永遠のローラ 第Ⅲ部 (12)
ローラがスミス雑貨店のオープンカフェを休んだその日、客足はまったく伸びなかった。それは何もローラが調理を担当しなかったのが原因ではなく――たったの一日で、ローラが都会からやってきた成金男と一夜をともにしたということが、村の噂好きの連中に知れ渡ったからであった。といっても、話の出どころはマックルーア夫人ではなく――彼女は昔からローラのことが好きだったし、マクガイア氏からはただで八日分の宿泊料をもらってるしで、そのようなことは夫人にしてみれば決してできないことであった――まず第一にアリシア・マックデイルのいいかげんな憶測、第二に、きのうマクガイア氏とマックルーア夫人の話を受話器を持ち上げて聞いていた噂好きの数人の夫人たち、そして第三にエミリア・マコーマックが夫から話を聞いて、その日の午前中に友人たちすべてに電話をかけ、ローラの家には今、確かにロカルノンからやってきた男が宿泊しているということを言い広めたためであった(そしてさらにこの電話を盗み聞いていた品位ある婦人がたくさんいたというわけである)。
ローズ邸に何か異変があると、みなはまず必ずといってもいいほど、エミリア・マコーマックに探りを入れてきた。そのお陰でエミリアは今、アリシア一派と仲良くしていたし、アリシアのほうでも事の真相を確かめるには、エミリアに電話を一本かければよいのであった。
エミリアはアリシアと同じく、昔からローラのことが嫌いだった。不作の年に彼女の伯母のエリザベスがダラス家を援助してくれたとか、またローラ自身も亡き夫の名を冠した、アンソニー・レイノルズ農協基金とやらでつい昨年も助けてくれたりしたわけだが――そんなことはエミリアにはどうでもよいことであった。そうしたことはエミリアの両親――マイケル・ダラスとメアリ・ダラス、そしてローズ家の間の問題であって、その子供である自分には直接関係のあることではないと思っていた。エミリアがマーシーと結婚する時、ローラは家を建てる費用を全額だしてくれたわけだが、それにしたって、ローラにしてみれば当然だったろう。何故なら自分の夫のマーシーが別の土地に畑地を持ったりすれば、たちまち男手のないローズ家は収穫に困ってしまうからだ。いわば農夫としてやり手のマーシーを引き留めるための苦肉の策といったところだったのだろう、ローラにしてみれば……エミリアはそんなふうに考えていた。
ダラス家には今二十六歳のアルマを筆頭に、五人の姉妹たちが結婚せずに家にいた。長女のアルマと二十四歳の次女のルイーズ、それに二十二歳の三女のポリーンは、ローラをまるで女性の理想像の鏡、とでもいうかのように崇拝しているが、四女のエミリアは違った。そして五女のセシリアと六女のジェーンは、二十歳のエミリアより四つ以上も年下であったため、彼女がローラのことを悪く言っても、まだあまりピンとこない様子であった。またエミリアの母のメアリにしても、いくら彼女が実家で愚痴をこぼそうと、てんで相手にしないどころか、厳しく叱責してくるのであった。
「一体あんたは、誰のお陰で家を建ててもらったと思ってるんだい!?わたしや父さんには一生かかったって、あんな立派な家、あんたたちに建ててやれやしない。あんたはね、ローラのことはおろか、ローズ家のことは絶対悪く言っちゃいけないよ。じゃないと罰があたるから」
母も姉妹も自分のことをまるで相手にしないので、エミリアは夫のマーシーにローラのことをああでもないこうでもないと気晴らしに言ってみたが、マーシーときた日には、話がローラの陰口ということになると、いつでも決まって口に堅く錠をおろすのであった。それでいながらローラには、エミーの料理はどうとかこうとか、そんなことばかりどうも話しているらしいのだ。一度など、ローズ家へいってローラに少し料理を教えてもらったらどうかと言ったことさえある。ふん!一体誰がローラなんかに物を教えてもらいになどいくものか、そうエミリアは思うのだった。
それ以外にも、エミリアにはローラに対して募る不満がたくさんあった――まずは使用人の食事のことだ。ローラがあの馬鹿げたスミス雑貨店のオープンカフェとやらに首を突っこむ前までは、ローラが使用人の食事を全部作っていたのだ。それなのに、自分の勝手でその義務を放棄するとは――エミリアには許せないことだった。もちろんローラから頼まれた時は、しおらしい態度で「少しの間ならいいですよ」と答えはしたものの、一体この状態がいつまで続くのかと、エミリアはほとほとうんざりしていた。使用人たちにしてみたところで、たまにローズ家にお茶をしにいく機会でもあると、エミリアがお菓子やパイを用意していようとまるで関係なく、ローラの元へと走っていった。夫のマーシーでさえそうだった。さらに気に入らないのは、ローラはまるで農作業など手伝いもしないくせに、あれやこれやと監督者面して口だしだけはしてくることである。ジョン・ウェブスターの勧める農薬だって、本当に彼の言うとおり<病虫駆除はこれで一発OK!>だというなら、ためらうことなく使ってみればいいのだ。そんな便利なものがあるのに使わないだなんて、ローラは馬鹿なんじゃないんだろうか?それとも、そんなことは使用人が汗水垂らしてやれば済むことで、自分の綺麗な白い手が毛虫を捕まえたりすることはないからそれでいいとでもいうのだろうか?……
実際のところ、エミリアはマーシーと結婚して常緑樹に囲まれたレンガ造りの家にやってくるまでは、大層幸せであった。マーシーは心のどこかではあのシオン人のエステルのことをまだ愛しており、彼女を失った彼の心の隙をついてエミリアは結婚したようなものであったが、それでも彼女は満足だった。何故ならエミリアのほうでもマーシーのことなどまるで愛してはおらず、彼女はただ妻という安定した地位が欲しかっただけだからだ。
ローズ家の農場と働き者の夫、立派な家屋と安定した収入……エミリアは小さな頃から貧乏な暮らしをしてきたので、それさえ手に入るなら、本当の愛だの恋だの、そんなことはどうでもよかった。村の男たちはダラス家のことを一段下の者として軽く見ているし、六人姉妹の中では一番器量のよかったエミリアではあったが、将来は上の三人の姉のようにオールドミスになるのはおそらく時間の問題であるように思われた――そのくらいなら、相手が私生児のマーシーだろうと誰だろうと、できるだけ条件のいい男と結婚しようとして、何が悪いというのだろう?
そういう意味では確かに、エミリアの望んでいたものはすべて手に入ったはずなのだったが――それでもまだ、彼女には知らないことがあった。それはどんなに貧乏でも、本当に好きな相手と結婚したら、その苦労さえ喜びに変わることがある、そういう種類の幸福があることを、不幸にもエミリアは知らなかった。そして彼女自身、まだ気づいてはいなかったが、これから自分のすぐ隣で、本当に愛しあう夫婦が誕生しようとするのを見るのなど、エミリアにはたまらなく嫌なことのように感じられたのである。
といっても表向きは、エミリアがローラとセシルの結婚に反対なのは、別の理由によるものであった。ローラが都会の洒落男のマクガイア氏であれ、ロチェスター一の洒落男を自認するビリー・マーシャルであれ、誰と結婚するのもエミリアは好まなかった。ローラにはこれからも生涯未亡人でいてもらわなくては困る、そんなふうにエミリアは考えていた。何故ならローラに夫ができるとなると、現在ローズ農場の監督者の立場にいる夫のマーシーは、その役職を追われることになるからだ。
エミリアにはひとつの遠大な、人生における野望があった――それはマーシーがこの先ずっとローズ農場で働き続けたとしたら、おそらくローラが土地の一部を自分たちに分け与えてくれるのではないかということだった。それによしんば、ローラが何か悪性の病気にでもかかって――美人薄命とはよくいったものだ――早死にでもしようものなら、あの素晴らしいローズ邸さえ、自分たちのものになるかもしれないではないか!
エミリアは、今自分の住んでいる家もとても気に入ってはいたが、古くて威厳のある、格調高い雰囲気のローズ邸のほうが、もっと好きであった。もしも何かの機会を捉えてローラをあの家から追いだし、自分たちがあそこに住むことができたら――どんなにいいだろう。だがエミリアは、その計画にはじっくりたっぷり時間をかけるつもりであった。これからマーシーと自分との間に子供が生まれ、その子供が一人前になって結婚でもする頃――自分たち夫婦はローズ邸で暮らし、家を継ぐ子供のひとりに、この煉瓦造りの家を与えてやれたらと、そんなふうにエミリアは思うのだった。
しかし今、千載一遇のチャンスというべきか、ローラをローズ邸どころか、このロチェスター村からさえ、追いだすことができそうな、絶好の機会が巡ってきたのである。もちろんローズ農場の権利はエリザベスの遺言によってこれを相続したローラのものではあったが、彼女がこの土地を手放すことはまずありえないことであった。そうなると人に貸すしかないわけで、貸すとしたらマーシーをおいて他に農場を任せられるような人間はいない。となると……。
エミリアは夫が家畜の世話に朝早くでていくと、早速とばかり友人すべてに電話をかけ、それからお昼ごはんの下ごしらえをしてから、化粧台に向かって髪を結い直した。そして二番目にいい服であるクリーム色のレースで縁どりをしたモスリンのドレスを着た。本当は今、スミス雑貨店に最近新しくできた既製服のコーナー、そこにかかっている水玉模様の素敵なドレスが欲しくてたまらなかったが、マーシーにねだったところ、あれを俺の前で着ないというなら買ってもよいとのことであった。
(マーシーはきっとエリザベス・ローズと同じく、古い型の地味なドレスを着たローラの格好ばかりを見てるもんで――ファッションセンスというものがまるでないんだわ。ローラときたら髪型だっていつも同じだし、せっかく美人に生まれたっていうのに、お洒落というものをまるでしないんだから。それに比べてアリシアは……)
エミリアはアリシアの、自分と同じ金髪でも色艶のまるで違う、豊かな長い髪を頭の高い位置から巻いて垂らした、彼女の素敵な髪型のことを心に思い描いた。自分がもしあの髪型を真似たとしても、全然似合わないだろう。それに瞳の色だって同じ青なのに、アリシアのほうがもっとはっきりとしたような印象だ。それに彼女の綺麗な肌にはしみひとつ、そばかすひとつなかったけれど、エミリアの黄色い肌にはところどころ、ぽつぽつそれがあった。アリシアに勧められたコールドクリームを先週から使ってみてはいるものの、今のところ目覚ましい効果の表れのようなものはまるで見られない。
(器量があまりよくないのは仕方ないわ。だってこればかりは生まれつきのものですもの。だけどわたしは六人姉妹の中では、一番器量がいいと人からも言われるし――少なくとも、オールドミスの姉さんたちよりは遥かにましよ。みんな、わたしがマーシーと結婚するといったら、女の赤ん坊が生まれたら大変なことになるとかなんとか言ったけど……わたしはそんな迷信しんじない。今に見ていてごらんなさい。きっといつかマーシーは、ローズ農場の主になるんだから。今はこんなことを言っても、誰も信じやしないでしょうけどね――)
エミリアは鏡を見ながら腰の後ろのほうでリボンを結ぶと、(これでよし)と自分の半身を鏡に映して髪型や服装をもう一度チェックした。マクガイア氏がどんな人なのかは知らないが、ロカルノンからやってきた洒落男という話だから、せめて田舎のイモ娘と侮られないようにしなくては。
エミリアはこれで完全に武装したとばかり、くるりと体を反転させて下へおりていくと、バスケットにフルーツケーキやジェリークッキー、糖蜜のタフィやドーナツなどを詰めこんで、家の裏口からローズ邸へと向かった。
畑ではサム・デイヴィッドやその他の使用人たちが大豆やえんどう豆の種蒔きをしているのが見えたが、マーシーの姿はない。エミリアはマーシーが時々、畑や家畜の世話などをサムたちに任せきりにして、ローラの家に入り浸っていることを知っていたので――もしローズ邸のダイニングキッチンで夫がロカルノンからやってきた洒落男とローラの三人で、談笑でもしていようものなら、一言いってやらねば気がすまないと思った。
しかし、この時マーシーはローズ家の家畜小屋で鶏や豚などに餌を与えていたので、エミリアのこの考えは単なる邪推であった。
エミリアがローズ邸の春の花咲き乱れる庭を横切っている時、納屋のほうから軽やかな笑いさざめく声が聞えてきた。
(ほうら、やっぱり!)
エミリアは少しばかり早足になると、納屋の入口のほうへと回ったわけだが――そこではローラが赤い自動車の運転席に座り、助手席でちょっと変わった風貌の男が、彼女に運転を教えているところであった。
「加速装置を踏みながら、そう……少しずつクラッチを離して……」
そこで勢いよくガッと車が十数センチ前に進んだかと思うと、赤のロードスターはすぐにエンジンをストップさせた。
「たぶんクラッチを離すのが早いんだよ。もう少しゆっくり……」
「駄目よ、やっぱりわたしできないわ。こういうことは男の人のほうが得意なようにできてるんじゃないかしら」
そう言いながらもローラがもう一度車のキィをまわしていると、セシルの目が自分の肩ごしにどこかへ注がれていることに彼女は気づいた。それで、その視線を辿るように振り返ると、まごついたように突っ立っているエミリアと目が合った。
「あら、エミー」
(あなたにエミーなんて、馴々しく呼ばれたくないわ)――そうエミリアは思ったが、ローラの隣の身なりのいい男がその時ぎろりと睨んだような気がしたので、わざとらしく微笑むと、手に持ったバスケットを軽く持ちあげた。
「十時のお茶でも一緒にしようかと思ってきたんだけど……」そこでエミリアは、意味を含んだ眼差しで、見るからに普通以上に親しい関係にありそうなふたりを、交互に見やった。「お邪魔だったかしら?」
「ううん、そんなことないわ」ローラは答えながら車をおり、ドアを閉めると鍵をセシルに手渡していた。「今日はスミス雑貨店のオープンカフェは休むことにしたの。ロカルノンからお客さまがいらっしゃってるから……こちらはセシル・マクガイアさん。セシル、彼女がマーシーの可愛い奥さんの、エミリアよ」
「どうも」と、セシルは軽く会釈しながら車を降りたが、にわかに女性恐怖の気持ちに襲われると、その場から逃げだしたくなった。
「マーシーからきのう、少しお話は伺いました。タリス陸軍の大佐でいらっしゃるとか……」
エミリアはセシルが一体どんな伊達男かと期待していたのだが、マーシーのいうような感じのよさなどまるでない、ただのいかつい武骨な男ではないかと、がっかりするのと同時に少しほっとした。ローラと釣りあうような格好のよい男であったとしたら、それはそれでなんとなく面白くないものを感じただろうからだ。
「いや、俺は、その……」と、セシルはしきりに襟のあたりを直したり、ボタンをいじったりしながら、俯いて答えた。「今はちょっと家の事業のほうをやっておりまして。こちらへはホテルを建設するための視察にやってきたんです」
「まあ、ホテル!」と、エミリアは思わずどさりとバスケットを雑草の中へ落としてしまった。ということは、この人はきっとロカルノンでも指折りの名士なんだわ!ホテルだなんてそんなこと、きのうマーシーは一言も言っていなかったけど……。
「それで、一体どちらのほうに土地をお買いになるつもりなんです?まあ、なんてことでしょう!こんな田舎にホテルだなんて!」
エミリアは本来の目的である、ふたりの間の仲に探りを入れることもすっかり忘れて有頂天になった。ホテルということはたぶん、ロカルノンの貴族や上流階級の人間たちが避暑などに利用するためのホテルだろう。ということは、ホテルで使用する食材は、ここロチェスターのものを使うということだ。すぐそばのウィングスリング港からは新鮮な魚介類を安く手に入れられるだろうし……ああ、もしローズ農場がホテル専用の御用達の農家となることができたとしたら……。
「その、もしかしたら俺の言い方に語弊があったのかもしれませんが」と、セシルは咳払いをひとつすると、まるでローラを盾とするように、彼女の後ろからエミリアに話しかけた。「あくまでもまだ視察の段階なので、実際に本当にホテルが建つかどうか、今はまだはっきりと申し上げることはできません。まずは俺がここの土地を見て、立地条件などについて報告書を作成して、来月の役員会にかけないと……」
「まあまあ、それでも素晴らしいことですわ!」
エミリアはローラが拾ってくれたバスケットを受けとると、この人物とはお近づきになっておくに越したことはないと思い、もはやローラとの仲がどうこうということは半分どうでもよくなってしまった。それに、ローラがこの身なり以外はどうにもいかさない男と結婚したとしたら、マーシーにローズ農場の管理をすべて任せて、ロカルノンに引っ越すという可能性だってあるかもしれないではないか。
「こんな田舎がホテルの候補地として選ばれたというだけでも、大変光栄なことですわ。それで、ロチェスターのほうはいかがです?」
三人はローズ邸へ向かって小径を歩いていきながら、半社交儀礼的な会話を続けた。白や薄紫のライラックやヒヤシンス、黄色や白の水仙など、庭は春の花で賑わっている。その他サクラ草やタンポポ、スミレの花なども加わって、ローズ邸の庭はさながら、色彩の洪水のようであった。
「いいところですね、この村は」と、セシルは青く、そして遠くの草原の向こうが雲で霞んだようになっている空を見上げ、あたりの春の香気を胸いっぱいに吸いこみながら言った。「ホテルの厨房のほうでも、よい食材には事欠かなさそうだし……近くの漁港からは新鮮な魚や牡蛎などが水揚げされると聞いています。ホテルの建設場所については、他の役員にもきてもらってから決めるということになるでしょうが」
勝手口から台所へ入ると、ローラはお茶の準備をはじめた。その間、セシルとエミリアは向かいあって椅子に腰かけていたわけだが――セシルはどうにも居心地が悪かった。できることならなるべく早くマーシーの奥さんには帰ってほしかったし、先ほどと同じように早くローラとふたりきりになりたくてたまらなかった。しかし、少なくともお茶の時間がすむまでは彼女はここに居座るだろうし――ええと、何か話題を探さなくては……とセシルは焦るあまり、じっとりと額が汗ばんでくるのを感じた。
「どうかして、セシル?もしかしてまた発作が……」
隣で香ばしい香りの紅茶を入れているローラが、カップをソーサーとともにセシルのほうにまわしながら、心配そうな眼差しを彼に注いだ。
「いや、ローラ。大丈夫……でも、なんていうか、発作の前兆のようなものを強く感じるんだ……申し訳ないけれど、ちょっと休んでもいいかな」
ガタリと背の高い椅子から立ち上がると、セシルはエミリアに向かって小さく会釈して、ダイニングキッチンをでていった――エミリアは彼の、灰色のベストを着た背中を見送ると、彼が廊下の向こうでドアを閉める音を聞き届けてから、用心深く小声でローラに問いかけた。
「ねえ、ローラ。発作ってどういうこと?あの方、どこかお悪いの?」
ローラはエミリアが焼いたフルーツケーキを切りながら、少し困ったように微笑している。
「その、戦争の後遺症でね……今は大分よくなられたみたいなんだけど、時々体の震えが止まらなくなったりするみたいなの。あの方とはロンシュタットの保養地で知りあったのよ」
「へえ、そうだったの」
エミリアは自分で作ったジェリータートをつまみながら、なんとなく罪悪感を覚えはじめていた。もしかしたらローラは、病気持ちのマクガイア氏のことを必要とあれば介抱するために、ローズ邸へ呼んだのかもしれない。もしその発作とやらが突然起こった場合、あの斜視のマックルーア夫人なら、ただ半気違いのようになって騒ぎ立てるだけだろう。それに、今ではエミリア自身、マクガイア氏に気に入られる必要性が生じてきた。ホテルの食材をローズ農場から一手に搬出することができれば、これ以上の商談はないからだ。
「ローラ、申し訳ないけれど、突然用事を思いだしたの。お菓子はあとで三時にでも、マクガイアさんと一緒に食べてね」
「ええ、そうするわ。どうもありがとう、エミリア」
エミリアが勝手口からでていくと、ローラはふうと溜息を着いて、椅子にのんびり腰かけた。そしてひとり紅茶をすすりながら、フルーツケーキを食べ、隣人の彼女に根堀り葉堀り色々なことを聞かれなくてよかったと、ほっと安堵した。
(たぶん、マーシーからセシルのことを聞いて、探りを入れにきたんじゃないかしら。これまで、エミリアがひとりでお茶の時間にやってきたことなんて、一度もないものね)
そして今彼女が見たり自分から聞いたりしたことはすべて、アリシアに直通で知らされるだろうと思うと、ローラは途端に気が重くなった。今朝、スミス家に電話をして、今日から暫く休ませてもらいたいとシンシアに伝えたところ、
『えーっ!そんなの無理よ、ローラ。あなただってわかってるでしょう、ローラのレシピのお陰でうちはあれだけ繁盛してるんだから。今日はともかくとして、明日からはお店に絶対でてよ。そして詳しい話は直接会ってからしてちょうだい』
と、早口でまくしたてられてしまった。そうだ、自分が休むとなると、少なくとももうひとり、店には人を入れなくてはならないだろう。となると……。
ローラはお盆の上にティーセットとエミリアの持ってきてくれたお菓子やケーキをのせると、セシルの部屋へ運ぶ前に居間でちょっと電話をかけることにした。ローラ自身、エミリアが雇い人たちの昼食をすべて作らなくてはならないことに腹を立てていると前から気づいていたので、ちょうど今が店をやめるいい潮時だろうという気がした。レシピのほうは一度覚えてしまえば、誰が作ろうとそんなに味に大きな差はでないからだ。ようするに、自分の後釜になる人間を紹介しさえすれば、シンシアもそう文句を並べることなく、快く自分をやめさせてくれるだろう。
「すみません、マックルーア夫人のお宅に繋いでいただけるでしょうか?」
交換手の声がアリシアだったので、ローラは思わず声が上擦ってしまった。けれどもアリシアは何か嫌味を言うこともなく、「少々お待ちください」と礼儀正しく応じていた。実はつい先ほどエミリアから電話があり、ローラがロカルノンの金持ちを家に泊めたのは、彼が持病を患っているためということがわかったのだ。しかもその人物がロチェスターにホテルを建設するための視察にやってきたというのでは……もはやいいかげんな噂を立てるわけにもいかないようだと、賢明にもアリシアは判断したのである。
「もしもし、マックルーア夫人ですか?実はスミス雑貨店のオープンカフェを手伝っていただきたくて……ええそう。もちろんあなたに」
暫くの間、受話器の向こうは無言だった。
「もしもし、マックルーア夫人?」
微かにすすり泣くような声と、鼻水をすするような音が聞えてきて、ローラは一体どうしたのだろうと訝しんだ。するとハンカチで鼻をかむような音がしたあとで、
「……ローラ。あの噂を流したのはわたしじゃありませんよ。断じてわたしではありませんとも!マクガイアさんからはたくさんお金を貰ってるし、誰が一体あんなことを……ああ、ローラ!神かけて誓って、わたしは何も言ったりはしてませんよ!あなたがロカルノンの洒落男といちゃいちゃしているだなんて!」
「いちゃいちゃ……」
そのままローラは言葉を途切らせた。どうやら、マックルーア夫人は何か誤解しているようだと思った――そうなのである。マックルーア夫人はてっきりローラが、噂を流した張本人に苦情を言い募るために電話してきたものと勘違いしていたのである。
「どういうことなの?……まあ、いいわ。話なんて聞かなくても、大体のところは想像できますもの。それよりもマックルーアさん、わたしのかわりにスミス雑貨店のオープンカフェを手伝ってくださいな。お給金のほうもなかなか悪くありませんし、子供たちは適当にそこらへんで遊ばせておけばいいだけですもの……大丈夫、そんな心配はいらないわ。毎日同じメニューをこなしていくうちに、味のほうは徐々に上達すると思います。それまではわたしがつきっきりで直接お教えしますから」
マックルーア夫人は涙を流しながらローラに感謝し、繰り返し夫の借金が、夫の借金がと何かの呪文のように呟いていた。ロディもシディもヨナタンも、これから何かとお金のかかる年ごろになるし、宿とちっぽっけな農場だけではとても親子四人暮らしていけないと、毎日寝る前にはそのことだけを考えていると、マックルーア夫人はとうとうと語った。
「ローラ、本当に感謝します。スミスさんには一生懸命働くのでよろしくお願いしますと、そうお伝えください」
実はスミス雑貨店で以前店員の募集の貼紙を見て面接にいったところ、斜視の方に接客は無理だと言われて断られた経験があるのだ。お客さまに不快感を与えるかもしれないというのが、その理由だった。
だがローラが厨房なら、客と直接顔を合わせなくてすむし、夏の間、料理ストーブの前にずっと立っているのは大変だろうけれど、それでもよければ……と言ってくれたので、マックルーア夫人はそんなことならいくらでも耐えられるといって、ローラの申し出を快く引き受けることにしたのだった。