは自分の愛情深さに気づいてくれるに違いないと思っていたが、今エメリンははっきりと、ロルカと別れても自分とは結婚するつもりはないと言った。きっと彼女は――ロルカとのひどい失恋を癒すために、次に恋に落ちた適当な男と、今度こそ本当に結婚してしまうかもしれない。それくらいならいっそのこと――彼女のためにこの手を汚すことさえして、遠い海原の果てにでも旅立ったほうがよくはないだろうか?
「……どういうこと、マイク?」
その時、エメリンの魔性の碧玉の瞳が一瞬輝くのを、マイクは見逃さなかった。そうだ、彼女の心を苦しめてはいけない。俺はなんの計画も打ち明けずに、あのいけ好かない女のことをある場所へ呼びだし、殺して埋めるなりなんなりしなけりゃあならない。そして逃げるようにウィングスリング港から、漁船に乗って旅立つのだ。
――その夜、本当に久しぶりに、エメリンはマイクのベッドの中に忍びこんできた。はっきりと言葉で言い表わされなくても、マイクはその意味するところがよくわかっていた。ふたりは激しく抱きあい、またマイクにはこれが最後かもしれないとの思いが胸をよぎり、何度も繰り返し果てるまで、エメリンの魅惑的な肉体を求めた。
「……ねえ、本当にやってくれるの?」
ああ、もちろんだ、というように、薄闇の中でマイクは重々しく頷いている。
「俺がこれまで、エメリンの望んだとおりにしなかったことが、一度でもあるか?」
エメリンは静かに首を振っている。ああ、これでもしあの女を殺すことで――愛しいエメリンを永遠に自分の妻として迎えることができるなら――自分はロレインだけでなく、あのロルカを手にかけることだって、少しも厭いはしないのに!
エメリンはマイクがあまりに激しく求めすぎたためか、疲れたようにぐったりとして肉体を横たえ、安らかな寝息を立てている。
この肉欲の快楽が、ひとりの女を殺すために、彼に与えられた報酬であった。
ひとりの人間をこの世界から抹殺するという計画――マイクは想像の世界では、これまで何人かの人間を頭の中で葬ってきた。まずマコーマック夫妻やマーク、ジョージ坊やには、空想上のパンチや蹴りを幾度加えたか数えきれないくらいだったし――実際に夢の中で彼らを、ナイフで滅多刺しにして殺してやったこともある。次にはエメリンとつきあった男たちと空想の世界で決闘をし――マイクは拳銃で何人もの男の心臓や頭蓋を撃ち抜いてきた。
だが今度は――そうした頭の中の想像を、現実に行動として起こさねばならなかった。まずマイクはウィルバー家のメイドに頼んでロレインに話があることを伝えてもらい――エメリンが突き返した手切れ金を、やっぱりいただきたいと彼女に言った。だが妹はあんたの弟に貞操を弄ばれたのだから、たったの三千ドルぽっちの金額じゃあ、納得いかねえ。せめてその倍の六千ドル寄こせと、マイクはロレインに迫った。
「貞操を弄ばれたが聞いて呆れるわね。ロルカの話じゃあ、あの娘は生娘じゃなかったそうじゃないの……まあ、いいわ。あの子にはわたしが選んだ、きちんとした貞操観念のある、純潔な娘を結婚相手にしてやるつもりですからね。でも六千ドルとなると……ちょっとばかり日数がいるわね。ロカルノンに使いの人間をいかせて、インペリアル銀行でお金をおろさせて……まあ明後日にはなんとかなるでしょう。本当は明日、この鄙びた田舎をあとにするつもりだったのだけれど、仕様がないわね。あんたに金を渡してから、出立することにしましょう」
さて、マイクにとってはここからが賭けであった。果たして彼女は、マイクの誘いに乗ってきてくれるであろうか?
「ミス=ウィルバー。非常に申し訳ねえが、俺はその金を、あんたから直接受けとりたい。それもなるべくなら……人目につかねえような場所で……」
「随分、変なこと言うのね。残念ながら、あたしはあんたなんかと金輪際ふたりきりで会う気はないわ。今ここでこうしてウィルバー家の別荘の居間で会ってやっているだけでも、光栄に思ってもらわなくちゃ。そうそう、六千ドルもの金を受けとる以上――あのエメリンとかいう小娘にも、よく言っておいてちょうだいよ。自分は以前かの名門貴族、ウィルバー家の子息と愛人関係にあっただなんて、自慢して歩かないようにって。あの娘ならロルカと別れたって何も心配いらないでしょうよ――いくらでもつまらない雑魚が、彼女の網には引っ掛かるでしょうからね」
「……なん、だって!?それ以上言ってみろ!」
いくらだって言ってあげるわ、というように、ロレインは酷薄な笑みをその冷たい美貌に浮かべている。
「ようするにあの娘は――男なら誰でもいいのね。自分の欲望を満足させる地位と身分とお金さえあれば……どんな男とでもすぐに寝るのでしょうよ。あんたも馬鹿な男ね、あんな小娘に利用されてるとも知らないで……」
その時、マイクの心の中で、激しい感情の芯の部分が強く揺さぶられた。本当はこんなところでこの女を殺すつもりではない……そんなことをすれば警察に、すぐにも捕まってしまうだろう。だがマイクにとってはもはや、すべてがどうでもよかった。この女を殺しても殺さなくても、また警察に捕まっても捕まらなくても、自分がそのあと生きるのは、エメリンのいない世界、エメリンの愛のない世界なのだから……。
マイクはロレインが、張りだし窓の向こうの海の景色を遠く眺めやっている後ろ姿を見て、殺すなら今しかないと決意した。手にブロンズの女神像をそっと握りしめ――彼女の頭上めがけて何度も振りおろした!
そのあと何度もマイクは、その瞬間のことをスローモーションのように思いだしたが、不思議と罪悪感はまるで感じなかった。一度目の殴打でロレインは床の上に倒れたが、まだ死んではいなかった。二度目の殴打で失神したような感触があり、そして三度目――気がつくと、藍色の絨毯の上には、赤黒いしみが水溜まりのようになってできていた。
マイクは逃げようとは思わなかった――もう自分は駄目だ、間違いなく警察に捕まると思った。そしてどのくらいの間そこでぼんやりとしていたかはわからないが、ふとロレインがうっすらと白目を剥いているのに気づいて、思わず笑った。これではまるで、あの狆ころとまったく同じ死に様ではないか……。
メイドが部屋をノックして入ってきても、マイクは冷静そのものだった。銀のお盆の上からは、茶器が音を立てて落ち、絨毯の上で粉々に割れている。そうだ、そうとも。警察へでもどこにでも、早く連絡するがいい。俺は今から犯罪者だ。だがエメリンが幸せになるのなら、俺はそれでいいんだ……。
だがすべてを諦めているマイクに、次の瞬間、実に不思議なことが起こった。そのメイドは、最初は驚いて、壁際にその小柄な体を張りつけはしたものの――おそらく、呆然として座りこんでいるマイクが、凶悪な殺人鬼には見えなかったためであろう、彼のそばにゆっくり近づいてきて、彼の手をとると、彼の手のひらに指文字を描きはじめた。
『――死んでるの?』
ああ、と頷きかけてマイクは、ハッと気づいた――この娘は口が聞けないのだ。そしてこの不器量な娘の顔の頬に、斜めに赤い痣が走っているのを見ると――マイクは何故か、その時自分がしたことの重大さに初めて気づいて、泣きたい気持ちになった。
『大丈夫よ。わたし、黙っててあげる』
マイクは心底驚いた――そして一体どういうつもりなのだろうとまじまじと涙のうっすら浮かんだ眼差しで、少女のことを見つめた。するとその娘がおもむろにメイドの服を脱ぎだしたので、マイクは思わず目を背けた。
だがその少女のほっそりとした肩や背中に、無数の鞭で打たれたような痕を見てとると――言葉にだして語られるよりも遥かに雄弁に、彼女の言いたいことがマイクにはわかった。
「それ、この女がやったのか?」
メイドのケイトは、マイクの唇の動きを読んで、こくりと頷いた。そしてマイクの手のひらに指文字で『お仕置き』と書いた。
「お仕置きだって!?」
自分だって、マコーマック夫妻に折檻されたことはあるが、肌にあとがいつまでも残るほど、仕置きされたことはない。
それからケイトは少し時間をかけて、ロレインに同性愛的な性向があること、またサディスティックな面を持ち合わせていることを、マイクに説明した。
「じゃああんた、この女に……」
少し頬を染めて頷くケイトに対して、マイクは突然エメリンに対するのとも劣らない、強い愛情の芽生えを感じた。この間この別荘へきた時と、また今日と、二度しかケイトには会っていないが――マイクは何故かケイトのことを全面的に信頼することができた。それはおそらく彼女が口を聞けないからだったろうが、もしケイトが警察に事情を聞かれてすべて話してしまったとしても、それならそれで構いはしないと、マイクはそうも思った。
ケイトの話によると、今別荘には彼女とロレインのふたりしかいないという。ロルカも他の使用人も乳母も、汽車に乗ってきのう一足先にロカルノンへ帰ったのだそうだ。そしてロレインは昨夜、誰も人のいないこの別荘で、ケイトのことを思うさま、存分に辱めて痛ぶったというわけだ。
共犯者となったふたりは、暗くなるのを待ってから、背の高いロレインの体を血のしみこんだ絨毯にぐるぐる巻きにして包み、馬車へ運んだ。それから西の森の底なし沼の近くに彼女の遺体を沈め――絨毯のほうはその場で燃やした。
ケイトは紙に警察には絶対に何も言わないこと、またロレインは自分よりも一足先にロカルノンへ帰ったことにしようと思う、といったようなことを書いた。自分は最後の荷物を貨物列車に乗せる手続きがまだあったので、別荘にひとり残っていたのだと。
そしてロレインの遺体が西の森の湖沼地帯から発見されると、警察はケイトを事情聴取し、全面的に彼女の言い分を信頼した。ロレインはロカルノンのインペリアル銀行から早急に金をおろす必要があって、午後の急行で帰ったはずだと――また彼女は非常に機転がきいて、ロレインの鰐革のバッグから財布を抜いたものを、沼の岸辺に浮かべておいたのだ。そのせいで警察は物取りの犯行であると断定し――ケイトは彼女の所持金の五千ドルばかりの金を、マイクに持っていくように前もって指示していた。もちろん、だからといって突然金遣いが荒くなると怪しまれるだろうから、くれぐれも慎重に使うことにするよう、忠告するのを忘れなかった。
「でも俺、こんな大金、とても恐ろしくて使えねえよ」
ランプの光の下で筆談しながら、マイクは見たこともない量の札束を前に、身震いした。
一方、ケイトのほうはといえば、まるでたった今自分は偉大なことを成し遂げたのだと言わんばかりの、輝かしい顔をしている――彼女はマイクとは違い、良心の疼きを覚えるというようなことはまったくなさそうな雰囲気であった。
『気にすることないわ。だってわたし、ずっと神さまに祈っていたのですもの。いつかこの奴隷のように惨めな境遇から解放される日のことを――マイク、あなたはわたしにとってまさに、神さまの使いともいうべき存在だわ』
その時マイクは初めて、自分は本当は良いことをしたのかもしれないと思った。マイクにしてみればどう考えても、今目の前で女主人の遺体をともに沼へ投げ捨てたこの醜い少女のほうが、死んだロレインよりも遥かに天使に近い存在のような気がした。そしてその天使のように美しい虐げられた魂を解放するために――自分は悪魔の如き性根の女を打ち殺したのだ。
まったく神さまというのは不思議な方法で人間の願いを叶えられるものだ――マイクは突然にして金持ちになった自分に驚嘆しながら、ケイトのことを途中まで送っていった。
「もしよかったら――ほとぼりが冷めた頃にこのお金を君がとりにくるといいよ。もしケイトがあの時すぐに警察に通報していたら、俺は今ごろは……」
ケイトは人差し指をマイクの唇に立てて黙らせると、彼の手のひらに最後に指文字でこう書き記した。
『さようなら。わたしたちはもう二度と、会わないほうがいいわ。そのお金は全部、あなたにあげる』
こうしてふたりは海岸通りとウィロウストリートへと至る道のT字路で、手を振って別れた。時刻は深夜をとうにまわっており、夜明けの足音がもう少しで聞こえてきそうであった。この夜、このふたりの姿を見た村人はひとりもなく――警察のほうでもついにケイトとマイクの繋がりを知ることはなかった。
マイクが家に帰り着くと、丸太小屋の小さな窓には橙色の暖かな光が灯っていた。エメリンはロレインが死んだ瞬間に、まるでその場の映像を白昼夢のように見るかの如く、マイクが彼女のことを殺害したのを知っていた。だがロレインが白目を剥いたところで、その映像が途切れてしまったので――そのあとマイクがどうしたか、彼が帰ってくるのを今か今かと落ち着かない思いで待ち続けていたのである。
「おお、マイク!あの女を殺したのね!?ねえ、そうなんでしょう!?」
「ああ、やったよ」マイクはエメリンの前で誇ってみせるでもなく、ただ疲れたように、そう頷いた。とても眠かったので、欠伸がでた。
「あんたったらまあ!人をひとり殺しておきながら、よくもそんな欠伸なんかしてられるもんね。それであの女をブロンズの像で殺したあと、死体はどうしたの!?」
これには流石のマイクも驚いた――眠気も一気に吹きとび、まじまじとエメリンの碧く澄んだ瞳を見つめる。
「一体、どうしてそれを……」
「あんただって知ってるでしょ。あたしの変な能力のことは。ロレインが事切れた瞬間を、あたしはあんたの目を通して一緒に見ていたのよ」
その時、マイクはどっと疲れが押し寄せてくるのを感じて、とりあえず食卓の椅子に体をもたせかけた。今ごろになって、殺人と、殺人にまつわる証拠隠しの緊張感のようなものが解け、それが疲労となって一気に押し寄せてきたかのようであった。
マイクはテーブルの上の冷めた夕食に少しばかり手をつけながら、ケイトという名前のメイドが西の森の沼地まで死体の搬送を手伝ってくれたこと、また彼女が口を聞けないこと、ロレインに虐げられていたこと、警察にはうまく嘘の証言をしてくれることなどを順を追ってエメリンに説明した。
だがマイクは偽装工作として、ロレインの五千ドルばかりの金を受けとったことは、エメリンに話さなかった。もし話せば、彼女はそれはもともと自分の手切れ金だからと言って、当たり前のような顔をして受けとってしまうだろう。何もマイクは大金を前に目が眩んだというわけではなく――そのお金をエメリンとの結婚資金にしたいと考えていたのだ。
もちろん、エメリンはこれから、ロルカと復縁を果たそうとするだろう――だがマイクはふたりが結婚にまで至るとはとても思えなかった。ロレインが執拗に説得したにせよなんにせよ、最終的に手切れ金まで渡して、エメリンと別れようとしたのはロルカ自身なのである。それに彼はおそらく姉の死を不審に思うだろうし、悪魔のような性根を持った姉でも、彼にとっては唯一血の繋がった家族である。その姉の忌わしい死を嫌でも思いださせるであろうエメリンのことを、果たして彼はもう一度同じ情熱でもって愛せるのだろうか?
その明け方前の夜の闇がもっとも濃い一時、マイクはエメリンから<ご褒美>を与えられたが、マイクはエメリンのことを強く抱きながらも、心の中ではケイトのことを考えていた。
『さようなら。わたしたちはもう二度と会わないほうがいいわ』
エメリンとケイトでは、容姿の美醜という点においては、まるで話にならなかったが、マイクは自分が彼女を心のどこかで愛しはじめているのを感じていた。もちろんその分、エメリンに対する愛が弱まったというわけではなく――人間というものは、男でも女でも、同時にふたりの相手を愛することができるのだと、その夜、マイクは生まれて初めて知った。
そしてケイトも――今ごろは自分と同じように感じているだろう。だが俺と接触を持てば、俺が警察に疑われる可能性があるので――彼女はあんなふうにきっぱりと潔く、別れの言葉をいってよこしたのだ……。
その後の人生においてマイクは、よくあの醜い、顔に赤い痣のある少女のことを思いだした。あのあと一体どうしただろうか?今果たして幸せなのだろうか?できることなら自分が――彼女の心を癒すように、あのひどい鞭の痕の残る肌に唇を押しあて、舌を這わせ、本当の女の悦びを与えてやることができたなら……と、マイクはよく夢想したものだった。
そして神に祈る。あの悪魔の如き性根のロレインという女を殺したのは自分なのだから――殺人とその死体を遺棄した罪は全部自分が背負おう。だからせめてあの不幸なケイトのことを、これからはどうか幸せにしてやってください、と……自分にはもはや神に祈る資格などないとわかっていながらも、マイクはそう願わずにはいられなかった。
ケイトがロカルノンのウィルバー屋敷へ戻った翌日、ロレインの遺体が狩猟にきていた村の人間に発見されると、ロチェスター村は騒然とした。
ロルカとの身分違いの交際をロレインに反対されたとの理由で、エメリンも警察に事情聴取されたが、女ひとりで被害者を殺害して沼に沈めるなど――どう考えても難しいのではないかと、そのように当時ロカルノンから派遣されてきた刑事は考えたようである。
その時ロチェスター村の警察署に巡査として勤めていたのはダンカン・シェルドンという男で、彼は太っていて動作も鈍く、それと同じように頭の回転も遅い人物だった。加えてロカルノンからやってきた刑事も根の暗いボンクラな男で――村人たちがあのふたりに犯人を捕まえるのは無理ではないかと噂していたとおり、結局マイクはまるで疑われることさえなく、事件は迷宮入りとなった。
その後、エメリンはロルカがロカルノンに呼びよせたので、まずはメイドとしてウィルバー家に勤めることになった。ロレイン殺害を頂点として、マイクの心の中では変化が生じ、それほどエメリンに恋着する気持ちはその頃にはなくなっていた。それでも彼女が傷ついてロカルノンの街から戻ってきたとしたら――喜んで彼女のことを迎え入れるつもりではあった。
マイクはケイトから貰った五千ドルに手をつけることもなく、ただひたすら真面目にローズ家に仕え、黙々と働いた。エメリンが去ったあと、マイクの心からは愛の炎が消え、そのかわりケイトとの叶わない結婚生活が彼の心を占めるようになった。自分の暮らしがどんなに詫びしいものであったとしても――何故かケイトの右の頬に走る赤い痣のことを思えば耐え忍ぶことができた。
そうして三年が過ぎた頃であったろうか、マイクはロカルノン・ジャーナル紙の社交欄に、ロルカ・ウィルバーがキャサリン・フォード嬢なる人物と婚約したとの記事を見つけたのである。おお!では一体エメリンはどうしたのだ?マイクはおそらくいつかはそうなるだろうと予測してはいたものの――エメリンがいつまでしても戻らないので、彼女が何かの形できっとうまくいっているものと思いこんでいた。
(エメリンは今もウィルバー家の屋敷にいるのだろうか?それともロルカとはとっくに別れて、街の誰か他の男と……)
マイクはロカルノン・ジャーナル紙をぐしゃりと握りつぶすと、いてもたってもいられなくなって、すぐにロカルノンへ出立すべく、馬の支度をした――そして彼がすっかり馬車の準備を終え、あとは御者台に乗って手綱を手にとるばかりという段になって――エメリンが丸太小屋の前にふらりと姿を現したのだ。この三年の間に一体なにがあったのかはわからないが、エメリンはすっかり昔とは違っていた。その碧玉の瞳からは輝きが失われ、髪は色艶がなく、頬はこけていた。
マイクはエメリンのことを、彼女が胸に抱いている赤ん坊ごと、包みこむように抱擁した。
「おお、エメリン!一体今までどこでどうしていたんだい?その赤ん坊はロルカの……?」
「ええ、そうよ。あの人の子供よ。だけど、詳しい話はまず、家の中に入ってからさせてもらえないかしら?」
彼女がすっかり疲れきっている様子であるのを見て、マイクはすぐにドアを開けると、一度消した暖炉の中に、再び薪を放りこんだ。
「もしかして、どこかへいくところだったの?」
赤ん坊をソファの上に寝かせながら、エメリンは聞いた。
「ああ、いやべつに……大した用じゃないんだ」
マイクは彼女が赤ん坊を抱いているのを見ても、少しも驚かなかった。それどころか――エメリンが結局最後に頼りにするのはこの自分しかいないのだと思うと、一度消えた心の愛のランプに、再び火が灯るのを感じたくらいである。
「可愛い子だね。男の子?女の子?」
マイクはこの時すでに、この赤ん坊は自分の子供として育てねばならないと、覚悟を決めていた。エメリンにしてみても――昔に比べてその容色が衰えていようとも、彼の愛と忠誠心に変化はなかった。むしろ、これで彼女が自分との家庭に落ち着いてさえくれるなら、そうしたことは実にどうでもよいことであった。
「……女の子よ。ところでマイク、わたし今日はお願いがあってここまでやってきたのよ。悪いんだけど、この娘を引きとってもらえないかしら?」
「どういうこと?」マイクは不吉な予感とともに、お湯を沸かす手を止めた。
「そういう意味よ。ウィルバー家には財産がありあまるほどあるもので――嫡流以外の子供は欲しくないんですって。それがたとえ女の子であったとしても」
「それはできないよ、エメリン」マイクはこれ以上、義理の妹の言いなりになるつもりはなかった。「その子には母親が必要だ。俺にしてみたところで、ロルカと君との子供を黙って育てるほど、お人好しではないよ。その子供を引きとるのは、君も一緒にここにいるというのが最低の条件だ。もしおまえに俺と結婚する気がないにしても」
「あら、随分冷たいのね。この三年の間に新しい女でもできた?」
マイクはそれには答えず、つかつかと家の出入口のところまで歩いていくと、さっとドアを開けて言った。
「とにかく、そんな他人の赤ん坊をこの家に置いていかれても困る。それがおまえの用件だというのなら、たった今、さっさとこの家からでていってくれ」
数瞬、マイクとエメリンは見つめあった。マイクはきっと今度こそ、エメリンが自分の我を折ってくれると思った。だがやはりエメリンは最後まで――彼の意のままにはならなかった。
「わかったわ。本当はこんな子、どうなったってあたしは全然構やしないのよ。ただロルカには赤ん坊を欲しがってる親戚の家に預けにいくと言ってあるの。あんたが引きとってくれないなら――西の森にでも捨てるまでよ」
マイクはエメリンの言葉を本気にしなかった。だが彼女と赤ん坊が丸太小屋をでていったあとで――やはりエメリンのあとを追った。彼女がそのまま真っすぐクイーン駅へいき、そこからロカルノンいきの汽車に乗るのを見届けようと思ったのである。
だがエメリンは本当に西の森へ向かい、樵が樹木を切り倒したあとの、切り株が並んだ広場に、自分のお腹を痛めて産んだ可愛い我が子を――置き去りにしていってしまったのである!
それまで大人しくしていた赤ん坊は、エメリンが去っていくやいなや、火がついたように泣きだし――マイクは木陰から飛びだすと、その紫色のおくるみに包まれた子を、おそるおそる抱きあげた。
エメリンはただの一度として後ろを振り返ることさえなく、元きた道を引き返していってしまった。果たして彼女はマイクがつけてきていると、気づいていたのであろうか?どちらにしてもマイクは――やはり最終的にエメリンの命令には逆らえないのだと、諦めてその可愛い女の赤ん坊を家に連れて帰った。
しかし、赤ん坊などどう扱っていいかまるでわからないマイクは、すぐに根を上げてローズ家へと助けを求めにいった。エリザベスには末の娘のエミリーを赤ん坊の頃から育てたという経験があったからである。
エリザベスはマイクのことを、一体どこまでこの男は馬鹿なのかという目つきで見はしたものの、そのことを直接口にだしては言わなかった。マイクにしてみればそれだけでも救いであった。彼女はエミリーが使った哺乳ビンを屋根裏から探しだしてくると、それを煮沸消毒し、エドに買いにいかせた粉ミルクで泣きじゃくる赤ん坊のことを黙らせた。
その子供にキャスリーンと名づけたのはエミリーで、マイクはその名前がすぐに気に入った――母親のエメリンの名前とどことなく響きに似通ったものを感じたからである。
こうしてキャスリーンは幼年期をローズ家で過ごし――彼女が赤ん坊のうちは、マイクは再びローズ邸の屋根裏部屋で、住みこみの雇い人として働いた。ローズ家にエメリンとロルカとの間にできた私生児がいるとの噂は、すぐに村中の人間に知れ渡ることになったわけだが――一部の人間はキャスリーンのことを、エメリンとマイクの間にできた子なのであろうと信じて疑いもしなかった。
やがてキャスリーンは成長し、エメリンにそっくりな赤い髪に蠱惑的な碧い瞳をした娘になり、母親と同じようにあちこちで浮き名を流すようになった。マイクはローズ家式に義理の娘を厳しく養育したのであったが、むしろ彼女の場合はそれが仇になったのであろう、キャスリーンは十八歳になると、ロカルノンの煉瓦工と駆け落ちし、マイクにはそれきり何ひとつ連絡を寄こさなくなった。
だがその八年後に――キャスリーンはロカルノンの色街で変死体で発見され、身元を確認するために、マイクはロカルノンの警察署本部に呼ばれた。彼女の息子は今孤児院のほうで保護されているということで、マイクはキャスリーンの遺体を引きとると、ロカルノンの墓地に埋葬し、その足で真っすぐ聖フェリシア孤児院へと向かった。そしてその場ですぐにマーシーのことを自分の養子として迎え入れることに決めたのである。
マーシーは父親に似たのであろうか、エメリンにもキャスリーンにもまるで似ていなかった。むしろ自分の小さな頃に似ているとさえ、マイクは思った。ロチェスター村でマーシーは、キャスリーンと同じく、私生児として冷たい目で見られはしたが、マイクは彼を幼い頃からローズ家へ奉公にだし、農夫として汗水流して働くことを教えこんだ。そうする以外、この村で生きていく術は他にないからである。
マーシーの母、キャスリーンとは違って、マイクの幾分反省を加えた、マーシーへの教育法はある程度成功した。マーシーは学問のほうはまるきり駄目ではあったが、真面目によく働く、純朴な青年へと成長し――十八歳になった今年、ダラス家の四女、エミリアと婚約することが決まった。歴史は繰り返すというべきか、三十年以上も昔にマイクが起こしたあの忌わしい殺人事件に似た出来ごとが再びロチェスター村を噂の渦に巻きこみ――その犯人はマーシーの親友のシオン人、ヨシュア・コステロであった。そして銃殺されたのはマーシーが長く恋い焦がれた美しい娘、エステル・ヴァン・ダイク。
エミリアはこれといって取柄のない、容姿のほうもいまひとつぱっとしない娘ではあったが、それでもダラス家の六人の娘の中では――彼女が一番マーシーにはぴったりなのではないかとマイクは思っていた。自分がエメリンと結ばれることではなく、不器量な上に顔に赤い痣まであるケイトと何故結婚することを考えなかったのだろうとマイクが心のどこかでしている後悔――それをマーシーが払拭しようとしてくれるようにさえ、その頃マイクには思われていた。
ところで実の娘を捨てて、再びロカルノンのウィルバー家の屋敷へと戻ったエメリンであるが、彼女は本妻のキャサリン・フォードにつらく当たられ、愛人の座をすぐに追われることとなった。だがその結果として、ウィルバー家の屋敷は呪われ、ロルカもキャサリンも屋敷に発生した天然痘にかかって亡くなった。またこれはマイクの与り知らぬことではあったが――メイドのケイトもまた、種痘を打つのが遅れて同じ病いに倒れて死んだのであった。
エメリンはロチェスター村に再び戻ってはきたが、帽子山の麓の丸太小屋で彼女の娘を養育中のマイクの元へは戻らず――かつて父親と、またマイクとともに住んだ、第十の橋のそばの家で人知れず暮らしていた。そして時々山を下りてきては、村人たちの未来を予言したり呪ったりした。
エメリンがロカルノンのウィルバー家の屋敷からロチェスターへ戻ってきて、一番最初に呪われたのは、マコーマック家であった。近いうちにこの家には病魔が発生するであろうと彼女が予言したとおり、マコーマック家にもまた天然痘が発生し――夫妻もひとり息子のジョージも、養子のマークもみな、専門の病院に収容されはしたものの、闘病虚しく病気を発症して数か月後には相次いで家族の全員が亡くなった。
マイクはその時、このことで非常に悩んだ――村人はみな、エメリンに呪われると天然痘になると言って彼女のことを心底恐れていたし、まず真っ先にマコーマック家が呪われたというので、マイクにもキャスリーンにも、奇妙な眼差しが注がれたからである。またそれだけでなく――マイクはその頃にはマコーマック家の人間を恨む気持ちなどこれっぽっちもなかったし、むしろ夫妻が自分をロチェスターに引きとってくれたからこそ、エメリンにも、彼女の父のジェイクにも出会えたのだ。それなのにいまさら、マコーマック家を呪うなど――マイクはよほどエメリンに抗議しにいこうかと思ったが、迷った末にやはりよすことにした。何故なら、ウィルバー家から戻ってきてからのエメリンは、もはやマイクの知っている以前のエメリンではなかったからだ。髪には白髪が混ざり、容貌は実際よりも老けこんで見えた。そして何より――彼女を以前と別人に見せていたのは、そのうらぶれたような空虚な雰囲気であった。娘時代の明るさは消え、瞳は死んだ魚のようであり、口許には常に皮肉げな笑みが張りついていた。ウィルバー家の屋敷で何があって、一体どういうことがエメリンをそんなふうに変えたのか、マイクには想像するしかなかったが――せめてどうして真っ先に自分の元へ帰ってきてくれなかったのか……マイクは何よりもそのことを一番悲しんだ。
エメリンに呪いをかけられていたウェブスター家に男児が誕生したと聞くと、マイクは驚くとともに、エメリンのことが心配になって、何十年ぶりかで、第十の橋まで歩いていった。ジェイクが作ったその丸太小屋は実にしっかりとした作りをしていたので――あれから四十年以上が過ぎていたにも関わらず、そう老朽化しているようには全然見えなかった。むしろ、その丸太小屋を見た時、マイクは自分が十歳で、エメリンが九歳だった頃のことをまざまざと思いだし――青灰色の老いた瞳にじんわりと涙が浮かぶのを感じた。
エメリンと一緒に野の花を摘んだり、庭に多年草の球根を植えたり、畑のまわりを走りまわったり、川で泳いだり魚釣りをしたり……過去の思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。
「ごめんよ、エメリン……」
何故自分はもっと早く、この懐かしの丸太小屋を訪ねてこなかったのだろう?お互い奇妙な意地を張りあったりなんかせずに――麓と頂上の丸太小屋をいったりきたりすればよかったではないか。
マイクはシャツの袖で涙を拭うと、深呼吸をひとつして、ドアをノックした。だがいつまでたっても返事がないので――マイクはそっと、その頑丈な扉を押しあけた。
「……エメリン?」
その声はまるで、恋人を怒らせてしまった若者が、機嫌をとる時の声音のようであった。
マイクはしーんとしている一間しかない部屋を見回して――室内の内装は、四十年前となんら変わっていなかった――まるでここだけ時間が静止してしまったみたいに――そして隅のベッドに、老いさらばえたかつての恋人の姿を見出して、すぐにそちらへ駆け寄っていった。
「エメリン!」
彼女は婉然と微笑んで、心臓の上あたりに両手を組み合わせて横たわっていた。布団の上には熊の毛皮のコートがかけられている――マイクはぼろ着を何十にも重ね着したエメリンのことを何度も揺すぶったが、彼女にはまるで起きる気配が見られなかった。
……一体いつ、彼女はここで息を引きとったのだろう?それもたったのひとりぼっちで……。
そのことを思うとマイクは息が苦しくなるほど、後悔の念に襲われた。彼は小さな子供が親兄弟を亡くした時のように号泣し、エメリンの上に覆いかぶさって彼女の体を抱きしめ、そして微笑みを浮かべたその唇に、また頬に額に、かつて愛欲にかられてそうした時のように、キスの雨を降らせた。
もしその姿を第三者が客観的に見たとすれば――滑稽ですらあったかもしれないが、彼の精神年齢は今六十四歳ではなく、四十年以上も昔に返っていたのである。
そしてマイクは二時間ほどもエメリンの眠るベッドの脇に座って、死者の魂と語らったあと――新婚のカップルがハネムーンの時によくそうするように彼女を抱きあげ、父親の墓の隣にエメリンのことを埋葬した。
(愛しているよ、エメリン。俺の魂は永久に、おまえのものだ)
マイクはふたつの木を組み合わせて十字架を作ると、エメリンの墓の上に立て、そこに野原で摘んだ花を冠にしてかけた。小さな頃、エメリンは女王さまごっこをするのが好きで、マイクはよく彼女のために美しい花冠をこしらえてやったものだった。
(さようなら、エメリン。俺はまだエメリンのところへはいけそうもないけど……できることなら俺が死ぬ時にはエメリン、おまえが俺のことを迎えにきておくれ)
晩年、一体エメリンはここでどのような生活をしていたのであろうか?マイクは荒れた庭や畑を見渡し、また食料貯蔵庫にも大したものが何もないのを見て――激しい胸の痛みを感じた。エメリン自身はそれほど痩せ細っていたというわけでもなく、少なくとも餓死ではなかっただろうと思われるものの――自分さえもっと何かしてやっていたらと、マイクは麓におりるまで、滂沱と涙を流して歩いた。
マイクはマーシーにさえ、おまえのお婆ちゃんが亡くなったとは言わなかった。ウェブスター家に男の子が誕生してからというもの――暫くの間村の人たちはエメリンの予言が外れただの、いや、呪いが解けたのだのとスミス雑貨店のカウンターやストーブのまわりで話しあっていたが――果たして彼らはエメリンが本当に魔女で、永遠に生きるとでも信じているのだろうか?
マイクは村人たちのいいかげんな噂話を聞きながら、フォークナー社のカタログを一ページ一ページゆっくりめくり、真剣にそこに並んだ品々を眺めていた。マーシーとエミリアの結婚祝いには、一生残るような何か素晴らしいものを、親としてプレゼントしたかったからである。
確かにマイクとマーシーの間に血の繋がりはなかったかもしれないが――マイクは彼にとってはエメリンの忘れ形見であった。そしてふたりの間に子供が生まれ、さらにその子供が成長して末長く子孫を残してくれたら……エメリンの生きた証はこれからも残っていくだろう。ロチェスターの歴史の一幕を飾った、魔女の伝説とともに。
幕間~エメリン・ゴールディの死~、完/『永遠のローラ 第Ⅲ部』へ続く