永遠のローラ 第Ⅲ部 (11)
ローズ邸の食堂では、オニオンクリームスープやフライドチキン、大かぶのマッシュ、にんじんの砂糖煮、ホイップポテト、ミンスパイにプラムプディングなどなどが、銀食器の輝きとともに、セシルが席に着くのを待っていた。それと、きのうのモスグリーンのドレスとは別の、紺色の地味なサージの服に身を包んだローラもまた、彼が戻ってくるのを待ちわびていた――この服は喪服と兼用だったので、それほどおかしくはないだろうというのがローラの考えだった。
セシルは空腹のため、食前の祈りのあとは暫くの間ただ夢中で下品にならない程度にマナーに気をつけながら、ひたすらフォークとスプーンを動かして食事を続けた――ローラはそんな様子のセシルを見ながら、くすくす笑いだしたいのをこらえつつ、時々トミーやアンソニーも畑仕事から戻ったあとはいつもこうだったことを思いだしたりしていた。
そしてデザートのプラムプディングを食べている時、セシルはどうしても今、プロポーズしなくてはならないという強い激情に駆られ――理性では、まだ早すぎる、もう少し待つんだとわかっていたが、セシルにはもう耐えられなかった。理性と本能の激しい葛藤の戦いにばんざい降伏をして、ただ自分の今のありのままの気持ちをローラに伝えたくてたまらなかった。
「ローラ、あのう……」
セシルは大きなげっぷがでそうになるのを、ナプキンで口許を押さえてなんとか堪えた。もし今げっぷがでたとしたら――たぶん自分は十年後も、あの時求婚を断られたのはロマンスの香りもへちまもなく、自分がげっぷをしたせいだと、後悔に苛まれそうな気がした。
「俺は……その、あなたにここまでよくしていただく価値のない人間です。それなのに何故あなたは……そんな俺に対して、こんなによくしてくださるんですか?」
ローラはテーブルの下にいるラッセルに、フライドチキンを裂いて与えていたが、暫くの間考えこむようにラッセルの相手をしたあとで、セシルと向き直ってこう答えた。
「どうしてでしょう?たぶんそれは……セシルの人徳のようなものだと思いますわ。あなたにはどこか……人によくしてあげたいって思わせる何かがありますもの。それに、そんなふうに御自分を卑下しておっしゃるのはいけないわ。あなたはとても立派な方ですもの」
「俺が……立派?それはようするに、俺が陸軍の大佐だからとか、そういう理由ですか?もし俺が大佐じゃなかったら……」
「一兵卒だろうと大佐だろうと同じことです」と、ローラは毅然として言った。「あなたはとてもよい方ですわ。ことに、女にはそれがよくわかりますの。何故かって言われても困りますけど……シンシアやドナも似たようなことを言ってました。それとシンディも。うまく言えないけれど、ようするにそれはあなたが本物の紳士だっていうことなんだと思います」
「本物の紳士……」と呟いて、セシルは思わず苦笑した。もし自分が本物の紳士だとしたら、親しくなってたったの二日で、女性に求婚するわけにはいかないではないか!
「ローラ、俺は決してあなたのいうような紳士などではありませんよ。何故って……何故なら俺には下心があるからです。できることならあなたと結婚したいという下心がね」
ローラは驚いたような顔をすることもなく、ただ黙っていた。そして今のセシルの言葉がまるで聞こえなかったとでもいうように、プディングを食べ続け――セシルもまたローラの真似をするように、添えてあるカスタードと一緒にプディングを黙って静かに食べた。
不思議とその沈黙は、セシルの恐れていたような種類のものではまったくなく、むしろその沈黙の後ろには肯定の意が隠されているような気さえ、彼にはしていたのである。
「じゃあ、俺はこれで……」
ローラの隣で銀食器を磨いていたセシルは、食器戸棚の一番上や引きだしなどにそれらを片付け終えると、彼女に暇を告げようとした。ローラはそんなことはしなくていいと言ったのだが、種いも植えにしろ銀食器磨きにしろ、実際にやってみると意外に楽しいものだということをセシルは発見していた。
「セシル」そうローラが玄関ホールにいる彼に呼びかけた時、セシルは必死に追い縋ろうとするラッセルのことを軽くあしらいつつ、帽子かけのところから帽子とステッキをとっているところだった。
ローラはどこか顔に必死の表情をたたえつつ、
「あなたは本当に――わたしの夫になるつもりがおありなの?」
そう、真剣な眼差しで問いかけた。
もちろんだ、というようにセシルは深く頷いた。これは彼にとっては意外な展開だった。セシルの予想では――自分のほうがしつこく女王陛下に拝謁を願って、ようやく許される(あるいは断られる)というような、そのような展開のみが待っているものと想像されていたからだ。だが今ローラは、セシルが両腕を広げたなら、彼に抱擁さえ許してくれそうに見えた。もっとも彼には、そこまでできるような勇気はなかったが……。
「俺が、何か軽い気持ちであなたにあんなことを言ったとでも?確かに性急すぎたことは事実だが、答えがノーなら……どうか、俺がここからいなくなるまで、何もおっしゃらないでください。俺はただの友人として、この家をあとにしますから」
その時、ラッセルがローラのほうへとことこ歩みより、彼女の地味な紺サージのドレスの裾を引っぱった。こっちへこい、というのだろう。ローラは黙って犬のいうなりになるように、セシルのそばまで寄っていった――そして彼にとっては永遠のようにも思われる長い間、ローラはセシルの筋骨逞しい胸の中に抱かれていたのであった。
「……本当にもう、お帰りになるの?」
これ以上彼女を抱いていたら、どうにかなってしまいそうだと思ったセシルは、強いてローラのことを突き放すことにした。彼は喉がからからに渇いたようになっていたので、言葉がうまくでてこなかった――帰りたいわけではないが、帰らなければならない、いや、あともう一時間くらい……。
そうしてセシルがためらっていると、ローラは床に落ちた帽子とステッキを拾いあげ、元の場所へと戻していた。
「うちには、空いている部屋がたくさんありますもの。遠慮なくお泊りになっていったらいいんだわ……もしあなたがお嫌じゃなかったら」
そう言ってローラはくるりと踵を返すと、台所のほうへ戻っていった。ふたりの抱擁を見守るようにじっと座って眺めていたラッセルもまた、すぐにローラのあとに続いた――もはやセシルがどこか別の場所へいくことはあるまいと、犬のほうでもよくわかっていたのであろう。
しかし、マックルーア夫人に電話で事情を説明するのはなかなかに骨が折れることだった。夫人はセシルが今日は帰れないこと、また残りの八日間も、別の場所で過ごそうと思っているということを告げると――半気違いのようになって、電話器のそばでこうまくしたてたのであった。
「そんな――困りますよ、マクガイアさん。あなたから今朝いただいたお金は一部借金を返済するのにあててしまったし――ああ、こんなことになるならどうしてもっと早くにおっしゃってくださらなかったんですか。あなたはお金持ちだからきっと、やもめの苦しい生活なんてまるで理解できっこないんですわ。ああ、なんて残酷な人でしょう、あなたは。人でなしっていうのはあなたのような人のことを言うんですわ、マクガイアさん。こんなことなら最初から、宿のお金なんて気前よく前払いしてくれなきゃよかったんです。わたしが今夜、どんな料理をあなたに用意していたと思うんですか?牡蛎のスープにビスケット、干しぶどう入りプディングですよ――子供たちがよだれを垂らしても、ぴしゃりと手をたたいてわたしはそれを守り抜きました――マクガイアさん、あなたは一体そうした人の善意をなんだと思って……え?お金は返さなくてもいいですって?」
一瞬の間、沈黙があった。
「じゃあ、じゃあ……」マックルーア夫人はそんなうまい話があるものかとでもいうように、喘ぎあえぎ言葉を継いだ。「今日から一体どこで宿をおとりになるんですか?クイーンローズタウンの宿は、うちの二倍するんですよ――お金持ちのマクガイアさんにはそんなこと、どうでもいいことかもしれませんがね」
夫人の口調はなんだかまるで、一度はうまいことを言っておきながら、あとからお金を返してくれと催促されるのではないかとの、疑いに満ちているようだった。
「もしあなたがその八日分の宿泊料を無言で受けとってくれるのなら」と、セシルはここで咳払いをひとつしてから言葉を継いだ。「俺がどこで寝泊りしているかは、誰にも言わないでほしいんです。いや、あなたが何も言わなくても、いずれは村中に知れ渡ってしまうんでしょうが――俺は今日からローズ家のほうで休暇を過ごすつもりなんです」
「ローズって……未亡人のローラがひとりで住んでいる家に、あなた……マクガイアさん!」夫人の声は最後のほうはほとんど、悲鳴に近いような感じだった。「あなたには常識ってものがないんですか!もしそんなことをすればローラは――おお、まだあんなに若いのに――あなたに傷ものにされたとかなんとかひどい噂を立てられて、もう二度と結婚なんてできないでしょう。わたしなんかと違ってせっかくローラには、あんなに多く崇拝者があるんだのに――それをあなたは……」
「ようするに、俺が彼女と結婚すれば、何も問題はないわけでしょう?」
「……っ!と、都会の男ってのはみんなそうなんですか、マクガイアさん!まあ、なんて破廉恥な……わたしはてっきりあなたのことを紳士だとばかり……」
セシルはそこで電話を切ることにし、受話器を置いたあとは、暫くの間笑いが止まらなかった。何故かはよくわからないが、人から破廉恥な男と思われるのは、なかなかに愉快なことだった。どうして自分はこれまで、人からそんなふうに思われることを、恐れてばかりいたのだろう?
「だけど、ローラ。本当にいいのかい?」セシルは電話機から離れると、ソファに座って犬のことを撫でている、彼女の隣に腰をおろした。
「べつに、構わないわ」と、ローラは平然として答えた。「ロチェスターの電話はまだ、回線が共同なのよ。だから今のセシルとマックルーア夫人の会話も、たぶん暇な誰かが聞いて知ってるでしょうよ――もし明日村の人があなたのことを変な目で見たとしても、マックルーア夫人のせいにはしないであげてね」
「ああ、わかってるよ」
セシルは自分とローラの間に挟まるような形で横になっている、ラッセルの胴のあたりを撫でた。きのうのように撫でまわされるのが嫌になって、さっさと下におりるかと思いきや、彼はそのまますうっと、ローラの膝を枕にして寝入ってしまっていた。
「わたし……わたしね」と、ローラは決然と意志を固めようとするように、マントルピースの上の、ふたりの夫の写真を見上げている。「世間の常識とか、そんなことはもうどうだっていいの。前に、フランク・メイヤーさんという人が、こう言っていたことがあるわ……その方は常識が服を着て歩いているような紳士だと、村の誰からも思われていたんだけれど、戦争へいってから、その考えがまるで変わってしまったんですって。わたしも……あんなひどいことがあってから、色々考えたんです。もう決して、後悔するようなことだけはしたくないって」
「後悔って……たとえばどんなふうに?」
セシルは犬の黄金色の長い毛並みの上におかれた、ローラの白くて細い手を握りしめた――ふたりの夫からそれぞれ与えられた、結婚指輪が薬指にふたつはまっているその手を。
「うまく、言えないけれど」と、ローラははにかんだように下を向いたまま続けた。セシルの褐色の手は大きくて皮が厚くて、いかにも頼りがいのあるような感じだった。「あの時ああしていればよかったとか、こうしていればよかったとか、もうそんなの嫌なの。だってセシルあなたは――たったの十日しか、ロチェスターにはいないんでしょう?わたし、恋愛の駆け引きとかそういうの、まるでわからないし……普通の娘ならこういう時、お返事はもう少し待ってくださいとか、もし仮にとても嬉しくても、世間的な常識から考えて、驚いたようなふりくらいはするでしょう。でもわたし――さっき、とても嬉しかったんです。たぶん、あたしはきっと……ロンシュタットの保養所にいた頃から、セシルのことが好きだったんだわ。でもあの時は自分のことだけで精一杯で、そんな心の余裕はとてもなくて……でも、あなたがスミス雑貨店のオープンカフェにいたところを見た時から、何か……」
ローラはこれ以上は説明できないというように、口を噤んだ。セシルにはどこか、一番最初の夫、トミーと同じようなところがあった。この男の前でなら、本当に思っていることを何もかも吐露してしまったとしても、必ずわかってくれるに違いないという信頼感を強く感じるのだ――ほとんど第六感のようなものによって。
「女性のあなたにそこまでいわせるだなんて、俺はよほど、気のまわらない男なんだろうな」
セシルが軽く溜息を着きながらローラの手を離そうとすると、ローラは今度は自分のほうから彼の手を握りしめた。本当なら、不思議な感触のするセシルの手を、自分の頬にまで持っていきたいくらいだったが――そんなことをするのはまるで、キスをせがんでいるようで恥かしいような気がしてやめた。
「ローラ、俺にはとても……あなたは手の届かない高嶺の花のように思えるんだ。第一に、君はとても若くて美しいし、俺ときたら、やぶ睨みな上に、年もずっとあなたより上だ。今はお金を持っているかもしれないが、いずれ財産はすべて弟のものになるし……こんな男をあなたは、本当に愛してくれるんだろうか?」
当たり前じゃありませんか、というように、ローラはすぐ隣のセシルのことを真っすぐに見上げた。ローラにとっては彼がやぶ睨みだとか、一度見たら忘れられないちょっと奇妙な風貌であるとか、そんなことはどうでもよいことであった。自然の精、ルベドと同じように強い魂の結びつきを感じられる相手――ローラにとってはそれがトミーであり、アンソニーであり、また今目の前にいるセシルであった。
「愛しているわ、セシル。あなたのことを心から……」
そう言葉にだして告白した時、ローラが何故涙を流したのか、セシルには理解できなかった。ただ、こういう時は男の自分のほうから何かしなくてはと思い、スースー寝息を立てている愛犬の上にぐっと身を乗りだすと、震えているローラの唇に自分のそれを重ねた――セシルは一度そうしただけで、すぐに身を離そうとしたが、今度はローラのほうがお返しをするように同じようにしてきたので、結局セシルはもう一度――合計で三度、ローラとキスを交わした。
ふたりの間で狭苦しい思いをさせられたラッセルは、まるでつきあいきれないとでもいうようにソファの下へおり、きのうと同じように炉辺の敷物の上で体を丸めて眠っている。
ローラはセシルの広い胸の中に身をもたせかせ、セシルもまた一瞬ためらいつつも、彼女の肩に手をまわして抱いた。そうしてただ黙ったまま、暖炉の小さく弱い橙色の火を眺めていたが、あまりの居心地のよさに、セシルは不意に眠気が差すのを感じた――ローラは素早くそのことを読みとったように、ゆっくりとソファから立ち上がっている。
「今、客室のほうにベッドを用意しますわ。今日は本当に疲れたでしょう?もしお風呂に入りたかったら、バスタブにお湯を張りますけど……」
「いや、なんだか急に……突然眠気に襲われてね。お風呂には明日入ることにするよ」
セシルは目頭をごしごし両手でこすりながらそう言った。まずい、本当に眠い。このままソファの上に倒れこみたいくらい、強烈な睡魔にセシルは襲われていた。
それで半分目を閉じて、ソファの背もたれに頭をもたせかけていると、客室にベッドの用意を整えたローラが、居間に戻ってきて彼の腕をとった。
「さあ、セシル。寝室の用意ができましたから、今日はそこでぐっすり眠ってくださいな。こんなところで寝たら風邪を引いてしまうわ」
「ああ、うん」と、セシルは寝呆け眼でぼんやり答え、ローラの肩に腕をまわすと、そのまま引きずられるように廊下をゆっくり歩いていった。そして天蓋付きのベッドに横になると、ローラが肩のあたりまで布団をかけてくれる優しい指を最後に感じつつ、ほとんど意識を失うような形で、眠りの底へ墜落するように落ちていった。
翌日の十二時近くまでセシルは昏々と眠り続け、目が覚めた時は自分が一体どこにいるのかわからず、彼の精神は混乱をきたしていた。白い絹布がカーテンのようにかかっている天蓋の付いたベッド、頭の乗せ心地のいい羽根枕、清潔で糊のきいているシーツに、幾何学的な薔薇模様のベットカバー……ロカルノンホテルのスイートルームでも、こんなに寝心地はよくなかったと思い、セシルはベッドから下りると、自分がきのうの服のままであることに初めて気づいた。
しかし、ワイシャツのカラーは抜かれ、ボタンは三つほど外されていたし、まったく記憶になかったが、上着のほうもいつの間にか脱いでいたらしい。ついでに靴下のほうもはいていなかった。
セシルはベッドの端のほうに揃えておかれていた革靴を裸足のままはくと、ぐるりと一渡り、室内にあるものを見まわした――見るからに年季の入った、桜材の箪笥や揃いのチェスト、黒檀の化粧台や書き物机……その書き物机の椅子の背もたれのところには、縞模様の自分の上着がかかっており、机の上には白いカラーとカフスボタンが置いてあった。
そして化粧台のすぐ脇のほうには、自分の茶色い革の鞄とボストンバッグがふたつ、並べて置いてあった。化粧台の上には陶製の洗面器と水差しがあり、鏡のところには格子模様のタオルがかかっている……セシルは薄い水色の、薔薇の花束模様の壁紙を撫でるようにしながら窓辺へ進み、モスリンのカーテンを開けると、窓を上へ持ち上げて、外の世界をのぞきこんだ。
すぐ下の花壇には蔓薔薇の茂みがあり、白い先の尖った木製の塀ごしに、ローズ農場の牛たちが草を食む、丘陵地帯が遠くまで見渡せる。セシルは新鮮な空気を肺いっぱいに吸いこむと、今度は部屋の隅にある揺り椅子に腰かけ、壁にかかっている写真や、額に入っている押し花、刺繍細工のタペストリー、小さな本棚などを、じっくり検分するように眺めていった――写真は、エリザベス・ローズの晩年の姿を写したものだったのだが、セシルはその謹厳な顔つきをした老女が誰なのかまるでわからず、首を傾げた。本棚にあるのはそのほとんどが、宗教関係のものばかりだ。もしこの部屋を使っていたのが写真の女性なら、きっと彼女は敬虔な人だったに違いないとセシルは想像した――そして本の何冊かを手にとると、やや黴臭い匂いが鼻孔をくすぐり、セシルはくしゃみをひとつした。
「……セシル、起きてるの?」
その時ちょうど白塗りのドアの向こうからノックの音がし、セシルはポケットの中からハンカチをとりだすと、慌ててそれで鼻をかんだ。
「あ、ああ。少し前に目が覚めてね」
――これは夢じゃないんだ!セシルはそう思って突然どぎまぎした。よくよく考えてみたら自分は、ゆうべ、女のひとり住まいの屋敷に泊まったのだ!
「入ってもいいかしら?」
「どうぞ」と、反射的に答えてしまったものの、セシルは慌ててワイシャツのボタンを上までとめ、鼻をかんだ汚いハンカチをポケットに突っこみ、それからまだ顔も洗っていなければ、髭も剃っていないことを思いだして、どうして起きてすぐそうしなかったのかと、後悔したがもう遅かった。
「きのうは、よく眠れたみたい?」
ローラがクリスタルの花瓶いっぱいに水仙の花を活けて持ってきたのを見ると、セシルは少々面食らった。もし彼が弟のティムのように女性を口説くのが得意だったとしたら、彼女に早速とばかり「ローラ、君はまるで花の精のようだ」とでも言っていたことだろう。だが、セシルは自分があまりに神々しいものを見てしまったような気がして、目を背けることしかできなかった。
「ああ、ローラ、ええとその……」そこでセシルは小さく咳払いをひとつした。「ゆうべは、申し訳なかったね。たぶん慣れない農作業で、自分でも思った以上に疲れていたんだと思う。女の君に介抱してもらうだなんて、俺は……」
「べつに、変なことじゃないわ」と、ローラは素っ気なく応じた。そして水仙の花を窓辺に飾ると、くるりと振り返ってセシルのことを頭のてっぺんから爪先まで見まわしたのだった。
「何か、入り用なものはあるかしら?櫛とか剃刀とか……替えの服とか靴下とかはきちんとあって?」
「うん、あるよ」と答えてからセシルは、自分がとても恥かしくなった。これではまるで、小さな子供が母親に注意されているみたいではないか。
「そう。もし足りないみたいだったら、言ってね。二階に夫のがあるし、それが嫌だったら洗濯してもいいし」
「……今日は、仕事は?」
セシルは落ち着かなげに頭をかいたりポケットに手を突っこんだりしながらそう聞いた。
「スミス雑貨店には朝一番で電話をして、休ませてもらうことにしたの。あなたがあんまり、気持ちよくぐっすり眠っているみたいだったから」
そういえば、とセシルは思った。きのうは戦争の夢を見ることもなく、本当に泥のようにぐっすりと眠った。そしてこんなにも安らかな気持ちで爽やかに目が覚めるのも、本当に久しぶりだった。
「お腹すいたでしょ?朝ごはん……というより、この時間じゃもうお昼ごはんだけど、できてるから、仕度ができたら食堂にきてね」
ローラが部屋をでていくと、セシルはのろのろした動作で顔を洗い、そして鞄の中から石けんや剃刀などをとりだして、細かい髭を剃った。ワイシャツを新しいのに替え、灰色と青灰色のスーツ、どちらがいいだろうと考えているうちに――その時セシルはハッと気づいたのだった。ローラが、今日は白いモスリンのドレスを着ていたということに。