永遠のローラ 第Ⅲ部 (13)
「……セシル?ねえ、起きていて?」
ローラがお盆を片手にノックすると、部屋の中からは何やらがさごそと、何かを探すような――あるいは隠すような――物音が聞こえていた。
「あっああ、うん。起きてるよ」
「?」
ローラは少しばかり不自然なものを感じはしたが、気にせずドアを開けて室内へと足を踏み入れた。
「具合のほうはどう?これ、エミリアが持ってきてくれたお菓子なんだけど……あと一時間くらいでお昼だけど、少しつまむくらいならどうかなと思って」
「ああ、ありがとう。それとローラ、これ……」
セシルはベッドの端から立ち上がると、常磐色の包装紙に、赤いリボンのかかった包みを、ローラに遠慮深そうに手渡した。それはまるでクリスマスプレゼントのラッピングのようだった。
「これをわたしに?」
「う、うん。開けてみてくれないかな」
ローラはセシルの顔が赤いのを見て、もしかして熱があるのではないかと思ったが、それよりもまず彼のプレゼントがどんなものなのかを見たいという気持ちのほうが勝ってしまった。
「……まあ、セシル!これをわたしに?」
ローラはオフホワイトの、麻の上品なドレスを風にあてるように翻すと、それを今着ている白いモスリンのドレスの上からあて、化粧台の鏡で見た。首から胸元にかけてレースの襞飾りがあり、スカートにはフリルがいくつもついている……これから暑くなる夏には、とても涼しげでいいだろうとローラは思った。それに、こんなにうきうきした気持ちになったのは、一体いつ以来だろう、とも。
「気に入って、くれたかい?」
女性に何か贈り物をするのが初めてなセシルは、ローラが麻の服とダンスを踊るかのように喜んでいるのを見て、とても嬉しくなった。弟のティムが、女は食べ物と着るものさえあてがっておけば、あとは何も難しいことはないと言っていたことがあるが――そんな単純なものではないにしても、たった服一枚でこんなに効果があろうとは、セシルは全然考え及びもしなかったのだ。
「セシル、あなた一体いつこれを?」ローラは服を丁寧にたたみ、包装紙にもう一度くるみながら言った。「わかったわ、さてはシンディね。彼女にそそのかされたんでしょう?ローラはいつも似たような服ばかり着てるからって――」
「否定はしないよ」と、セシルは微笑んだ。「でも、その服を選んだのは俺自身だ。きっと君に似合うと思ってね」
セシルは化粧台の椅子を引いて、そこに横座りしているローラのことを、珍しく真正面からじっと見つめた。いつもは、彼女が自分のほうを見ている時、彼はローラの顔の後ろの背景を見るようにして話すのであったが。
「できることならローラ、君に黒以外の服を着てほしかったんだ。黒というのは君に一番似合わない色だ――服喪中は仕方ないとは思うがね。俺は……君が亡くなった前のご主人以上に、君が俺を愛してくれるとは思っていない。ただ毎日こんなふうに、ふたりで暮らしていけたら――俺にとってこんなに幸せなことはないよ」
「……セシル」
不意にローラは目頭に熱いものがこみあげるのを感じて、はしたないかもしれないとは思ったものの、ベッドの端に座る、セシルの隣に腰かけた。
「どうして――何故、そんなふうに思うの?わたしが前の夫以上にあなたを愛さないなんて……」
「だって、それは……」と、ローラが隣から覗きこんでくる視線に耐えられなくなったセシルは、下を向いて、両手の指を組み合わせたり離したりを繰り返した。
「俺は、君の前のご主人ほど、男前でもないし、やぶ睨みだし、その上ぶっきらぼうだし、婦人の前で何を話したらいいかわからない、てんで気の利かない男だし……さっきだって、べつに具合が悪かったわけじゃないんだ。ただミセス=マコーマックと話すのが嫌だっただけなんだ。いや、彼女がどうこうというのじゃない。単に、俺は……ただ、その……」
前に保養所でフィリップが『マクガイア氏は女性嫌悪症なのだよ』と冗談めかして言った時、ローラはそれを本気にせず、ただ笑っただけだった。けれども今、彼の話を聞いていると、もしかしたら本当にそうなのかもしれないという気がしてきた。最初にオープンカフェで出会った時からしてそうだったような気がする。ということは、つまり……。
「でも、わたしと話すのは嫌じゃないのね?」
ローラはくすくす笑いだしたくなるのをこらえて言った。
「あたり前じゃないか」と、セシルが怒ったように言い返す。「ローラは、俺にとって特別なんだ。たとえ俺が、君にとっては特別じゃなかったとしてもね」
「また、そんなことを言うのね」
ローラは不思議な感触のする、セシルの褐色の武骨な手を、自分の手のひらに握りしめた。
「わたし、あなたのこの手が好きだわ――もちろん、好きなのは手だけじゃないけれど。もし……もしもよ。わたしが前のふたりの夫以上にあなたを愛したとしたら、わたしは不実な女ということになるのかしら?」
「そんなことはないよ。そういうのは、比べられるようなことじゃないんだ……ええい、くそっ!俺に答えを言わせたな!」
ローラがこらえきれなくなって、くすくす笑いだすと、セシルはたまらなくなって、隣の彼女のことを抱きすくめた。
「好きだ、ローラ。愛している……こんな気持ちは初めてなんだ」
ローラはセシルがためらっているのを見ると、自分のほうから彼の首に手をまわし、そしてキスした。途端に、腰にまわされた彼の腕の力が強くなり、ローラは窒息しそうになったが、彼が震える唇でキスし返すのを受けとめ、ベッドの上に押し倒されても――瞳を閉じて、そのまま黙ったままでいた。
ローラがスミス雑貨店のオープンカフェを休んだ日、店のカウンターには在庫のハンバーガーやホットドッグなどが、山のようにありあまっていた。こんなことは、シンシアがオープンカフェを初めて以来、一度もなかったことで、しかもその原因が『ふしだらな女の作ったものは食べられない』という理由が元であることを知ると――シンシア・フラナガン・スミスは怒り狂った。
「一体ローラが何をしたっていうのよ!マックルーアのおかみさんのとこで十日も過ごしたんじゃあ、マクガイアさんも栄養失調になってしまうでしょうよ!そりゃあまあ、ひとり暮らしの未亡人が独身の男の人を泊めるだなんて、あんまり人聞きのいいことじゃないかもしれないけど――あのローラに限ってねえ、そんなことがあるわけないじゃないの」
店の名前入りの白いエプロンを脱いで帰り支度をしていたドナは、怒り狂うシンシアの話を聞きながら、微かに苦笑した。たったの一日でここまで噂が広まってしまうだなんて――その背後にアリシアの影を見ていたドナは、自分がしょっちゅう彼女に突っ掛かってばかりいるので、その反動がこういう形でローラに向けられたのかもしれないと、ローラに対して申し訳ない気持ちになっていた。
「人の噂も七十五日よ、シンシア。マクガイアさんはたったの十日、ロチェスターにいるきりだし、そのあとはまた、退屈な田舎の、平凡な日々が戻ってくるわよ」
「そうかなあ」と、カウンターの内側で、母親と一緒に店番をしていたシンディは赤毛のポニーテールを揺らしながら首を傾げた。「わたし、ローラがセシルさんと結婚するんじゃないかと思うけど。セシルさん、どう見てもローラに<ぞっこん>だもの」
ぞっこん、だなんて、一体どこでそんな言葉を覚えてきたのかと、シンシアは娘の可愛らしいえくぼの浮かんだ頬をつねった。
「でもまあ、確かに」と、ドナは仲のよい母娘を微笑みながら見つめた。「マクガイアさんはローラにぴったりだわ。だけどたったの十日しかいらっしゃらないんじゃあ……恋が進展するのは難しいわね。あの方はロカルノンの社交界じゃあ、有名な方だそうだから」
「まあ、そうなの」と、シンシアは娘の頬をつねった手をぱっと離している。シンディは微かに赤くなった頬を手鏡を見ながらさすった。
「だって、あの有名なロカルノンホテルのオーナーだもの。ケネスの話じゃあ、社交界の花形、キャロライン・フォードが彼にずっと熱を上げているそうよ。でも彼のほうでは、彼女だけじゃなく、貴族の御令嬢の誰にも素っ気ない態度なんですって。マクガイア家の新しい当主は女嫌いだっていう噂さえ立っているらしいわ」
「女嫌いねえ」と、シンシアとシンディは声を揃えて言うと、顔を見合わせて笑った。そしてそんなふたりを見ていたドナも、鈴の音のような声を立てて笑った。
シンシアの姑のジュリア・スミスは、そんな三人の様子をバックヤードからちらと盗み見ていたわけだが、面白くないと思ってすぐにそこから頭を引っこめた。ジュリアは最初から、シンシアのオープンカフェには大反対だった。そしてとうとう――ハンバーガーやホットドッグの在庫を見て、大笑いしてやれる機会が巡ってきたわけだが、嫁のシンシアには全然落ちこんだような様子がなかった。
しかも、店に客が数人しかやってこなかった理由というのが、ローラがふしだらにもロカルノンの洒落男を家に連れこんだというのだから、それこそ笑ってしまう……とジュリアはそう思っていたが、噂が本当らしいということがわかってくると、シンシアに媚を売るようにして事の真相を確かめようとした。
「何いってるんですか、お義母さん。ローラはただ単に、マックルーア夫人のしみったれた宿に大佐のマクガイアさんを十日も泊めるなんてできないと思っただけのことですよ。お義母さんも、あの方と一度お話すればわかりますわ――あの人は都会の浮わついた男なんかじゃなく、正真正銘の紳士ですもの」
しかし、ローラが正真正銘の淑女で、マクガイア氏が正真正銘の紳士であったとしても、ふたりがひとつ屋根の下で一夜をともにしたということは事実であった――そのことが村全体に広まるにつれ、村人たちはこの事実をどう受けとめたらよいものかと、困惑した。ローラに限ってそんなことはありえない――また、マクガイア氏にはどうも、戦争の後遺症として時々発作を起こす持病があるらしい。となると、あのマックルーア夫人の前でその発作とやらを起こしでもしたのだろうか?あの夫人のことだ、きっと上へ下への大騒ぎをしたあとで――もしかしたらローラのところへでも電話をしたのかもしれない。となると、あのローラのことだ、あの厄介なシオン人を雇った時と同じく、マクガイア大佐のことを短い旅行の間だけと思って家に泊めることにしたのかもしれない。そうだ、そうに違いない。だがいくらタリス陸軍の大佐とはいえ男は男。何か間違いがなければいいが……。
一方、ローラとセシルはといえば、村人たちの噂などまるで気にすることなく、ふたりきりで楽しい時間を幾日も過ごした。ウィングスリング港までセシルの車の運転で遠出をしたり、カルダンの森を一緒に散策したり……また、農作業などまるで未経験のセシルは、牛の乳搾りや豚の世話、鶏やアヒルの卵をとったりという仕事が面白くて仕方なかった。とうもろこしがあんなに小さな種をしているだなんて……どうして自分は考えもしなかったのだろう?てっきり、じゃがいもや玉葱などと同じく、苗のようなものを植えて、そこからにょきにょき成長するものだとばかり、思いこんでいた。三十五歳にもなって、生まれて初めてそんなことに気がつくだなんて……牛の乳搾りにしても、クリーム作りにしても、バターやチーズ作りにしてもみんなそうだ。本当に何も知らずに自分は、ただ料理長の作ったものを、マナーを守って食べ続けていたのだなあ……。
セシルはローラからローズ家のタイプライターを借りて、二日ほどで五月の末にある役員会に提出する報告書を作成すると、あとはもうただ仕事のことなど忘れて、ローラと菜園や庭の手入れをしたり、家畜の世話をしたり、またマーシーたち雇い人に混じって畑地を囲っている塀を直したりして過ごした。
たったの十日のこととはいえ、もうその頃にはローラとセシルはほとんど夫婦のようなものであった。セシルはスーツなど着ることなく、一日中繋ぎの作業服を着て過ごしたし、朝から夕方まで、マーシーに指導されたとおり、家畜の世話や牛舎や厩舎、豚舎や鶏舎の掃除など、なんでもやった。そして昼休みにはマーシーたち雇い人たちに混じってローズ邸の食堂でローラの手料理を食べた。
休暇が十日目となり、明日にはロカルノンへ出立しなければならないという日、セシルは帰りたくなかった。セシルの足はもうそのたったの十日で、ローズ農場に根を生やしてしまっていたからだ。セシルはロカルノンのマクガイア邸に、電報を打った――あと一週間、ここにいると。そしてその一週間が過ぎると、さらにもう一週間、休暇を延ばした。それからまた一週間が過ぎると、さらにもう一週……そして結局、役員会が三日後に迫ると、重い溜息を着きながらようやくの思いで荷造りをしはじめた。
「ローラ、役員会とかその他、諸々の所用を片付けたら、すぐに戻ってくるよ。そしたら……結婚しよう」
ローラがまるでセシルがもう二度と戻ってこないことを心配するように、何かと彼の物をローズ邸に残そうとするのを見て、セシルは彼女の肩を抱いてはっきりそう断言した。だがローラはセシルが結婚の二文字を口にしても、やはり不安だった――この一月というもの、ふたりの間には何もないのだ。キス以上の関係は何も――セシルは一度、ローラのことを押し倒したあと、まだ結婚もしていないのにこんなことはいけないと言って身を引いた。それに、人に何か聞かれた時に、何もなければ何もないと正々堂々と言えるが、そうでなければ、不必要な苦しみを自分はローラに強いてしまうだろう、そんなことは絶対に嫌だとセシルは言った。
そのあと一月の間、ふたりは上と下とで寝室を別々にして過ごした――村の人々はふたりが毎週日曜日に教会で、ローズ家の席に座るのを見て、なんという厚顔無恥だろうと驚き困惑したが、セシルがロカルノンへ去っていくと、ローラはきっと休暇の間だけ弄ばれて都会の男に捨てられたのだと噂した。
セシルがロチェスターを去って一か月、ローラは詫びしい思いで過ごした。手紙のほうは小まめに届き、どんなにローラに会いたいと思っているか、どんなに君を愛しているか、たった今ここで君を力いっぱい抱きしめ、接吻することができたらどんなにいいだろうというようなことがいつも書き綴られてはいたが――週末にどうしても出席しなければならない何々家のパーティが、と四週も続けて書き送られてしまうと、セシルはやはり田舎の娘よりも都会の洗練された女性のほうに心が傾いているのではないかと、ローラは悲しく彼から届いた手紙を読み返した。
ローラがスミス雑貨店のオープンカフェをやめてから、マックルーア夫人がスミス家の厨房に立っていたが、彼女が料理長としてハンバーガーやホットドッグを作っているということが村全体に知れ渡ると、客足はすぐにも戻ってきた。気の毒な未亡人で、その上夫の残した借金と三人の子供の養育に喘いでいるマックルーア夫人を少しでも助けることになれば、という慈善の気持ちから、オープンカフェは再び連日混みあい、今ではローラが作っていた頃よりも、マックルーア夫人のほうがよほど料理が上手いという者さえあった。
ローラはスミス雑貨店で、人々に後ろ指を差されながら買い物をしたり、シンシアやシンディ、ドナと話をしたりしたが、人の噂話など、ローラは少しも気にしなかった。またセシルがローズ邸にいた頃、誰かが彼女に常識というものを説いてやるべきだと、チェスター夫人をはじめ、村の御意見番たちがジョスリンをせっつき、ジョスリンはしぶしぶながらローラに説教をしにいったわけだが――ジョスリンはセシルに会うやいなや、すぐに何もないことを感じとり、むしろそのような話をすることさえ憚られる品位と高貴ささえセシルが漂わせているので――結局そのあとも彼女はローラに何も言えなかったのである。
ローラは裁縫の会でアリシアたちが示しあわせたように、いつも当て擦りを言っても――まるで気にしなかったし、相手にしなかった。ドナにも彼女たちのことは相手にしないよう頼んだ。アリシアたちのテーブルにはいつも一緒にエミリア・マコーマックが座っていたので、ローラは彼女と険悪になるのが嫌だったのだ――というより、エミリアとの仲が今まで以上に気まずくなることによって、マーシーが自分とエミリアとの間で嫁と姑の間に挟まれた夫のような、苦しい立場に追いやられるのが嫌だった。
アリシアたちの当て擦りなど、ローラにはただのどうでもよい寝言のようにしか聞こえなかったが、それでもところどころちくちく、それは毒針のようにローラの心に突き刺さった。『ロカルノンには綺麗な御令嬢がたくさんいらっしゃるんでしょうねえ』、『そりゃそうよ。だから都会の男性はとても移り気なのよ。きのう薔薇の花にとまっていたかと思えば明日は別の花……といった具合なんでしょうね、きっと』、『じゃあ、いつまでも待っているうちに、その薔薇も枯れてしまうわね』……その裁縫の会があった夜、ローラは生まれて初めてアリシアの放った言葉の辛辣さに泣いた。そして生まれて初めて、男の足に縋りついてでも捨てられたくない女の心理というものが理解できたような気がした。昔の誇り高い自分なら、男の足に縋りつくような不様な真似をするくらいなら、いっそ死んだほうがましだとさえ思ったことだろうが、ローラはセシルのことだけは失いたくなかった。前のふたりの夫とは死別だったわけだが、もしこのままセシルがローズ邸に戻らなかった場合――ある意味、それは死別よりもよほどひどいことであるようにさえ、ローラには思われていたのである。
そしてローラがしんと静まり返ったローズ邸の二階の寝室で、セシルのことを思って深夜まで泣きながら眠りについた翌日の午後――ローラが使用人たちを見送って、昼食の後片付けをしていると、ポーチのほうから車のエンジン音が聞こえてきた。だがその時ローラは何も期待しなかった。一週間ほど前、同じように庭のほうからエンジンの音が響いてきた時――ローラはもしかしたらセシルかもしれないと思い、胸を高鳴らせて玄関を飛びだしていったが、そこには自慢の車をわざわざ見せびらかしにきた、ジョン・ウェブスターと空色のシボレーの姿だけがあったのだった。あの時感じた失意と落胆といったら――ローラにとってそれは、言葉ではとても言い表わせないくらいのものだった。しかもジョンときたら、そのあと居間に長々と居座って、農薬を使わないだなんて君は馬鹿げている、時代遅れだと、さんざん一時間ほども説教をして帰っていったのだ。
今度もきっとジョン・ウェブスターに違いない――ローラはそう心の中で決めつけると、黙々と食器を洗いはじめた。だが庭のほうからふたりの男の声がし、そのうちのひとりの声が間違いなくセシルのものであることがわかると、ローラは急いで手をエプロンで拭き、勝手口の外へと飛びだしていった。
「――セシル!」
(あたしのセシル!)と、ローラは心の中で叫んだ。車を降り、小径を駆けてくるセシルもまた、彼女と同じ気持ちだった。
ふたりはタチアオイやヒエンソウ、薔薇の咲き乱れる花壇の前で抱きあうと、どちらからともなく、熱烈なキスを交わした。それも一度だけではなく、二度、三度、と。
「……あのさ、兄さん」と、ティムは咳払いをひとつすると、兄の青灰色のベストの背中を、とんとん指で叩いた。「まずは俺に紹介してくれる約束だろ。その、兄さんが結婚を約束してるっていう素敵な女性を」
「ああ、そうだった」と、セシルはまるでその存在を忘れていた弟のことを振り返ると、やや照れたようにローラの体を離し、それでも彼女の腰をしっかりと抱きしめたまま――そうでもしていないと、ローラが蝶か鳥のように、どこかへいってしまうとでもいうように――ティムにローラのことを紹介した。
「彼女が俺の……その、最愛の恋人のローラだ。そして彼は俺の異母弟のティム――今はロカルノン大学の経済学部の二回生でね、夏休みが終わったら、三回生になるんだ。ティムが学位を取得して大学を卒業したら、マグワイア家の跡を継ぐ予定で――そうしたら俺はお役放免ってわけさ」
「兄さん、その話はまたあとから詳しくすることにしようよ」
ティムとしては今では、兄に社長のままでいてもらい、自分は副社長に留まるのがいいのではないかと考えるようになっていたので――セシルがこんなど田舎で本気で農夫として暮らそうというのが信じられなかった。それも、二回も結婚歴のある未亡人とだなんて――ティムは人のよい兄が騙されているに違いないと思い、夏の休暇を利用して、兄にくっついてきたのであった。そしてもし必要とあれば――示談金を示して、ふたりを別れさせるつもりだったのだ。
ところが、実際にローラに会ってみると、兄のセシルの話が少しも大袈裟でなく、彼女が素晴らしい本物の貴婦人の精神を持っていることがわかり、ティムはインペリアル銀行の小切手をわざわざ持ってきた自分が恥かしくなった。その上、兄ときたら毎朝嬉しそうに早起きをし、牛の乳搾りやら牛舎の掃除やら、豚の餌やりやら、鶏の卵とりやら、楽しくて仕方ないといった様子だった。先週ロカルノンホテルの大広間で催された、ウッドワード家の双子の姉妹の婚約披露パーティに出席していた時の仏頂面とは雲泥の差といってもいい――セシルがスーツを着こんでめかしこむよりも、繋ぎの作業服を着て家畜の糞尿にまみれているほうが性にあっており、それこそが彼の幸福なのだというのは、誰の目にも明らかなことであった。
しかし、ロチェスターに滞在する予定の一週間が過ぎても、セシルが「自分はここにいる」と言い張ることだけは、ティムにはどうしても容認できなかった。彼が留守にした一月の間、ホテルや不動産関係を扱っている会社のほうが、どれだけ大変だったか……社長の決済の判を待つ書類がそれこそ山のように溜まり、ロカルノンホテルの支配人やマクレガー弁護士が最後にはティムに泣きつき、しぶしぶ彼は書類のひとつひとつに目を通して、最後にマクガイア家の印章をそこに押したのであった。
それも一重に、ロチェスター村の中心地にホテルを建設するための土地探しやその交渉などに手間どっている、などと兄らしくもなく嘘の電報まで打って寄こしたその文面を信じたからこそ、ティムは何も言わずに我慢できたのだ。しかし勉学の傍らもう一度それをしろと言われるのは、ティムにとってあまりに責任の重いことであった。
「兄さん、子供みたいな我侭を言うのはよしてくれよ」
明日、ロカルノンへ帰るという段になって、夕食の席でセシルが突然そう言いだしたので、ティムはせっかくのローラの美味しい料理が台なしだとさえ思った。
「兄さんがこの居心地のいいローラの家にいたいというのはよくわかる。家畜の世話や畑地の手入れも、実に兄さんの性に合っているみたいだ――けどね、兄さんは今マクガイア家の当主なんだぜ。まさかとは思うけど、五百人以上もいる従業員を路頭に迷わせたいとでも言うのかい?」
「そんなことは思いもしないが、しかし……」
ティムはセシルが助けを求めるようにローラのほうにちらと視線を送るのを、見逃さなかった。これはもしや、彼女の差し金なのだろうか?
「しかし、なんだい兄さん」と、ティムはきびきびした事務的な口調で言った。「ロカルノンの社交界じゃあ、きちんとした家柄のカップルは一年以上婚約期間を置くのが常識なんだぜ。それを兄さんたちは……いや、そのことはもういいとしても、結婚するまでせめてもう一年、待てないのかい?俺は今まで学業のほうはそれほど熱心にやってこなかったけど、新学期が始まったら単位をとりまくって、四回生になる頃にはほとんど講義にでなくてもいいような状態に持っていこうとは思ってる。それで、実務的な仕事をしつつ卒論なんかもやっつけて……って、考えてはいるけどね――でもあと一年はどう考えても無理だよ。兄さんにだってそのことはよくわかるだろ?それにせっかく兄さんが社交界に彩りを添えてるってのに――その兄さんが突然こんな田舎に引っこんだりしたら、ホテルの営業にもやっぱり差し支えがでてくるよ。ホテルにしろ不動産にしろ株取引にしろ、上流階級ではマナーや常識を無視するのが一番いけないんだ。貴族や金持ち連中っていうのは、実に気まぐれだからね」
セシルは重く黙りこんだ。今度はローラのほうは見ずに、ヤマメやアメマス、イワナのフライの山をじっと見つめながら、シチューの中身を意味もなくスプーンでかき混ぜている。それは今日の午後、帽子山で渓流釣りをして釣った魚たちであった。ティムもほとんど入れ食い状態だったその魚釣りを愉快に兄と楽しみ、ランチにはローラの作った美味しいサンドイッチを食べたのであったが――この時にわかに、ローラの手厚い丁重なもてなしは、この瞬間のためのものだったのかもしれないと、強い疑いの念がティムの頭をもたげてきた。それであればこそこの一週間、彼女は自分に対してとても優しく、そして大層まめまめしかったのではないかと。
セシルの目にはどう映っているのかわからないが、ティムはローラがあまりに優しく、何をするのも完璧なのを見て、どことなく嘘くさいものを感じていた。一月の間同棲していたというので、てっきりすでに肉体交渉を持っているのかと思いきや――それさえないという。その上、マグワイア家の財産が目的だというわけでもないらしい。何故ならこのローズ家というところは、ロチェスター内で一、二を争う資産家だということだったからだ。
「俺は、ローラさんの意見が聞きたいな」
いつまでも子供のようにむっつりと黙りこんでいる兄のことは無視して、その後ろで糸を操っていそうなローラに、ティムは話を振った。
「何しろ兄さんにとってはこれが初めての結婚なものだからね――俺だってまだ結婚してるわけじゃないけど、こういうことは経験者のローラさんのほうから助言してもらったほうがいいと思うんだ。兄さんだって、ローラさんの言うことなら聞くと思うしさ」
「ええ、でも……」と、ローラはジェリーをティムにまわそうとした手をとめ、セシルと同じように俯いて、考えこんだ。「もし、もしも――我侭が許されるのなら、わたしはセシルにこのままここにいて欲しいわ。でもそれはきっと無理だということはよくわかっています。それに、もしわたしのような田舎者と結婚することが、セシルにとってマイナスになるなら……」
「やめてくれ、ローラ」セシルはテーブルの上に手を伸ばすと、ローラの細くて長い手を、力いっぱい握りしめた。「そんなことを君の口から聞きたくない。ようするに、一年は婚約期間をおかなくてはいけないんだろう?それはよくわかった。そして俺はその間、仕事の合間を縫って、できるかぎりここへ通おうと思う――くだらないパーティになどなるべく出席したくはないが、言うなればあれこそが俺の担う主な仕事とも言えるものだからな――毎週末は無理でも、なんとか時間をやりくりして……」
「俺を悪者のような目で見るのはよしてくれよ、兄さん」と、ティムは溜息を着いて肩を竦めた。「元はといえばこれは父さんが決めたことなんだから――マグワイア家の財産はすべて、長男に譲るものとするっていうね。俺だって、そこに自分の名前があったとしたら、そりゃ色々考えてたろうさ――でも今はなるべくしてこうなったんだって思ってる。それに、兄さんにここまで事業家としての手腕があるとは思ってなかったしね」
この一週間の滞在で、兄弟はロチェスターの海岸通りにホテルを建設するのがいいのではないかと話しあっていた。そこにあるウィルバー家の土地を買いとって、ロカルノンの建築技師を呼び、ロチェスターの公会堂など及びもつかないような豪壮なホテルを建てる……その間セシルは仕事の用向きでもこちらへ赴く機会が多々あるだろうし、ローラの家に泊めてもらいつつ、現場の人間と打ち合わせをしたり、また家具などをロカルノンから搬入するために、向こうとこっちをいったりきたりすればいいだろう。
結局のところ、ロチェスターにホテルが建つとなると、誰かが現場の指揮をとらなくてはならないので、セシルがその任を担うことになれば――もちろん、彼が社長なのだからそのへんはどうとでもできる――ローラとふたりきりの時間も増えることになるだろうと、そう言ってティムはなんとか兄のことを宥め、一週間の休暇のあと、嫌がるセシルを半ば引きずるようにしてロカルノンへと連れ帰った。
その時の彼ときたらまるで――弟のティムではないが、まるきり子供だった。何故って、最後の最後にはローズ家の正面玄関の円柱にしがみついてまで、「帰りたくない」と言って頑張ったのだから……。
ローラもセシルとまた離ればなれになるのはつらかったが、彼がそんなにまでして弟に対して我を張るのを見て、ある意味安心してセシルとティムが車に乗って去っていくのを見送ることができたのだった。
ティムは赤のロードスターのハンドルを握りながら、「まったく兄さんときたら……」といつまでもぶちぶち呟いていたが、セシルの耳に弟の言葉はほとんど届いていなかった。セシルはロチェスターをあとにして、ロカルノンまでの道を半分くるくらいまで――ずっと後ろを振り向いたまま、ローラのことばかり考え続けていたからだ。
セシルはその生涯において、小さな頃から今に至るまで――自分が我侭を言ったという記憶がなかった。彼は使用人やサラ、運転手のトマスに対してさえ八つあたり的な文句を言ったことがなかったし、義母に至ってはこの人こそがセシルに人に気を遣うということを無意識のうちにも教えこんだといっても過言ではない。
(ああ、ローラ……)
だんだん遠ざかっていくローズ家の農場を恋しげに眺めながら、セシルはじんわりと滲んでくる涙を、ワイシャツの袖で拭った。
「兄さん、まさかとは思うけど、ローラ恋しさに泣いてるんじゃないだろうね」
ティムはいつまでも慕わしげに後ろばかり眺めている、セシルのことを叱責するように意地の悪い口調でそう言った。
「いや、目にごみが入っただけだよ」とセシルはごまかしたが、後ろを振り返り続けることだけはやめなかった――ああ、三十五年も生きてきて、これが生まれて初めて口にする我侭だというのに……それが聞き入れられないだなんて、こんなひどいことがあるものだろうか?
帰り道、移り変わりゆく周囲の景色とともに、セシルはこれまでの人生を走馬灯のように振り返っていた――初めて塹壕に入った日のことや、銃で敵兵を撃ち殺した時のこと、友を救うために危険な土地へ引き返し、二階級特進を果たした時のことなど……そして、あの惨めな捕虜収容所での生活……だが今よりもよほど、軍隊での暮らしのほうがつらかったはずなのに――セシルにとっては今のローラとの束の間の別れのほうが身に沁みて応えていた。
(ああ、そうなのだ)と、セシルはようやく真っすぐ前を向くと心の中で呟いた。(あの頃俺は決して本当の意味で生きてはいなかった――何よりも、心をなるべく<無>に近い状態にして自分の任務を遂行することしか、頭にはなかった。それ以外に生きる目的も意味もありはしなかった。今ならばわかる。俺以外のほとんどの兵士があんなに――故郷に帰りたがったり、母親の手料理を恋しがったりしたその訳が……俺はもう、ローラなしで生きていくことは決してできないだろう)
セシルはロカルノンのマグワイア邸へ戻ると、自分の心が軍隊にいた頃と同じく、人形のように硬化するのを感じた。ロカルノンホテルの一室にある社長室で仕事をし、週末にはくだらない(としか彼には思えない)パーティに出席し――なんとか仕事や用事を詰めて二日ほど休みがとれると、彼は喜び勇んで車に乗り、ロチェスターへと向かった。セシルはその時間だけしかいつも自分は生きてはいないと感じたし、ローラへの手紙で何度もそのことを繰り返し書いていた。何故なら――ローラはいつも、田舎の暮らしよりも都会の生活のほうが本当はよいのではないかと、疑っているような節があったからだ。前の夫はふたりとも、田舎の退屈でつまらない暮らしよりも、都会の生活のほうを好んでいたから、と。
一度などセシルは、ロチェスターこそが真の自分の心の故郷であり、自分はここに骨をうずめるつもりだ、とさえ手紙に書いたことがあるが、やがてロチェスターにホテルを建設することが本決まりとなり、その計画が本格的に動きだすことになると――彼の心は奇妙な板挟みの心理を呈して、ひどく苦しみ、また悩むことになった。
ロチェスターの海岸通りにホテルが建つのは、村の活性化にも繋がるし、大変喜ばしいこととして、村人には受け容れられたのであったが――セシルはロチェスターの風光明媚な土地をこよなく愛するようになっていたので、ホテルが建つことによって開発の魔の手がやはりここにも伸び、いずれロチェスターも自然が破壊され、ロカルノンのようになってしまうのではないかと危惧した。
当時は恐ろしい勢いで都市部には電気や水道などの設備が整えられ、また都市部と農村地帯の地域格差をせばめるための政策を政府はとっていたため――保守党員のアルフレッド・ブルックナーも、民主党員のトマス・ガーランドも、地方へ遊説にいく時は、そのことを演説の大黒柱にしていた――セシルはロチェスターという田舎の時間の止まったようなのどかさが都市部のせかせかした忙しさにとってかわると想像しただけで、たまらなく嫌だったのである。
けれどもそのことをローラに話してみると、彼女はセシルの考えすぎをただ笑うだけだった。確かに、ロカルノンのジェシカやステイシーのアパートメントにいた時、ローラ自身電気を魔法のように感じ、水道もポンプ式でないので、大層便利だと思いはしたものの――ローラはやはり昔ながらの生活ややり方を愛していたので、電気やガス、水道がローズ邸にまで引かれたとしても、使わずにいられる方法があるはずだと考えていたのである。それに、ロカルノンのウエストストリートにあるマグワイア邸にさえまだ電気がきていないのだから、ロチェスターにやってくるのなど、自分がおばあさんになった頃だろうと思っていたのだ。
事業家であり、生まれた時から都会に住んでいる男のセシルには、そうした開発の波がどのようなものかよくわかっていたが、女のローラにはわからないのかもしれないなと思い、またいつもは聡明なローラがその時だけは無知な様子を示したので、セシルにはなお一層彼女のことが愛らしく思えたくらいであった。
ロチェスターホテルが竣工するまで、それから二年近くがかかったわけだが、セシルはその間、ロカルノンとロチェスターをいったりきたりし、過労で死ななかったのが不思議なほど、忙しくあちこち駆けずりまわって働いた。この事業さえ無事成功させることができれば、自分は晴れてローラと結婚できるのだ――そのことだけがセシルの精神と肉体を支える、大黒柱のようなものであった。
やがて海岸通りにはロチェスターの村人が見たこともない瀟洒な白い建物が出現し、そこに招かれた村人たちは、その壮麗な建築の大広間や、贅沢な家具調度類などに目を白黒させたものである。彼らの多くはロチェスターの白塗りの公会堂こそが、それまでは村でもっとも立派な建物だと信じ、それ以上大きな建築物が村にできようなどとは――夢にも思ったことはなかったのである。
セシルはこの一大事業を成し遂げると、早速このロチェスターホテルの大広間でローラと結婚式を挙げた。招待客が三百名を越える、それまで誰も見たことのないような素晴らしく豪華な結婚披露宴であった。セシルとローラが婚約中からすでに一緒に同じ屋根の下に暮らしていることは、村人の中で知らぬ者のないくらい噂になっていたことであるが、ふたりが実際にこのように豪華な結婚式を挙げてしまうと、その後そのことを思いだす者はほとんどいなかったといってよい。そしてセシルはその場で、これからは事業を弟のティムに譲り渡し、自分は社長を退くつもりでいると宣言した。ローラの夫として、これからは一農夫としての生涯をまっとうしたい、と。
その結婚披露パーティが行われた夜、ローラは世界で一番幸福な花嫁であった。ホテルの最上階のスウィートルームでこんなに幸せでいいのかしら?と、セシルの燕尾服の胸に顔をうずめて何度も聞いた――「いいんだよ」と、セシルは可愛い花嫁の額に何度もキスしながら優しく肯定した。
「この二年、俺がどんなに苦しかったか、ローラにもわかっているだろう?今日は待ちに待ったその日がようやく訪れたんだ――俺はこれから死んだって、君のことを離したりするものか」
その時ローラは化粧直しに着た、青のタフタの素敵なドレスを着ていて――このドレスもやはり、ジェシカがデザインした大層派手なものであった――セシルは天蓋付きの瀟洒なベッドにローラのことを抱きあげて連れていくと、二年以上もの禁欲生活を破るために、花嫁のドレスを脱がせ、しきりに接吻を繰り返した。
セシルの若い頃の予定では、彼の花嫁になる女性は、清らかな処女でなければいけないはずだったのだが、ローラはセシルにとっては聖書の雅歌にあるシャロンのサフラン、封じられた泉であった。またローラのほうでは夫になったばかりの彼のぎこちない愛撫を受けながら、はしたないと思われない程度にさりげなく、彼のことをリードした。
愛とともに自分の欲望が充足されると、セシルは生まれて初めて心の底から――魂の底から、といってもいいかもしれない――自分の存在を喜び祝った。セシルは旧約聖書のダビデ王が、飛び跳ねて喜び踊りながら神の契約の箱を運び上ったその気持ちがわかるような気さえしていた――もっともそのせいで彼は妻のミカルから蔑まれたわけだが、今セシルの隣で眠るローラは、愉悦の微笑みを浮かべて安らかな寝息をたてているばかりであった。
その夜、セシルは興奮してなかなか寝つかれなかったので、随分長いこと、薄暗がりの中で彼の美しい愛しい花嫁の可愛らしい寝顔を満足をもって眺めながら過ごした。そして時々(ああ、こんな素晴らしいことはきっとみんな夢に違いない)とさえ思った。
(もしかしたら俺はまだ、あの惨めなユーディンの捕虜収容所にいて――夢を見ているだけなのではないか?そして目が覚めた時には、自分が何かとてつもなく素晴らしい夢を見ていたような気がするが、何故だかさっぱり思いだせない――確か何度か、あそこにいた時にそういう経験をした覚えがある。ああ、アシモフ。おまえは今もあのアルファシノク捕虜収容所にいるのだろうか?それからエディンやコンラッド、ラナクやバーナム、他のみんなも……あれから何度も陸軍省へは足を運んでいるが、事態にはなんの進展も見られない。ああ、神さま。俺は今、誰にも罪悪感さえ感じることすらできないほど幸せです。あなたが俺にローラという花嫁を遣わしてくだすったので、俺がこれまであなたにつばきをかけて呪ったことなど、どうでもよくなってしまいました……ああ、神さま。この地上であなただけが本当の神です。そして願わくばどうか、神よ。あなたが本物の神である証拠に、アシモフたちをお救けください。どうか神よ、なるべく早く……)
セシルは自分があんまり幸福なことが恐ろしかったので、彼の最愛の花嫁の隣で最後にはそう祈りながら眠りについたのであったが、おそらく神は彼がこの夜祈ったこと、また日夜祈っているその声に、耳を傾けておられたのであろう、セシルがローラと正式に結婚した五年後に、アシモフ・モールヴィ元少尉はユーディン軍の捕虜収容所施設から無事解放されることになる。